第二十七話 道化王(ワイルドカード)
砕け散った窓ガラスの破片が、冷たい風と共に床に転がる。
ペテラウスの周囲にトランプがシャラッ、と音を立てて旋回している。
「御託はいい。さっさとぶっ飛ばす!」
ダンッ!
グイルが床を蹴り、猛烈なスピードで距離を詰める。
手に限界まで縁を込め、空気ごと切り裂くような重い斬撃を放った。並の魔術師なら紙くずのように粉砕する必殺の一撃だ。
だが、ペテラウスは避けない。
ただ指先で弾くように、一枚のカードをその斬撃に向けて放った。
ピタッ。
数字の『8』が描かれたスペードのカードが、斬撃に張り付く。
その瞬間だった。
「なっ……!?」
グイルの重い斬撃が、プツンッ、と強制的に切断された。
魔術だけでなく、斬撃の勢いそのものが空間に吸い込まれたかのように消失し、グイルの体勢が前のめりに大きく崩れる。
「俺の魔術が……消えた!?」
「重力……いや、音を振動させ斬撃として放つ高度な魔術ですが、私には届きません」
ペテラウスが薄く笑い、続けて『9』のカードを放つ。
ドンッ!
目に見えない重い衝撃がグイルの胸部を捉え、巨体が後方へと吹き飛ばされた。
「グイル!」
フィオナが即座に両手から無数の細い糸を放つ。前後左右、逃げ場のない全方位からの刺突。
だが、ペテラウスは慌てることなく、今度は指の間にカードを『二枚』挟んで引き抜いた。
シャッ!
二枚の『10』のカードが空中で交差した瞬間、フィオナの糸の群れが、見えない壁に激突したようにバツンッ!と弾け飛んだ。
「くっ……!」
フィオナは後方に跳び退き、体勢を立て直したグイルの横に並ぶ。
(何なの、今の魔術……。グイルの魔術を、カード一枚で強制的に終わらせた……? それに、私の多角的な攻撃に対しても……)
ペテラウスは追撃せず、再び手元でシャラシャラとカードを切り混ぜている。
その余裕の態度は、まるで遊戯を楽しんでいるかのようだ。
「どうしました?手札が尽きたわけではないでしょう」
不気味な笑みに対し、フィオナは油断なく構えを低くした。
左手を背に回し、指先で静かに糸の生成を始める。
床がダンと鳴る。
グイルは先程と同様に、勢いよく斬撃を繰り出そうと踏み込んだ。
「その調子に乗った顔……壊してやるぜ」
「学習しませんね」
シャラ……。
ペテラウスの指先から再び黒の『8』が滑り、グイルの前に防壁の“面”が立つ。
直後、フィオナの糸がスッと走り、その面とグイルの斬撃の間に割り込んだ。
クローバーの『8』がフィオナの糸を無効化した瞬間、本命であるグイルの斬撃がペテラウスの喉仏を目掛けて飛んでいく。
グインッ。
だが、喉笛へ走った斬撃は、届く寸前で何かに指先で弾かれたように、軌道ごとひしゃげた。
ペテラウスの親指と人差し指の間で、赤の『7』『8』『9』がひと筋の階段を描いていた。
「『階段』。段を踏んだ刃は、直線でしか来ない斬り口を嫌うのですよ」
シュバババ――ッ!
段差に沿って見えない斬撃が三連で走る。
グイルは片腕で顔を庇い、床を蹴って横へ逃れる。
「チッ!」
「甘い」
直後、足元から黒い影が跳ねた。
投げ捨てられていた黒の『9』が膨張し、衝圧となってグイルの胸板を撃ち抜く。
ドグンッ!
