ディドとホズ、そしてネネ(前編)
まず主な登場人物3名が登場します。その内二人はどうやらワケアリの様です。では残り一人はそういう意味では「まとも」なのか。ぜひ読んでみてください。
日々大した依頼は舞い込んでこない。近所の農民からは、最近一週間雨が降らないので、山の方に一雨降らせてほしいとか、なんだったら作物もうまく育たないので、土に肥料的な術式をかけてほしいとか、とある村娘に恋をしたのだけれど、うまくいきそうにないので何とかしてほしいとか、その類のことばかり。と言うか、ここしばらくはそれぐらいの仕事しかしてこなかった。注釈を加えるなら、今あげた三例の内、一つ目と二つ目は受けた。三つ目は依頼者に恨まれないよう細心の注意を払って断った。できないし。いや、幻惑術の類なら人並みには-一般の魔導師並みには-身に着けてはいるけれど、それが幸福な結果を導いた例を、残念ながら俺はただの一例として知らない。だから仮に対価が得られたとしても、それで日々うまい飯を食える気がしない。もちろん食える奴はいるだろう。で、俺は違う。ただそれだけのことで。もちろん雨を降らせる術式も、要注意だ。降らせ過ぎれば最悪洪水にだってなり兼ねないし、少な過ぎれば報酬に致命的な影響が出る。そしていずれにしても、自分の命にすら関わってくる。ここでは―この世界では―俺みたいな末端の魔導師の命など鶏一羽、猫一匹にすら劣る。もちろん鶏卵ファンで猫ファンの俺からすれば双方まごうことなき尊い存在ではあるけれど、だとしてだ。そういう意味では幸いなことに、天候術式や創命術式に関して、他の誰かと比較して取り立てて劣る能力ではないので、結果としてこれまでの依頼・業務に瑕疵が生じたことはない。何だったらこれまでのところ成功率は100%だし、収入に困ったことはある意味一度もない。こんな辺鄙なところにいてもコンスタントに案件はこなせている。…中身が大したことがないだけで、だ。ただ問題は―と、俺自身が少なからず認識しているのは―だからここが辺鄙なところだ、ということだ。付け加えれば、この土地でのこの先、我が身の行く末こそが不透明であることに、問題ありということであって。
俺は五年ほど前まで魔導師協会の副首座という地位に就いていた。魔導師協会というのは、世界のほぼ全魔導師が加入している組織で、その管理と指導的役割を担い、他には研究・顧問・各国/地域への斡旋などを行っている。また、その本部は、小国並みの面積・人口を有していることから、営利目的ないし互助会的な一組織というよりは、ほとんど一国家そのものと言える。ただ王などの元首が存在せず、かつ国と名乗っていないだけ、とも言える。首座含む最高意思決定機関は合議制のスタイルをとっていて、であることからすれば共和制と言えなくもない。さしずめ民選のない、つまり貴族院だけが存在する国家とでも言おうか。ちなみに協会の構成は、合議制の議長たる位置に首座一名、その補佐を兼ねた議員的位置付けとして副首座七名、そして決議権を有さず発言権のみを与えられた-いわゆる評議員的立場としての-合議参加資格を有する一般協会員73名となっている。管理・指導対象となる魔導師が300万名余であることからすれば、その機能不全が確実視されるところかも知れないけれど、教会の管理下として事務総局が置かれ、同事務総長以下総勢約10万名が所属し、各種業務にあたっている。ここに研究機関や教育機関が含まれており、その莫大な運営費の財源は、教会が何らかの諮問等を請け負う各国・地域からの報酬、そして斡旋した魔導師が得る個人報酬までもが、一括して協会に納入される仕組みをその基幹としている。すなわち、この世界のほぼ全ての魔導師は協会から派遣される形で各国へ、ないし協会の各機関に所属しており、その元締め、あるいは胴元として、教会がこれを管理している、ということになる。
ところで、副首座であった頃の俺は、研究機関-魔導技術研究院-の最高顧問を務めてもいたのだけれど、その実質は研究院の一員として、他の所属魔導師と共に、基礎研究や発展的研究、更には「失われし至宝」と渾名される古代術式の研究に、ただただ没頭していた。そして平たく言えば―ずっと平たい感じでここまで来ているけれど―それがまずかった。
協会の構成員―首座・副首座・一般協会員―全ては、その資質の一つとして高度な政治能力を求められる。ある意味においては魔導能力よりもずっと重要視されるといっていい。当然といえば当然だが、協会並びに個々の魔導師にとっての取引先は各国・地域の行政府最高機関がそのほとんどであり、地域経済から果ては世界経済まで、そして国家間の安全保障にまで影響力を持つから、というのが一面。他方、というよりこちらが事の本丸だけれど、いわゆる協会組織内の権力争い―派閥争い―という荒波をこなすだけの世渡り術、そういう意味での政治能力の必要性が、また一面として存在している。これこそが当然で、世のすべての組織は、結局のところあらゆる人間関係の総体として在り、故に魔導師も例外ではないのだけれど、俺はそれを忘れていた。というか、ものの見事にこれっぽっちも意識しなかった。一つには術式研究が楽しすぎて没頭しまりだったことがある―他のことに目を向ける暇を一分一秒ですら惜しんではまりまくっていた-。そしていま一つは、幼少のころから「神の子」なんて言われて、物心がつくかつかないかの内から「ある日突然」のその日まで、協会内での肩書がとめどなくノンストップで上がり続けた為-人生超楽勝モードで来た為-、他人とは何か、そしてその集合体である組織、あるいは世の中とは何かについて、実質的かつ現実的かつ致命的学ぶ機会を得なかった。言えば人間関係で苦労してこなかったし、苦労するなんて概念があることすら知らなかった。まったく馬鹿げた水準の話で、そしてそういった面でまったく馬鹿げた俺が出来上がった、これこそが必然でなく何が必然というのだろう。そしてその必然の延長線上において、7名の副首座の内、最年少-当時28歳-である俺が「次期首座候補」と言われ始めた少し後、そのⅩデーがⅩデーらしく「ある日突然」やってきた。その顛末の詳述は、いずれまたどこかでするかも知れないけれど、端的に言って「協会に事前に届けるべき事項・手続きが欠けた」程度のことを事案として盛りに盛られ、副首座不適格及び協会除籍の決定並びに宣告が為された。早い話が、複数の派閥争いの中、どこにも所属しない―所属すると言うことが面倒だったし、そもそもその要領もわからなかった―俺が、あまりにも分かり易く、そして容易く切られた。
大好きでたまらなかった研究の道も、それに関する全てを取り上げられた。財産と呼べるもの―住まいや預金等―も、そして俺のことを何が何でも好きでいてくれたはずの女性も、ついでにいなくなり…。協会を去る日に俺が持っていたのは、わずかばかりの日用品-服や洗面用具等-と、研究院の極々近しい部下達が、その当時厳重な監視下にあった俺に、方法は定かではないが結果として手渡してくれた志としての、つまりは少量と表現するしかない金銭だけだった。志に関して言えば、もちろん彼らに感謝はしたものの、正直頭が真っ白な当時の状態で、彼らに確実にその気持ちが伝わったのか、そもそも彼らの献身に相応しいだけの気持ちを持てていたのかどうか。おそらく今こうして思い返すくらいなのだから、その答えは否と判じざるを得ないような気がしてしまう。そして今の今こそは、深い感謝を覚えずにはいられないのだけれど。
そういうわけで、格好だけを見ればどこかへ小旅行に行くかのような態で、俺は協会から全力で逃げた。だって「命の危険すらある」なんてことまで言われたんだもん。そしてそれが本当かどうかを確かめる手段も方法も時間も、何一つとして俺は持ち合わせてはいなかった。加えて最悪なことに、世界中、あまりにも多くの国家・地域へ協会の影響は及んでいた。つまりどこに行っても「命の危険」とやらがついて回ることになることは明白であって。瞬間、途方に暮れかけもしたけれど、その献身的な部下の一人が、とある地方の話を、今住んでいるこの地域に逃亡することを薦めてきた。そしてやはりそういった知識を全く、これに関しても持たなかった為、素直に受け入れざるを得なかった。そして確かにそこは―ここは―、協会から気の遠くなる程の遠い地であり、世界の果ての一歩手前といって何ら差し支えない、つまりはザ・辺鄙な場所だった。なぜならこの地域には魔導・魔術の存在どころか概念すら、更には国家などの行政という存在・概念も無い程に、社会構造としてはほとんど単純極まるものであり、集落とぎりぎり呼べるかどうかというあり様だった。そしてそれは約五年経った今もほとんど変わらない。付近の長老同士の寄り合いすらなく、集落という名の集団レベルで自給自足を成立させている状態が続いている。こんなところへほとんど転がり込む、いや、ほとんど身を投げ出すようして、俺はやってきた。
とは言え、だ。協会から何とか逃れたとは言え、だ。ほとんど着の身着のままを軽装と言うなら軽装旅行者であるこの俺には、宿屋などという気の利いたものなど全くない土地に、身を落ち着けられる場所も方法も無かった。しかも転位術式で瞬間的に飛んだ時、そこには夜のしじまのみが待っていた。満天の星空に月は無く、周囲にはこれと言って何らの気配も感じられなかった。後で気づいたことではあるけれど、そこは集落の端から大人の足で10分程離れた丘の草地であり、遥か彼方の絶界山脈へと延々と続く森林のほんの手前に位置していた。そして、この一連の追放劇において、不運の一大オンパレードにおいて、数少ない幸運があったとすれば―それはつまり悪運でしかないのかもしれないけれど―、今の季節が亜寒帯のこの土地の、ほんの短い初秋にあり、野宿をするにあたり、それまで晴天が続いていた、ということだ。研究活動において野営の経験は無いでは無かったけれど、当時はいわゆる野営設備は常に充実していたわけで、まさに今、心細さの縮図のような状況にあって、季節が本格的な秋から冬を迎えていたなら、あるいは悪天候に際していたなら、この放浪の身では、場合によっては自暴自棄にならざるを得なかったかもしれない。けれど状況は俺の心を安定させるには十分だったし、おかげで快適な睡眠方法を支障なく発想することができた。かくして俺は、その場の空気を調節して、一定の温かさを保ち、大人一人が十分に入ることのできる立方体空間を術式によって発現し、またその中に身を横たえるスペースも設置した。そして通気性も確保したところで、俺はほとんど諦めに近い淋しさを抱え、初日の眠りについた。
翌朝、日の出と共に俺は起床した。空気以外何も無い空間を床と呼んで良ければの話だけれど。そして森林とは逆方向へ何とはなしに向かい、出発してすぐの所に流れていた小川に差し掛かったので、そこで顔を洗い、多少のどを潤した。秋の川としては全く澄んでいて、俺と同じように起き抜けの魚がはっきりと分かる程だった。少し頭が整いだしたのもあって、その場で15mほど浮揚したところ、そこで初めて集落の存在を確認することができた。ので、浮揚したままその端まで飛行し、降り立ったところを第一村人-あくまで主観による-に発見された。第一村人とはあくまで発見するもので、故に断じてされるものではないという指摘には一切の回答を拒むが、とにかくまぁ、見つかった。俺と、俺の能力が、見つかった。
彼―割と美形な青年農夫と思われる―は、何のリアクションも示さなかった。いや、正確に言えば示せなかったのだろう。つまり彼は固まった。少し大きく開いた目と口から始まり、持っていた道具を地面に落としたままでの両手、歩きかけの足に至るまで、全て固まった。もちろん俺が拘束や幻惑効果のある術式を施したわけじゃない。人のアレコレを制限ないし害する術式は数多実行可能ではあるけれど、必要性のないところに徒にそれを実行することは、その発想からして良しとは思わない。だし、むしろ穏当に隠遁しなければならない俺は、騒ぎの素となるモノや事を一つだって生み出す事態は避けなければならない。って事くらいは、世間知らずと呼ばれるのが妥当な俺でも理解はしているつもりだ。だから下手にその場から逃げることも選択肢から外し、彼が解凍するのを待った。と、しばらくしてから、彼の目がまず瞬きを始め、口が多少微動し始めたかと思った刹那、「ワーッ!」に近い叫び声を発し、彼の方が逃走した。結局騒ぎは起こった、そう落胆しかけたけれど、しばらくして彼は走り戻ってきた。たった一人で、戻ってきた。そしてある意味当然ではあるけれど、俺の前で立ち止まり、地面にひれ伏した。
「待て」
思わず口にしてしまった。
「何のつもりだ?それは」
と。俺は俺で驚いたこともあって、割に勢い良く、そして図らずも若干の怒気を含んで言ってしまった。ここまでの何やかやの疲労も手伝っていたことは否めないし、種々の混乱もあった。それで感情と言動の連動、そのコントロールを失っていたのだろう。と、ここまで一通り言い訳でございますけれども。結果として彼のひれ伏し度はより深まることとなった。俺は自分自身へ精神制動術式をかけ、半強制的平静モードを獲得した。
「あなたを無用に混乱させたのなら申し訳ない。ひとまずいくつか聞きたいことがあるんだけれど、答えてもらうことは可能だろうか?」
今度はゆっくりと、なるべく親しみを込めた感じで問いかけた。彼は一瞬ぴくッとした様だけれど、相変わらずその場にひれ伏し続けている。埒が明かない気がしたので、彼の承諾を待たずに問いかけることにした。
「この辺りで宿屋か空き家はないだろうか?」
彼の地面に突っ伏した後頭部が、僅かに左右に振られた。予想通りと言えば予想通りの反応だったけれど、若干の落胆は禁じ得なかった。ただ、確認したいことはまだあるし、平静モードは機能し続けていた為、そこで諦めることなく質問を続けた。
「この辺りに住みたいのだけれど、そういう話をできる人を教えてくれないだろうか」
すると彼の後頭部が、続けて上半身がゆっくりと地面を離れ、そしてファーストコンタクト以来二度目となる視線の合致を得た。彼は少しばかりこちらの感情を読み取ろうとしているかの様だったけれど、ややあって、はっきりコックリと頷いた。そして無言のまま、こちらへ背を向け、おもむろに歩き始めた。
「待って」
今度は優しいバージョンで言えた、と思う。
「あの、」
「付いてきてくれれば」
かぶせ気味に応えられた。どうやらどこかへ案内してくれるらしい。
「ありがとう」
素直にお礼を言った俺に、彼の目がまた少し大きく見開かれた。もしかしてまた不正解アクションだったかと懸念がよぎったけれど、彼がまたすぐに歩き出した為、ひとまずその考えは消した。
それから約10分程歩き、世界の端の集落の、その中心地と思われるところに辿り着いた。先ほど高所から確認した集落の建物が割合集まっている場所、と言えば分かり易いだろうか。そして着いた途端、青年はまた叫んだ。が、その内容は初回の無軌道なシャウトとは違った。ではその内容をどうぞ。
「集まれー!集まってくれー!」
はい、これをそして3回繰り返してくれました。結果、早朝にもかかわらず、程なくして30数名の人々が三々五々集まった。本来なら初秋の爽やかな風に包まれ、まず間違いなく快晴が約束された空の下で、なんなら10人中8.5人くらいはピクニック決行を決意できちゃうような一日のスタート!って感じではあったけれど、ただいま現在の俺は、確実なまでの緊張に支配され始めることとなった―ピクニックのピの字すら浮かばなかった―。もしも平静モードが有効でなかったら、後ずさりからの周り右からのすたこらさっさアクション、あるいはさっさとセカンドフライトを決行していたかもしれない。さても。そんな俺の逡巡を知る由もない青年は、徐々に集まってくる人々に対して一々、
「まぁ待ってくれ、じきに話すから待ってくれ」
的な趣旨のことを伝え続けていたけれど、これで良し、とでも思ったのだろう―その筈だ―、
「みんな改めておはよう、住む所が無い人がやって来た」
と、切り出した。いやなんでその出だしよ、俺は心の中ですかさず突っ込んだ。ろくに会話も交わしていない、なんなら全くそれらしいアクションをお互いの間で生じさせなかったにもかかわらず、その出だしにどうしたらなるよ、俺が言うのもなんだけど、どこの誰かもわからない俺に対する確認作業やら何やら、本来もうちょっとアレコレ必要じゃありませんかね。で、
「あるよ!」
と、ほとんど間髪入れずに声が飛んできた。あんのかよ。見れば声の主は、恰幅のいいおばさんだった。50歳前後と言ったところだろうか。
「何ジロ見してるんだか知らないけどさ、あたしを気に入らないってんじゃないんなら来な!」
おばさんは元気の良さをキープしつつ、俺に向かってそう言った。そして周りの人々がどっと笑った。てかここ笑いどころですか? だし、再度の繰り返しにはなりますけれど、見ず知らずの人間に会ってほとんど時間の経過していない段階で、つまり俺に関してほとんどノーヒント状態で住居を提供しようなんて、どうかしてない?。いや、だからそもそもこの件のスタート地点は他でもないこの俺なんだけれど。けれど諸々「だとして」だ。…まぁ方やたいへんありがたいお話ではありますけどね。だし、俺の方でこそ、なんとなくこのおばさんは信頼できちゃう気がした。おじさんの始まりである俺として。人間関係ごったごたのぎっすぎすの最たるところを味わった後の俺としては、人と接触するに際しての信用・信頼判定に関してノー反省と言わざるを得ないスピード感ではあるけれど―この後ちゃんと反省しよう―けれど読心術式を用いるなんて発想も全く浮かばず、という感じだった。それは周りの、他の人々にもだいたい似たようなものを感じたせいもある。これは完全に後付けだけれど、人間関係で手ひどい目にあった直後も直後に、なんとなしの信頼関係を抱けちゃう相手は、それは抱いちゃって良いんじゃない、と素直なところ、そう思う。そして更に言ってしまえば、俺はこの集落を到着時点から、もう既にそこそこ好きになりかていた。何の変哲もない、強いて言えばそこそこ巨木ってる木が1本だけ生えているこの集落が、俺にとって特に何らの抵抗も感じず、受け入れ始めていた。
「特に文句はないようだね、ならさっさと来な!」
おばさんが再度元気よく声をかけてきた。うん、この元気いっぱいな感じもなんか好きだわ。正直この時、心から何かを信じられる状態にはなかったけれど、それでも間違いなく好感と呼べるものが俺の中に芽生えていたことは確かであって。あ、べ、別にそ、そういう意味の好きとかじゃ、なななないんだからね!ツンデレお兄さんになってみた。断じてツンデレおじさんではないのが押さえ所だ。「かかか勘違いしないでよね」を忘れたのは内緒にしておいてほしい。…そんなこんなで。突然の○○〈←原文判読できず〉はシンプルかつショートフルなやり取りで、俺は物理的な住まいを獲得することができそうだった。
