ep5 (3)
ep5 (3)
朝。
微睡みの中、ぼんやりとした意識が浮上し、まぶたをゆっくりと開く。
まず目に飛び込んできたのは、驚くほど白い肌。
……白?
まだ覚醒しきっていない頭で状況を理解しようとする。
けれど、なかなかうまく繋がらない。
それでも、自分が横になっていて、すぐそばに誰かがいるということは分かった。
無防備に寄り添う肌の温もり。仄かに香るワインの匂い。
その時点で、ようやく私ははっと目を覚ました。
「……ッ!?」
一瞬にして脳が覚醒する。
視線をゆっくりと上へずらすと、そこには深紅の瞳があった。
レヴェナ。
その冷静な瞳が、じっと私を見下ろしている。
「……」
「いつまで寝るつもりだ」
無表情にそう言い放つレヴェナに、思わず私は息を呑んだ。
部屋に差し込む陽光は、すでに朝といえる時間帯ではないことを示している。
「……ッ!?」
そんなに寝ていた!?
いや、それどころじゃない。
何より、この状況が問題だ。
レヴェナは当然のように私の隣に横たわり、シーツをゆるく纏っていた。
無駄なものを削ぎ落としたしなやかな体つき。
引き締まった肩のライン、滑らかな鎖骨、昨日あれほど触れた白い肌。
そして、私の体にも確かに残る痕跡の数々。
「な……っ、だ、誰のせいだと……っ!」
言い返そうとした瞬間、体に力を入れた途端に_ズキッ と、鈍い痛みが全身を駆け抜けた。
「っ……!?」
思わず肩を震わせ、顔をしかめる。
倦怠感がすごい。
節々が痛むし、少し動いただけでも妙な違和感がある。
何もかもが、昨夜の出来事を思い出させる。
「……」
思考が、一気に昨夜へと遡る。
熱を帯びた吐息、執拗な口づけ、強引な手つき。
レヴェナは私の抵抗を軽々と押さえ込み、耳元で低く囁いた。
『嫌なら拒め』
何度も、何度も。
強引に、それでいて容赦なく、私を絡め取っていったあの夜。
そして今、この倦怠感。
顔が、熱い。
「……」
「何だその顔は」
至極当然のような顔で私を見つめるレヴェナに、私はギリッと奥歯を噛んだ。
「……貴方、限度ってものを知らないわけ?」
「?」
「とぼけるんじゃないわよ!」
シーツを蹴飛ばし、私はベッドの上に起き上がろうとした。
が、途端にズシンと腰に重みがのしかかる。
「っ……!!!」
くっ……!!!!!
……動けない……!!!
レヴェナが、あろうことか昨日のことを何一つ悪びれていない顔をしているのが余計に腹立たしい。
「貴方ね……私が人間だって分かってる!?」
「分かっている」
「分かってるならもう少し手加減しなさいよ!」
「慣れていないだけだ。慣れろ」
その無機質な一言に、思考が硬直した。
「慣れ……っ!?」
信じられない、という顔をしたまま、私は言葉を失う。
な、な、なな慣れろって……!?
羞恥と怒りが一気に押し寄せ、全身がカッと熱くなった。
昨晩の出来事を思い返すだけで、視界がぐらりと揺れるような気がする。
「な、慣れとかそういう問題じゃ……っ!」
喉が渇く。
昨夜を振り返るのはあまりにも恥ずかしく、けれど怒りに身を任せなければやっていられない。
「た、体力の限界ってものがあるのよ!」
そう言った瞬間、レヴェナの赤い瞳が僅かに細められた。
何かを考えるように、わずかに視線を落とす。
そして、静かに口を開いた。
「……私も、そう余裕が無かった。無理をさせたのなら謝る」
「………ッ!」
余裕が、無かった?
その言葉が脳内で反響する。
耳にした瞬間、息が詰まったような気がした。
余裕が無かった……あのレヴェナが?
