ep7 魔族 と 特訓 (1)
ep7 魔族 と 特訓(1)
「はぁ……」
深いため息が、静かな回廊に響いた。
レベリウスは古びた石壁に背を預け、腕を組みながら遠くを見つめていた。その顔には明らかに疲労の色が浮かんでいる。
「暗いなぁ。何かあった? 僕でよければ相談に乗るよ」
隣に立つユルゲンが、楽しげな笑みを浮かべながら覗き込んでくる。その明るさが、かえって苛立たしい。
「……あぁ、手のかかる問題児どもの世話係を押し付けられてな」
渋々と返すと、ユルゲンはケラケラと笑った。
「ははっ、それは大変だね」
その問題児にはお前も含まれているのだが……と小言のひとつでも言いたかったが、面倒なのでやめた。
再び視線を前に戻す。
視線の先では、イザベラ、ネル、ルヴァンの三人が城の中庭に立っていた。
ルヴァンが身振り手振りを交えて、軽装に身を包んだイザベラに何やら指導をしている。その表情は真剣で、指先にまで意識を向けているのが分かる。
隣ではネルが、いつもの無表情を崩さぬまま静かにルヴァンの話を聞いて……いるのだかいないのだかよくわからない。
イザベラはというと、時折唇をわずかに尖らせながらも、真剣な眼差しでルヴァンの説明に耳を傾けていた。
それを見つめるレベリウスは、再びため息をつく。
時は少し遡る。
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「はぁ? 俺がこいつらの面倒を一人で見ろって?」
レベリウスは勘弁してくれとでも言いたげに問い返した。
横でユルゲンが「ひどいなぁ、僕も一緒なのに」と愚痴を零すが、無視することに決める。
ベクタは、いつもの穏やかな微笑みを崩さぬまま続けた。
「ええ、レベリウスくんとユルゲンくんには、イザベラ様が怪我をなさらないよう見守っていただきたいのです」
「……ハァ」
レベリウスは額に手を当て、俯く。
「リズさんに勝つために魔法の腕を鍛えると言って聞かないのですよ」
その言葉に、レベリウスは眉をひそめた。
「お前が修練場なんかに連れて行ったせいだぞ、ユルゲン」
「それはもう何度も謝ったじゃん。それに、ほら、今回はお詫びの印に僕も手伝うからさ」
「……ベクタ、せめてコイツだけでも外してくれ」
「ひどい言い草だなぁ」
二人の言い合いに、ベクタは小さく苦笑を漏らす。
「ハァ……。じゃあ、俺がアイツに魔法を教えてやればいいのか?」
渋々と折れるようにしてティベリウスが言うと、ベクタは首を横に振った。
「いえ、2人は警護に専念していただいて大丈夫です」
「?」
「イザベラ様の指南役は、ルヴァンくんとネルさんに務めてもらいます」
その名が出た瞬間、レベリウスの顔が僅かに険しくなる。
「ルヴァンとネルに?」
彼は二人の姿を思い浮かべた。
腕は確かだが、社交的とは言い難い。特にルヴァンは他者と関わるのを好まない性格だ。人間相手では尚更。
ネルは……正直何を考えているのかさえよくわからないが。
「なんでアイツらに?」
「これからは人手が必要になります。ルヴァンくんやネルさんにも人間を学ぶ機会が必要かと思いまして」
ベクタの口調は穏やかだったが、その意図は明確だった。
レベリウスはしばらく考え込み、やがて腕を組み直した。
「んー……」
ベクタらしい理知的な考え方だとは思う。だが、それでも一抹の不安は拭えなかった。
ベクタは穏やかな声で続ける。
「リズさんとの決闘が目的ではありますが、イザベラ様が我々と交流を深める良い機会でもあります」
その言葉に、レベリウスは鼻で笑うように苦笑した。
「随分と荒っぽい交流だな」
「ええ」