おばさんに連れてこられたのは、まったく簡素な丸太小屋だった。後で聞いたところでは、数年前に亡くなったおばさんのご主人が林業-と言うか木こり-をやっていて、その資材置き場の管理所的な小屋として建てたものだそうだ。とは言っても、当時の取引相手や仕事仲間なども含めて寝泊まりできる様にという目的もあったそうで、だけになかなか立派な家と呼んで差し支えないものだった。正直なところ、例えば物置小屋や馬小屋の成れの果てみたいなものが出てくる事すら覚悟していたから、これはかなり嬉しい誤算だった。ちなみにおばさんはご主人が亡くなって以来、隣町―あったんか―までほぼ毎日出かけ、織物を中心に扱う商店の手伝いをしながら、それほど多いとは言えないまでも、収入は得ているらしい。そして、そんな程度の所得水準でも―とは、あくまでおばさんの言い方なので悪しからず―この集落では十分に生活ができる、との事だった―まぁできなきゃどうすんだって話でもあるけれど―。と言うのは、そもそもそれほど多くない住民―約200名ほど―のほとんどが、物々交換、と言うか相当気合の入ったおすそ分け合い生活を送っており、誰かが何かに不足する、と言う事がほとんど無いらしい。「相当の気合」と言うのは、早朝から夕方過ぎに至るまで、かなりコンスタントに誰かが誰かの家に何かを持っていく日々が、毎日毎日年間を通して行われているからで、それはここに来た日から先、実際目の当たりにする事となった。この辺りの産業はほとんど第一産業のみと言っていい。つまり農業・畜産・漁業―ちなみに海が存在しない為、池や川などの淡水が対象だ―・狩猟がそれに当たる。個々の事業規模は家族を基礎単位としている為、とても大規模とは言えないが、肥沃な土地と潤沢な生物資源とが相まって、各世帯の所得水準に関係なく、その生活の実質的水準はそれなりに高いと言って差し支えないだろう。その最大の下支えは、集落に隣接する広大にも広大な森林だ。果実類を含む植物資源や、シカやイノシシ・ウサギなどの動物資源、そして森に入って程なく言ったところにあるもう少しで湖と呼べそうな池や、そこに至り、あるいはそこから流れ出ている川に生息する種々雑多な魚類・甲殻類・貝類などの水産資源。それらが1年中―季節によって様相が変わるとは言え―、とにかく尽きることを知らない。果樹園などの農園、農作物用の畑、あるいは豚・牛・鶏・ヤギ・羊などの畜産も最低限―自分達が食べるだけで精一杯的状況―よりは十分多く生産等運営されてはいるけれど、季節の中で冬が最も長いこの地にあって、この森の存在は大きく、故にめちゃめちゃ貴い。しかも、と言うかだからと言うか、こう言った生活水準の土地にありがちな保存食という概念が、ここの住民の間ではほとんど無いように思われる。もちろん肉・魚・野菜各種の塩漬けや酢漬け、燻製に干物などといった類のものはあるけれど、あくまでもそれは調理法の一環としての位置付けであり、「長い冬を耐え抜く拠り所」という性格からはかけ離れている。
「よその事はあたしはほとんど知らないけれど」
そうおばさん―メリッサ・ククルレイアさんと言う―は切り出し、
「ここでの生活は、まぁ食べ物に関しちゃまず心配ないといっても良い」
そう言った。言っても良い、とは若干引っかかる言い回しに思えたけれど、それに続く一言で、その合点はいった。
「だけどそれを得るには、とにかく何でもいいから仕事をしなきゃだめだよ。手足一本動かすのもやっとだなんて風にあんたは見えないしね」
空だって飛べる。けれど何ができるだろう。もちろんどこかの家の手伝いをすることも、もしかしたら可能かもしれない。なんだかんだで実は槍術が得意で、ほぼ毎日、短時間とは言えトレーニングを欠かしたことが無いから、体力に自信が無いわけではない。だけどこんなふわっとした考えは、メリッサさんのこんな言葉で即座に否定される。つまり、
「どの家も自分たちが食べる分稼ぐのでいっぱい、ってことにしている。働き手を増やして実入りを増やす、何てことしたってここじゃ意味が無いからね」
理屈は確かにそうだ。割とシンプルな、算数に近い問題だ。けれどその計算式は、俺が魔導力を持たない人間なら、という条件付きだ。俺は農業でも漁業でも、何でしたら工業でも、その生産性を高めることくらいは、ほとんど難なく達成できる。例えば農業なら、荒れ地を耕し、森林由来の各種栄養成分を土と混ぜて豊かな土壌にした後、各種プラントの種子をコピーするなどして絶対量を増やした上で植え付け、成長促進を―自然界の法に従わない部分も出てくるけれど―行うことは可能だ。事実魔導師協会では、そういった研究にも携わっていたし、各国のその種の事業支援にも直接・間接関わらず携わった。そして控えめに言っても莫大な成果を上げても来た。けれど、規模のコントロールこそすれ、どの生産等事業分野でも、一定の成果を上げることは、俺には許されない。早い話、これから先目立ってはダメなんでね。
「その成功事例、だれが中心でやったの?」
「いやぁ、うちの集落の魔導師がね…」
なんて形でトーク弾けられちゃったりすれば、そしてそれを協会が聞きつけちゃったりしたならば、この集落に逃げ、潜み隠れるというリスクヘッジを根底からぶち壊すことになる。けれど誰かを手伝う力仕事も、魔道術式を以って産業にかかわるのもダメだというなら、何が可能と言えるだろう。「仕事はするな、食えないけど」なんて、なんて矛盾だよ。それなら人里離れた、例えば森の奥で仙人的生活は遅れるだろうか。つまり自給自足は可能だろうか。少なくともすぐには無理だ。住処を見つけ、整え、食料を確保・備蓄し、長い冬を乗り越えるだけの状況を確立する。いったいどれだけの術式が必要だろう。それを達成できるまでにどれほどの時間が必要となるだろう。そしてそれまでの間の生活はどうなる。しかし俺が仙人生活をこんな風にやんわり忌避するのは、その達成の困難度合いからの判断だけではない。と言うか、それは付け足し程度でしかない。最大の、そしてその理由の本命は、
「本来の、あるいは一般的な人間関係とは何か」
を、ガチで自分の骨の髄まで叩き込みたかった。そのさらに動機は当然
「なぜ俺は協会を追放されるに至ったのか」
だ。追放理由はある意味どうでもいい。問題はそういう結果よりも過程だ。何も協会に戻った時のことを考えての事じゃない。なんなら二度と戻りたくはないくらいだ。研究院は別にして、と言えなくもないけれど、それも今はこの唯一と言っていい関心事に比べれば、比較するのさえ空虚に思える。Xデーのまさにその瞬間、俺は驚愕し、また憤った。本当の意味での仲間は、そしてゼロだった。とある二人の部下をそう呼べなくもないかも知れない。けれど今においても、俺自身は彼らが部下以上の存在とはどうしても認識できないでいる。繰り返しになるけれど、Ⅹデー時の彼らの献身には心底感謝している。そもそも彼らがいなければ、俺や俺の中の大事な何かが、更に著しく破壊されていたかもしれない。仕事のパートナーとしても申し分なかった。全ての分野で高次元のサポートを得られていたことを幸運と呼ばずしてなんと呼べばいいのだろう。けれど。けれど俺は、彼らを仲間と呼べない。そもそもそういう風に思えない。認識できない。なぜだ、なぜ俺はそうなんだろう?。…わからない。どこに俺はそれを置いてきた?。どこでそれを失くしたのだろう?。いや、俺はその「何か」を、そもそも持ち合わせていたのだろうか?。この思索に関して言えば、仮に仙人にでもなればいくらでもできる。けれど「人間関係とは何か」についての研究・実践は―という言い回しが大げさだとは俺には全く思えない―他人の集団である社会にいる以外方法が無い。仙人になっている場合ではない。として、堂々巡りだ。ここにいるからには仕事をしなければならない。けれど目ぼしいものどころか、その当てすらない。かといってここを離れ、人から離れての生活を送るわけにはいかない。堂々巡り。出口の無い迷路。そう思った矢先、その答えは向こうから勝手にやって来た。
ホズ。俺がこの地に降り立ったところを―その前にそこに浮かんでいたところを―唯一目撃した男。メリッサさんが小屋から去り、俺が一人で虚無感を楽しもうとした矢先、奴が現れた。
「奴が現れた」なんていかにも迷惑そうな、少なくとも好意的とは言えない言い回しをする必要は、当然一義的には無い。文字通りあの時俺は、路頭に迷うところ、という完全に迷っていた。そこを救ってくれた恩人とも呼ぶべき人物を捕まえて…と思う向きがあるのは分かる。けれどそうだとして、彼の持ってきた仕事を、その内容を聞いてなお、あなたは俺を非難するだろうか。
「ちょっと頼みてぇ事があって…」
ホズは切り出す。頼み事?。それこそ協会にいた頃は、その初めから終わりまで―終わったんだ、よな…―ほとんど頼み事処理班だった。正式にはそんな班無かったけれど。まぁとにかくほとんど毎日、研究の傍らさばき続けていた。世の仕事という仕事のほとんどは、いわばリクエストでありクエストなのだろうけれど、ともかく俺もその例に漏れなかった。魔導師協会員になるにあたって試験をパスするのだって、一般的にはその時住んでいた地域の領主なり行政府の長からなりの依頼であることがほとんどだ。「君、魔導師の素養があるから試験受けたまえ。なったあかつきにはこの地域に貢献したまえ」的なね―試験にパスして魔導師かつ協会員になりさえすれば、将来的な利益をほぼ確約されたに等しいことになる―。あるいは研究院の各種課題も全て、協会側からのリクエストに基づくといえば基づく。建前は建前として好きにやってた部分がほとんどだったことにはあえて触れないでおくが。だからほとんどすべて楽しかったって事にもついでに触れないでおくけれど。そんな頼まれごと人生にさらなる1ページが書き加えられようとしている。まぁいい。おそらくは無駄な時間を過ごすところだったんだ。ほんの少しだろうが何だろうが、外からの刺激ってやつを味合わせてもらおうじゃないか。
「3つあって」
「3つ?!」
間髪入れずに反応してしまった。ナイス刺激。滑り出しは上々だ、いや上々ではない。どういうことだよ。移住してきたばかりの住民へのオリエンテーションとしてはずいぶん画期的だな。それだったらそもそもの一言目は、「この村案内してあげる」なノリの女性スタートで、なんか、何やかやで結局その人と結ばれるというお決まりの、いやそれこそ何だこの妄想。フラれたばかり故の恋求めか。何なら俺こそが恋リクエストか。だが残念ながら相手は田舎型美青年のホズだ。残念ながら、華やぐ未来などと言うものは、そうそう簡単に訪れてくれるものではないらしい。「残念ながら」と言うのが正解かどうかはさておき。だとして。現実に戻ろう。
「そう、3つあるんだ」
ホズは、一般の人々が笑いながら「すみませんねぇ」っていうあの感じの調子で答えた。なんだろなこいつ。まぁもうとにかく内容だ。1つだけじゃないという点に何か理由があるかもしれないし、何なら「案外ハイペースな展開じゃないか」なんて身構えなくてもいいことなのかも知れない。
「1つ目はこの集落をそこそこ大きな街にして、人がたくさん出入りするようになったらいいなぁ。で、2つ目はいつもちと冬が長くて、その間は仕事のほとんどができなくなっちまう。だからみんなが何か仕事を、長い冬の間も働けるようにしてくれるといいなぁ。と、3つ目は近々でっかい獣が3匹でやってくるから全部倒してほしい」
待て、いや、この突っ込み遅すぎる。こいつ一つも待っちゃくれなかった。どういう事だ? …いや、そういう事か。単純至極に、かつ結論から言えば、ここの住環境を上げろということだ。それも飛躍的レベルでって言うね。それに当たって俺には3つの課題が提示された。うん、だからどんなオリエンテーションよ。ド本番もド本番じゃねーか。
「あの、そんな急に言われても。てかどれも急に言われるレベルの話じゃないし。だいたいなんで俺が?」
やった事ない。どれもこれもだ。だいたいなんで俺がチョイスされてんだ?だいたいお前はこの村の何なんだ? だいたい尽くしのなし崩し祭りだ。
「まず最初の2つは急がねえでいい。もし良かったら程度のことでさ」
でも、と、ホズはそこで声色を変えた。と言うか、変えざるを得ない内容だった。
「急いでほしいのは3つ目だ。実はもうそこまで来ている。」
何らの否定も許さない口調だった。だが疑問は残る。どころか疑問だらけだし、ってか疑問しかねえわ。提起された内容以前に、提起されていること自体が問題だ。
「簡単さ。この俺が予言者で、あんたは空から降りてきた。そして集落の誰も俺たちのそんな事情は知らない。これから説明している時間もねえ。だから俺達だけでやるしかねえ」
情報量が多すぎる。検討事項はそれ以上に大量だ。この地域の初心者、と言うかこれは数時間しか滞在していない事前情報ゼロの状況で、それでも受け取らなきゃいけない内容なのか? けれど、どこかで納得していたのは事実だ。俺のあんな様子、つまり空から―と言うほど高い所からではないにせよ―降りてきた人間は、この世界じゃ魔導師しかいないはずだし―一瞬人間大砲がよぎったが、まぁもう話の収拾がつかなくなるからやめよう―こいつが本当に予言者なら、ほとんどのことは説明が…つくか!つかねえよそんなもん! てかつかさねえ、つかしてたまるか。俺は彼にこれから話す内容が切に伝わることを願いながら切り出す。
「ホズ、大事なことを説明し忘れている。いや、もうほとんど説明無しに近い。あ、住まいがこうして無事に見つかった事には感謝している。本当にこれは素直な心からの感謝だ。ありがとう。で、説明が全く無いんだ。この住まいのこと以外、つまりほとんど全部だ」
ホズは黙ってこちらを見ている。少し微笑んでいるようにも見える―なんでだ?。…まあいい―。聞きたい事がありすぎる。
「予言者だと言ったな。質問はとりあえず3つだ。1つ、預言者だという証拠はあるか? 2つ、なぜ今は農業従事者をしている? 3つ、その獣の具体的な現在位置は?」
そして付け加えた。
「もしあなたが予言者だったのだとしたら、俺が来ることは予期していたのか? で、もし予期していたのなら、初対面の時に明らかに驚いていたように見えたけれど、それに対する説明も欲しい。」
ホズは、あぁもうなんて簡単な問題なんだ、と言うような感じで俺の質問全てに無言でコックリコックリ頷いていた。俺のまくしたてに近い問い質しが終わると、フッと一息ついてこう答えた。
「予言者としての証明になるか分からねえけど、近い内にあんたが俺に話してくれる事を、今、俺から言うよ。あんた、魔導師協会の副首座とか言う、とんでもない偉い人だったのに、自分でもよく分かっていないチョンボのせいで、そこを追い出されてきたんだな。んで、ほとんど金はねえし、女にも逃げられたし、正直言って今散々な状況なんだな」
全部正解だ。いや、偉い人だった、という部分はどうだろうな。評価主体・基準によってはだいぶ変わってくる。少なくとも俺はそこに関して、今となっては真逆の判断をせざるを得ない。おそらくは、肩書だけ独り歩きした、とんでもなくダメな奴だったんだろうな、と。だが今はそれこそどうでもいい。肝心なのは、
「全部正解だよ、ホズ。正直驚きだ」
素直に伝えた。知ってるからね、とホズは少しはにかみながらそう答えた。モテそうだなこいつ。
「肝心な一つ目がクリアされたなら、後の質問に答えてくれるか?」
「ああ、よし。全然かまわねえ。農夫をやってんのは、つまり今の今まではそれしかできなかったからだ。生まれてこの方、それしか教わらなかった―学校? どこの山の名前だそれは?―だけれど、つい最近、予言者になった。ちゅうか、先の事がなんだかやたらハッキリわかるようになった。つっても全部が全部と言うのではねえ。ある程度、と言うところだな。んま、そういうわけで、よく分からねえ力で食べていける気はしねえし、そもそも畑仕事は好きだしよ、と言うところだな」
ちょっと色々口を挟みたかったが、今は聞くターンだ。こらえよう。
「獣はまだ全然遠い所にいる。絶界山脈よりもずっとずっと向こうだ。けれど明後日の朝早くには到着する。で、どうなるかっちゅうのはぼやけてる」
はぁ、成る程わからん。はい、続けてどうぞ。
「ちなみにあんたを見て俺が驚いたのは未来予言が初めて当たった瞬間だったからだ。んであまりの事に腰抜かしたし、あらぬ方向に走ってみたくなったし、ああ後、空に浮かんだ人を見たこともなかったし、でさ」
ひれ伏しと思ったのは腰抜かしだったってか。いや、なら抜かしてないだろ腰は。あぁもうそういう細かい事はいいか、ごめん―ん?俺は今誰に謝った?―。ともかく。
「分かった。とりあえずそっちが予言者だってことは信じよう、ホズ。そうだとして、確かにまずは獣への対処だが、お断りだ」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえぇぇぇぇぇぇぇぇえぇぇぇぇえっ?!」
「いや、悪かった、言葉が足りなさ過ぎた。つまりここにだって自警団なり、まぁ望ましいのは軍隊だとか、とにかくそういう種類のプロ集団がいるはずだろう? と言うか、たった一人の人間相手に頼むべきことじゃないことは、わざわざ確認するまでもないことじゃないか?」
「いんや、まずあんたの情報処理能力、なんつうか低すぎねえか?」
言われた。ヒントゼロのぶっつけ本番状態な俺が今、情報処理能力を入り口にして低評価を真っ向から突き付けられましたよ皆さん。
「そんな風に誰かに助けなんて求めたら、何でお前分かったんだ?予言者か?それともどっかの何かしらかの回し者か?ってなるだろうよ。そんなのはまっぴらごめんだ。さっき言ったばかりだろ、誰にも俺は予言者になりましたあ、なんて言うつもりはないって。農夫だけやってたいんだ俺は。だけどこの集落は守りたい。これで分かったか?」
いや、まぁ分かる。分かるが―
「あと目立つわけにはいかねえんだ」
それは俺もだよ、と喉まで出かけた。
「それは自分もだって、あんた言いかけたな」
…めんどいな、予言者との会話って。てかこいつがそもそもめんどくないか?
「だからさ」
ホズは一段声を低くした。
「だから俺とあんた、二人きりでやるんだよ」
なるほどな。ピンチを知ったことはその経緯からして知られたくないけれど、だからって何も手を打たないでいるわけにはいかないところに、知られないまま何とかやってくれちゃいそうな俺が現れた、って認識してるんだろうな、この新人予言者。どんだけご都合主義の出来レース感覚だよ。で、出来レースってことは倒すことまで込みで、初めてそう言えるわけだよな。じゃさ、ならばさ、どうやって倒すの? 要はさ、
「まずその獣とやらがどんな奴か詳しく教えてくれ。3匹いる、なんて頭数だけ聞かされたってやれるかどうかもわからないだろ」
ホズはふふっと笑った。なんでだ。今のどこが笑いのポイントだったよ。
「やる気が出てきた様じゃねえか」
全然。どこがだよ。断れるものなら断りたいし、逃げられるものなら全力で逃げたいですけど?
