ep10
部屋に籠って、もう二日。
最初に丸一日眠り続けていたから通算で三日間。私は自室から出ていなかった。
食事も全部ここで済ませている。
理由は単純で……レヴェナ達の顔を見るのが、どうしようもなく気まずかったから。
スプーンを握る手はまだ微かに震えている。
なめらかなスープが表面で波立ち、今にも縁からこぼれ落ちそうだった。
「……ほんと、情けない」
思わず唇を噛む。
決闘の後遺症が抜けず、身体のあちこちが軋む。
その軟弱な感触に腹の底がじりじりと焼けるような苛立ちを覚えた。
もし。
もし、あの決闘で本当に大怪我でもしていたら。
ただでさえ細い糸で繋がっている人間界とレヴェナ達との交流に、取り返しのつかないひびを入れていたかもしれない。
私が両者を繋ぐきっかけになっている。
その自覚はある。
嫌でもある。
けれど、この一ヶ月。
私が夢中になっていたのは、ただ強くなることでも、リズに勝つことでもなく。
……自分の価値があると証明したい。
その必死さだけだった。
レヴェナ達にとっての自分の意味を。
少しでも掴みたかった。
「……はぁ」
深く息を吐いて、スプーンを置く。
器にはまだ半分ほどスープが残っていたが、とても飲み干す気にはなれなかった。
胸の奥がずっとざわついて、味なんてしない。
席を立ち上がる。
その瞬間。
身体の奥に残る違和感がずしりと重く響いた。
痛みというより、消耗の名残。
魔力を使い切ったあとのあの嫌な虚しさ。
それがまた、気分の沈みを深いところへ引きずり落としていく。
(……もう、ほんとに……)
生まれて初めて、心が弱るという感覚がこんなにも長く続くのだと知った。
_________
「また食事を残されたそうですね」
低く落ち着いた声が執務室に響き、レヴェナの指先がわずかに震えた。筆先が一瞬だけ止まり、だが何事もなかったように、すぐ滑らかに書類の上を走り出す。
「このまま食欲が戻らないようだと、少し心配ですね」
静かな指摘。
レヴェナはほんの一瞬だけ顔を上げ、ベクタを横目に盗み見る。だがベクタ本人は視線を外し、淡々と別の書類へ目を落としたままだ。
「……治療が必要なら、そうしろ」
「身体には特に問題は無いので、食欲が戻らない原因は他にあるのかもしれません」
その言い方が妙に引っかかり、レヴェナは眉を寄せる。
「……」
「たとえば、精神的な要因、とか」
「…………」
再びベクタへ向けたレヴェナの視線は先ほどよりも鋭く、刺すようだった。
だが当のベクタは主の視線など初めから存在しないかのように淡々と紙を捲り続けている。
先日のイザベラとの会話が脳裏の奥を刺す。
胸の奥がざわつく気配に気づくと、レヴェナはその感覚を強引に押しつぶすように別の書類を引き寄せた。視線を落として、ただ目の前の字面に集中するふりをする。
すると。
「レヴェナ様」
「……なんだ」
ベクタがすっと一枚の書類を差し出してきた。
受け取って目を通した瞬間、レヴェナの呼吸がわずかに揺れる。
それは“件の鉱山”に関する書類だった。
「………」
レヴェナが黙したまま書類を見下ろしていると、ベクタが淡々と口を開く。
「例の契約の件、もちろんまだ仮定の話ですが、ある程度形を整えておくのがよろしいかと」
「……あぁ」
短い返事とともに眉間に深い皺が寄る。
睨むような視線を向けられても、ベクタは相変わらず柔らかい微笑を崩さない。むしろその笑みは主の苛立ちさえ軽やかに受け流すようだった。
「もしイザベラ様の案の通りに、あの鉱山を人間界に譲渡するのであればイザベラ様に譲渡する代わりの鉱山が必要となります。そのあたりを含め、一度イザベラ様とご相談ください」
「……お前が行け」
「私はまだ仕事が残っております」
ベクタが軽く顎で示した先には山のように積まれた書類の塔が本当に存在した。
たしかに量は多い。