ベクタも微笑を浮かべるが、その表情の奥にある思惑は読めない。
レベリウスはしばし考え込んだ。
イザベラのことを気にしているわけではない。
彼の懸念は同胞たちの方にあった。
数百年に渡る戦いの中で魔族たちは幾度となく人間との衝突を繰り返し、その結果、多くの仲間や家族を失ってきた。
今でこそ、レヴェナの統治のもと『これ以上仲間を失わないため』に人間との和平を望む穏健派としての形を成しているが___それは、あくまで表向きの話にすぎない。
誰一人として、人間への憎しみを完全に捨て去ったわけではなかった。
ベクタはイザベラと魔族が理解し合い、信頼を築くべきだと考えている。
だが、そんな理想が本当に現実になるとは、レベリウスには到底思えなかった。
長く戦場に身を置き、人間と剣を交えてきた自分にとって、それはあまりにも遠い夢物語のように思えた。
それでも___
ちらとベクタの顔を横目で窺う。
穏やかな微笑の裏で、この男は常に数手先を読んでいる。
それはレベリウス自身もよく理解していることだった。
どうせ、自分の考えなどとうに見抜かれているのだろう。
そう思うと、少しばかりの苛立ちを覚えながらも、深く息を吐いた。
「……わかったよ。怪我しないよう、子守りすればいいんだな」
「ありがとうございます。ユルゲンくんも、よろしいですか?」
「僕はかまわないですよ〜。剣の修行よりよっぽど楽しそうだし♪」
「お前な……」
レベリウスは呆れたようにユルゲンを睨んだ。
が、当の本人はどこ吹く風で、のんびりとした笑みを浮かべている。
ベクタが小さく笑いながら二人を交互に見やり、満足そうに頷いた。
こうして、イザベラの訓練は幕を開けることとなった。
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城内にある広々とした中庭に足を踏み入れると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
敷き詰められた石畳の間からは細やかな草が顔を覗かせ、周囲を囲む古めかしい城壁が、ここが魔界であることを改めて感じさせる。
今日から、私を馬車で魔界に連れてきた魔人ルヴァンと、魔界に来てから付き人として私に仕えているネル、2人の魔族に魔法の指導を受けることになった。
訓練に適した軽装に身を包み、長い髪を一つに束ねる。動きやすさを重視した装いではあるけれど、やはり慣れない格好にどこか落ち着かない気分になる。それでも、こうして身体を動かす機会が得られたのは僥倖だ。
ふと視線を巡らせると、少し離れた場所でレベリウスとユルゲンがこちらを眺めているのが目に入った。ユルゲンは相変わらずの人懐っこい笑顔で、ひらひらと手を振っている。おそらく二人は監視役なのだろう。
本音を言えば、魔族として高い実力を持つであろう彼らに指導を受けたいところだ。しかし、今回の待遇について不満を抱く気にはなれなかった。
そもそも、私がこうして魔法の鍛錬を許されたのは、先日の一件があったからだ。
頭に血が昇って口答えしたことで、ベクタあたりが取り計らってくれたのだろう。
本来であれば、こんなにも多くの人手を割く余裕などないはずだ。
『4人も付き添いなんて不要よ』
___そう言いたいところだが
向こうにとってはそういうわけにもいかないことは重々承知しているつもりだ。これが私が魔族の城で生きるということなのだ。
「ふぅ」
小さく息を吐き、首を振る。
今さら悔やんでも仕方がない。すべては、幼稚な対抗心が招いた結果なのだから。
……そうよ!
元はといえば私をのけ者にしたレヴェナと、私を小馬鹿にしたリズが悪いんだわ!