「いい傾向だなぃ。俺に見えたのは真っ黒なトラみたいなやつだ。それで3匹共が、それぞれ納屋5つ分くらいの大きさで―納屋ってのはそこの物置以上倉庫未満な感じのやつだ―。多分まともなタイプじゃねえな」
うん、間違いなくまともじゃないよね。けれど、そのカテゴリーの獣なら、ぶっちゃけだいたいの想像がついてしまった―その理由は若干後にして―。考えられるのは3種類。1つは突然変異で巨大化しちゃった系。これは通常の討伐法で行ける。燃やすか凍らせるか切り刻むか、とにかく対応術式はいくらでもある。問題は後の2つだ。魔法生物か、魔界生物か。の、魔法生物の場合。であれば、つまりどこかの誰かさんなり組織さんなりが術式でお作りなさったものなので、言えばその術式の解読・解術・解除を最終段階として、それに向けて対処療法的に応戦しながら見極めていくことになる。で、それがどれ程の難易度、仕事量になるのかが今の段階では読めないし、単独での対応が可能かどうかは完全に未知数だ。今までさんざんこの手のもの相手に座学・実習・演習で習ってきたし、何なら人に教えてもきた。そういう意味では通常討伐の応用・発展と言った位置付けではあるけれど、果たしてどこまで対処できるかは、だから分からない。いやはや出たとこ勝負のぶっつけ本番人生もここまでくると、ある意味奇跡だよね。てな感傷に寄り道している場合じゃない。3つ目。魔界生物。何が油断ならないって言うなら何をおいてもこの手の類になる。と言うのもですね、通常の術式がおおよそ効かず、物理攻撃やそれ系の術式が通るかどうかもまさに出たとこ勝負になる。そもそも魔界生物と呼ばれる所以は、術式が通らないこの世ならざる者もの的意味合いがある他、実際どのように発生・生育しているのか全く知られていない側面もある。の、上で、俺の経験上では、こいつらには古代術式しか通じなかった。もちろん事例としては経験がないではない。そしてどれも例に漏れず大惨事になってから協会へ救援要請が出され、からの対処と言う流ればかりだった。つまり魔界生物は、どんな軍隊も一般的な術式も通用しない為、いずれもが抑止力にも、ましてや制圧力にもなり得ず、従って対象がその手の生物だと判明した時には、大抵えげつない事態に陥っている、と言う事だ。また効果を上げることができた古代術式も、結局は対象の種類ごとに途方もなく数多ある中からの抽出することが求められる為、出たとこ勝負的対処になってしまうことは避けられない。で、以上3パターンをホズに説明したところ、
「分からねえし分かるつもりもねえ。とにかく次さ行こう、次」
と返された。なら次はねえよ、と瞬間的に思いもしたけれど、無い次に行かなきゃ、確かにその先の次も無い。そいつらを、この件を片付けなければ、この先の俺の生活もない。いや。第一、この問題に対処することを拒否するとなれば、ここじゃないどこか別の場所を新たにまた探す必要が出てくる。として、どこにその次の場所なんてやつがある? それこそ当てなんてない。協会の感知範囲外の土地を、また一から、そして今度は単独で探すなんて、ましてやそんな場所がある可能性なんて、検討する意味さえ現実的じゃない。そんな鬱陶しい事実だけがある意味現実的で、ただただ確定的だ。
「分かった、とにかく現場に向かおう。ちなみにすぐにでも出発できるけれど、そっちは行けるか?」
「もちろん」
「いい返事だ。もう一つ。俺はそいつらを倒すことはできるか?」
「分からねえ」
「集落の近未来は見えるか」
「見えねえ」
いいな、どこまでも都合が。確定未来と不確定未来―なんてものがあるのだとして―の相異に影響されるのか? ただここに禁忌中の禁忌、時間術式はここには関わらないはずだ。なら単にホズの思考が影響しているのか? まぁこの一連の答えは急がない。少なくとも今の今、ではない。それにそう言う時間は、ここには腐るほどある。あるはずだ。
「ホズ、現場の位置は特定できるか?」
「詳しくってんなら分からねえけど、大体の見当ってやつはある」
「よし、ならまずはその辺りってことで行こう」
「どうやって行くんだ?」
「俺と一緒に飛んでもらう」
「最高だな、それ」
と言うわけで現場行き急行出発。で、馬なら3~4日かかるだろう距離を、1時間ほどでやっつけた。ただそれでもまだ森は続いている。いやさ、さすがだな絶界山脈。そこへ辿り着くまでが、そもそも絶界的だ。…言ってて意味はよく分からないけれど―フィーリングよね、そこは―。そして。
発見した。ホズが
「あいつらだ!俺はあいつらを見たんだ!」
そう叫ぶのと同時に確認できた。今いるこの場所、上空300mからでも、まるで至近距離から眺めているかの様な、まさに巨大な黒虎3匹が、見るからに楽しげにじゃれあい、大地を駆けに駆け、ので、ばんばん木々がなぎ倒されていっている。かわいそうかよ、木。けれど瞠目すべきはその走行速度だ。確かにじゃれあっているとは思うけれど、それでも通常・一般の生物のそれとは、圧倒的に比較にならない。馬の全速力の軽く5倍はいっているんじゃないか。確かに明後日には集落に着く、という計算も、これなら成立するだろう。放ってはおけない。
「ホズ、ちなみに倒し方は分かるか?」
「ちっとも」
「だろうな、そこにいろ」
何のことかわからないと言う事を全身で表現するホズを空中に浮遊させたまま―初等術式だ―、俺はやつらをより観察するため、距離をさらに詰めていく。しかしてよく見れば、黒と言うよりは、とことん濃くした青紫色の毛並みが見て取れた。そして3匹の内の1匹は尻尾が3つに分かれていた。ほかの2匹は共通して、それぞれの頭部から左右それぞれへ珊瑚状の短い角が、鈍く光りながら生えている。そして口から剥き出す様にして生えている牙の間やその周りを、しばしば稲妻の様なものが走っている。この時点で―と言うか最初の時点からではあるけれど―、通常生物の線は消えた。なぜ通常じゃないか。なら逆に通常生物だとする根拠を上げられる人はいますでしょうか? いないはずだ。と言う事で2択だ。で、魔法生物か魔界生物かを判定するのはある意味非常に簡単で、つまりは判定用の術式を発動、命中させればいい。とは言え少しでも用意周到な魔導師なら、判定術式に対する反射型術式をセットするだろうけれど、それをさらに回避・解除する術式も幾つもある。一連の術式は総じて難易度として決して高いものではなく、ってことで放つ。結果、反応無し。いや、反応が無いのは判定術式に対してのみだ。つまり奴らは、この俺自身に対して反応した。すさまじいまでの土煙と轟音・咆哮を上げて、それぞれが制動をかけたかと思えば、今までの「じゃれあい」の更に倍以上のスピードでこちらに向かってきた。いやもう時速何km出てんのよ君達。そして跳んだ。跳びかかってきた。瞬間的に近づいてきたと思ったその直後、上空300mの位置まで、且つチームプレイ宜しく俺に対し3方向から均等に間を詰めることによって、つまりはこっちの退路をうまく防ぎながら跳びかかってきた。さらには周囲一帯を稲妻帯域にして取り囲ませてきてもいる。だからこいつらをうまく躱した所で、それに触れれば一気に行動不能に、どころか思考停止且つ生命活動停止にさえなるだろう。そもそも生身で触れれば身体の形状そのものが致命的な状況になることを避けられまい。と言うわけで、俺はひとまず光刃術式で自分を包み込み、尻尾三又の介(仮名)の口中へと飛び込んでみた。動物と言うのどんな成り立ちであれ、目と口に相当する器官についてはほとんど例外なく防御能力と呼べそうなものを備えることはできない。当然ガードすることは可能だけれど、対象が攻撃態勢をとる際には、どうしてもそれをさらけ出さざるを得ない。そうでない体勢・行動・機能を持つものもあるかもしれないけれど、これまで習得した学識含む経験上、1種としてその記録も記憶も無い。そのある種の確率論の延長線上、と言ってもいいだろう。俺の攻撃は成功を見た。その腹から飛び出すように出た俺の目に映ったのは、激しく体外へ血やその他もろもろをまき散らしながら、のけぞるような形で落下していく奴の姿だった。そしてその事実が満身の怒りとして加えられた残りの2匹が再度俺目がけて跳躍をする姿だった。光刃術式はその有効性を失っていない。今度はそのオーラ部分に超高速の縦回転を加え―真横から見れば丸鋸上の形になる―さらにその刃の部分を一気に5m幅まで延長することによって直径を拡大し、2匹が左右から前後ずらして跳びかかってくるところへ、俺自身もためらわず飛び込んだ。だいたいためらう暇なんてなかったし―あるわけないし―。命のやり取りの最中は、多少のアドバンテージが実際あったとしても、予期せぬ形でいとも容易く無効になり得る。そしてそうなれば本当の本当に終わりになっちゃうわけで。打てる手は打てる限り打ち、念を入れる余地があるなら入れられるだけ入れる。と言う事でこの時も、この先の展開につきどうなるか定かでなく、回転半径上げただけの一撃で決まるとも思えなかったので、回転状態を維持しながら、さながらブーメランのようにして2匹のいずれかを追撃しようと試みた矢先、視界にはその2匹が華々しく、最初の1匹と同様の血沫を上げながら、地上へと落下していく様が見て取れた。まぁ。こういう場合も当然あるわね。もう少しバトルシーンあるかと思ったけれど、これもまた現実の一つか。で、結論から言って楽勝だった。古代術式は、使用してみればわかる事だけれど、現代術式より遥かに自然原理・元素との結びつきが、生々しいまでにダイレクトだ。現代のそれがある意味で工学的で、かつ理詰めであることによって、術者にとってある種の一定の距離感を置く感じとは明確に対照的だ。ここには安全性というキーワードが深く関わってくるけれど、それは一旦置いておく。この古代と現代の対照さがもたらすものは、多少の差でしかないが、同時に確かに存在するスピード感、あるいはそのスピードそのものだ。仮にこの2タイプ同士の戦闘―前述の命のやり取りと言う事だけれど―となった場合は、ほぼ古代術式が先行していく展開になり易い、とも言えるだろう。もちろんメリットばかりではない。俺個人がデメリットとして認識せざるを得ないのは、そのダイレクトさ故、後先考えてない感がこの術式にはパターンとして多く見受けられる、と言う事だ。例えばそれは、現場の環境への影響度合いや術式実行者自身の心身への影響について、その安全を担保することを一顧だにしていないという点が挙げられる。だけに、古代術式の解読から実践に至るまでに、俺たち研究者がその担保を設定する作業が必要になってくる。と、口で言うのは簡単で、つまり簡単なのは口で言う事だけなんだけれど。術式発動時の出力調整など、マイルド化を図るだけでは済まないパターンも当然ある。ただケースバイケースになってくるので、概括的に説明はしきれないのが正直なところだし、今俺がここに示すべきは獣退治の顛末なので、古代術式講座についてはまた別の機会とやらで、都度都度触れていければと思うけれど、その基本的な在り様だけ触れておく。より直感的感覚で運用される古代術式は、例えば戦闘時間の想定などがしづらい。理由の一つとしては、検証データが現代のそれと比べて圧倒的に少ないのもあって、常時一定の効果を安定的に出力出来るよう設計・開発されてはいない点が挙げられる。もちろん古代術式の開発者達に直接コンタクトできれば、こうした一連が単なる誤解や知識不足からくるもので、安全性も出力調整もしっかりとプログラムされていることが判明するかもしれない。けれど、だから、現代にそんな人たちはいない。なので。今回の様に端的な結果に想定外になり得りもする、と言う事だ。長期戦もおよその覚悟はしていた。今回の相手である黒虎(仮)も、俺の知る限りは過去のどの記録にも無い新種であると思われるし、よって確定的な対処法も皆無なため、例えば光刃術式の効果・有効度など、確実な成果は事前に見込めるものではなかった。今回の選択根拠を上げるとすれば、幅広く柔軟な対応力を備えるという点での汎用性や応用が最も効き易い部類のものであるのと同時に、単独現場であるが故、術式実行者以外の者において視認性や予測性が若干乏しくなりがちなこの術式であっても、と言った懸念一切必要無く使用できるという点がある。と、ここで長らく―それこそ単独で―浮遊させ続けている予言者の事を思い出した。で、急ぎ取って返すと、果たしてニマニマ顔―別名ホズ―がそこに待っていた。例えどんなに離れた場所に待機させられていたとしても、今さっきまでの事は全て分かっているし全て知っている、いやさそれは事が起こる前に既にと言う意味で、と物語っているように見え、実際のところ、概ねその通りだった―2つの意味でね―。よって、現場についての説明はほぼ不要だった。
「素晴らしいお手並みだった。俺が見込んだだけの事はある。」
冗談めかして言われた。そして、見込まれてたか。そう言えばこの手の賛辞を、俺はこれまでも協会内外で受けて来たけれど、それらを賛辞として認識した上で真っ向から受け止め、然るべきリアクションをとっていたかどうか、ふと気になった。そして更に気づく。おそらくほとんど1度もそんな事はありはしなかった、と。学生時にも研究院においても副首座としても、出された課題についてはすべてクリア・成功をさせてきたし、そこには苦労と言う苦労も含まれてはいなかったかも知れないけれど―何ならそもそもの苦労そのものについて、一般教養的に認識している程度だった―、その一つ一つの達成に他の人々が一々賛辞を寄こす根本的な意味合いに思いを馳せることも、どころか、何故賛辞を送り送られる必要があるのか、と言う段階から、本質的な理解をしてこなかったし、結果的に理解をできないでもいた。それならそれこそ何故唐突に、その認識が俺の中に生じたのだろう。何故今俺は、おそらく生まれて初めて「褒められて嬉しい」と思ったのだろう。あの集落でこれから暮らしていくに当たって、何か一つの光明が、展望と言う名の光明が見えた気がした。のに。ホズが現実に引き戻しやがった。
「ところでこれはこれとして素晴らしい仕業だとしてさ。あんたの食い扶持稼ぐ手段は何なんだい?」
だよな。かなり、だよな。俺、これ報酬貰えないやつじゃん。え~~~~~。楽勝とは言ったけれど、ある意味俺のスペックまともに発揮しておきながら、対価一切出ない状況じゃない、コレ。何やってんの、俺。いやさ、間違いなく人助けにはなったはずだし―誰でもいい、「なった」と言ってくれ―、それについて一切の後悔はないけれど、いや、そういった意味での光明はゼロだな。
「あぁ、いやまぁ、とりあえず一旦戻ってから考えるよ」
そうホズに返すのが精一杯な俺だった。
「考えるって何を?」
と言う予言者の返しをガン無視し、俺達は集落へと戻った。初めてのお使い終了。お菓子も大切な人の抱擁も何も待っていない初めてのお使い達成の瞬間だった。と、思われたが、家に入った瞬間そこにちょこなんと大家さんが待っていた。そして開口一番、
「あんた不思議なことができる人だったんだねえ。それならお願いしたいことがあるんだよ。もちろんお礼はするよ、報酬付きのちゃんとした仕事としてさ」
とおっしゃられた。どうやらホズが予言者であることは秘匿されたまま、俺が魔導師であることが何らかの形で既に情報漏洩ないし露見していたらしい。ホズ以外に目撃者がいたってことなんだろう、きっと―か、ホズのやろうが、俺に依頼持ち込む前に誰かに喋った、とかの方があり得るか―。と言う事で、今さっきの悩みに対する、まさに満点回答な内容によって、そしてこれがきっかけとなって、一気に俺の無職問題は解決に向かうこととなった―確実な仕事、確かな信頼、そんな口コミにつながっていってくれた―。まぁこの時にはそんな展開になることも、そもそも確信すら、これっぽっちも持てなかったけれど。今となって振り返るに、そういう事だった、と言う事で。そう、そしてここから、俺の魔導師型農村生活は始まった。ちなみに大家さんの最初の依頼は、森にある食用果実等の効率的な採取・運搬法の開発についてだった―定点設置型の転位装置を複数作成・提供した―。
からの幾つかの依頼内容を、今から例示させていただきます。
①冬季の池・川での魚類等の養殖及び市場等小売店への運搬技術開発依頼:他の自然環境への影響を最小限に抑えるため、新規に池を造成。そこへ加熱型術式を常時発動する魔導インプラントを設置。更に半永久的動力源を有する魔導式ホバー型運搬船の開発・提供。定期的なメンテナンスを有償にて提供。
②冬季の畜産環境改善依頼:暖房型魔導インプラントを各畜産施設へ設置。生産・飼育頭数を、それまでの零細型から大規模化することに成功。
③農産物の通年における安定的生産・管理環境の開発依頼:遮熱機構型魔導壁を持つ栽培ハウスに空調型魔導装置を設置。特定環境に縛られない生産環境を実現。
等々。最終的には集落地域のほぼ全ての住民から依頼があり、俺の仕事はその様にして拡大した。ただ、当たり前と言えば当たり前だけれど、他地域への経済的フロント業務―契約・販売交渉等―にまで俺が関与する必要はなかったし、実際無関係と言っていい程、関わることは無かった。ので、俺の存在がフィーチャー・フォーカスされるなどして、明るみに出る・居所がバレる系の事態は発生するに至らなかった。そして報酬は確実に増えていった。しかも産業の発展に伴い、集落の住民の親切心100%も加味されての右肩上がりが止まらなかった。こんな未来、誰が想像しただろう。なお、集落の人口も確実な増加傾向に転じた。で、それを確信・確認したのはそれから5年後の事だった。それ、と言うのはつまりあの農夫以上予言者未満のホズが俺に最初にリクエストした3つの課題が達成済みとなっている事、だ―集落の規模を大きくし、冬にも仕事をできるようにして、あと獣も倒してほしいっていうアレ―。集落はいつの間にか考え得る限りの整備が済んでいた。街道が整えられ、人のみならず物資等も大量に出入するようになり、周辺地域との間で流通経済が成立していると億面無く言える次元にまで、その水準は高まっていた。ただ、やはり厳冬期は相当にこれが鈍る。この時期だけにフォーカスするなら、トータルの収支はそこまで心躍るものにはならないだろう。けれど、けれどだ。この厳冬期含む冬季にあっても、住民が何らかの生産活動に一切手を出せなくなる環境はもはや無くなった。例えば通年での水温管理可能な養殖池を中心とした生産・加工としての漁業、畜産においても同様に大規模施設内においても室温管理可能となった為、種付け・生育等も年間を通じて間断期が消滅た。更に、種々の魔導式運搬機器によって、晩冬から早春にかけて牛馬等では踏破不可能な雪道状態の流通経路を、易々と一気に走破・往来可能となった―当然それ以外の運搬機器も活躍する中春から初秋には総量として劣るとしても、だ―。事に依り。この集落区がそのような譲許になった事に依り。そもそもそれまでの状況が似たり寄ったりで、例えば食料等が相当に乏しくなる周辺地域が、絶大な販路と成り得り、で、成った。この辺境の、絶対的僻地であったこの土地は今や、第一次産業として容赦ない一大拠点へと生まれ変わり、元からいた住民―農民・漁民・漁師がそのほぼ全てだ―は軒並み大規模農場主・一大網元へとクラスアップを果たしていた。そしてそれぞれの事業体では必然、圧倒的な人員を必要とする為、周辺地域を中心として、労働人口が加速度的に流入・増大した。ある意味ちょっとした都市圏・都市国家と言えなくもないけれど、相変わらず―と言うか言い忘れていたけれど―この地域には特定の領主や王侯貴族などでおなじみの元首は存在も誕生もしなかったし、議会・役所などの立法・行政機関も、その片鱗すら発生しなかった。農協・漁協などの寄り合いはあるけれど、もっぱら生産の進捗内容確認や運搬・販売等の打ち合わせ、販路の各種変更確認、そして対価の住民への均等分配と余剰分の集落公庫への納入確認と言った、あくまで事業に特化させた内容に、その活動範囲は留まっている。法律も無く、故にと言うべきか、裁判所も無い。王政・民政に限らず、それらが有する立法・行政・司法いずれもが無い。必要無い、と言えばそれまでかも知れない。ここでは犯罪らしい犯罪が起こらない。犯罪を犯す意味も必要無いからだろうか。金持ちになったからと言って何か権威・権力・権益が拡大するわけでも―できるわけでも―ないし、誰かが誰かをいずれかの内容であっても害せば、その加害者は二度と戻ってくることはできなくなるくらいに互助精神が高く、故にそもそもその様な人種が発生しないからか。食料・住環境・金銭の充足が生み出す精神的な充足が、ごく一般的な人間関係から色恋沙汰の様な空中戦的なものまでも平穏化させているのだろうか。よくは分からない。いや、俺自身がこの世で最もそういったことへの理解が無い人間の一人である為ではあるのだけれど。だからそういった仲裁事の存在しない地域では、三権としての権力機関が必要だという発想自体生まれないのだろうか。全ては憶測であり、結果として表れていることは厳然とした実態だ。ともかく。
「ホズ、思えば君が最初に俺に提示した例の3つの要求は、今になってはそのすべてをクリアしたと思うけれど、ご感想は?」
と、特段褒められたり、ましてや何らかの見返りを期待したわけでもなく、只々単純にそう問いかけた。ちなみに。この予言者ことホズ君、この間結婚し―美形だしモテてたし、だからまったくもって時間の問題ではあったのだけれど―既に二人のお子さんのお父さんになってらっしゃいます―女の子二人だ―。更に農園と畜産の各事業において、他の住民―事業者―に劣らず、従業員50人超を抱え、なお成長を続ける企業の代表を務めている。そしてこれまた各事業主同様、『足るを知る』の実践とも言える、必要最小限の裕福さでもって、第一次産業人生を謳歌していた。そしてあれ以来―一番最初の依頼より後―、予言者としてその能力を発揮することは、現在に至るまで一切無かった。なお、異界生物が発生することも現在まで全くなく、時々危険な野獣が近隣に出没する事はあるけれど、俺が作成した魔導杖―火炎系または雷撃系に任意で変更可能―が、ほぼすべての成人住民に配布・携帯されている為、今に至るまで実害はほぼ発生していない。そしてホズはいちいちそれを俺に予言として告げることは無かったし、おそらくは能力的に感知を含め、それが発動することは実際無かったのだろう。つまり俺が、3つの依頼の達成を確認した今この時までは、と言う事なのだけれど。
ホズの返答はこうだった。
「確かに見事だった。あんたの能力が想像以上にえげつなかったのもあるけど、ここの皆が皆、実際よく働き続けたのも絶対だな。あんたはこれでようやく、次の事にとりかかれるな」
…は?突っ込みどころが瞬時に複数出てくると、「まずどれから言ったらいいか分かんな~い☆彡(語尾上げ気味でお願いします)」になっちゃうじゃん。いやいい。丁寧に突っ込んでいこう。
「ホズ、俺からの質問は3つだ。1つ目、なぜ君は俺の『次』について、まるで指定するかのように言った? 2つ目、その次の事と言うのは具体的な内容まで分かっているのか? 3つ目、何故俺はそれについて取り掛かる必要があるんだ?」
うん、とりあえずこんなところか。…何だこのデジャヴ。少なくとも俺には予知能力は無いから、単に錯覚としての知覚なんだろうけれど。…ん?