鈍い音が響き、グイルの巨体が壁まで滑っていく。
「グイル!」
フィオナは即座に編み盾を滑らせ、衝圧の余波を受け止めた。
ペテラウスは、シャラ……とカードを指で立てる。
カシャン――。
教室の天井の四隅へ、クラブのカードが四枚、鋲のように突き刺さる。
その瞬間、四隅から緑の網目が走り、教室全体に不可視のレーンが敷かれた。
細い川筋のような流路が何本も、空間に線路を作る。
(魔術のレールを張った……と言ったところかしら?)
フィオナは目を細めた。
(恐らくこのレールに沿って魔術を発動させないと、何かしらのペナルティがある。それに、どうせこのレール自体があいつの優位になるようにできているんでしょうね)
フィオナは左指を返し、糸の撚りを切り替える。
毛糸の艶が緑がかった色へと変わり、一本の合奏弦になる。
スッ――。
レールに合わせた一本の針糸が、クラブのレーンを正確に滑り、ペテラウスの胸前へまっすぐ伸びた。
「素晴らしい!その頭脳だけは褒めてやろう」
甲高い声が教室内を反響する。
ペテラウスは軽く息を吐き、スペードの『8』を差し込んだ。
ピタッ。
糸先がふわりと解ける――が。
「切られる前提で、毛羽にほどいたのよ」
「何!?」
ほどけた糸は微細な毛羽の群れとなって、ペテラウスの全身に纏わりつき、縛り上げる。
ペテラウスの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「今だ!」
壁と床の継ぎ目、反響の死角。
グイルの音刃が、角度を歪めた疑似斬撃となって横合いから叩き込まれる。
ズバァッ!
ペテラウスの肩口に一本の赤い線が走る。
血の粒が、派手に散った。
「もう一丁!」
フィオナは上段と下段、二層の糸を同時に走らせる。
上段は目に見える牽制、下段は床の影を滑る縫い止め。
ペテラウスの視線が半拍だけ上段に釣られた隙――。
コッ――。
下段の縫い止めが足首の後ろをさらい、体軸に拳一個分のズレを作る。
そこへグイルの二撃目が完璧に噛み合った。
バギィン!
『10』の交差壁の一枚がフィオナの糸拘束と共に砕け散り、音圧がペテラウスの胸郭を激しく打ち据える。
ペテラウスは初めて息を詰まらせ、片膝を落とした。
(押し込める――!)
フィオナが束ね糸を一段強く絞り、喉元を狙う。
グイルの三撃目は短い刻み。大きくはないが、確実に当てるための連打だ。
「クックックックッ……」
ペテラウスの指先で、ジャックの『11』が立った。
世界が、音を飲み込んだみたいに薄くなる。
空気の流れが裏返り、場の力学が不気味に傾いた。
「『階級逆転』。――世界はひっくり返るのですよ」
一拍、音が消えた。
空気が薄くなり、糸鳴りが逆さに鳴る。
視界の端で、床の上に一本だけ残った細い糸がふるりと震えた。
(……私の糸の切れ端?)