そう考えたほうが気が楽だし、開き直ることにした。
気を取り直し、私は目の前の男__ルヴァンに向き直る。
漆黒の髪が目元までかかり、その隙間から覗く氷のように冷たい青い瞳がじっとこちらを見据えていた。
「久しぶりね。最初にここを訪れたとき以来かしら」
彼は何も言わない。ただ、無言でこちらを見下ろしている。
「貴方が私に魔法を教えると聞いたけれど、本当に大丈夫なの?」
問いかけると、ルヴァンは淡々と答えた。
「……俺は命令に従うだけだ。嫌ならいつでも辞めろ」
俺はお前に興味などない、と言外に含まれているような態度に、思わずカチンときてしまう。しかし、ここで文句を言ったところで状況が変わるわけではない。
私は小さく息を吸い込み、気を落ち着ける。
ルヴァンは羽織っていた黒いローブの中から、手のひらほどの大きさの水晶を取り出した。
それは透き通るほど澄んでいて、まるで凍りついた湖面を切り取ったようだった。
「なによそれ」
訝しげに問いかけるが、ルヴァンは私の声など聞こえなかったかのように水晶に手をかざす。
指先が軽く触れると水晶は青い光を帯び、その輝きがゆっくりと広がっていった。
やがて、彼の胸の高さほどの位置に半透明の像が浮かび上がる。
___これは、魔法?
不思議な光景に思わず目をぱちくりとさせる。
そこに映し出されていたのは、私がリズと決闘をした時の様子だった。
リズの放った火球が粉塵を巻き起こし、私の氷魔法と交差する。
立体的に再現された映像は、まるで過去の一場面が切り取られ今まさに目の前で再演されているかのようだった。
「これ……」
驚きに息をのむ。
だが次の瞬間
映像の中の私は記憶の中と同じように____いや、それ以上に無惨なまでにあっという間にリズに叩き伏せられた。
歯を食いしばる間もなく、時間が巻き戻されるようにして再び決闘が始まる。
そして、やはり同じ結末を迎える。
何度も、何度も。
「……」
すごい魔法だ。
だが、それ以上に___腹が立つ。
なぜこんなものを見せるのか。
よりにもよって、私の敗北の記憶をこうも何度も繰り返して。
思わず拳を握るが、ルヴァンは私の心中など気にも留めず、ただ冷めた目で映像を見つめている。
そして、ぽつりと呟いた。
「リズに勝つつもりらしいが……」
「ええ、そうよ」
私は胸に手を当て、顎を上げる。
「まぁ、私は天才だから。あの程度の女、ちょっと修行すれば簡単に――」
「論外だな」
「……」
バッサリと切り捨てるような言葉に、口がぴたりと止まる。
ルヴァンは変わらず水晶に映る私を見つめていた。
青白い光に照らされた彼の横顔には、何の感情も浮かんでいない。
ただ静かに、そこにあるのは__何度繰り返しても変わることのない、私の敗北の光景。
言い訳も、虚勢も、彼の前では無意味だった。
私の言葉などまるで取るに足らないとでも言うように。
やがて、ルヴァンは顔を上げると淡々と告げた。
「魔法の練度、経験値、魔力量のどれも、お前はリズに遠く及ばない」
冷たい声だった。
突き放すような、容赦のない現実をただ並べるだけの声音。
怒りや苛立ちよりも、ギクリ、とした。
喉の奥に硬いものが張り付く。
「それに、お前の魔法の属性は氷。リズは炎、相性も最悪だ」
「……っ」
指摘されるまでもない。
氷と炎___天敵とも言える相性の悪さだ。
分かっている。そんなことは分かっているのに。
だが、改めて突きつけられると、心の奥に隠していた不安がじわりと広がるのを感じた。
水晶が青い光を最後に瞬かせ、ふっと輝きを失う。
同時に、半透明の像が消え、目の前にはただの澄んだ結晶だけが残る。
ルヴァンは静かに私を見据え、決定的な言葉を放った。
「時間の無駄としか思えないが、それでもやるのか」
「……」
彼の冷ややかな物言いが、先日レヴェナに言われた言葉と重なる。
あの時も、私は「無駄だ」と言われたのだった。
けれど、ルヴァンの声には挑発の意図すら感じられない。
ただ純粋に___本心から『無駄』だと判断している口ぶりだった。
「……御託は済んだかしら」
喉の奥の硬さを飲み下し、私は足を踏み出す。
内心のざわめきをかき消すように、強気に言い放つ。
「なら、さっさと始めるわよ」
ルヴァンの冷たい瞳がわずかに細まった。
呆れ___そんな感情が微かに滲んでいるのが分かる。
「生憎、駄目と言われれば言われるほど、やらなきゃ気が済まない性分なのよ」
そう告げると、ルヴァンはしばし私を無言で見下ろしていた。
冷静に、私の覚悟を測るように。
やがて、彼は深く息を吐く。
「……好きにしろ」
そう言って、静かに目を伏せた。
*****
「お前の魔力操作は無駄が多い」
ルヴァンの冷静な声が、静寂の中に響いた。
その指摘に、私は眉をひそめる。