「気づいたんだな」
ホズはニコニコしていった。結婚してからでもモテているだろお前、その笑顔クオリティの高さが無駄に嫉妬したくなるレベルだわ。かっこいい系パパって奴だなお前。こんな純朴を絵に描いたような集落―都市一歩手前であるにせよ―だから、痴話話ゼロな相当に充実した穏便ライフを送ってくれちゃってるんだろうな、きっとよ。まぁうん、かなりどうでもよかったなこの下り。はいホズさん、続きをください。
「これは予言だよ、魔法使いさん」
ディドと呼べ―今までみたいに―。それともセカンドネームのクレスベルでもいい。呼ばれたこと、てか明かしたこと無いけれど。
「決まっていることについて、俺はただ単にあんたにお伝えしているだけさ」
1つ目の質問がクリされた。
「2つ目の回答は?」
「あんたは先生になる。弟子を取るんだ」
おぉ、何てこと。まさかようやく手に入れた安穏な生活に、そもそもの最大限の不安要素爆誕の予感がする。つまるところ、魔導師関係者が現れるだなんて、んな馬鹿な。
「いや勘弁してくれよホズ。君だけは何故俺が今ここでこうしているのか、その原因を知っているはずだ。なのに、だ。魔導師が弟子を取ったら、何かのはずみで何かになっちゃうリスクがありまくりじゃないか。ぶっちゃけビビッていると言っても過言じゃない。それを回避するやり方は、何か君の中に浮かんでないのか? いや、無くても、だ。俺と一緒に考えるくらいしたって、バチは当たらないはずだ」
ホズはその集落イチ素敵な笑顔を絶やさず、俺のナーバス質問にこう返した。
「それが3つ目の回答だ、ディド」
「?」
「あんたのお弟子さんはまだ幼い女の子だ。12~3歳と言ったところか。だがあんたと同じように何かとんでもないことから逃げなきゃいけなかったみたいだ。余りにも途方もない、そんな感じの事らしい。俺には今それをうまく説明するのは難しい。だけどとにかくいろんな傷に近いものをしょい込んでやってくる。それを受け止めて、で治してやれるのはあんただけだ。その子には行く当てもない。あんたが見放せば、その子は何かこの世の終わりの様な厄災に巻き込まれることになる。逆にあんたがその子を助ければ、そんな心配、ひとまずは全部無くなるみたいだ」
ひとまず? 一々気になる言い方をする。だがその子―女の子なのか―の境遇には何か感じるものがあった。強く強く感じるものがあった。繰り返しになるけれど、俺には予言能力は無い。だからこれは直感だ。ホズに言われたセイもあるけれど、そう、それはつまり、他の誰でもない俺こそが感じなければいけない何かなんだ。これはだから、確信としての直感だ。
「ちなみにホズ。俺の弟子がやってくるのはいつだ?」
「午後だ」
「え?」
「今日の午後だ」
まじか。何の準備もできてないぞ―めっちゃ当たり前に当たり前だけれど―。心の準備も、何かそれにかかわる設備の準備も、周囲への説明の準備も。段取りデストロイヤー過ぎるだろホズ―こいつのせいではないけれど、軽く恨んでしまう―。まあいい。どれをとっても何とかなる気がしているのも実のところ事実だ。
「で、彼女はこの家にやってくるのか? それともどこか迎えに行くべき場所があるのか?」
「お迎えが必要だ」
「どこへ?」
「その子は絶界山脈にぶつかって、そのまま落ちる。あんたが何もしなけりゃその時点で万が一があるかもしれねえ」
ホズ、お前はまだ俺が何もしないのでは、なんて気にしているんだな。
「大丈夫だホズ、これから出発する。より具体的な回収可能地点は分かるか?」
「俺を最初の時のように連れて行ってくれ。その方が早い。1つに限らず」
また妙な言い回しだ。
「諸々含め、それが一番スムーズってことだな。了解した」
と言う事で、5年前と同じスタイルで、ホズと俺は現場へと向かった。馬で3~4日、魔導師―俺だ―の飛行術式で3時間強。果たして。
果たしてそこに、女の子が落ちていた。倒れ、うつ伏せになっていた。そして、どうやらその状態になってから、それ程時間は経っていない様だった。と言うのも、垂直の断崖絶壁に近い山肌の、高さ約500mの所へぶつかり、地面にそのまま落下したと分かる魔導術式の痕跡が、はっきりと残っていたからだ。ただ不幸中の幸いと言うべきか、身体状況を術式で診断して診たところ、彼女自身に特別何らかの危惧ないし憂慮すべき状況はほとんど見当たらなかった。強いて言えば気絶状態である為、その状態に対する一般的な注意が必要、と言う程度だった。
で、このことに関しては2つ驚いた事がある。1つはホズの予言の正確性だ。既にそこに行き倒れの状態になっているとは言え、そこから先の彼女に及ぶ危険をより最小限に留める為には、このランデブーがよりドンピシャでなければならないけれど、結果、それに成功することを得られた。この予言能力の正確性。ボンヤリと、何となくこの辺にこれくらいのタイミングで、じゃない。一見シンプルに思える『ここにこのタイミングで』的ジャストタイミング水準の予知は、俺たち魔導師が実行する未来予知術式の水準からすれば、最高度の技術力・難易度を必要とする。天然の予言者だから成せる、とも言えるだろうけれどっていうか、そもそも予言者的予言者に、本格・本物の予言者に、俺会った事ないし―そういう存在がいる・あることは既知であったけれど、として―、正直予言者って皆こうなんですかね?―誰に聞いてんだって話だけれど―。ちなみに。この未来予知術式は、魔導師協会においては絶対禁忌術式の一つに指定されている。だし、時間に干渉するタイプの術式は、何であれ全て研究及び使用が禁止されている。
とりあえず驚いた事2つ目。それは彼女自身が為し、成した事だった―『言っても女の子行き倒れちゃってるじゃない、はよ何とかせえや』派の人たち、ここからの話を聞いてほしい―。つまり飛行中に何かにぶつかって落ちた彼女が、見る限り、体や衣服等に一つの傷も負っていない事がそれだ。これを可能にする方法は、飛行術式と障壁術式―防御術式の一種だ―の同時詠唱と言う事になるけれど、まずこれが相当に熟練した魔導師でも余程の技術量を必要とする。けれどこの子は―ホズが予知した通り―いまだ12~3歳と言ったところだろう。更に言えば、接触した崖は鉱石類の中でも最高硬度を誇るニーダバルニア岩で構成されているのだけれど、それが見事に相当の深さと範囲で崩壊している―抉れているという意味では言えば、その最高レベルに含まれるだろう―。
結論は一つ。飛行スピード・障壁強度のいずれもが最高水準に達している。こうなると、どの魔導師でも努力すれば辿り着く・辿り着ける次元ではなくなる。この子を天才と呼ぶのは容易いけれど、それでもその概念からは軽く外れる。1つの術式がその水準・強度を増す為には、思念としてより強固に、そして精緻さと複雑さとを比例して上げていく必要がある。高度かつ長大な数式・計算式をエンドレスに解き続けていく作業と質としては変わらない、と言えば分かり易いだろうか。こんな芸当、その習熟にはどんなに見積もっても30年では利かない筈だ―しかもその30年を、その習熟だけに専念する必要がある―。現代術式にあって、それを実現し得るなんて、到底非現実的かつ不可能と断定せざるを得ない―10代前半の子供が成功させたのは事実だろって? いやいや…まじどうなってんのよだから…―。
が、方や同じことを、実は俺はできる。これはハッタリでも自慢でもなく、普通に普通の事実だ。俺だって33歳と5か月の魔導師だから、そしてこれらの術式以外にも様々な術式の習得・習熟に努めてきたから、言ってしまえばできるわけがない。あくまで現代術式では。と、ここまで言えば分かってくれる人もいるだろう―いないだろうけど―。そう、古代術式はこの例に依らない。とは言っても「こっちの方法なら簡単にできます」レベルのものではない。解読と解毒―術式実行の際の様々なリスク因子の除去―に高度な技法が必要だと言うだけでなく、やはり演算的感覚が相当錬成されている必要がある。俺は様々に幸運な環境が揃っていたが故―億面無く言えば境遇・機会・才能の一致があった―習得できたと言えるけれど、古代術式はこれも含め、研究院、更に言えば俺の当時の研究室以外にはほとんど知られていない(はずだ)。そもそも研究室のメンバーは、少なくとも俺が在籍している間はほぼ完全に固定されており、この術式の使用制限用の腕輪が、研究室外では外れないようになっている。さらに研究資料も一切持ち出せないよう、その唯一の出入口に実行型の術式が設定してある―端的に言って生命維持に直結し得るレベルで設定してあった―。この術式自体も古代のそれである為、外部からの何らかのアクセスは現実的には不可能な状況だった。ではこの子は。現代・古代の両術式共に使用不可能な環境下にあることが間違いないこの子は、それを―最高度の術式同時発動を―いかにして実現し得たのか。考え始めてからここまで一つも、その糸口すら掴めなかった。ホズに
「ここまで来て連れ帰るかどうか迷ってるんか?」
と声を掛けられなければ、今少し考え続けていたかもしれないくらい、固執し、囚われざるを得ない現象だ。趣味と実益がほぼ同一の研究者の悪い癖だ。興味の対象の一点に思考的視線が集中すると、視野狭窄の最悪版に突入することとなる。つまり一般的な社会生活的視野が、その視界レベルから消えてしまう。
「そう言うわけではないけれど、別件考えこんでしまってた。すまないホズ、一旦戻ろう」
現場にいつでも戻ってこられるようマーカー式の術式をその場に施し、行きと同様のエアボールでホズと彼女を保護し、俺は玄関すら一度も開けていない自宅へと戻った。
戻った頃には昼もとっくに過ぎ、気の早い人なら夕食の準備にかかろうと考え始めるような時間になっていた。つまり15時で…まだおやつでも食べてればいいじゃない。なんてことよりも、だ。彼女はここに至るまでにも一度も目を覚ますことは無かった―時折様子を窺って見るには、気を失っているというより、熟睡していると言った方が表現としてしっくりくる程に穏やかな表情をしていたけれど―。ともあれ意識の回復は、その兆候すら窺えなかった。ひとまずリビングのソファーに―なぜかあったソファーに―横にさせてから、大家のメリッサさんに報告に向かった。メリッサさんは現在、町での仕事を辞め、近所の農産物加工組合で事務所長の役職に就いていた―意外な才能だ―。事務能力と管理職両方に適性があったなんて。って最初にメリッサさんに伝えた時は軽くへこむくらいに叱られはしたのだけれど。事実をありのままに伝えることの是非について、その回答が一択ではないことを身をもって知ることができたとも言える-もちろん言えるだけで、けしてそうは思わないのだけれど-。で、今回は
「急な話で申し訳ないんですが、女の子の面倒をみる事になったので、同居を許可してください。家賃の増額は無しの方向で一つ」
と言った。メリッサさんは
「あんたとどんな関係? その子はどこから来たの? 何で一緒に住む必要があるの? あんたの子供じゃないなら誰の子供? 普通学校に通っている年齢だと思うけど、そこんところどうなってんだい? そもそもいつまでいる予定なんだね?」
等々-まだ他にもいくつかあった←忘れた-立て続けにも立て続けの質問攻めにあった。まぁそりゃ当たり前だよね。と言うか、そうやって訊ねられる前にこちらから開示すべき内容だしね。が、メリッサさんはこう続けた。
「ま、そういう色々はさておき、一度ウチにご飯食べに連れてきな。あんた一人があたしと二人きりで食事ってんじゃ、近所の人間の目には連れ込みになっちゃうだろ? 子連れならそういう目も穏やかになるだろうしね」
言っている意味は掴み兼ねたが-掴みたくないし、掴んじゃいけない気さえする-おそらく好意的な食事のお誘いを受けたらしいように感じられた。好意的じゃない食事のお誘いが世の中にあったとして、ではあるけれど-一応『その気』は無いけれど礼儀として、みたいなものか?-。と言う見込み的好意に乗っかる感じ含め
「とりあえず親戚の子供が様々な事情でウチにしばらくの間住む必要ができたんですよね~」
的趣旨で納得してもらう態になった。詳細は本人から聞き取りできていないし、設定を作る時間も全くなかった-ホズと大まかな粗筋だけ荒組することすらできなかった。からの、具体的な内容につき全体の97%をぼかして-と言うか、こっちからして100%把握してないし-伝えた為、メリッサさんが納得しきったかどうかは今は無視しよう。その他のご近所さんにどう思われるか含め、更に追々考えなくちゃだな。
家に戻るとホズの奥さん-いつ見ても超の付く美人さんだ-と、ホズの事業所の従業員らしい女性との二人で女の子に付き添ってくれていた。ホズは奥さんに代わり家に戻って娘さんたちの世話をしているらしい-イケメンで更にイクメンてか-。
「いきさつは旦那から聞いたけれど…」
奥さんにそう言われて一瞬ドキッとした。ホズ、いったいどんな説明したんだろう?
「急にこっちに来ることになっちゃったって? だからかな? かなり疲れちゃってるね、この子」
「そう、なんですよねぇ~」
最後の語尾が上げ気味になったわ。もう探り探りだわ。うん、やっぱ見ず知らずの女の子を預かるなんて絶対イクない! いやさ、保護しなきゃどうなんだっていう前提はあるよ。あるけども。
「でも親戚の子を預かるなんて、ディドにもずいぶん優しい所があったんじゃない」
と、奥さんと従業員さんとで微笑み合いながら、そう言ってきた。ホズ、打ち合わせ無しでお互いの言い訳が100%シンクロするって何? 生き別れの一卵性双生児か俺たちは。
「いやまぁ、成り行き、と言えば成り行きでしかたなく、なんてこともあるんですけど」
「何かあればいつでも言ってね、ディド。手伝えることはもちろん手伝うから。」
「クレスベルさん、ここの土地がこんなに良くなったのも、あなたの力があればこそ。だからってわけでないけれど、お返しできればって気持ちももちろんあってね」
二人それぞれから-従業員さんからは感謝込みで-ありがたい申し出をゲットした。この子から何らかのお悩み相談があった時には、ほぼノールックでこの人たちにパス出せるじゃんと言う保障を得た気分だった。
「ありがとう。ひょっとしたら、また今夜にでも何かお願いする可能性すらあるけれど」
「いつでもどうぞ」
「ありがとう」
二人が帰ってからしばらくの間、協会にいた頃、こんなに素直に人にお礼を言う機会があったかどうか、俺は記憶を巡らせてみた。そして、四半世紀近くそこに在籍しながら、結論として一つもそこから見出すことは、見つけ出すことはできなかった。物心がつく前から-3歳頃と多くの人が言うからきっとそうなんだろう-親元から離され、協会の幼稚舎で魔導教育と、言い訳程度の一般教育-共通語と、協会を中心とした世界の歴史、基礎体力維持のための棒術訓練等-のみ受け、ごくごく少数のコミュニティ内で育ってきた男は、『普段づきあい』の環境すら与えられなかったし、物心ついて以降-7・8歳くらいか-は、ほとんど研究者としての生活しか与えられなかった。自分自身でその環境を選択し続けてきたとも言えるけれど、それ以外の道を検討する視野を、そんな人間がどうやって獲得できるのかと言う点だけは、誰にともなく主張しておきたい。何にせよ、些細なやり取り含め『親切心』と呼べる行為等を俺はしていたのだろうか。あったとして、今の今気づいていなかった、気づけなかっただけ、か? ありがとうと言う言葉の存在・概念はもちろん知っていた。けれど、それを面と向かって身に付けさせてくれた人間は一人もいないことは確かだ。こんな風に、誰にどんな時にどんな気持ちで実際は言うものなのか、そんな、本来はごくごく当たり前なんだろう過程が、この俺には一切無かったように思える。幼い頃から協会で生活の面倒をみてくれていたのは、その協会の事務局職員だったし-何課が担当だったのかすら、もう曖昧だけれど-、『協会カースト』と呼称されるべき組織体質にあって、俺は最初の最初から彼らの上司だった。彼らは俺に物心がつく前から俺にかしずき、俺に対する行いは奉仕、そしてそれは当然の業務の一環として行われていた。感謝する仕組みも感覚も、覚える機会すら一度も無かったと思う。身に付けるなどましてや。いや、何かを、誰かを責めようというのではない。もちろん自分自身を恥じ、あるいは苛み、もしくは落胆したくて、こうもつらつらと回想を連ねているのでもない。ただそうした経験抜きで、この今に至るまで、誰かに心から感謝すること抜きで、どうやらここまで生きてきたらしいことに、とても大きく虚を突かれた思いがしたのも事実だ。そんな事があるなんて、そしてそれが誰あろう俺の人生だったなんて。立ち上がる気力が軽く萎えている自分がいた。が、そこに寝返りをかける気力を見せた者がいた。そうだ、女の子の介抱が必要なんじゃないか。いやはや、何だこの迷走的感覚は。ひとまず目の前の事に集中しよう。俺は女の子に言った。
「大丈夫? 起きられないならそのまま横になっていていい。安心してほしい。と、できれば少し話がしたい。君の方でそれが可能なら」
少女の目がうっすら開き、口が少し動いて何か少し呟いたような気がした。それから肩を中心に、その小さな体が少しだけ震え、そのまま少しずつ泣き始めた。まじか。これ想定してなかったパターンじゃない? いや、想定なんて一つもしちゃいなかったけれども。…ん? 俺今何か、すごく大事な何か求められてる? それとも現時点では何も求められちゃいないのか? …さっぱりだ。さてもなんでもとにかく。少女はソファに横になりながら、細く目を開いたまま、俺や部屋を見るともなく見続けている-のだと思う-。そしてやはり、ほんの少しだけ泣き続けていた。
ややあって、彼女はどうやら落ち着きを取り戻せたらしい。その瞳は少し潤みながらも、しっかりと見開かれるようになっていた。そして俺は気づく。この少女が可憐と言うよりは美しいと表現した方がより的確だ、と言う事に。華奢ではあっても手足はすらりと長く、肩までの黒髪は、その毛先が内側へと巻いていた-後から聞くにはボブカットと言うやつらしい-。眉毛はそれほど太くなく、猫の目にも似て少し大きいその瞳に長めの睫毛、鼻筋は細く通り、小さく若干厚みのある唇は年相応の健康的な紅さを保ちながらきっと結ばれている。顎もほっそりとはしているけれど、全体的な印象として栄養が足りていないとか言った健康的な不安様相は、やはりここでも感じられはしなかった。とは言え、こういった子供を男女問わずそこまで真剣に観察した経験が全く無いので、実際のところ、何らの確信・確証など無いに等しい。思えば俺も、今では33歳と言う年齢をぶら下げながら歩き回るようになっていた。で、仮にずいぶん早くに子供ができていれば、これくらいの年齢になっていただろう。ただ、そもそも恋愛と言う恋愛を俺はしてこなかった。もっと言うなら、『将来一緒になる』系の色恋沙汰とはまるで無縁の半生だった。ので、ましてや子度を持つ可能性は、何らかの事故性イベントでもなければあり得ないことではあったのだけれど。…今回の事は何らかの事故性イベントに入るのだろうか? と、
「一つ、じゃなくて、けっこう聞きたいことがあるんだけど」
と横になりながら少女がそう口を開いた。その声はか細く感じられはしたけれど、それとなしに意志の強さを感じさせられもする。
「何について、だろう?」
「まずここがどこか教えてほしい」
「ここは俺の家だよ」
「あなたは誰?」
「名前はディド」
「ディドさん、この家はどこにあるの?」
なんだそのフィロソフィア系の質問は。いや、もっと単純な意味合いか?