継ぎ目に視線が流れた、その半拍の油断。
ペテラウスはその糸切れに、自身の『9』のカードを付与した。
糸は最短距離を選び、フィオナの右肩の外側から一直線に突き入った。
プツリと小さな音。
遅れて、焼け付くような痛みが肩口を貫く。
「ガァッ――!」
骨の近くまで裂けた感触が走り、力が抜ける。右腕が、半分死んだみたいに痺れていた。
「フィオナ!」
グイルの咆哮。
怒りに任せた渾身の一撃がペテラウスを襲う。
だが、『階級逆転』の場では、大ぶりの一撃は致命的に鈍る。
「グイル、力を抜きなさい!」
フィオナの叫びに、グイルは瞬時に攻撃を止めた。
「どういう事だ、フィオナ」
フィオナは左手で右肩の出血を押さえながら、その場で立ち上がる。
「落ち着きなさい……。恐らくこの『11』の場では、強い攻撃ほど弱くなるのよ」
「強い攻撃ほど弱くなるだぁ?」
「ええ、理屈は分からないけれど……」
ペテラウスの口角が、また少し上がる。
「先ほどから、貴様のその頭脳はネズミの分際で凄まじいものだ」
「誉め言葉として受け取っておくわ」
フィオナは左手だけで糸を散らし、床と壁に細かな“縫い目”を点で刻む。
右肩は血で重いが、頭は冴え渡っていた。
「グイル、短く刻むのよ」
「任せろ」
グイルは息を細く吐き、足裏で床を一度だけ軽く叩いた。
合図はそれで十分。
放たれる音刃も小さく、場を細かく穿つだけのものに変える。
ペテラウスは『10』を扇のように傾け、回転する三重の円で防御の渦を作る。
グイルの短い突きが円の縁で鈍る――直後、ペテラウスの親指がジャックに触れかけ、やめる。
(……『11』の効果を即座に切る気だ。オンとオフを細かく揺らして、こちらの攻撃のタイミングだけを空転させるつもりね)
グイルの拳が止まる寸前、フィオナはレーンの継ぎ目に糸を軽く引っかけた。
チッ、と細い音が鳴り、ペテラウスの視線がそこへ半拍だけ吸い寄せられる。
「今のは――誘いか!」
「次は本物よ」
フィオナは粗く束ねた糸を投げる。まとまりのない雑な束。
ペテラウスは鼻で笑い、スペードの『8』で即座に切る。
シュッ――。
8切りの瞬間、場に空白が一拍だけ生まれた。
レーンの噛み合わせが緩む。
「今!」
ドン、ドン――短い二連。
グイルの音刃が空白に見事に噛み合い、ペテラウスの『10』の一枚が弾け飛ぶ。
肩口の薄い傷から、赤がひとすじ増えた。
「よくも私の身体に二回も……!」
カシャン。
四隅に新たなクラブが刺さり、レーンが張り替わる。
同時に、赤の『7』『8』『9』が階段を描き、角度の違う見えない刃が三筋、蛇の舌のように伸びてきた。
キイン――!
フィオナは上段の糸でいなし、下段の縫いで縫い止める。
三本目の刃が床をえぐった刹那、グイルの肘が短く撃ち込まれ、ペテラウスの胸郭で鈍い鐘が鳴った。
「ちっ……!」
ペテラウスの手札が一枚、床へ滑る。
拾わない。代わりに、彼はジャックに指を立て――すぐ伏せる。
場の重みが軽くなり、また戻る。そのたびに、強弱の反転が起きて攻撃が空回りする。
(オン・オフの癖。……立てる前に、わずかに肩が上がるわね)
フィオナは呼吸を合わせた。左指が点で床を叩く。
グイルの足もそれに合わせ、踏み込む。
「『11』!」
場が反転する。
大きくは出ない。短い一突きだけが、反転の軽さを利用してペテラウスの袖口を削いだ。
「小賢しいぞ!」
ペテラウスは、黒の『9』を二枚、指の間で弾く。
目に見えない重い衝圧が二段で押し寄せるが、フィオナの百の小糸が砂利のようにその圧へ噛み込み、力の向きを微妙にずらした。
「チッ……」
さらに追い打ちで、グイルが短い音刃を素早く繰り出す。
ペテラウスは親指をジャックへ立て、伏せる。
オンで軽さの槍を立て、オフで普通に戻す。瞬きの速さで切り替えを繰り返し、二人のタイミングを削りにかかる。
(来た、『11』がオフになる瞬間――!)