だが普段の仕事の早いベクタであれば、あの量を机に積ませておくなどあり得ない。
「ちっ…」
半ば無意識にレヴェナが舌打ちを鳴らすもベクタには聞こえていないらしく笑顔はぴくりとも揺るがない。
レヴェナの胸に苛立ちと自覚したくない別の感情が入り混じっていく。
ベクタは終始穏やかな笑顔のまま。
それが余計に癪に障る。
レヴェナは無言で書類を受け取ると、それだけで了承の意を示し椅子を立った。
背を向ける瞬間、わずかに呼吸を整えて。
そして静かに執務室を後にした。
***
「くっ……!」
机上の分厚い魔導書が魔力に引かれてわずかに浮く。
だがその高度は息を吸うほどの一瞬で、すぐにガタリと落ちた。
ほんの指先ほど持ち上がっては、落ち、また震えては落ち、その繰り返し。
「………はぁ…っ」
伸ばしていた手を降ろすと、本はぴたりと動きを止めた。
(魔力のコントロールが……全然、定まらない)
こんな些細なことにも手こずる屈辱。
胸の奥がじりじりと焼けるように痛む。
「………」
気を取り直すように深呼吸し、次は得意の召喚魔法に切り替える。
右手を軽く掲げ、意識を集中させた。
淡く光が集まり、魔法陣が形を取り始め……
ズキッ
「……ッ!」
バチッ、と鋭い音が室内を裂き、魔法陣は一瞬で砕け散った。
同時に右腕に針を何本も突き立てられたような強烈な痛みが走る。
「…………!」
反射的に身体が折れ、床に手をつく。
波のような痛みはすぐ引いたが、あまりの異質さに呼吸が荒くなる。
(なに……今の……)
その時だった。
ガチャッ
「……!!」
ノックもなく突然開いた扉。
驚きに身体が跳ね、床に片手をついたまま硬直する。
「え……っ」
扉の向こうに立っていたのは
レヴェナだった。
普段は滅多に揺れ動くことのない赤い瞳が大きく見開かれている。
その視線は鋭く、怒気すら孕んでいて。
まるで、私が最も見られたくない瞬間を見られたかのように、
心臓が強く跳ねた。
「……何をしている……!」
低く、抑え込んだ怒気を含んだ声が部屋に響く。
その一言だけで胸の奥がぎゅっと縮み、肩が小さく跳ねた。
レヴェナは迷いのない足取りでこちらに歩み寄り、床にうずくまる私の前にしゃがみ込む。
そして右腕を掴んだ。
「痛……っ」
「……」
掴まれた瞬間、先ほどの鋭い痛みが再び走り、反射的に目を閉じる。
けれどレヴェナの手は声音とは裏腹に驚くほど丁寧で乱暴さは微塵もなかった。
おそるおそる瞼を開けると、レヴェナは真剣な眼差しで私の右腕をじっと見つめていた。
その視線がゆっくりと移り、私の顔をとらえる。
「痛みは」
落ち着いた、深い声。
「だ、大丈夫……」
とっさに返した言葉は震え、説得力の欠片もない。
自分でもわかるほど弱々しかった。
レヴェナは無言のまま再び右手へ視線を戻し、
触れる力をほんのわずかに強めたり、位置をずらしたりして、痛みの所在を確かめる。
「…っ」
「……痛むか」
小さく頷くと、その声にはもう怒りの気配はなく淡い憂いだけがにじんでいた。
そして
レヴェナの手が、そっと私の右手を包み込むように重なり
淡い紫色の光が、静かに灯り始めた。
触れられている箇所がじんわりと温かくなり、
その熱は苦しさではなく、どこか眠気を誘うような優しい温度だった。
やがて紫の光がすっと薄れ、温もりが静かに引いていく。
それと同時に、あの針を押し込まれるような痛みも跡形なく消えていた。
レヴェナは右腕から手を離し、低く言い放つ。
「身体の痛みや違和感がおさまるまでは安静にしていろと言ったはずだ」
赤い瞳が再び鋭さを取り戻し、叱責の色を帯びる。
「……ええ、ご、ごめんなさい」
謝罪の声は自然と弱り、視線が落ちる。
「……」
レヴェナは短く息を吐いた。
深い溜息というより怒気を飲み込み整えるための呼吸。