「私はどこまで飛んできたの?」
単純な方だった。俺はここがニナルレイ地方と言うところで、ここは国家ではなく、最も近いそれは東に数千㎞も離れていること-協会とは疎遠と言える関係らしい。情報が数年前のものだから、今は実際どうなのか把握していないけれど-、亜寒帯に属してはいるけれど、この地域に限って言えば生活水準は決して低くない-とても高いとすら言いたいくらいだ-等々説明した。
「つまり君はどこに向かって飛ぼうというのでなく、無我夢中のままここまで飛んで来たってことかな?」
「それについても質問したい。なぜあなたは私をここに連れてきたの? どうやって私に会った?」
質問に質問で返された事はともかく、それついては俺の方にこそ聞きたい事はあった。あの絶界山脈を夥しく抉りまくることができた衝突スピードと、余りに過剰とすら言える防御術式、その使用に関する何もかもが研究者魂に火をつけ、なおもバンバン薪をくべられていた-ちなみに我が家は暖炉・薪ストーブの類は無く、全て魔導動力で賄われております、何の宣伝か分かりませんが-。とは言え。今はとりあえず彼女からの質問に対し、なるべくきちんと回答していこう。
「君は絶界山脈を知っているか? そう、言えばここは世界の最果てとも呼ばれる場所だ。その山脈に君は衝突し、その麓に落下、あるいは投げ出され、その時点で気を失ったはずだ。知人-大親友のホズ君-と俺の二人で発見し、ひとまず回復してもらうことを目的に、ここまで運んできた」
「分かった気もするし、何も分からなかった気もする」
少女はその目を少し泳がせながら、呟くようにそう言った。
「今の今はあまり何かを考えこんだりしないで、ゆっくり深呼吸しながら、しばらくこのまま休んでいた方がいい。そういえばお腹は減ってない? 君を見つけたのはお昼前だったけれど、今は窓から見て分かる通り、夕方から夜になろうとしている。気分さえ悪くなきゃ、何か少し食べるかい?」
「気分は最悪。お腹は減ってる気もするけど、少し気持ち悪いからいりません。…それ、たぶん親切で言ってくれてるんですよね? それはありがとうございます」
「いや、お礼まで言ってもらおうとは思わなかった。まぁでも良かった、それなりに話すことができるようで。体の方はどう? 何か変に感じる所や痛い所なんかない?」
「少しだるいかも、です。でも、ちゃんと寝れば元気になれる気がします」
「そう、そうなったら良いね。ちなみに、ソファにそのままいてもいいけれど、お客さん用のベッド-と、一度も使ったことない客室ですけど何か-もあるよ? そこに移動してもらってももちろん良いし、どうする?」
「もう少しこのままが良いです。でも動けるようになったら、そっちの方に行きたいです」
OK。意思の疎通がこれくらい図れるなら、全然大丈夫だろう。いや、ホズが『あんたの弟子になる』なんて言わなけりゃ、こんな気持ちにもならなかったはずだ。何だこの保護衝動は。精神的にも肉体的にも特に問題が無いのは検査型の術式である程度察しは付いていた。ただ実際のところ、本人から本人の言葉で直接確認できるまでは、と言うのはやはりある。その点で言えば良かった、とはなる。しかし更に「けれど」だ。その検査中にどうしても見過ごすことができない事実が一つ、しかもとてつもなく大きな大きなポイントである「それ」を発見してしまった-発見せざるを得なかったと言ってもいい-。この子の保有する魔導力、その容量・強度が共に、俺がいた当時の協会所属の全魔導師のそれを上回っている。それも遥かに、だ。もちろんこの俺よりもはるかに上だ。そして、俺がそこを離れて5年ほどの年月を経過しているわけだから、数値データに変更・修正すべき何かが生まれてはいるだろうけれど、ほぼ100%、この事実が覆ることはあり得ないだろう。なぜならば。なぜならば、そもそもそんな事すらあり得ない、と言う規模だからだ。人がこれだけの魔導力を保有する体に、人はそもそもなれない。大の大人でも、どんな熟練・熟達した魔導師でも、保有に至れず、保有できたとしても制御不可能で自身含め、致命的な瓦解を引き起こすだろう。現代・古代の術式問わず、発動の際に一時的に膨張する魔導力を制御できなくなり事故に至った例は、不幸にしてそれほど希少性の高いものではない。それを常時維持している状態など、理論上不可能にも程がある。なのに。現に目の前の事実・事象はそれを許容し、実現し続けている。このパラドクスの鍵はいったいどこにあるのだろう? 一つ、八千歩くらい譲って言えることは、であれば、絶界山脈のあのクレーターは説明が可能となる。この魔導力が惜しげもなく発動され展開したスピードと防御障壁であれば、それが現代・古代のいずれの術式かはさておいても、いや、何であろうが、あの現象を引き起こす事は容易だ。だとして…だからこそ、分からない。この堂々巡りの結末は-矛盾した物言いになっちゃってるけれども-可能なら、この俺自身、本当に本当に知りたいところだ。それはあの保護衝動とリンクしている様でもあり、あるいは別の、研究者としての性が、はたまた単純に同じ魔導師-とも現時点、厳密には言えないのだけれど-としての好奇心故か。おそらくそのどれもが、それぞれの割合はさておき当てはまることだろう。と、
「もう少しだけ眠りたいけれど良いですか?」
そう少女から問われた。
「もちろん。てかごめん、色々と聞いちゃって」
症状はそれには小さく首を横に振って応じてくれた。そしてそのまますっと瞳を閉じた。うんまぁほんと、この場面だけ見れば、どこにでも普通にいる普通の美少女だよな-美少女がどこにでもいるっていうのもすごい話だけれど、まぁ美的感覚は人それぞれとお茶を濁しておこう-。と言うか、美少女の中でもとびっきりのそれではあるけれど。それ以外は本当に普通だ。普通の少女で、女の子だ-そう、これが言いたかった-。ん? 待てよ? ホズ=美男子、ホズの奥さん=超美人、この子=超美少女。…何だ俺の直近関係者。俺別に美男美女としかプライベート過ごしませんのタイプじゃないんだけどな。てかそんなタイプの人いる? …いそうだな。…こえーな。ま、それはともかく。全てはこの子の体調が戻ってからだ。そもそも勢いよくここまで来過ぎだろ。なんで俺こんなことになってんだ。ホズか。すげえなアイツ。いきなり独身男に思春期すら訪れてなさそうな子供の世話をさせるテクニックとメンタリティよ。予言者だから? いや予言者ってみんなこんなタイプの仲介かますわけ? いやしないよね(自己完結)。だし、いやさ、この子がここにいたいと思わない可能性だってあるだろ? 大いにあるだろ。自分の住んでいた家に帰りたいとか普通にあるよね、きっと。で、それならそれで良いし。てか、その方が良いよな。確かにホズは「エライものを抱えたこの子は、俺の助けが無ければ、この子のみならず、この世自体がどうにかなってしまう」そう言った。でもこの子の気持ちってあるじゃない。普通に普通の子供の気持ちってあるじゃない。そことのバランス・兼ね合いみたいなことを考え出すと、割と単純な話じゃないよね。別に人権チックな観点から言っているだけじゃない。仮に俺がメタくそ嫌われて、かつこの子を思いきり情緒不安定にさせたらこの世が終わりました、みたいな超展開だって無いとは言えないし。しかし『普通の子供の気持ち』、か。そもそも俺が普通の子供時代を送ってこなかったから-両親・親族の一切から物心つく前には離され、それからずっと好きなことやりながらチヤホヤされてきた子供時代-、あくまで一般論的推論に近いものかも知れないけれど、ただまぁあんな超暴力的に莫大な魔導力、どう制御して日常生活送れるのかって事もあるよな。ほんと考える事、確かめなきゃならない事が次から次へと出てくるわい。と言うところで俺のお腹が鳴った。そう言えばこの子にも聞いたけれど、俺は俺で、ここまで何も口にはしてこなかったんだ。しかしこういう時、魔導師は便利だ。まったく未加工の食材からでも、それに術式を当てれば、瞬時に栄養素として体内に充填される。もちろん味気ないことに文字通りなるわけで、通常は通常の食事を通常通りに摂取することになる。けれど今日はそれなりに俺もくたびれていたので、適当に貯蔵室から見繕い、術式を当てた。…うん、満足。さて、俺もひと眠りしよう。後の事は全て、明日の俺に任せよう。がんばれよ、明日からの俺。そう言えば、とふと思う。この子、明日の朝になったらいなくなってたりしないよな? あと一つ。この子の名前って何て言うんだ? うん、まぁ、なんにせよ、明日の俺の仕事だ。今日の俺は休ませてもらおう。俺は寝間着に着替え、自分のベッドにもぐりこみ、そして泥の様な眠りに落ちた。泥の様な眠り。最高かよ。
少女はいた。俺より先に起きて、そして朝ご飯を作っていた。…さすがに食べ終えてはいなかった。いや、食べ終えてくれていてもよかったけれど、そこら辺は何だろう、気の使える子なのか? いや、そうとも言い切れなかった。なぜってめちゃめちゃ量多いじゃん。え? 何人分? まさかホズの奥さんの事とかも覚えていて、その人達の分も用意してみました、みたいな? って言うか、だから言ってしまえば俺に特に何か言うことなく、ここまでの大量メニューを揃えてくれちゃっているのは、そこは子供だから、なのか?
「お腹空いてたので、勝手でごめんなさいなんだけど、あの…一緒に食べますか?」
「もちろんだよ」
別に問題ない。食糧には一切困っていない。そういう風にこの地域は変わったし、なんだったら俺その変えた一因、いや一員だし。収入も協会にいた頃とは比べようがないけれど、色んな意味で将来不安は無いし。…協会に発見されちゃう以外はね。
「良かった」
未だぎこちない表情ながらも、少しほっとした感じを見せてその子lは言った。その子。
「そうだ、君の名前教えてくれないかな?」
「あの、まず食事してもいいですか?」
あぁ、そうだった。
「OK、構わないし、それにありがとう」
「え?」
「俺の分の食事まで作ってくれて。あと、もしかしてほかの人の分まで作ってくれた?」
「え?」
「え? あ、いや、昨日俺の他に君を介抱してくれた人が3人いるんだけれど…」
「あ、そう言えば、ですよね。…あの、もしあなたがいらなければ、一人で食べたかったっていうか…」
ほうほうほう。そっち系か。スレンダー美少女フードファイター系ね。いるいる。そうか君もか超珍しいな。オイ。「いるいる」じゃねぇ。何だろこの子。昨日から色々弩級でびっくりさせられるな。
「あれ? 何かおかしかったですか?」
不意にその子に訊ねられた。
「ん? 何がどうしたのかな?」
「なんか笑ってるから、変なこと、私言ったかなって」
あ、俺笑ってたか。まぁ笑わせてくれよ、少しくらい。
「いや、ごめん。朝からちゃんとした食事するなんて、ものすごく久しぶりだから嬉しいなって思ってさ。と言うか、俺も食べていいのかな?」
「もちろん! と、ありがとうございます」
「いやいや全然。気にしないでよ。さ、じゃあ食べよう」
そして。どのメニューもめちゃめちゃ美味しかった。う~ん。とりあえず今のところこの子からは、本当にびっくりしか出てこないな。やるなマジで。
「どこでどうしたらこんな美味しいごはん作れるようになるの?」
素直に聞いてしまう。もっと大事な質問項目、他にやたらあるけれど。ちゃんと話せるようになって-ついでに体調もおそらくほとんど復調したところで-最初の質問に、これを持ってきてしまった。
「うちのお父さんもお母さんも料理するのがすごい好きで。私も小さい時からずっと一緒に作ってて」
なるほどね。まあ君今でも充分お若いけれどね。
「ちなみに君は今何歳?」
「もうすぐ12歳」
にしては大人っぽいなオイ。いや、11歳の子が13~4歳に見えることを大人っぽいと言うならレベルの事ではあるけれど。ならやっぱり幼い、のか。そんな子が、と昨日からの宿題が、今日の俺に今、手渡された。そうだった。この子はいったい何者なのか、そして何よりまずは、
「名前、教えてくれる? あぁ、俺は昨日も一応伝えたけれど、ディドって言うんだ、改めてよろしく。それで」
「私はネネ。ネネ・リリス・スワレンスタムって言います。よろしくお願いします」
ぺこり。食事中の為、スプーン片手にそうして頭を下げる。礼儀正しい。あと5年もすれば、スプーンを一旦テーブルに置くようにもなるだろう。な~んつって。
「そうか、ネネって言うんだね、ネネ・リリス・スワレンスタム」
こくり(←食事再開中)
「待てよ。スワレンスタムって、エクゼナル王国の子爵家の名前が確か」
「おじいちゃん。お母さんのお父さんが子爵です」
なるほど、君のお父さん入り婿なのね-別にだから何ってわけじゃ全くないけれど-。けれど、だとして、ミドルネームの『リリス』ってのは、なんだ? 同王国の伯爵号は確か『ゼ・ガース』だ。何しろ同僚-厳密には部下-に一人、同王国の同爵位家出身者がいたんだ。まず間違いない。ということで、彼女のミドルネームがそうではない時点で、それは何を意味するんだろう? もちろん俺は王侯・貴族情報マスターじゃないから、漏れに漏れまくっているデータの方に含まれている何か、なのかも知れないけれど。まぁ、それもいいや。それより家のことを話し始めたら、彼女の食事のスピードが明らかに落ちている。
「とりあえず今はせっかくの美味しいごはんがあるんだし、先に食べ終わっちゃおうか」
そう言ったが遅かった。俺のその投げかけにコクンと頷きかけて彼女、ネネの動きが止まった。そして次の刹那、嗚咽と共に肩が少しずつ震えだし、大粒の涙を零し始めた。う~ん。これはごめんなさいだ。俺には女心どころか少女心もまるで分かってないところがある。この年齢の子供に『こうしてある意味隔絶された上に孤独でいる環境下において家の事を思い出させる時には慎重を要する』系判断何故にできなかったか。これアレだな。俺って人間にはやはり根本的かつ致命的に欠損した何かがあるな。うん、もうホズの奥さん、サーシャに1回相談しよう。
「ネネ、ひとまず食事は一旦終わらせて、あの、サーシャって人に」
「あとちょっと泣いたら、もう1回食べたいです」
そこそこの涙声でお願いされた。断る理由ねんてねーよ。ひとまず君の胃袋だけはご機嫌で良かったぜ-正直助かったっての-。
「全然OK。とにかく君の過ごしたいように過ごして良いから。それよりごめんね。嫌な思いさせちゃったよね」
「全然いいです。たぶん混乱しちゃって…」
そこでまた嗚咽に戻ってしまった。戻らせてしまった。…この先やっていけるのか俺? って言うか師匠としてやってっていい人なの俺? とりあえず「大丈夫、大丈夫」と声をかけつつ、ホズに念話を飛ばした。ちなみにこのツールはホズ限定だ。
「おはようホズ。昨日の子の事で恨みがある、じゃなくて頼みがある」
ホズもどうやら食事中だったらしい。
「いんやあ、旨い飯食ってるところに相変わらず割り込んでくるねえアンタぁ(もぐもぐもぐ…)」
そんなに俺、食事中の念和率高かったか? 単にお前が面倒に思っているからこその認識度合いが高めフィーリングなだけでは? あとできたら食うのをちょっとでいいから止めてほしい-通常よりも明確かつ強調された咀嚼音が流れ込んでくるんだよ-。まぁこの一連はどうでもいいな。後で小一時間問い詰めるくらいにしておこう。
「サーシャに今日も家へ来てもらうか、それともそっちの家にお邪魔したいんだけど良いかな?」
「構わねえ、なあサーシャ。 …あん? 声出てねえってか? あは、ディド、ちょっと待ってな」
そう、念和中に通常の会話に切り替えようとすると声出しているつもりが出せていないって言う、いわゆる念和あるあるだ。そうは言っても、念和慣れしていない初心者限定のあるあるだったりはするが。ホズは始めてもう5年目?6年目? …慣れろよ。
「良い母ちゃんだ、『もちろん!』だってよ。何時に来るって?」
そちらに行くことになったのね。
「そっちの都合のいい時間でお願いしたい」
「ああ、じゃあ午後3時のお茶にしよう。俺も一旦戻って子供たちの面倒見れるしよ」
ほんと良いパパ。
「ありがとう、じゃあまた後で」
念和終了。見ればネネは食事に戻っていた。モグモグモグモグ…。黙々とモグモグ。…、…。まぁまぁ。とりあえず良しとしよう。いやぁ、デリカシーのある師匠にならないとな、俺。と言って彼女が弟子になってくれればの話ではあるけれど。なって、くれれば? 望んでいるのか俺は? ある意味あの農夫兼予言者-予言実行数2回-の半強制的な刷り込みのセイな気もするけれど、にしても、だ。その内包する魔導力からして期待の逸材だからか? それとも父性本能に目覚めて? いやさネネには両親がいるだろ。それにシシャモならぬ子爵なおじい様もいらっしゃる。そう言えばこの献立にはシシャモも加わっている-しかも子持ちだ。大好き-。3年前に海水プラントを設置し、様々な海水魚の養殖を開始したけれど、ついに初期ロットとして水揚げに成功した1つがこのシシャモだ。旨い。天然物より大きく太っていて、何もつけなくとも、甘塩さとほのかな上質の油味が感じられる。プラント自体はどれも初期からめちゃくちゃ大掛かりな装置で、漁協から管理者が3人、それに従業者を約30人集めてのスタートだった為、その投資の回収がどうなるかと言う事について若干不安な部分が無いでもなかった。けれど、どうやらその採算については、この旨さなら大丈夫そうだな。朝食中に考え込む内容ではないかもだけれど、俺、一応事業の顧問になっちゃってるからね。強く薦められて断れなかったって言うか。ので、開発者の立場含め、相応の責任感じざるを得なかったって部分はあって。ただまあだからニコニコレベルのシシャモですよこれは。で、ネネは食べ終わっていた。全部食べ終わっていた。…いつの間に?! 大人数人分の食事がこのスレンダー少女のどこに収まったっていうんだい?!