不意に、昨晩の情景が鮮明に蘇る。
途切れ途切れの意識の中で、彼女の熱が肌にまとわりついていたこと。
抵抗の声も届かず、何度も何度も私を縛めるように求めてきたこと。
ひどく執着するような口づけの数々。
「……っ」
何もかもを思い出し、耳まで熱くなる。
ああ、もう嫌だ……これ以上思い出したくないのに。
でも、レヴェナの顔を見ると__
彼女は少しだけ視線を落とし、静かに息を吐いていた。
その表情は、昨夜の激情に駆られたものではなく、どこか申し訳なさそうな色を帯びている。
「………はぁ……まったく」
熱を持った頭を冷ますように、大きく息をつく。
まだ納得したわけではない。
でも、レヴェナがそう言うのなら、もういい。
「……」
レヴェナは何も言わず、上体を起こした。
不意にシーツが滑り落ちる。
その動作ひとつに、昨晩の記憶がまたも蘇りそうになり慌てて目をそらす。
だが、次の瞬間。
「嫌なら、もうしない」
肩に触れた指。
髪を静かに払いながら、レヴェナが淡々と告げた。
「……!」
その声音は、どこかひどく静かで。
恐ろしいほどに無感情に響くのに、ふと見上げた瞳には、僅かに揺れる色があった。
気のせいかもしれない。
でも、どこか憂いを帯びているように見えた。
普段の冷たい表情とは違う、ほんのわずかな影。
「……」
何かを言いかけたが喉が詰まったようになり、声が出なかった。
代わりに、私はふぅと息をつく。
落ち着け、心臓。
少し静かになりなさい。
そう心の中で呟きながら、私はもう一度レヴェナと向き直った。
「……もういいわよ」
そう呟いた瞬間、レヴェナがわずかに目を見開いた。
紅の瞳がじっと私を見つめ、次の瞬間
当然のように言い放つ。
「嫌ではない、ということだな?」
「………」
その瞬間、羞恥心よりも先に別の感情がこみ上げてきた。
なんなの、この空気の読めなさは。
美しく整った無表情な顔立ちが途端に間抜けヅラに見えてくる。
一体どうしてそういう解釈になるのか。
どう考えても、今の流れでそんな言葉を返すのは間違っている。
「……はぁ」
私は大きく息を吐き、呆れ果てて目を閉じた。冷静になろうとする。そう、冷静に___
「……ッ!?」
しかし、その瞬間、唇に何かが触れた。
目を見開くと、視界に飛び込んできたのはすぐ目の前にあるレヴェナのまつ毛。長く、繊細で、それでいて隙のない形をしている。
思考が停止する。
いや、そんなことを考えている場合ではない。
唇に押し付けられる柔らかさ、そして、そこからじわりと侵入してくる熱。
口内に忍び込んできた温かい感触に全身がびくりと跳ねた。
「ん……ッ!?」
動揺し、後ずさろうとした瞬間、レヴェナの手が私の腰をするりと撫でる。
僅かに指先が肌に触れるだけで、理性が危険なほど揺さぶられる。
こ、この女〜〜〜ッ!!?
一瞬で怒りと羞恥心が爆発し、私はありったけの力を込めて彼女の肩を突き飛ばした。
「はぁっ……はぁっ……!」
繋がっていたものが離れ、私は荒い息を吐きながらレヴェナを睨みつける。
肩で息をする私とは対照的に、彼女はまるで何事もなかったかのように息一つ乱さず私を見下ろしていた。
「 真昼間から…ッ!! しないわよ!! 」
「……うるさい」
「わかった!!?」
「……」
無言。
レヴェナは淡々とした表情のまま、ゆっくりと私の上から退いた。
しかし、その顔を見た瞬間私は気づいてしまう。
……不満そうにしている。
いや、表情自体は無表情のままだ。
だが…なぜだろう。ほんのわずかな変化を感じ取れるようになってしまった。僅かに伏せられた瞳、どこか物足りなさを滲ませた空気……。
さっきまであんなしおらしい顔をしていたくせに……!!
心の中で小さく呟くと、熱のこもった頭がさらにカッと熱くなる。
このままではダメだ。一度頭を冷やさなければ。
節々の痛みを堪えながら、私はゆっくりと身を起こす。ふぅ、と深く息を吐き、レヴェナを直視しないようにしながら言葉を選ぶ。
「……服、貸してもらえない?」
そう口にしながら、なるべく彼女の顔を見ないようにした。
しかし、返事を待つ間に何気なく部屋の片隅へ目をやると___
「…………ねぇ」
「なんだ」
「私の…服……よね…?」
目に入ったのは、机の上に畳まれて置かれた黒を基調とした服。
それは、明らかに魔界で用意して持参してきた私の服だった。
私の部屋にあるはずの。
「ああ」
レヴェナが淡々と答える。
「……」
嫌な予感がする。
私はゆっくりと視線を巡らせた。床、椅子、棚、ベッドの下___
……無い。
昨晩着ていた私の服が、どこにも。
「………貴方が用意してくれたの?」
「屋敷の人間が用意した」
「……」
「朝からお前を探していたからな」
「…………そう」
言葉が、喉の奥で詰まった。
熱が、一気に引く。
そして、同時に新たな熱が頬を焼くように押し寄せてきた。
そうか。
つまり___屋敷の従者たちは皆、私が昨晩レヴェナの部屋で一夜を過ごしたことを知っている、ということ。
誰が用意したかは知らないが、こうして私の着替えが整えられている以上、少なくとも彼女らは『私が着替えを必要とする状態でレヴェナの部屋にいる』という事実を認識しているはず。
「…………」
もう一度、レヴェナの顔を見る。
相変わらずの無表情。
「なんだ」
「………」
いちいち言い返す気力も湧かなかった。
*****************
「世話になった」
レヴェナの静かな声が響く。
馬車の前で見送りの従者たちが一列に並び、恭しく頭を下げていた。
澄み切った空の下、屋敷の門が重厚な音を立てて開かれる。
私は昨晩からの疲れが抜けきらない体をなんとか隠しながら、ゆっくりと外気を吸い込んだ。
レヴェナの隣に並び、視線を前へ向けようとしたが___ふと、ある視線を感じる。
屋敷の従者のひとり、長く仕えているらしい女性の従者が、まるで何かを察したように、目を細めてこちらを見つめていた。
「……?」
訝しむように首を傾げた瞬間、女性は微かに口元を綻ばせる。
「またお越しください。会談の場に限らず、お二人水入らずでのご訪問も、心よりお待ち申し上げております」
意味深な笑み。穏やかで礼儀正しいその態度は、しかし明らかに含みを持っていた。
私は瞬時に悟る。
やはり……気づかれている。
ただ泊まっていただけの客人としてではなく
___別の意味…で。
思わず背筋がぴんと伸びる。
「……っ」
熱が頬に上るのを自覚しながら、精一杯の平静を装って無言で馬車へ足を向ける。
すぐ隣ではレヴェナがまるで何も気にしていない様子で歩いている。
私はぎゅっと拳を握りしめ、隣の女を睨みつけた。
……誰のせいだと思ってるのよ!!!