「お前はこの1ヶ月でたしかに力をつけた。だが、人間の身体は魔力に適応するのに時間がかかる。今無理をすれば怪我が長引くだけではない。身体に後遺症が残る可能性もある」
胸の奥がざわつく。
わかっている。理解してる。
でも、言われるほどに自分の無力さが突き刺さる。
「……」
「私が許すまで、魔法の発動は控えろ。いいな」
「……わかったわ」
また。
まただ。
またこうして、足を引っ張ってしまう。
後悔したばかりなのに。
痛みの中で反省したばかりなのに。
それでも私は、同じところをぐるぐると回っている。
そんな思考が胸を締め付け始めた瞬間、レヴェナの声がそれを断ち切った。
「応急処置は済ませた。しばらく魔法を控えていればじき痛みは引く。他に痛むところは」
「……ないわ、大丈夫よ」
レヴェナが立ち上がり影がひとつ分高くなる。
その動きにつられるように私もゆっくりと足に力を込めて立ち上がった。
「……」
情けなさが胸に重く沈む。
レヴェナの顔を見ることさえできず、ただ俯くしかなかった自分が嫌になる。
そんな私の視界に、ふいに数枚の書類が差し込まれた。
「な、なによ これ」
「ベクタが用意した。鉱山に関するものだ」
「鉱山……」
思わず手を伸ばし、一番上の紙をつまんでめくる。
ざっと目を通すだけでも、魔界に来た直後に見せられたあの鉱山とはまったく別の場所だとわかる。
「お前が王国に持ち掛けた取引、覚えているな」
「え、ええ」
「まだ進展は無いが、可能性が無いわけじゃない。その場合、お前には別の鉱山を用意する。そう約束した」
「……」
……たしかに、そうだ。
交渉が成功した場合、私には代わりの鉱山が与えられる。
そういう話を、私が持ちかけ、レヴェナが了承した。
「この中から選べと?」
「ああ。今から見に行く」
「は?」
唐突すぎて、間の抜けた声が出てしまった。
「お前も来い。歩くことはできるだろう」
「で、できるけど」
「ならついて来い。ぐずぐずするな」
黒衣のローブが翻り、赤い瞳の主は一切の躊躇なく部屋を出ていく。
ぽかんと口を開けたまま、しばらく扉を見つめるしかなかった。
脳がようやく追いついたのは数秒後。
「……っ、ちょ、ちょっと……!」
はっと我に返り、急いで最低限の支度を整え始める。
髪を整える手はまだわずかに震えていたが、そんなこと気にしている余裕はない。
「な、なんなのよもう!」
半ば叫びながらも、私は慌ただしく部屋を飛び出した。
___________
「ひゅっ──」
目の前に広がった光景に、喉の奥で勝手に情けない声が跳ねた。
大地そのものが唸っているかのような低い呼吸音。
深い森を思わせる底の見えない緑の双眸。
一枚一枚が鍛え上げられた鋼鉄のように硬質で、光を吸い込む黒い鱗。
そして、山の斜面を覆い隠すような巨大な体躯。
その背から広がる両翼は、ひとたび羽ばたけば周囲の森をまとめて吹き飛ばせそうなほどの威圧感を放っている。
学院の魔法生物学の授業で見た教本、あの中に描かれていた“古龍種”の絵図が、目の前で呼吸している。
グゥゥ……ッ。
「ひっ……!」
鋭い視線がこちらに向けられた瞬間、背筋が氷柱を差し込まれたように凍りつき、反射的にレヴェナの背に隠れてしまった。
「な、な、なんでドラゴンなんて……!」
「古い友だ」
「はあっ!?」
平然と告げるレヴェナはためらいなど一片も見せず前へ歩み出る。
あろうことか、古龍の額にそっと手を添えた。
触れた瞬間、地響きのような低音が喉奥から漏れ風圧が一瞬肌を撫でる。
にもかかわらずレヴェナはまったく動じる気配がない。
対照的に私は恐怖と緊張で足に力が入らず、ただその場で固まるしかなかった。
やがて、しばし古龍と“何かのやり取り”を終えたレヴェナが振り返る。
「サルヴァと話はつけた。乗れ」
「さ、サルヴァ……? ていうか…今、なんて…」
「この竜の名だ。早く乗れ」
「え、えぇ!? き、聞いてないわよ!