「お、とりあえず食事終了って感じかな?」
デリカシー大事。間違っても「食い過ぎじゃね?」的声かけはブブー過ぎる。
「リクエストして良いなら、ホットミルクも欲しいかな、なんて」
呟いた。呟いてくれた。
「でも、ちょっと探したけれど見つからなくて」
そう、うちに牛乳は無い。乳牛はいる、集落に。だから当然牛乳は生産されている。ついでに各種乳製品も。この畜産関連事業も、今や大規模化されたものの一つだ。集落の産業開発初期段階より、地熱や断熱素材・装置の開発先に、超大型の牛舎・各種加工場は含まれていた。で、先ほどの海水魚養殖等を含む水産プラントよりも先に成功を収めているけれど、そうじゃなくて、と言うかそれにも関わらず、我が家に牛乳は無い。俺が単に必要性を感じなかったからと言うささやかな理由しかその根拠としては無いけれど、なんてこった。ある意味事業として大失敗した気分だよ。子供一人満足させられなくて、何が牧畜産業の成功と言えようか。いや言えるんだけど。一般的な意味合いではね。だけど我が家では大失敗だ。
「ごめん。無いんだ、牛乳。でも今日から買おう。いや、毎朝届けてもらうようにしよう」
「誰かに迷惑かけちゃうならやめてください」
おや? ちょっとだけ強めの口調でおっしゃいましたね? また地雷なやつヤっちゃいました? と思いかけたけれど、そうではなかった。
「でもそうじゃないならお願いしたいです」
少し恥ずかしそうに、そして若干嬉しそうにそう話すネネを見て、今度こそ安心した。
「うん、そうしよう。この集落には牛乳の配達屋さんがいるんだ。ほとんどの家に毎朝配っている。一軒でもお客さんが増えれば迷惑どころか、とても喜ばれるはずだ」
「良かった、嬉しい。ありがとうございます」
はにかんだネネがそこにいた。よし、絶対セーフだな、この一連の会話。いやもう早く、この弟子に変な支障を与えない師匠にならなくては。…。ま、返す返すもまだ弟子になるって言ってないし、そもそもこっちも話してないし、なんならここに残るかどうかも全然決まっちゃいないんだけれどね。全ては。全てはおそらく午後のお茶会で決まる。そう、予言者がどれだけ正確だろうと、忘れてはいけない。この子には当然に親がいるのだし、俺と師弟関係になるかどうかの選択権は彼女に、そして当然俺にもある。仮に彼女が弟子になることを希望したとしても、事と次第によっては俺の方で断る必要が生じることも否定できない。それが例えばどう言ったケースか、と言う事は今は全く思い浮かばないけれど。さて。
「このあと少し休憩したら、カードゲームかボードゲームでもして遊ぼうか? それか、本も、君が読みたいものがあるなら、書庫で探してもらってもいいし。あとは」
「本が良い、です」
喰いついた。軽くかぶせ気味に。え? どんだけ好きなん?
「OK。じゃあ適当に休んで、君の良いタイミングで声かけてもらって、そしたら書庫に案内しよう」
そう、この家には最初、そんなスペースは無かった。けれどここに住み始めて2年後の春、集落の大工に頼んで、増築として作ってもらった。そして術式によって、更にもうひと工程加えた。もっともこの家の変化の内ではだいぶ小さく、かつ極めて穏当な部類に入る変化ではあるのだけれど。だいぶ大きく極めて不穏当な変化の方については、別の機会に触れることになるだろう。
しばらくして。ネネを案内した書庫は、蔵書として8万冊は超えている。「図書館じゃねえか」ってツッコミもあるかもしれないけれど、そして確かにこの集落の住民は、日中に限っては自由に出入り可能だけれど、あくまで我が家の玄関からのみしか出入りできず、念のため持ち出し禁止の術式も全ての書籍にかかっている。まぁ勝手に持ち出すタイプの人間はここにはいないと思うが-術式の発動は実際のところ今までに一度も無い-、そう、あくまで念のため。だって全部俺の私費で買った物だし、とセコイことを言うつもりはない。住民と共に発展させた事業の成果としての対価報酬で、全ては得た蔵書だ。個人的感覚からすれば全ては住民たちの物である、と言ってもいい。ただ、だからこそちゃんと管理しつつ、住民に提供しようと思った。当たり前の話だけれど、いくら読書好きでも8万冊超を読み切れる能力など誰にだって無いだろう。魔導書-術式書-であれば、記憶術式で一定範囲の内容習得は可能だ。ある意味では、ほぼ網羅することが可能とも言える。けれど物語本となると、同術式を使用した際、その物語全体のロジック等は瞬時に記憶できるけれど、細かなセリフ回しや詳細な場面説明などは、自力で瞬時に思い出すようにはならず、キーワード検索と言う極めて無機質な作業でのみしか再確認方法が無い為、本来期待される感動体験の様な情動効果はまず望めない。ちなみに、そもそも魔導型術式書-魔術書-等ほとんど読まれないため、全体に占める割合は、1割にも満たない。反対に物語本はこれの1/3を占めるに至っている。繰り返しになるけれど、これらはあくまで俺個人の所有物とか俺専用なんて言う意識は無い。ただ、間違いなく我が家の一角にあり、ある意味では個人的厚意で一定時間開放・貸与しているこの場所は、故に書庫なのだ-「○○なのだ」って何ボンパパよ-。ちなみに住民達の中では、中年以下の女性と子供たちが、平日利用者の9割を占めている。平日日中に時間を作りやすい層とも言えのかもしれない。そう、ここには割合多く子供向けの本もある。図解的な本や世界の様々な国の紀行もの、絵本もある。休日は比較的若い男性も、それ程多くは無いけれど来ることには来る。反面、男女問わず老年者の利用数は極めて低い。別に識字率が低いから、と言う類の事ではない。と言うか、学校の類は、遥か昔からあるということだし、全ての子供はほぼ例外なく入学するから、基礎的な識字率は100%と言い切ってもいい。ただこれまで、いわゆる初等教育機関しか、この地域全体には無かった。その意味するところはつまり、初等教育を卒業した後は、ほぼ全ての子供たちは勤労者になる為、必然、学術的な段階もその範囲に留まる。従ってそう言った地域の傾向に漏れず、書店の類も図書館も需要が無いに等しい故に存在しない。よって老年者など一定年齢に達した人々は、およそ本などの書物とは決して相容れない人格として人生を形成してきているが故に、「今更本に親しもうなんて」な心理的要素が、その表層から潜在まで多少の差こそあれ強くあるのだろう。こうした心理は別に反発ではなく、ただの、まったくの無関心であると思う。他方、この集落の産業発展により、あらゆる分野における効率化が圧倒的かつ飛躍的に上昇した為、いわゆる余剰時間がほぼ全ての住民において生み出された。更には爆発的と言っていい人口増加も相まって、この集落の歴史は大きな曲がり角に差し掛かった。差し掛からせたと言ってもいいかもしれない。何がと言えば、まず中等教育機関が設立された。それに該当する年齢層の子供たちを労働に従事させる必要が無くなった為だ。更に高等教育機関も、ついこの間設立された。また、夫婦共働きが絶対的に必要とされる環境も、専業主婦・主夫がその比率を半数を超すほどにまで変化するに至った。更にほぼ全住民において、余暇と言う概念と実際的な時間が誕生した。そう言った背景から、本に親しむ人々がごく自然に一定層形成された。ちなみに、今のところ大学に相当する教育機関の設立予定は無いけれど、そんな段階まで進む可能性が決めてゼロに近い歴史を辿ってきたこの地域から、いずれ-ごくごく近い未来として-進学の選択をする者も出てくるはずだ。
ちなみに書庫は、本来の部屋の広さからすればせいぜい1千冊程度しか収容できなかった為、近くの森の中に空間転位術式を用いてちょっとした規模の建物-8万冊の書籍を収容してもまだ全然余裕がある程度の建物-を造設した。ロッジ風の2階建て-超巨大なロッジ風の2階建て-で、屋根と全ての柱に万年樹ナーヴを加工したものを使い、壁はほぼ全てガラス張りにした。なお建物全体を障壁術式装置を設置して覆っている。室内空調も同じく術式装置によって常春設定にしている為、夏でも冬でもその理由から読書を遠ざける必要はないと思われる。てかめちゃめちゃ好評だ。実際、避暑・避寒目的で利用する住民もいるようだ。別にそれでも構わない。こういう空間での唯一にして絶対のルール『お静かに』さえ守ってくれれば、どなたでも大歓迎だ。
ネネはと言えば、書庫に入った途端、一瞬息を吞んだ様だった。
「すごい…」
そしてそんな呟きが漏れた。細やかでも感動を与えられているなら、ここを作った甲斐が超あるぜ。で、彼女は一通り書庫内を巡り、やはりと言うべきか、物語本コーナーで時を費やすことを決めた様だ。ただ、いわゆるおとぎ話の様なものではなく、比較的年齢の高い層、そしてどちらかと言えば男性読者の方が多そうな本を手に取っていた。意外性もここまで連続して来ると、もはやそれこそが普通である気がしてくるから不思議だ。俺が知る限りその本の趣旨は、とある商売人の男が海千山千の連中に大切なものを根こそぎ奪われながら、貨幣価値の絶対性を信じ抜き、何やかやでのし上がって、で何やかやで復讐を遂げるのだけれど、いつの間にか自分自身が自らに仇名した者達と同質の人間になり果てた結果、最後は彼を恨む者の一人から弑逆される結末だったはずだ。そのさわり部分とは言え…楽しいかネネ? 心配だ。ちょっとだけこの先が。今の今は構わない、けど-もう構った方がいいのかな?-。数時間後、お昼ごはん-簡単なサンドイッチをネネがこれまた素早く作った。何の術式も使わずに-を挟んで家を出るまで、そして彼女の読書は続いた。
ホズとサーシャの娘二人-3歳&1歳ペア-に出迎えられ、ネネはそこでも少し、普通にとびっきり可愛くて美しい笑顔を見せた。俺が彼女の父親なら、それだけで素晴らしく胸を反らしたくなるだろう。ただホズとサーシャはいたって普通に出迎えてくれた。美形界では、このクラスの笑顔であっても特別何か期することは無い出来事なんだろうか。意味不明に少し悔しい気持ちになる。あと美形界ってなんだよ。本当にあったら遠くからじっくり眺めてみたいけれど。
ネネはそれでも少し緊張している様だった。ここに来ることを伝えた時、怪訝そうに「どうして?」と聞いてきたところからも、自ずと察する事のできるものではあるけれど。初めて来た土地で、次々と初対面を繰り返し、対話を求められ、そもそも周りに親しい人が誰もいないと言う事が、何らの負担も発生しないわけは絶対的に無いだろう-絶対的に有るはずだ-。当時28歳の俺がここに来た時にはそりゃもうプレッシャーの見本市みたいな状況になっていたわけだから、この年齢の子供なら増してや、とも思う。けれど一番最初にホズに会った時の俺と同様、今日のネネは早くも少しずつ、サーシャに柔らかな反応を見せ始めていた。着ている服や髪形、朝昼それぞれ何を食べたかと言った他愛のない所から、その二人の会話には弾みがつき始めているように思えた。ふと、ネネはこの家で暮らすことがより良いのではないか、と言う気持ちになった。何も師弟が一つ屋根の下で暮らさなきゃいけないルールは無い-筈だ-。確かに幼子二人抱えているところに、ある意味それに近い存在がもう一人増えるのは、一般的に見て最良の選択肢とはならないかもしれない。けれど今やこのお家、ハウスキーパーが二人も雇われてるんだよねぇ。彼女が特別負担になる可能性は、どっちかと言えばかなりゼロ寄りな意味で少ないように思えもするのだけれど。それより何より、はっきり言ってしまえば、とんだ世間知らずで家庭人にすらなったことが無い独身男と暮らすより、同性で面倒見が良く、ホズの様な予言者とすら当たり前に暮らせる包容力を持ったサーシャの方が、ネネの日々の生活の場、環境の提供と言った点からすれば圧倒的に妥当だと思える-事実そうだろう-。何しろ今朝、俺は彼女を泣かせた。そのつもりは一切なくとも、いや、そのつもりが一切なかったからこそ、それは紛れもない過失だ。現在二択しかない状況ではあるにせよ、殊「普段・普通の生活」の観点から判断するならば、自明の理にすぎるほどに解答は提示されている様に思えた。
さても、ここに連れてきた最大の理由は「なぜネネがこの集落に来ることになったのか」「ネネ自身はこれからどうしたいのか」の2点につき、当の彼女に確認を取ることだ。今朝の失敗を踏まえれば、さて、どこから切り出したものか。
「命狙われたんだねえ、君」
ホズが口を開いた。
「たくさんの悪い人間に真夜中に一気に襲い掛かられたら、それでお父さんお母さんとの間で全然何も確認できないで、ここまで一晩かけて全力で飛んできて。たいへんだったなあ、辛かったろうなあ」
コイツ! イケメンなのは外見だけじゃなくて中身も、じゃなかったのか?! さてはデリカシーとか心の辞書に載ってないタイプなアレかお前? だいたい、それは俺が一度踏み抜いた地雷だっつうんだよ。てか、それで言ったらたぶんお前7~8個分くらい駆け回りながら踏んでってる感じだぞ? いや、ネネ大丈夫か?! 俺は俺自身の鼓動が若干早まるのを感じながら、ネネの方を急いで見た。ったく、ホズの口を針と糸で思い切り縫い付けた方が良かったかも知れないけれど、それはいつでもできる-おい-。ともかく今はネネだ。と見ると、彼女は、少女はやはり泣いていた。けれど、動揺・動転して、激しく感情を震わせるそれではなかった。ネネは小さく震えながらも、只々静かに涙を流し、そしてそんな少女の肩を、サーシャが優しく、穏やかに、温かく、抱いていた。そんなサーシャと俺の目が合う。包容力の世界チャンピオンことサーシャは、声を出さずにうんうんと頷いて見せた。ネネはと言えば完全にサーシャに引き寄せられるようにして寄り添い、その内サーシャの服の端をきゅっと両手で握りしめるようになった。サーシャはと言うと、それに合わせる様にして、ネネの頭をそっと撫で始めた。なんだ? この夫婦の連携プレーは。何だったら軽くずるいよな? いや、ネネが素直に泣くことができているなら、うっかり予言者の言う通り相当に衝撃的な体験の後であるなら、問答無用に歓迎されるべき状況だろう。それにしてもホズの言ったことは余りに気にかかる。それはもちろん予言者のくせに未来でなく過去を見ちゃってる、見ることができちゃってることではない-それはそれでどうなってるの?であったとして、時間をかけるべきは今ではない-。どういうことだ? 何が彼女を取り巻く環境をそんな事態にさせた? そして彼女を襲おうとしたのはどんな連中で何を目的としたというのだろう?