フィオナはその瞬間を絶対に見逃さなかった。
「今よ、グイル!」
「任せろ!」
グイルは一気に音刃を巨大化させ、ペテラウスの横腹に深々と二筋目の赤を刻み込んだ。
「ま、まさか……最小の技に見せかけていたのか」
「まぁ、そんなところだ」
「とんだ賭けじゃないか」
ペテラウスの横腹から血が流れ落ちる。
だが、その表情に焦りはなかった。
「調子に乗るなよ、ネズミども」
ペテラウスが片手を返した。
指先で立った一枚。
『道化札』
白黒の顔がこちらを見て笑い、赤い口角だけがゆっくりと持ち上がる。
「もうおしまいだ、ネズミども。――『道化王』だァァァッ!」
空気が沈む。
四隅のクラブが一斉に抜け、レーンが白紙に戻ったかと思うと、床の木目が赤と黒の市松模様へと染まっていく。
トランプの群れが止まり、たった一枚の不気味な笑顔だけが、場の中心を支配した。
「な、なんなのこれは一体……」
「関係ない。これもすべてぶっ潰せばいいだけだろ!」
グイルはペテラウスに最短距離で詰め寄る。
「静拍よ、我が心拍に同調せよ。節を結び、腹を殺し、逃路を無へ」
「詠唱魔術ですか……」
ペテラウスはその場から動こうとはしない。むしろ、攻撃を待っているような余裕の表情を浮かべている。
「『共鳴締』!」
グイルが放ったのは、対象を四方八方から音圧で圧縮する大魔術。
しかし、魔術が解き放たれた瞬間。教室の中央に浮かぶ『道化札』が赤く発光し、グイルの詠唱魔術は、ふっと掻き消えるように無かったことになった。
「は?」
呆然とするグイルを見て、ペテラウスは腹の底から面白がるように笑った。
「あなたが一生懸命詠唱した魔術も、『道化札』の前では無意味なのですよ」
再び『道化札』が赤く光ると、今度は『12』のカードが唐突にグイルの目の前に現れた。
「グイル!」
フィオナの叫びと同時にグイルは下がろうとするが……。
「無駄ですよ」
『12』のカードがグイルの胸に付着し、圧倒的な光を放った。
ドガァァァァン!!!
凄まじい爆発が教室を半壊させ、砕けたガラスや建物の破片が避難所テントの広場へと降り注ぐ。
下層階から悲鳴が上がった。
土煙が晴れる。
「グイル……ッ!」
そこには、全身血だらけになりながらも、両腕の籠手でなんとか顔面と急所だけを守り抜いたグイルが膝をついていた。
「ほう。あの一瞬で致命傷を避けるとは。あなた達を称賛してばかりですね……」
ペテラウスは靴音を響かせ、一歩、二歩とフィオナたちに近寄る。
「『道化札』の結界内では、いかなる攻撃も私には届かず、そして私のあらゆる攻撃は必中となる」
「……冗談じゃない魔術ね」
「もうあなた達に残された選択は、私に殺されるか、私の奴隷として働くかの二択しか残されていないのですよ」
◆シエロ視点
僕たちは、セリナの案内でスカラルド家の新邸へと辿り着いた。
彼女の身体強化魔術によるアシストを受けながら全力疾走すること、およそ十五分。
視界に飛び込んできたその建造物は、かつて訪ねたスカラルドの旧邸とは比べ物にならないほど巨大で、禍々しい威圧感を放つ『要塞』そのものだった。
厳重な警備が敷かれた正門を避け、僕たちは巡回の死角を突いてどうにか敷地内へと潜り込んだ。
そして今、僕とセリナはその要塞の中庭に身を潜めている。
お兄様とヴィクターさんの姿はまだ見えない。
だが、肌を刺すように空気がピリピリと張り詰めている。
二人がこの中にいることは間違いなかった。
(どこだ……早く見つけないと……!)
焦る僕がさらに奥へ進もうとした、その時だった。
「どうしてここに来たんだ……。今なら見逃してやる。さっさと帰れ」
背後から、低く押し殺したような声が響いた。
思わず足を止める。
一年生の時、顔を合わせるたびに毎日と言っていいほど喧嘩をしていた、あの聞き馴染みのある声。
振り返った先に立っていたのは――。
「ルイドス……!」
ルイドス・スカラルド。
僕は今、敵の本拠地の中枢で――そいつと再び対面していた。