ど、ドラゴンに乗るだなんて!!」
「だ、大体! 貴方、羽を生やせるじゃない! 貴方が私を運びなさいよ!」
声が裏返ったのが自分でもわかって、余計に腹が立った。
レヴェナは振り返りもせず、まるで当然のことのように言い放つ。
「そんな面倒なことをすると思うか。重い荷物まで抱えて…」
「重くないわよ!」
語尾を叩きつけた瞬間、レヴェナの背後で古竜の息が低く鳴った。
グォ、と大地を震わせるような音に肩がびくりと跳ねる。
見れば、あの深い緑の瞳がじっとこちらを射抜いていた。
その眼差しはどう見ても“獲物”を定める捕食者のそれにしか思えない。
「……ほ、本当に大丈夫なんでしょうね……?」
唇が乾き、声が掠れる。
レヴェナは竜の首元に手を添えながら、いつもの無機質な声で答えた。
「大人しい竜だ」
「……信じるわよ? もし何かあったら慰謝料請求するから覚悟しなさい」
強がってはみるものの、竜の巨大さが目に入るたびに膝が震える。
そんな私を横目にレヴェナが竜の目元を軽く撫でながら小声で呟いた。
「厚かましい女だが、我慢してくれ」
「聞こえてるわよ!」
思わず叫び返したけれど、古竜は微動だにしない。
ただ深い森の奥のような瞳で私を見据えるばかりだ。
そして、私は人生で初めて
ドラゴンと呼ばれる上級魔法生物の背に乗ることになったのだった。
竜の背は、思っていた以上に荒く、ざらついた質感が掌に伝わってくる。
硬いのにどこか弾力があり、さらにその奥に生き物特有の熱が脈打つように宿っていた。
ごくり、と緊張で喉が音を立てる。
その直後、後ろから気配が寄りレヴェナが私の背にぴたりと腰を下ろした。
そして迷いのない動作で、私の腹部へと腕を回す。
「掴まっていろ」
短くそう告げる声はいつもの冷静さを保ったまま。
思わず返事もできず、私はただその腕に身を委ねた。
次の瞬間、竜がゆっくりとその巨体を起こし、首を高く掲げる。
大きく広げられた両翼が、空気を裂くように勢いよく羽ばたいた。
ゴウッ!!
「……ッ!」
暴力的なほどの風圧が身体に叩きつけられ、地面の砂が激しく舞い上がる。
その風とともに、ふわりと身体が浮く感覚が襲ってきた。
慌てて閉じた瞼を少しずつ開けると、巨体がまるで軽くなっていくかのようにゆっくりと宙へ浮かび上がっていく。
言葉が喉の奥で固まり、ただ息を呑む。
なんて力強さ。
人間界で見てきた魔法生物の比ではない。
この竜は、まさに“別格”だった。
高度が上がるにつれ、風の音が鋭さを増し、竜の上昇はさらに滑らかになる。
迫りくる迫力に気圧され、私は恐怖に抗うように竜の後頭部あたりへ視線を固定した。
その時、背後から低い声が落ちてくる。
「見ろ」
促されるままに下へ目を向けると、
眼下には、私たちが暮らす古城、訓練場、その周辺の景色、すべてが一望できていた。
「す、すごい…」
小さく漏れた声は驚きと感嘆に震えていた。
巨大だったはずの城がみるみるうちに玩具のように小さくなっていく。
やがてドラゴンは十分な高度に達したのか、羽ばたきが滑空に近い緩やかなものへと変わった。
途端、風の流れが変わり、私たちは真っ直ぐ、空の彼方へと放たれる矢のように進み始めた。
次の瞬間、凍てつくような風圧が全身に襲いかかる。
「……っ!」
空気が鋭い刃のように肌を切りつけていく。
こんなことならもっと厚い服を着てくるべきだった、と後悔した瞬間。
ふ、と。
まるで透明な毛布に包まれたように、冷気が一切消え失せた。