暫く後、ネネはだいぶ落ち着きを取り戻すことができた-きょう2回目…1回目はほんとごめん-。それでもサーシャにそっと肩を抱かれている状況は変わらなかったけれど、その全ての問いに、更にはそれよりも多くの回答を、俺たちに与えてくれた。彼女がつい先日まで住んでいた場所は子爵おじいちゃんのいるエクゼナル王国ではなかった。何と、と言えばいいのか「やはりか…」と戦慄すればいいのか、彼女は魔導士協会直轄領で生活をしていた。もっと言えば、彼女の父親が協会職員として勤務しており、彼女自身は協会に帰属する魔導師教育機関の初等科、ではなく中等科、でもなくなんと高等科の最終学年に所属していた。俺とほぼ一緒じゃない、それ。まぁね? 自慢じゃないけどさ? 俺はその年齢で既に研究院に上がるところではあったのだけれども。…自慢にはならないな、これ。いや本当さ。そのセイで、同年代の中で身に付けるべきまともな社会性が身につかず、常にほめ続けられるような、人間形成としては地獄の様な環境下にありながら、それただ楽しいと思い、思い込まされながら生活していたのだから。
…さても協会とはな。ずいぶんと穏やかではない話の入り口だぜ。まぁそれでなんとなく察しが付いた部分ではあるけれど、彼女の一家は、ほんの1年ちょっと前までは、エクゼナルの王都ヴェラムで暮らしていたということだ。父親はそもそもそこの協会支部職員で、かつ彼も魔導師との事だった-ちなみに協会には少なくない割合で非魔導師と言う意味での一般職員もいる-。また、母親はごくごく普通の貴族令嬢兼非魔導師で-貴族がそもそも普通なのかって話はおいておくけれど-、余談だけれど、この組み合わせは、つまり魔導師と一般人種との結婚はかなり稀と言わざるを得ない。理由はいくつもあるけれど、主には二つ。1つは俺たち魔導師の平均寿命が一般の人々のそれの約5倍はあること。つまり、共に人生を歩みづらい部分がかなりあるので、結果、互いに自然とそういう関係になるのを避ける傾向が強い。もちろんと言うか、一時の、うたかたの恋と言う様なことであれば大いに、それはそれは大いにある。俺もまぁ、その例に漏れない時期があったというか、その…あっただけで今は無いというか。無いですけどそれが何か?(強い心が欲しい)。理由二つ目行くぞオイ。それは、魔導師がこの様に長命であることの一種の反作用らしいのだけれど、ずばり俺たち魔導師は生殖能力が著しく低い。つまり配偶者が一般人種であろうが魔導師であろうが、子宝の恵まれづらさがハンパ無く高く、つまりかなり笑えない割合で生涯子宝に恵まれなかった率が、一般のそれと比べて極めて高い。対して一般人種同士のそれが、相対的に見てほとんど問題やら心配やらが無いことを、だから魔導師の中には羨む者も少なからずいる。故に。この2点が大体の要素を占め、魔導師と一般人種の婚姻はレア中のレアみたいな事になっている。話を戻そう。地方の一支部の職員であったネネの父親が、それではある意味栄転としての本部勤務となる必要が生じたから、ネネ一家総出で協会直轄領に移り住んだのか、と言えばそうではない。理由の100%はネネにあった。彼女はその転居する1年前まで、ルヴェランにある魔導師学院初等科の年齢層の学年、つまり初等科3年に在籍していた。ただこれはあくまで、あの莫大な魔力が無視され続けていた、と言う事ではなく-と言うことではないパターン3連発、もうやめるか予想-、あくまでも、その時点でごく普通にその科に、及びその年齢に
見合う段階であった為だ。魔導力が、魔導技術が、そもそもの魔導知識が、ごくごく平均的な9歳の子供のそれだったわけだ。そんな子の何をどういう風に特異と判断すべきだと言うのだろう。けれどある時、それは起こった。彼女の内に、その莫大にも莫大過ぎる魔導力が発現した。よってルヴェラン魔導学院としても余りにも余りに手に余る存在へと、突然ネネが化けたということになる。ただこれは俺たちの業界のある意味忌むべき習性なのだけれど、その変化は大変な凶兆と捉えられ、そしてどうやら協会本部へとその様に伝えられたらしい。
顛末はこうだ。その日、魔導師の歴史上空前絶後の魔導力、その計測値が叩き出された。言い換えれば、業界的にはどんな選択肢を取ろうが、「放っとく」の一択だけは無い計測値が叩き出された
。それは、いわゆる学校での定期的な魔導力測定で起こった。ネネの番になって、いざ測定が始まった途端、突然測定器の針が振り切れた。計測の担当者は初め、機器の故障の方を疑った。ネネにも何の事か分からなかったらしい-本人に分からない変化など通常あり得ない筈だけれど、その話は後述-。それですぐに、集団型の術式や大型魔導機クラスでも計測できる計測型結晶球が用意された。そしてそれも、2度目の計測開始直後にひび割れ、完全に壊れた。緊急的に計測は中止され、数日後、ネネは協会支部に呼ばれた。そこでは同支部最高水準の計測器が使用された。のだけれど、結果は同じだった。振り切れ、ひび割れ、完全に壊れた。そしてネネは本部へ、そして本部魔導学院高等科へと飛び級する流れにはなるのだけれど、内心俺は「?」とならざるを得なかった。支部レベルでも管理される大型計測にも、確かに限度はある。けれど、ある意味、極大自然エネルギーでさえ、つまりは火山噴火や地震、最大クラスの台風に匹敵する魔導力であっても、これら計測器類は十分に計測・数値判定が行え得る。もっと言ってしまおう。現在魔導師の中にたった二人だけ、『星主』と呼ばれる破格の魔導力及び魔導技能を持ち合わせる者がいる。彼らは文字通り天変地異乃至隕石召喚術式を実行可能な為、星の力を持つ者、あるいはそれをして星の主と言う意味合いで、そう呼ばれている。けれど、その二人でさえ、計測による魔導力の数値化は行える。そして行えればこそ、その驚異性が広く世界に知れ渡る結果へとつながっている。更に肝心なのは、俺がネネに対して行った計測において、彼女の魔導力は数値化できていて、かつ星主よりも、それは明確なまでに下位に属している。一応言うと俺よりも上、星主よりは下。技量-魔道技術・技能値-は現時点未知数だけれど、として、これは一体何を意味しているのか。そして更には、だ。星主に及ばないまでも、協会の元副首座の俺よりも魔導力・魔導容量が上回っている者を、何故協会は襲う必要があったのだろう? 発想としては通常なら逆の選択肢を取らないか? つまりそんな超ド級の逸材を、磨くに磨き抜いて、より教会の権威やそこから生ずる何やかやの権益拡大に利用する、って言う。その逆に潰しに行くメリットなんて何一つ無いんじゃないのか? それとも存在するが故に生ずる何らかのデメリットがあって、か? さっぱり分からない。だからお前はここにいるんだろって? ほっとけ。
しかして。それより遥かに、まったく比較にならない衝撃を受ける事実を俺達は告げられる。その襲撃の際、ネネの両親が共に命を落とした、との事だった。ネネはその部分について、心の底から湧いて来ているであろう震えを、幼いながらも必死に堪え、絞り出すようにして一言一言、俺達に伝えてくれた。もちろんこれは、俺達の誰も訊ねた事でもなければ、無理に何かを引き出そうとしたわけでもない。むしろ3人共止めようとした程だったけれど、彼女自身がそれを拒み、精一杯に伝えきってくれた。そして自分だけはどうにか脱出に成功し-そこの顛末は全くと言っていい程説明はされなかった-無我夢中で飛び続け、気が付いたら俺の家のソファに寝かされていた、と。両親が殺され、パニックの極みに達した先、まったく見ず知らずの他人しかいない場所に、か。そんなシチュエーションすら-だから今の今だ-実際恐怖の対象にしかならないんじゃないのか? どんな理由があるにせよ、協会、許されないぞ、何もかもが、何一つとしてだ。いったいどこへ向かおうとしてるんだ? だいたい、そもそも協会の存在意義って何なんだ? 思考迷路の思考迷子に陥ってしまう。そこの責任者だった者として。そこの責任者だったのに。何てことだ。本当に。
なんてすぐに結論の出ない課題はちょっと保留にしよう。ネネをとにかくちゃんとケアせねば。ただそれに取り掛かる前に、と言うか取り掛かるに当たって、浮かんだ彼女にまつわる謎の主要部分は3つ。1つは魔導力・魔導容量の発現理由・原因、1つはそれを制御可能足らしめている根拠。そしてもう一つは協会が彼女を襲った理由。このいずれもが、今日の話の中ではほとんど解明されなかった。仮に今後、彼女と師弟関係を結ぶなら、いずれ、それもできるだけ早い内に明らかにしておきたい。ただそれは今日の今日、今の今しなければならない事とは違うだろう。その点は3人の中で、ほとんどアイコンタクトに近い形で-ホズとは念和も含め-確認し合った。ところで、
「ところでネネ」
俺は第3の核心部分について尋ねることにした。
「ネネはこれからどうしたい?」
どうこのシンプルな質問。漠然とし過ぎているにも程がある? ホズから事前に、あそこ迄丁寧に伝えられていながら、ほとんど無視している? まぁ待ってくれよ。繰り返しになるけれど、ネネにはそもそもここで暮らすかどうかの選択権があるわけだし、俺にだってこのことから逃れたい最強の言い訳を見つけるくらいの権利はある。…筈だ。何だってこんな色々てんこ盛り過ぎる女の子を、普通の女の子とだってこれっぽっちも共同生活を送る自信が無い俺が、いやさ子育て経験がゼロ過ぎるほどゼロな俺が、いったいどうやって扱えばいいという話だ。こんな状況で師弟関係を結ぶなんて話の方が、頓珍漢であべこべで支離滅裂なんじゃないだろうか。けれど、ネネのシンプルな回答が、全てを一瞬で決定付けた。
彼女は俺に対し、俺の目をまっすぐ見つめて、
「あなたの家に私を置いてください、ディド。本当に心からのお願い」
そして深くお辞儀し、その姿勢をすぐに解こうとはしなかった。見ればホズとサーシャもこちらをまっすぐ見ている。そして二人共に微笑んでいる。…どゆこと? 「ほら、あとはあなたが回答するだけです。定められた運命へと至る回答を」的な目線&微笑だ。なんでだよ。そこ詳しく知りたいのに-受け入れる事についてのイエス・ノーの判断基準を明確に知りたいのに-、何故全面信頼or委託系のニコニコ顔だよ。いや。今回のネネに対する質問こそ、そのタイミングについて二人に何の確認もせずに-俺がある意味独断で-したことだ。自己責任度合いが天井知らずで俺にのしかかってくる。苦しい。
「君さえよければ」
つい言ってしまった。ま、言ってしまったというのは穏当な表現ではないだろうけれど、本音であることも確かだ。何も思い描けない。この子との未来が。濃い霧、乃至闇夜のど真ん中にいる気分だ。なのに「&U?」「YES!(サムズアップ!)」並に即答してしまった。どう言う事だ俺。何がお前に起こったんだ俺。…ただ。全く見当がつかないわけじゃない。そもそも俺のことを一番よく知っているのは俺の筈、だ。と言うかそうであってほしい。…どうだろう? 怪しいな。まぁでも無思考・無批判にその前提に立とうじゃないか。見当は付く。それはやはり、俺はこの子の可能性と言う奴に惹かれている。もっと言えば、魔導師同士として、とてつもなく魅力的な逸材であるこの子と、それに合わせ対する俺自身が、どの地平まで、その可能性の範囲を広げていくことができるのかと言う事について、底知れぬ、計り知れぬ魅力を感じている。元来、結局のところ、俺は研究者なのだな、と思う。もちろん実践ありきではあるけれど、だとして、であるから、やはりこの子の魅力には到底抗い切れないものがあるということだ。しかし翻って、ともすれば堂々巡りになるけれど、日常生活はどないしたらええんやろ? 振り返ってみて、いや振り返らずとも分かってはいるけれど、俺は『誰かと共同生活をする』と言う経験を、これまでの人生でほぼ経験しないできている。記録に依れば-記憶が無いため記録に依るしかない-、生後から3歳まで、俺は生まれた地域の支部にその面倒をみられていた。両親はと言えば、俺が生まれたすぐ後に、共に不慮の事故で亡くなってしまっている。と言うか「不慮の事故に依り」と、本当にそのまんまの記述でしか記録がされていないので、詳しいことはまるで分っていない。だし、俺もそれを、今の今まで追求しようという発想は持たないできた。そして、それは今もだ。「赤ちゃんの頃、あなた隣にいた赤ちゃんと楽しそうにしてたことがあったのよ。その子、今どうしているかしらね?」と言われて、この世に生まれて最初期にできたその友人の行方を頑張って探そう、と言う人がいるだろうか? それを行うには、この世には他にやるべき事、やりたい事がたくさんありすぎる。俺にとってはそれくらいの感覚でしかない。一般論で言えば、そして本来は、自己についての親の存在と言うのは、当然その生命に欠かさざるを得ない者であるだけでなく、ある意味ではその存在の根本的な立脚部分であるが故に、自己意識の前提乃至核に近い存在として、まぁ平たく言えば何にせよ意識からも記憶からも切っても切り離せない存在なんだと言う事になる。けれど、だとして、俺にはその前提が無い。ほぼ無い、と言うか。生後間もなく、天涯孤独にそう言った意味でなったのだから、両親に育てられたという期間が実際にほぼゼロなのだから、『両親』というワードに対して特別強い関心を持てないのは、個人的には致し方が無いのでは、との思いもある。これには、さらにその後の生い立ちも影響しているだろう。と言うのは、3歳までスロウベルと言う名の地にある魔導師協会支部で過ごし、その後は本部でこの人生を歩んできたわけだけれど、その間、俺には「親代わり」と呼べる、呼べそうな人は一人もいなかった。常に大勢の大人に-子供にも-囲まれて育ってきはしたけれど、大人であれば初めの内は師範的な存在、長じては同僚・部下、子供であればやはり学習・研究仲間、長じては同僚・部下となる。なってきた。その間。友人と錯覚した相手はいこそすれ、親代わりは一人もいなかった。衣食住は全て協会職員のサポートを受けたわけだけれど、あくまで業務の範囲を超えるものは存在しなかったし、従って、俺には家族と呼べる存在すら一度もいた例が無い。故に両親など。発想の範囲外だ。いや、俺は断じて不幸な生い立ちを自慢したくて、滔々とここまで述べてきたのではない-不幸と言うなら協会を追放されたあの一瞬くらいだと思っている-。ではなく、両親・肉親・家族と言ったものと全く縁の無い俺が、男の子としての人生経験しかない俺が、少女と共に生活を送るなどと言う事に、良くも悪くも未知数を抱え過ぎている事に、唖然・茫然に近い感慨を持っているこの俺に、いったい具体的に何を想像しろと言うのだろう。
「ひとまず家に戻って、二人で話してみれば良いさね」
ホズが一言そう言って、さらにこう続けた。
「ここであれこれ考えても、はたまた俺たち夫婦が一緒になって初めから口出すことでもねえと思うしさ」
確かに、と言う気はしてくる。
「ホズの言う通り、ネネ、私はいつでも話を聞くよ。ただ、今は一緒に帰って、ディドとちゃんと話してみるのがまず最初の事だと思うけど、どうかな?」
サシャがそう口添えする。もうさ、ホントこの連係プレイが羨ましい。いいな、夫婦って。無い筈の結婚願望が、急に真夏の積乱雲の様に湧いてくる。まぁだから、一雨降ったら終わりなのだけれど、ともかく。
「じゃあともかく、一度家に戻ろうか、ネネ」
俺は彼女に呼び掛けた。生まれて初めて、誰かと共に我が家に帰る。随分と不思議な気もするし、全くルーツが無い筈なのに、どこか懐かしい気もした。これこそは、根源存在、あるいはイデアとしての父母の影響が為せる業なのか。はてさて。
家に戻ってからはひとまず、夕飯の相談から始まった。俺の頭の中では、一旦メリサさんの所へ行こうという思いがあり、ホズの家を出たところで早速ネネに打診してみたのだけれど、「今日はゆっくり過ごしたい」的な回答がされた。まぁそうだろう。そうだよな。昨日の今日で、つまり最激動で衝撃的な時間と、更にはどこの誰とも厳密には分からない大人たちに向かって、精神振り絞った身の上話と言う名の説明をした後で、なのにまた更に新たな人と会って食事を共にするというのは、子供と言えども、その精神負担は相当に過重とならざるを得ないだろう。いや、子供だからこそ、か。…うん、こう言う所やぞ自分、だな。こう言う所で、家族・家庭人としての経験の無さに、と言うか、それにかまけての無自覚な俺が露呈する。俺と同じような出自-魔導師としての何やかやを取り除いたごく一般的な意味合いの部分で-を持つ人たちは、絶対数として確実に存在するわけで、その人達が皆、そのある種の欠損を理由に、俺の様な無自覚的行動をとっているかと言えば、決してそんなことは無いだろう。もっと言えば、ほとんど全ての人が、意識的か無意識的かを問わず、しっかりと人として獲得するべきを獲得し、その人生を全うしているはずだ。決して楽ではなく、どころか確実な痛みや辛さを乗り越えて、その獲得するべきを獲得しているはずだ。翻って俺は、魔導師的な何やかやもあって、その痛みと、その辛さと、まともに対峙することもなく、そんな機会、あるいはその存在すら気付かず、意識せず、ここまで来てしまったわけだ。とは言え、急にそんな人格的なものや心がけ的なことが完璧になることは、残念ながら無いだろう-実際本当に残念だ-。として、少しずつでも、可能な範囲で修正していきたいものだ。否、そうしなければ、か。
「いい?」
と不安げに問うネネに、
「もちろんだよ、っていうか悪かった。一度君も俺も落ち着きたいし、落ち着かなきゃ、だよね。そういう意味でも、家でご飯を食べることこそが最適解になるはずだ」
そう返した。ネネは少しほっとしたような表情を見せる。ただし、だよ。ただしまぁ、この年齢の子が親元から離れ、昨日今日初めて会った人間と、と言うのであれば、それは俺も一緒になるわけで、果たしてそこの所はどうなのだろう? と言う思いが過っちゃうのはしょうがなくない? つまり言ってしまえば俺の事だって-お互い様だけれど-『よくは知らない大人』であるわけで。それが、サーシャの様な同性、且つ良き相談相手としては俺より遥かに高スペックな方を選択しなかった点からして、「何故俺なんだろう」とはなる。彼女からすれば、そして俺からしても、全ては行きがかり上だ。ホズからすれば予言的中と言った所だろうけれど、それにしたって「ある人突然」感がぬぐい切れるものではない。ただしその回答の一端は、我が家でのそれはそれは落ち着いた雰囲気の夕食の席で、明かされることになる。
夕食は、鶏肉と野菜がふんだんに入ったクリームシチュー風リゾットと、それとは別にサラダボウル-但しネネ限定-、そして果物を少々。それに加えてネネはホットミルク-帰り道に牛乳買いました-、そして俺は〆として蒸留酒をシングル一杯だけ楽しんだ。なんだか朝のあのフルコースと比べてだいぶ対照的に穏やかな、そういう意味では朝食と夕食の役割がだいぶ逆転しているかのような印象もあるけれど、まぁ一日のトータルバランスで見れば、それ自体は悪くないのかもしれない。けれど、バランスと言うなら、絶対的な量の多さがまたしても半端ではない。大人4~5人分はあるんじゃないか、と言う量だ。夕食にしてまたかよ、だ。正直驚く。この子の食欲、消化量、消化スピード。一体どうなってるんだろう? 二人で夕食の献立-と言うほどの内容ではないけれど-を決め、材料とその分量をネネに任せ、いざ取り掛かろうとしたその端から、まず野菜の圧倒的なボリュームに目を奪われた。で、野菜に関して言えば、俺自身は正直言って得意な方ではなく、だのに近所の、と言うか地域中から事あるごとにおすそ分けを頂けている関係で、買わずとも野菜は常に大充実しているのだけれど-そしてそれは食用以外にだいたいは供されていることはすっごい内緒案件であるのだけれど-。それが。ここでこんなに本来の能力を生かされる形で大活躍する日が来ようとは。良かったなベジタブルズ-ちょっと何言ってるのかわからない-。そんな俺が稀に食用としてそれらに相対する時には、基本的に術式経由で吸収するのだけれど-咀嚼とか一々しないで済むんですよ-、今回は相当久しぶりに包丁をふるうことになった。肉や魚を捌くことは稀にあったけれど、そもそもはほぼ外食依存派で、家では酒呑みついでのつまみくらいしか作らない派だし。な俺が、これだけの野菜を調理してかかるなんて生涯初ですよ、まず間違いなく。ネネの指示に従って次から次へと切り進めながら、ふとそんなことをつらつらと思っていた。そして他の誰かと一緒に調理をする、と言う事も、ほとんど無かった様に思う。今まで、そういう意味で付き合ってきた人と、いちゃつく前提で、それ目的にキッチンに立つことはあったけれど-良くも悪くも片手で数えられる程度だ-、本格的な、と言うか本式の共同作業としての調理は、これが初めてだろう。それと、一緒に作業してみて分かった事だけれど、ネネは調理の組み立てや、そもそもの素材に対する知識・見識、そして何より技術のノウハウが相当に高い。俺の知る限りの料理人たちと同水準と言わざるを得ない。いやさ、この年齢の子たちが皆こうではさすがにあるまい。両親どちらか、あるいは双方共に料理好きだってパターンなのかもしれないけれど、だとしてよくまぁこのハイクオリティに、この年齢で達したものだ。そういうわけで、この日の夕食は、どんなに低く見積もっても、今までの人生の中で第一位をぶっちぎりで獲得するクリームシチュー風リゾットが出来上がった。一口食べた瞬間、その想像以上の旨さに、軽く上半身がのけぞり、十数秒絶句する程だった、と言えばお分かり頂けるだろうか。てな事からネネに素直に感想を伝えると、
「良かった!…です」
そう言って、少しはにかんだ様だった。んまぁ、ぎこちない感じだ。だし、その気持ちは何となく分かる気がする。見知らぬ異性の大人と二人きりで食事をし、且つ会話を交わす。しかもその前には、親と決定的に致命的な別離があった-起こってしまった-。そしてそれを一度、決して振り返ることが容易ではないその事実を、自らの口を通して話し切って、からの、だ。今ここで改めて、よもやその話を、そして別の話であっても、強いてする必要性・理由なんてものは一つも無い様な気がする。ふと、そう言えばネネはホズの家からの帰り際、寝間着その他諸々を借りていたのだっけ、と思い出す。食事も一段落したところだ。ので
