ep9
目を覚ました瞬間、視界に入ったのは見慣れた天井だった。反射的に身体を起こすとその動きに合わせて全身の節々へ鈍い痛みが走る。
「痛……っ」
思わず小さく声が漏れる。
身体が強張り、手を見るとぴくぴくと痙攣するように震えていた。
この感覚。似たような痛みを私は一ヶ月前にも味わっている。
眠りから覚めていく頭がようやく動き始め、そこでようやく理解した。
(……負けたのね)
「……ふぅ」
起こした身体をもう一度ベッドに沈める。
完膚なきまでの敗北。
悔しさはある。けれど、鍛錬の意味は確かにあった。
少なくとも一ヶ月前の私では到底引き出せなかった彼女の表情を…ほんの一瞬でも揺らすことができた。
だが、それだけ。
防壁にヒビ一つ入れただけで、一矢報いたなどと思うつもりはなかった。
足りない。
まだまだ、届かない。
でも。
震える手を見つめながら、私は小さく呟いた。
「……もっと、もっと頑張れば……」
そのときだった。
ガチャ、と部屋の扉が開く音。
驚いて、反射的に声が出る。
「ちょっ! ノックを……!」
しかし来訪者の姿を視界に捉えた瞬間言葉が止まった。
ノックがなかった理由にも納得する。
レヴェナだった。
「前にも言ったでしょう。ノックをしなさい。……で、何の用かしら」
できる限りいつもの調子で言い返す。
だがレヴェナはその言葉に反応することなく、静かにベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
無言のまま、私の全身へと視線をゆっくり滑らせる。
触れてもいないのにまるで肌の上を指先でなぞられているようで居心地が悪い。
やがてレヴェナは口を開いた。
「……身体はどうだ」
低く、淡々とした声。
それでもどこか、いつもより棘が少ない気がした。
「……別に?なんともないわ」
肩をすくめて強がると、レヴェナの赤い瞳がわずかに細まる。
「痛むのは知っている。他に何か症状は」
「……」
その目が嫌いだった。
妖しく光り、すべてを見透かすような赤。
あの瞳の前ではどんな強気も薄紙のように剥がされてしまう。
だから、諦めて息を吐いた。
「……なんともないわよ。身体が重くて、節々が痛むだけ。前と同じよ」
「本当にそれだけか?」
「しつこいわね。だからなんとも……」
そこまで言いかけて、言葉が喉で止まった。
レヴェナの瞳にかすかな__本当にかすかな色が宿っていたから。
心配、というほどあからさまではない。
でも無機質な彼女の表情のその奥にほんの小さな揺らぎがある。
それに気づいて思わず視線を逸らした。
「……本当に大丈夫よ。それだけ。他に痛むところはないわ」
数秒の沈黙ののち、レヴェナが静かに頷く。
「……そうか」
その瞬間、表情の変化はわずかだったが__たしかに安堵が滲んだ。
(……まあ、私に何かあれば今後の交渉に差し支えるものね)
そう思うことで、自分の中に生まれた妙なざわつきを誤魔化した。
「ん゛っ……んんっ……」
不意に喉の奥がひりつき、乾いた砂を吐き出すような違和感が走った。
そのわずかな仕草を逃さず、レヴェナが静かに立ち上がる。
気づけば、手元には澄んだ水の入ったグラス。
彼女が無言で差し出してきたのだと理解するまで、ほんの数秒かかった。
「……悪いわね」
素直に受け取り、一口。
冷たい水が舌を滑り、焼けつくように乾いた喉へ染み込む。
それだけでしばらくまともに水分を取っていなかったのだと実感した。
そして
ぐぅうう〜……
まるで自分の腹ではないかのような無遠慮な音が、沈黙を裂いた。
「……っ」
一気に頬が熱くなる。
空腹だ、なんて口が裂けても言えない。
まるでその恥ずかしさから逃げるように窓の外へ視線を投げた。
「私はどれくらい眠っていたの?」
食事のタイミングを確認したいだけだけれど
そんなことを聞くのは少し恥ずかしいので遠回しに食事時を聞き出すことにした。
レヴェナは変わらぬ調子で答える。
「お前は丸一日眠っていた」
「……え!?」
思わず目を見開く。
再び窓へ視線を戻せば、たしかに空の色は決闘の時とほとんど変わらない。
胃の空虚感と喉の渇き。
全部長い眠りのせいだったのか、とやっと腑に落ちた。
(情けない……あの程度の手合わせで、一日中眠り込むなんて)
情けなさで胸が重くなる。
そのとき、視線を感じて顔を上げた。
レヴェナの赤い瞳がまっすぐこちらを射抜いていた。
わずかに含みを持つ、見透かすような鋭さ。
その目を受けた瞬間、背筋にひやりとしたものが走り思わず肩に力が入った。
レヴェナは私を真っ直ぐに見据えたまま、感情の読めない声で言葉を落とした。
「満足したか」
低く、冷たいほどに平坦な声音。
胸の奥を指でなぞられたように喉がひきつって言葉が出なかった。
返答を待つ間もレヴェナの表情は変わらない。
そして沈黙を断ち切るように淡々と続けた。
「満足したのなら今後は勝手な行動は慎め。お前の身に何かあれば、人間界は間違いなくそこを突いてくる」
「……」
「私と同胞たちは、人間に頭を垂れるために接触を図っているのではない。あくまで対等を望む。争いを避け、この地に暮らす者たちを守るためだ」
「……」
そんなこと、わかっている。
わかっているのに、胸が苦しくて、喉が張りついて、言葉が出ない。
レヴェナは返答ひとつできない私をしばらく無言で見つめていた。
そして、諦めたように小さく息を吐きすっと立ち上がる。
ドアの方へ歩み、こちらを振り返ることなく
ただ静かに部屋を出ていった。
パタン。
扉が閉まる乾いた音が、やけに大きく響いた。
私はゆっくり顔を上げ、彼女の去った扉を見つめた。
気づけばシーツを握りしめる手にぎゅっと力がこもっていた。
(……なによ、あの言い草。私はただ……役に立つって…証明した…くて……)
震える掌をじっと見つめる。
視界がじわりとかすむ。
この1ヶ月。
生まれて初めて、誰かに追いつきたくて、自分の限界を越えようとして。
息が切れるほど必死に努力した。
そこにあったのは確かな充実感。
けれど、その先に待っていたのは自分のちっぽけさを突きつけられる現実。
最初から耐えられないほど大きな差だと知っていた。
それでも、認めたくなくて。
意地を張って「見ようとしなかっただけ」
その幼稚さを、今さら痛いほど思い知らされて
私はただ、肩を震わせるしかなかった。