「え……?」
恐る恐る目を開く。
相変わらずサルヴァは信じがたい速度で空を進んでいるのに、頬には一切の風も寒さも触れない。
自分の手元を見る。
薄い膜のような、光をほとんど含まない魔力の層が、身体の表面を覆っていた。
「あ……これ……」
つい先日も体感したものと同じ、魔法防壁。
「……気が効くわね」
小さく呟くと、背後のレヴェナは何も言わなかったが、腕にこもる力がほんの少しだけ強まった気がした。
その静かな気遣いに胸の奥が妙にむず痒くなる。
背中にレヴェナの体温を感じてしまうこの体勢もいけない。
何もかもが落ち着かない。
沈黙に耐えられず、無理やり口が動いた。
「古い友達って言ってたけど……どれくらいの付き合いなの?」
「……百年以上だ。細かい年数は忘れた」
「ひゃ…ひゃく……」
百年の付き合いという言葉があまりにも重くて、思わず変な声が出た。
魔族の時間感覚。
想像していた以上に、気が遠くなるほど長い。
ドラゴンの巨大な翼がゆっくりと空を裂き、風景が冗談みたいな速度で後方に流れていく。
その中で、レヴェナだけが変わらず静かに私を支えていた。
_____
風を裂くようにドラゴンは魔界の空を滑るように飛び進んでいく。いくつもの山脈を越えるたび、灰色の雲が尾を引き、荒涼とした大地が眼下に流れていった。
ふと下をのぞき込むたびに、私はため息をこぼしたくなる。
(それにしても、本当に殺風景なところね、魔界って)
黒い岩肌ばかりが広がり湿った風が肌を撫でるだけ。私たちの暮らす古城の姿が見えなくなって久しい頃、背に座るレヴェナが低く呟いた。
「……あれだ」
「!」
その一言と同時にドラゴンが大きく羽ばたき、まるで空に張り付くように急減速した。浮遊感に身体が揺れ私は前へ身を乗り出す。
眼下には、黒々とした不自然なほど存在感を放つ山が広がっていた。
山と呼ぶには縦の高さはなく、どちらかと言えば横に長くうねる巨大な丘。その表面は煤を塗り固めたように黒く、周囲の大地とすら質が違うように見える。
「あれが?」
「私たちが管理する鉱山のひとつだ。魔物の棲家にはなっていない。鉱石も豊富に眠っている」
「私の家を建て直せるぐらい?」
「造作も無い」
「素晴らしいわね……」
思わず口元が緩む。胸の奥で、現実的な計算が跳ねた。
「……それにしても、こんな素晴らしい鉱山をいくつも所有してるだなんて。……あとどれくらい持っているの?」
「知ってどうする」
「それは……」
貿易。莫大な資金。裕福な暮らし。
ひと言で言えば――玉の輿。
その下心を読まれまいと、私はほんの一瞬だけ言葉を選んでしまった。
「……まぁ、色々と、知っておいて損はないでしょう?」
しかし、そのわずかな間すら、レヴェナにはお見通しだったらしい。
「現金な女だ」
「うぐっ」
胸を射抜くような一言に、私は肩をすぼめるしかなかった。
「!」
不意に、身体ごとぐらりと揺さぶられた。正確には私ではなく、足元のドラゴンが。
それまで空中に留まり、ほとんど風すら動かさなかった巨体が、急に大きく羽を打った。
その一振りだけで、周囲の空気がざわりと震える。
ゆっくりと高度を変えながら、黒い鉱山はみるみる遠ざかっていく。
「ちょ、ちょっと……もう終わり?」
思わず身を乗り出すと、前方から冷静な声が返ってきた。
「何か不満でもあるのか」
「だって、上から見ただけじゃ……」
「中を見てもお前にはわからない」
「うぐっ……」
それは、まぁ……そうだけれど!