「ネネ、そろそろお風呂にでも入ってくるかい? すぐに寝たい、とかだったらもちろんそれでも構わないけれど。ちなみにタオルや石鹼なんかは、誰が来ても使ってもらえるように何セットもあるし-自動洗浄術式で、どれもが常に清潔だ-。それと実はここ、温泉引いてるんだ」
そう。実は我が家の地下には温泉が引かれておるんですよこれが。およそ5000m地下から術式により汲み上げている、文句なしのかけ流しだ。しかも湯温は41度。個人的に最適温と感じる温度に調節している。…この子には大丈夫だろうか? 近所の子供たちは平気で入っているから、おそらく大丈夫だとは思うけれど…ぬるま湯派だったらごめんよだ。そう時たま子供たち含め、ご近所さん達がもらい湯に来る-もちろんお代は頂かない。おすそ分けだもの-。加えて、、そんなご近所事情に合わせ、男湯と女湯、更に家族風呂スペースまで作った。と、地下にある分、外の景色は臨めないかと言えばどっこい、湖の畔に映像転位用の術式装置を設置し、24時間大展望使用で楽しめるようしてある。ちなみに不可逆性なので、覗きの心配もない-まぁ一応ね、俺もまだ年頃な気がするし-。この景色&温泉のハイクオリティセットは、どんな術式よりも、心も体も癒してくれる。
なんてことをネネに話すと、彼女は何度も何度も小さく頷き、
「じゃあ食器の片付けが済んだらすぐに入りたい」
そう言って立ち上がった。
「片づけは俺がしておく。ゆっくりお風呂に行っておいで」
俺は彼女の動きを一旦制止し、そう伝えた。
「でも…」
と返すネネに
「食器洗いって俺の好きなことの一つだから」
そう言うと、今度こそ彼女はサーシャセットを抱えて立ち上がり、地下風呂こと天然かけ流し温泉へと、小走りで向かっていった。別に気の利いた嘘を付いたというワケではない。食器洗いに限らず、何事やら何物やらを整理整頓するのは、実際のところかなり性分に合っている。古代術式の体系や実用・実践的なジャンル分けも、地域の産業や生活インフラの効率的なスタイルの確立・運営法の管理等も、この整理整頓好きの一環と言う認識だったりする。どれも好きで、そして得意であるという自負すらある。また、それより何より、満面の笑みというわけではなかったけれど、心から欲しているものが得られたという表情を間違いなく見せたネネの姿が確認できただけ、こちらとしても収穫有りと言えるだろう。良かった。初めて彼女の役に、俺は立てた気さえしている。確かに当たり前と言えば当たり前だ。心身諸共、忙殺にも忙殺の時を経て、尚、入浴の機会が一度も無かったであろう彼女にとって-いや、全ての子供たちにとって-、一日の終わりのその機会が得られるべきは、通常の生活のマスト中のマストプログラムではあろうから。尚言えば、嬉しい嬉しくない以前の問題ですらあるだろう。故に。だからこそ。それがほんの一日二日程とは言え、結果としてこれまで奪われ、今また手にできたという実感が彼女に何がしかの安寧をもたらしているのなら、不意とは言え、彼女に出くわし、その生活の一端を担うことになった一大人としては、ひとまずこちらとしてもこちらなりの安寧を得られた実感がある。うん、ひしひしと胸底にまで感じられるよ、これは。
もちろん、彼女が奪われたものはこんなバスタイムなんてものじゃない。両親が奪われた。絶対的に安心・安全な環境が根こそぎ奪われた。だから今ここで彼女が取り戻した安寧は、ほとんど最低限レベルのものかも知れないし、それも「そうあってほしい」と言う俺フィルターからの光景でしかないのかも知れない。それでも、今できることは一歩ずつ前へと、進める一歩ずつを一歩ずつ、進めていくしかないのだろう。協会本当マジでどうしてくれよう、とか、彼女が自分を本当の意味で取り戻し、確立していくためには何ができるんだろうとかは、きっとその先で、逃げずに待っている事だろう。だから今。一歩ずつ進めていくんだ。彼女と共に俺も、だ。
俺は手早く食事の後片づけを終え-相変わらず普通に楽しめたぜ-、テーブルには新たに酒とつまみをセットし、やおら古代術式の研究書の内から一冊を手に取りページをめくる。うむ。これぞ至福。酒の種類としてはウィスキー。スモーキーでありながら深い甘さを湛えているそれにそして合わせ、、つまみはアンチョビへレモンを絞ってから胡椒を少しばかり振りかける。更にはブルーチーズも添えて、時々口の中でその共演を楽しむ。どれかでも苦手なり嫌いな人がいたらごめんなさい。とにかく俺は大好きなんで。いやさ。悠久の過去において、ダイナミックそのものの自然へ恐れ知らずでは無いかと思えるほどにダイレクトなアクセスをし続けたそれらの術式を眺める時。使用者の健康、引いてはその生命、及び術式実行時の周辺環境を守ることが一顧だにされていない、それら術式を眺める時。俺は現代術式にはまず感じられ無いカタルシスを抱くことを、とてもではないが禁じ得ない。それを、蒸留酒が我が喉を熱く伝いながら胃袋へと下っていく身体的感覚と同調させながら、思考間感覚として、いや、至高感覚として味わう。やはり至福と言わざるを得ないだろう。もちろん、いわゆる安全装置的プログラムがほぼ全てに機能している現代術式の存在を否定するものでも、ましてそうしたいわけでもない。そもそもこの地域の魔導インフラのほとんどは現代のそれがほとんどであるし、それはやはり魔導師ではない一般の人でも、まず問題なく扱えることが最低条件となってくるから、と言うのが主な理由だ。対して古代術式には、その点やはり危うさが、リスクの存在が-比較してしまえばと言う事だけれど-まず否めない。それは引いては現在の社会全体にも言えることで。つまり魔導技術と言う一点だけ捉えて眺めれば、現代術式がほぼ絶対的に安全性と安定性を確保しつつ運用できる・されている現状が、その安全と言う名の意義、あるいはニーズに対する社会全体の圧倒的なまでの認識を雄弁に語っているとも言える。これを何であれ、否定してかかるべき理由は一つも無い。そうではなく-現代と古代の比較からどちらかの優劣を並べ立てたいのではなく-、ただただ単純に、俺にとっては古代術式と思考・想像上で触れ合い戯れることに、何がしかの根源的喜びにも似た震えとも取れる程の快楽を得られていることは間違いない。
ところで。なにゆえ。当時暮らしていた協会本部から着の身着のまま飛び出してきた事ではネネと同じ立場であるはずのこの俺が、古代術式の研究本など持っているのかと言う話になるのだけれど-でしょ?-。結論から言えば、協会へ一旦戻り、取ってきた。と言うか盗ってきた。「一旦戻り」などと言えば穏当な雰囲気さえ感じてもらえそうだけれど、ぶっちゃけ不穏当だった。何もかも。最初から終わりまで。まず「戻る」事が穏やかさを許さない。協会本部領内には、可視化が困難な障壁術式装置が全土に亘って-全国境の地表から本部中枢上空数百メートルに至るまで-展開し、かつ24時間稼働を半永続的に続けている。なお、障壁装置は大きく分けて3層構造になっている。つまり協会本部の建物および敷地を覆うものを第1層とし、その周辺のいわゆる総本部関連施設までを覆うものが第2層、そして協会全土を覆うものとして第3層が展開されている、と言う具合だ。細かい事を言えば、俺の研究室にも同様の障壁が設置・展開されていたけれど、と言うようなパターンの物が少なくなく-めっちゃたくさん-あるけれど、話がややこしくなるので省かせてもらいます。ごめんね。
でだ。ここには常時特定の人物・その他生物/器物等につき、通行不許可判断・決定されたものが通行不能となるよう機能している。また反対に、協会より外へと移動することが禁じられたものも同様だ。言ってしまえば今回、俺は入ってはダメな奴に設定されていて、古代術式を初めとする協会所有の書籍・書類は持ち出し禁止と設定されていたわけだ。展開されている障壁は、いずれの箇所においても仮に突破された場合、瞬時に協会本部内の中央監視センターにて感知され、即時当該箇所担当の守衛隊へ対処命令が発令される。そしてどんなに時間がかかったとしても数十秒以内には、同守衛隊が当該現場へ駆けつける仕組みになっている。また、当然と言えば当然だけれど、中枢に向かっていけばいくほど-第3層から第2層、第2層から第1層へ向かっていくほど-この守衛隊の対処能力も段違いに上がっていく。つまり障壁を1層ずつきれいにクリアしていこうとしたところで、一々この守衛隊との衝突は避けられないものになる。まして1個の守衛隊と戦闘を開始してしまえば、それへの対応に多少の時間がかかることは必至で、そうなれば他地域の、あるいは本部詰めの守衛隊がやはり駆けつけることになるだろう。てか文字通り飛んでくるわけだ。それに、そもそもこの障壁術式自体が解除困難、と言う課題がある。こういったものへの一般的対処方法として考えられる、いわゆる『反魔導技術型術式』-『反術術』とも言われる-でも、あるいは物理系術式でも、更には自然系-火・風・水・太陽・大地・電撃・腐食・闇・召喚…まぁとにかくなんでもだ-術式でも、容易に突破することはできない。これまた当然ではあるけれど、何しろここは魔導技術において全世界の頂点に君臨しちゃっているわけで、故に、世界最高水準の魔導装置に、同水準の魔導エネルギー、同じく同水準の術式がしっかりと一体化されて展開されている。世界最高度にして最硬度の魔導障壁、そしてオプションとして協会本部直属の守衛隊。ちなみにこの守衛隊、一方面部隊だけでも数千名は下らない。つまり1ヶ所で手間取れば、最大で1vs数千でバトらなければならないわけだ。楽しすぎるだろ。けっこう簡単に死ねちゃうよね。
では。俺の様なものにとって、そこは開かずの扉でしかないのか、と言えばそうではない。どうやったか。厳密に言えば、俺だけは突破できる。結果から先に伝えているのだから「そうだろう」となるでしょうけれども、一応種明かし、と言うか顛末と言うのをお伝えするならば、ポイントとして4点が挙げられる。この障壁は全てドーム型で展開されており、それぞれの頂点は地表と比較して重なり合い的な意味合いで距離間隔が近い。まずそれが1点。そして肝心の古代術式研究書が置かれている場所-あぁ、俺がかつて最も愛した場所だ-は協会中枢に程近い為、この頂点部分に近い。つまり重なり合いの感覚が最も狭い位置のほぼ真下ということになる。これが2点目。更に、この障壁術式に限らずほとんどの術式に当てはまることだけれど、術式同士が接触・衝突した際、片方がもう一方を一定程度以上その一般的ないし性質的強度で優位となった場合、いずれかの形において消滅するするという法則がある。単純な自然系でも、呪いとも言われる術式でも、そして障壁術式でも。「さっきあなたどんな術式でも突破は容易じゃないって言ったじゃない」なご意見あろうかと思う。そう、だから問題は、この障壁術式の総強度がどれくらいで、その強度に対して何らかの優位性ある対抗手段が用立てられるのか、ということになるのだけれど。けれどここで一つ。内部事情に詳しい人間がいたとしたら、全く無策で挑まなければならないなんてことにはならないんじゃないか。そしてその内部情報に詳しい人物と言えば、うん、他でもない俺自身だ。と言うか協会脱出直前まで、設計及び管理責任者の一人として関わってすらいたから、この術式の性質を詳細な点まで把握している。離れたこの数年の間に何らかの変更・強化はされている可能性が大にも大だけれど、そのおよその上限値は容易に想定できる。なぜならそれは、ある意味では誰でもが扱える現代術式のそれであるし、故に事故リスクを低減させる等の観点からいたずらに、あるいは無尽蔵にその強度を高めることはしないし、できないからだ。さて、そんなある種のブレーキ機能がついている現代術式に対し、ノーブレーキ且つ術者の心身等諸々考慮されているとはとてもじゃないけれど言い難い術式がある。言わずもがな、古代術式だ。ここにも俺はロマンやらカタルシスを感じてしまう。何たる危険思想。そりゃ秘匿もされるわ。さておき、つまり俺には協会の障壁に対して優位性ある古代術式が発動可能なんでありんす。この体がどうなるかって事さえ気にしなければね。これが3点目。残る4点目は守衛隊となるけれど、これは当日の模様をお伝えすることによってその回答といたしましょう。
決行当日の日中、真昼間。俺は協会本部直上の上空にいた。上空と言っても、5~6万mの超高々度の為、圧倒的な氷温強風がばんばん浴びせられ、しかも空気濃度が極めて低い。生身で来ていれば瞬時に死ねるだろう。もちろん防護術式は必須だ。とは言えやはり相手は自然だ。リスクヘッジを切らすわけにはいかないし、緊張状態はまずこのスタート地点からビンビンに張っている。で、この超高々度を選択した理由は3つある。1つは先述の通り、当該研究室のほぼ直上であること。2つ、この高さなので、さすがの守衛隊の巡回コースと感知・検知範囲から確実に外れ、あるいは離れていること。3つ、障壁全体を視認の点でほぼ把握できること。この3つ目が特に重要だ。と言うのも、もし仮に一点突破スタイルで突っ込んだなら、いわば関係する全守衛隊の検知・感知が集中することを、わざわざこちらから容易にしてしまうことになる。けれどその逆なら。障壁全体に同時多発的全面攻撃を仕掛けたなら。それへの対処法として選択されるのは、全守衛隊が分散しての各個対応が初動となることは間違いないだろう。それに、同守衛隊はその創立以来、そして協会の歴史上、その様な一斉攻撃の経験は無い。ここに、想定はしていても実際に対応したことが無いという事態が生まれ、その指揮系統が正常に働かないことが少なからず予測できる-期待値も含まれるとしてゼロではないはずだ-。更にはコンマ0何秒という微妙な差をつけて、ワンテンポずつずらしていく。攻撃地点それぞれへの順番は当然ランダムに、となる。実行者が単独犯でないと錯覚させる為、一応念には念を、と言う感じだ。全ての地点へ、先述の一点突破型攻撃術式を当てていく。当て続けていく、目標が完遂されたと確定するその時まで。ただ一箇所、当該研究室、当該書庫を除いて。そして奪う。可能な限り。現在協会が保有するありとあらゆる古代の知識が詰まった書庫ごと、完全に奪取する。ただ、これは決して言い訳ではなく言うのだけれど、何も俺自身がその知識を全て独占しようとしているわけじゃない。転写術式によって、その情報の全てを収得した後には、ちゃんと返そうと思ってるくらいだし。
とまぁ、つらつら書き連ねてきたけれど、これだけの攻撃術式-いくらアンリミテッド&ノーブレーキ古代術式だから可能なんだと言っても-、俺単独で実行するなんてのはハッキリ言って大博打も大博打だ。下手すりゃ守衛隊に捕まるなりして殺されるより先に、術式の反動反応によってこの体が消滅させられる可能性がある。でも、だとして、古代術式は今や俺の、唯一の生きがいだった。命そのものだった。それが奪われたのでは-逃亡せざるを得ない状況となって、結果的に研究機会を失ったということで言えば-いくらこの先1分1秒と呼吸を続けていったところで、特に意味は無いのだ。故に。命を懸け、俺はコピーを取った。魔導師協会本部史上最大の大事件の一つに間違いなく入るであろう、コピー作業だった。
さて、ここからはさっさと結末に触れていっちゃうのだけれど、攻撃術式による陽動&急襲作戦は大成功。俺の体も全然オッケーラッキーラッキーだった。何でって言われても結果そうだったから、としか言いようがない。もしくは誰かさんたちがちゃんと解説してくれるかもしれないけれど(チラッ)、興味がある方々はどうぞそちらをご覧ください。で、原本はほぼ全て返却した。書庫ごと-コピーもばっちり全部できちゃったしね☆-。奪取の時とは違って、当該ポイントへ当該物を防護術式によって投下するだけの為、相当簡易な作業になった。そりゃ研究室周りはけっこう痛々しい事になったけれど、誰一人ケガは負ってないし、修繕なんて現代術式でも容易にできるし。ともかく少なくとも今回は命を懸けなかった。必死では逃げたけど。超必死では逃げまくったけれど。守衛隊の全速力が現代術式によるものでなければ-俺の使用した古代術式であったとしたなら-、こんなのんきな思い出話なんてできなかっただろう。てか話をする俺すらいないだろう。果たして後年、俺は大犯罪者に、世紀の大犯罪者とやらに名を連ねることに…なるのだろうか。ま、それはまた別の機会があれば話すこととして、時を今に戻そう-決まった-。
そんなこんなで-ネネがひとっ風呂浴びに行ったその間-1時間ほど、俺は古代の先達の授業を受けていた。まぁ酒を飲みながら受講する者を生徒と呼んでもいいのなら、とはなるけれど。ふと気が付くと、ホカホカに仕上がったネネが目の前に立っていた。風呂から上がりたてで来たらしい。
「すごいお風呂だった…!」
興奮が軽く漏れる程度のため息をつきながら、彼女はまずその一言目に、そう呟いた。相変わらず表情の変化が富んでいるとは言い難い。けれど実際のところ、あぁやはり11歳の子供なんだなと、しみじみ思う。思ったことを素直に口にする。口にできる。口にせざるをえない。そしてまっすぐこちらを見てくる。その瞳には一点の曇りも見受けられない。感情と表情が一致しないのも当然と言えば当然で、ただ、そこは時が解決の手助けをしてくれることを期待しよう。そしてパジャマ姿が可愛い。サーシャ、グッドセンス&グッドチョイス。白の半袖ワンピースで袖口と首回り、それにスカートの裾に花模様の刺繡と若干のフリルがあしらわられている。俺の眠る父性本能に今、何者かが力強くスイッチを入れた。そしてその何者かとはきっと俺の事だろう-知ってた-。
「パジャマ丁度よかったみたいだね。似合ってるよ」
俺は素直に感想を言った。するとネネは
「フフッ」
と笑顔を見せた。何と皆さん、笑顔を見せていただきました。少し身をよじるようにして。右手はお腹を抱えるようにして。笑った。天使か-月並みな表現とか知らない-。
「えー? なんか変なの」
相変わらず声は細いものの、笑ったまま、そしてネネはそう言った。俺はと言えば、何か場違いなことを言ったような気がして、ドギマギしてしまい、
「え? アレ? なんか変?」
なんて、それこそどもるように返してしまっていたりするんだけれど。ので、
「それで」
と気を取り直して俺は言う。
「君の部屋は3階にある。3階にはその部屋しかないから迷わないはずだ」
ネネはこくこくと頷きながら聞いている。
「明日はサーシャが9時に迎えに来るから、7時くらいには起きてもらえるかな?」
「大丈夫」
ネネは答える。まぁこれはホズの家で一旦確認している事だ。二人で街へ、服など日用品を買いに行く予定だ。細かい事だけれど大事な事だと思うのであえて断っておくけれど、お金だけはちゃんと俺からサーシャに手渡し済みだ。俺にはとてもじゃないけれど女の子の服を選ぶセンスは-相談相手なってあげられるセンスも-無いから、これは極めて妥当な選択であると信じる。信じる以前の問題だけれど-これも知ってた-。それに明日は、俺がホズの二人の娘を、その父親たる予言者と一緒になって面倒をみる事になっている。いわば明日の我が最重要任務でありんす。ともあれ、時刻は21時を指していた。
「それじゃあゆっくり寝て。明日が良い一日になるように」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
ネネが階上へ去った後、俺は知らず知らず深いため息をついていた。何らかの疲れから出たものだろうか。答えはYesとも取れるけれど、どちらかと言えばNoになるだろう。それは主たるものではないし-メインの要素ではないし-、仮にそうであったとしても、決して後ろ向きのものではないからだ。そうではなく、では何か。きっとこれは、俺自身が安心したからだろう。「どうやらこの先、あの子と暮らしていくことができそうだ」そんな確かな感触が得られたことへの安心。つまり確信に近いそれの最大の根拠は、今さっきネネが見せた、あの屈託の無い笑顔だった。もちろん、まだ先のことは分からない。けれど、共に生活をしていく選択をネネの方でもしたなら、きっとそれは、少なくとも俺にとっては「一寸先は闇」と言うものとは全く別のものへと変わったと、確信している。そういう意味ではそれが、その確信がようやく得られたとも言える。
:ネネの部屋
「やっと落ち着けた」
「ここまでは計画通りだね」
「そんなヨユーな感じ無いし」
「ネネはすごい、よくやってるって」
「リリスのサポートがすごいんだよ」
「ま、それはあるかな」
「何それ」
「あ、笑った」
「え?」
「あのディドって人の前で笑った時もびっくりしたけど」
「フツーのことじゃない?」
「…うん、まあね。あ、良い人っぽいね、あの人」
「まだ分かんない…。でも、そうだと良いなって思う」
「だいじょうぶ、あたしが付いているし」
「うん」
「早く力を身に付けよう。あたしたちのやりたい事、それぞれ二人とも成功させるためにね」
「分かってる」
「明日は、あのサーシャって女の人が買い物に一緒に行ってくれるって」
「うん」
「嬉しい?」
「分かんない。…お母さんの事…やっぱりあるし…」
「…うん」
「…でも、それはリリスも同じだもんね。大丈夫。明日からもがんばるよ」
「うん、応援する、ってかしてる!」
「うん、わかってる。ありがとリリス」
「こちらこそ、ネネ」
「おやすみ」
「おやすみ」
夜は更けていく。:
/全ては暗闇に閉ざされているわけではないが、星の瞬きはいかにも心許ない。だが、故にこそ、星は存在している。そのしじまに、今宵と言う名の時はただ溶けていく。/
ということで、少し(?)長めの登場シーンとなりました。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。続きもよろしければ、ぜひお付き合いください。




