関係性
どうしようもなく、不安になる夜がある。
きっかけなんて些細で、ふとした瞬間に涙が溢れる。
「溜め込まないで、吐き出せばいいのに」
そう言ってくれる人もいるけれど、
私は誰かに甘える勇気なんて持ち合わせていない。
特に、生理前なんて最悪だ。
情緒がぐちゃぐちゃで、何もかもが上手くいかなく思えて、
ひとりきりの部屋の暗闇で、こっそり泣く夜。
「彼氏でもいたらな」
そんなことを考えては、苦笑いして枕に顔をうずめる。
友達にだって頼れない。みんな忙しいし、
こんな自分を見せるのは、ただただ申し訳なくて。
考えれば考えるほど、心が沈んでいく。
早く、この感情の波から抜け出したいのに。
そんな夜が数日続いたある夜。
しくしくと泣いていた私の枕元で、携帯が震えた。
──「一色」
画面に表示された名前に、ため息が漏れる。
出たくない。でも、仕事かもしれない。
そう思って通話ボタンを押した。
「……はい」
「望月?」
努めて明るく返事をする。
泣いていたことなんて、気づかれないように。
“明るい子”っていうイメージが、時に私を苦しめる。
「どした? 私また何かやらかしちゃった?」
「……」
「一色?」
正直、今この瞬間にだけは、
一番電話をしてきてほしくなかった相手。
「先輩から資料預かってて。急ぎらしい」
「明日、会社で受け取るよ」
「いや、急ぎ」
「え……」
「今、そっち向かってる。10分で着く」
「え、ちょっ……」
「じゃ、あとで」
一方的に通話は切れた。
“行っていい?”なんて聞いたくせに、私の返事は無視。
まったく、相変わらず強引だ。
泣いてたこと、たぶんバレてる。
急いで顔を洗って、手早く部屋を片付ける。
数分後、チャイムが鳴った。
モニターには一色の姿。
オートロックを解除すると、数秒後またチャイム。
ドアを開ければ、彼は私の顔をジッと見つめてきた。
「……資料は?」
「寒い」
「は?」
「入れろってば」
一色はビニール袋を持ってズカズカと入ってくる。
その袋が膝に当たって、痛い。
ふざけるなと思いながらも、文句は言えない。
彼は何食わぬ顔で袋から色々取り出し、テーブルに並べた。
「望月、これ冷やして」
「……やだ。自分でやって」
「ケチ〜」
当然のように冷蔵庫を開け、
私はその間、ソファに座ってテーブルを眺める。
並べられたのは、私の好きなものばかり。
「あ、プリン冷やす?」
「……食べる」
「はい」
缶を軽くぶつけて乾杯。
一色はビールを飲んで「プハーッ」って嬉しそう。
私はプリンをひと口食べて、カルピスサワーで流し込む。
「で?」
「……何が」
「情緒不安定なのは何が原因?」
心臓が跳ねた。
「……」
「あ〜、すげぇ俺。察したわ」
たった一言。それだけなのに、
ずっと張り詰めていたものが一気に崩れた。
また、涙が溢れて止まらなくなる。
甘えられない私の性格を知っている一色は、
黙って隣に移動し、両手を広げる。
「……なに」
「泣いてるから、抱きしめてあげようと思って」
「……いい、大丈夫」
「……ほんと素直じゃねぇな」
彼は私の手からプリンを奪い、
そのままそっと私を抱きしめた。
彼氏でもない、ただの同期。
だけど、時々こうやって近づいてくる。
その距離が、なんだか心地いい。
「大丈夫だから」
私はぎこちなく一色の背中に腕を回し、
彼のシャツをきゅっと掴んだ。
彼の笑い声が、優しく頭上に落ちてくる。
しばらく泣き続けて、ようやく落ち着いた私は、
彼の腕の中からそっと身体を離した。
一色は、静かに涙を指でぬぐう。
──恋人だったら、このタイミングでキスがあるかもしれない。
でも私たちは、見つめ合ったまま、言葉のない時間を過ごす。
「会社じゃ、絶対望月ツーンってしてると思ってさ」
「……」
「でも、家ならこうして甘えられるだろ?」
何かが壊れて、私はまた彼に抱きついた。
彼は、何も言わずに、ただ背中を撫でてくれた。
「望月の好きな物、ちゃんと把握してさ。こうやって会いに来てあげてる。俺、優良物件じゃない?」
「……だから無理」
「出た」
「一色と付き合ったら、毎日情緒不安定になる」
「じゃあ、毎日一緒にいられるってこと?」
何度も繰り返してきた、この距離感。
気づいてるのに、踏み込めない一線。
壊したくないから、近づくことが怖い。
「風呂、借りる」
「……帰って」
「終電、もうないし」
──なぜか、うちには一色のお泊まりセットがある。
いつの間にか勝手に置いていって、
「俺いない時、これ抱きしめて寝ていいよ」なんて言ってた。
女子かよ。
ベッドに入って、ウトウトしかけた頃。
お風呂上がりの一色がやってきて言った。
「髪、乾かして」
「……やだ」
「濡れたまま寝たら、枕びしょびしょになるよ?」
「なんでアンタがベッドに来てんの。無理」
眠い私に構わず、ドライヤーを押し付けてくる。
仕方なく乾かす。サラサラの黒髪に、どこか見覚えのあるシャンプーの香り。
──同じ匂い。なんかちょっと、ムカつく。
「熱っつい。もっと丁寧にやってよ」
「うるさいな」
「乾いた?」
「はいはい。乾いた乾いた。おやすみ」
再び布団に潜り込むと、
一色も当然のようにベッドにもぐり込んできた。
「……通報するよ」
「お前くらいだよ、俺をこんな雑に扱うの」
背中を向けて端に寄った私に、
甘い声が背後から届く。
「望月」
ベッドが揺れて、
肩に触れた手が、私の身体をぐいっと引き寄せた。
向かい合ったその距離で、そっと抱きしめられる。
ぬくもりが、胸に染み込む。
「おやすみ」
同期以上、恋人未満の、曖昧でやさしい夜。
私はその腕の中で、静かに眠りに落ちた。