心の中だけで反論しておいた。
「なら、もう帰るの?」
「……いや。少し寄るところがある」
「どこよ?」
「じきに着く」
短く言って、それ以上は話す気がないらしい。
そもそも訊いたところで、私にわかる場所でもないのだろう。
そんなとき、ふと気づいたことを思い出した。
「……ねぇ、ベクタが用意した書類……鉱山って、ひとつじゃなかったわよね?」
「……そうだが」
「他の鉱山は? 見に行かないのかしら。遠いの?」
問いかけると、レヴェナは妙な間を置いた。
「……あぁ」
わざとらしいほどの曖昧な返事。
私はじとりと横目で睨む。
「……貴方、面倒だからさっきの鉱山だけ見せて終わりにしようって魂胆じゃないでしょうね?」
「……」
また沈黙。
この沈黙、知っている。図星のときのやつだ。
レヴェナは、こちらの不満げなオーラをまるで煩わしそうに払いのけるように、淡々と告げた。
「どれも大差無い」
素っ気なく言い捨てられたその一言に思わず声が裏返る。
「嫌よ!どうせなら1番鉱石が多く採れる山がいいわ!」
乗っているドラゴンの背が風に煽られ、わずかに揺れる。その揺れがそのまま私の苛立ちを増幅させるかのようだった。
レヴェナは前方を見据えたまま、短く答える。
「さっきの山が1番よく採れる」
まるで面倒ごとを避けるために吐いたような冷淡な声音。
私は思わず身を乗り出した。
「テキトー言うんじゃないわよ!残りの山も案内しなさい」
抗議する声は風にかき消されかけたが、レヴェナにはしっかり届いたらしい。
彼女は小さく眉を寄せ、苛立ちを押し隠すように低く言い放つ。
「うるさい。黙れ」
「うるさいってなによ!」
その瞬間、空気がピリッと張りつめた。
ドラゴンでさえ気まずそうに翼の角度を変え、私たちの口論をそっと避けるかのように滑空に切り替える。
そして数回のやり取りを繰り返した末、結局レヴェナは頑として折れなかった。
冷徹な横顔のまま、決定事項を通すように一言。
代替えの鉱山は、先ほど見たあの黒い山に決まってしまった。
私は唇を噛みしめ、頬を膨らませながら遠ざかっていく山影を恨めしげに見つめるしかなかった。
「……で? いったいどこへ向かってるわけ?」
落ちかけた陽光がドラゴンの鱗に反射し金の縁取りをしていた。風はさっきまでより冷たく、山の稜線の向こうへ太陽が沈もうとしている。
私はその空の色を横目に見ながら、背後のレヴェナへ問いかけた。
「じきに分かる」
言ったのはそれだけ。振り返りもしない。
……いつものことだけれど、こういう時の彼女は本当に必要最低限しか話さない。
そんな時だった。
「! あ、あれ!」
胸の奥が跳ね、私は思わず前方を指さした。
暮れかけた空を横切るように、巨大な影がいくつも飛んでいる。
大きな身体。しなる長い尾。そして二枚の広い翼。
ドラゴンだ。しかも三匹。
遠くて種類までは分からない。しかしあの輪郭だけで十分だった。喉が変に乾く。
「ド、ドラゴンよ!」
「あぁ、巣に帰るのだろう」
「だ、だろうって! 襲ってきたりしたらどうするのよ!!」
私は反射的にレヴェナの腕を握り必死に訴えた。
しかし彼女は怪訝そうに眉を寄せただけ。
「3匹もいるのよ!? 夜になればもっと魔物が増えるかも…!」
自分で言いながら背筋が冷える。空は既に紫が混じり始めている。
けれどレヴェナはこちらの不安などまるで関係ないとでも言うように淡々としていた。
「……」
無言のまま、ほんの一瞬だけ遠くの空を見やる。そして、
「無駄な心配だ。彼らは馬鹿じゃない」
「ど、どういう意味よ?」
私の声は半ば悲鳴のようだったが、レヴェナは少しも慌てない。
「襲う相手は見誤らない。ドラゴンともなれば尚更だ」
その口調は、あまりにも落ち着き払っていた。
焦りも、警戒も、恐怖もない。まるで「雨が降るかもしれない」程度の話をしているように。
私は理解できず、恐怖で胸を締めつけられながらも、ただ彼女の腕を握り続けるしかなかった。
一方、目の前のドラゴンたちはこちらに興味を示す様子もなく、静かに大気を切り裂きながら飛び去っていく。
結局、怯えていたのは私だけだった。