彼の言葉を疑っているわけではない。実際、リズとの決闘で、私はあっという間に魔力切れを起こしてしまった。
一方のリズはあれだけ強力な魔法を連続で放っても息ひとつ乱してはいなかった。
ただ、その決定的な違いはあの女と私の魔力量の差だと思っていたのだけれど…
「魔力量は…並の人間よりは多いほうだろう。だが、それでも我々魔族の比ではない。そして、いくら鍛錬を積んだところで、人間が我々と同等の魔力を得ることはできない」
ルヴァンの冷静な声が、静寂の中に響いた。
「……なら、どうしろっていうのよ」
苛立ちを抑えながら問い返すと、彼は淡々と言い放つ。
「無駄をなくすことだ。魔力を効率よく使うことで、魔力量の差を埋めるしか方法はない。……まあ、無駄をなくしたところでリズに敵うはずはないが」
「いちいち余計なことを言わなくていいわよ。とにかく、無駄をなくせばいいのね? で、どんな修行をすればいいの?」
ルヴァンの言葉は至極真っ当だった。
私は、つい力で押し切ろうとしてしまう。
事実、学院の生徒を相手にする分には、魔力の差で圧倒できた。だが、魔力が有限である以上、その戦い方ではいずれ限界が来る。魔法を扱うのなら、まずはその根本から変えなければならない。
相手が魔族ならば、なおさらのこと。
「手始めに、魔力を身体に帯びる訓練から始めろ」
ルヴァンの指示に従い、私は目を閉じ、意識を内に向ける。魔力を練り上げ、それを身体に纏わせる。魔力の流れを整え、均等に巡らせる__
魔法使いを志す者なら誰もが魔法学院で学ぶ、基礎的な魔力操作だ。魔力を身体に巡らせることで、身体能力や防御力を強化することができる。
「……で? 今さらこんな基礎的なことをやって、強くなれるわけ?」
訝しげに問いかけると、ルヴァンは微動だにせず、わずかに呆れた声で返した。
「……自分が基礎すらもままならないということを、自覚したほうがいい」
「は?」
思わず聞き返す。だが、ルヴァンはそれ以上の説明を加えようとはしなかった。ただ静かに私を見下ろしながら、わずかに目を細める。まるで、「気づいてもいないのか」と言わんばかりの視線だった。
その沈黙が何よりも苛立たしい。だが、反論の言葉を探すよりも先に、彼は無言で地面に手をかざした。
次の瞬間___紫色の光が走る。
床に魔法陣が浮かび上がった。最初は手のひらほどの大きさだった光の輪が、みるみるうちに拡張していく。複雑な紋様が縁を描き、中心からは燐光が立ち上った。
まるで、生き物のように。
そして
「……っ!!」
目の前で、魔法陣から巨大な岩が出現した。
まるで水面からゆっくりと姿を現すように、黒ずんだ岩石が地面から浮かび上がる。人の背丈を優に超えるほどの大きさ。表面にはざらついた無数の割れ目が走り、自然の風化によるものとは思えないほどの圧迫感があった。
これは……召喚魔法___
一定の条件を揃えれば、魔法陣を介して任意の物体をいつでも呼び寄せることができる高等魔法。
詠唱すらせず、あっという間にこの巨岩を召喚したというの…?
「……」
私は息をのんだ。
これほどの魔法を、彼は涼しい顔で使ってみせた。魔力量の差、技術の差___すべてを見せつけるように。
だが、ルヴァンはそんな私に一瞥もくれず、淡々と言葉を紡ぐ。
「ネル」
「はい」
「!」
静かに応じたのは、私の隣に立っていたネルだった。
この場にいるというのに、彼女の気配を忘れていた。ネルという私の付き人を務める魔人は、こちらから言葉を投げかけない限り、一言も言葉を発しない。
たとえ問い掛けても必要最低限の言葉しか返してこないのだ。
「この岩を素手で壊せ」
「は!?」
思わず声をあげる。冗談だろう、とルヴァンを見たが彼は変わらず無表情のままだった。
ネルもまた、一切の動揺を見せることなく短く答える。
「わかりました」
静かに、そして確かにそう言い切ると彼女は巨岩の前へと歩み寄った。
その姿には、一片の迷いもない。
「……」
私の知るネルは、いつも静かで、無表情で、どこか石像のような雰囲気さえ纏っている。そんな彼女が今はまるで別人のようだった。
無駄な動きのない、洗練された足運び。
そして__
ネルは拳を構えた。
無造作なようでいて、隙のない動き。力任せの構えではない。むしろ、それは研ぎ澄まされた流れの中にあった。
次の瞬間___
ドゴンッ!!
重く鈍い音が響き渡る。
大気が震え、地面がわずかに揺れた。
ネルの拳が岩に叩きつけられたその瞬間___硬質な岩石の表面に、鋭い亀裂が走った。
「…………っ!!!」
まるで蜘蛛の巣のように、細かなひび割れが広がっていく。
そして___
ガラガラガラッ……!
鈍い音を立てながら、岩は崩れ落ちた。
真っ二つに割れ、地面に転がる残骸。
私は、ただその光景を見つめることしかできなかった。