しかし、当のレヴェナは涼しい顔をしたまま馬車へと乗り込み、まるで何事もなかったかのように席に腰を下ろす。
怒りとも羞恥ともつかない複雑な感情を抱えながら小さくため息をつき、彼女の向かいに座った。
馬車がゆっくりと動き出し、屋敷が遠ざかる。
ちらりと窓の外を見れば、見送りの従者たちがまだ整然と立ち並び、深々と頭を下げていた。
そして、先ほどの女性が最後までこちらを見送りながらもう一度微かに笑うのが見えた。
思わず視線を逸らし、膝の上でぎゅっと指を組む。
──もう二度と、この屋敷には来ない。
そう誓わずにはいられなかった。
馬車の車輪が軋みながら動き出す。
徐々に屋敷の門が遠ざかり、町の中を進み始めた。窓の外には活気のある市場や行き交う人々の姿が映る。人間の領での時間は魔界のそれとは違う。整然としていながらも、どこか温かみのある町並み。それらがすぐに背後へと流れていく。
けれど、そんな景色に気を留める余裕など、今の私にはなかった。
先ほどの屋敷の従者の意味深な笑み。
それに続いた、含みのある言葉。
それらを思い出すたび、顔が熱を持つ。
「……っ」
再び指を強く組み直し、小さく息を吐いた。
気まずい。
気まずいったらない。
馬車の中には二人きり。ほの暗い空間に揺れに合わせて微かに軋む木の音と、車輪が石畳を転がる音だけが響いている。
押し寄せる沈黙がどうしようもなく居心地を悪くさせた。
窓の外に目を向ける。つまらない風景だ。
いつもならば、馬車の中で退屈を感じることはない。
だが、今はどんな景色を眺めても心は落ち着かない。何を見ても考えたくもないことが頭をもたげてくる。
意識するなと自分に言い聞かせながらも、どうしても気になってしまう。
この気まずい空気を生み出した張本人__魔界の統治者たる魔人を、ちらりと盗み見る。
レヴェナはまるで、何事もなかったかのような顔で淡々と窓の外を眺めていた。
その横顔には、微塵の後悔もなければ、気まずさも感じられない。
昨夜の出来事など取るに足らぬ些細なことだったと言わんばかりに。
そして、その視線がふいにこちらへと向けられる。
私は反射的に目を逸らした。
だが、無駄だった。
「なんだ」
低く、平坦な声が落ちる。
「……」
「まだ気にしているのか」
「……してないわよ」
唇を尖らせながら、そっけなく返す。
「そうか」
レヴェナはそれ以上何も言わず、再び窓の外へと目を戻した。
その何気ない仕草に、私は奥歯を噛みしめる。
どうして、こんなにあっさりしているのか。
どうして、自分ばかりが意識してしまうのか。
気にしていない、などと口では言ったが
それは明らかな嘘だ。気にしていないのなら、こんなに心がざわつくはずがない。
昨夜のことを思い出す。
この無愛想な魔人が、自制を失い、貪るように自分を求めた時間。
__レヴェナが、そういうことに興味があること自体、驚きだった。
結婚したとはいえ、私たちは契約の関係。
女同士で、そもそも人間と魔族で……。
それなのに。
脳裏に浮かぶのは、今朝レヴェナに言われた言葉。
『慣れろ』
その一言が、今になって妙に重くのしかかる。
それは……つまり…そういうことで。
これからも、ああいうことが……
私はぶんぶんと首を振る。
ダメだ。こんなことを考えていては、レヴェナの思う壺だ。
ふー……落ち着け、落ち着くのよ、私。
そっと胸に手を当て、深呼吸をする。
しかし、その隣では、レヴェナが相変わらず涼しい顔をしている。
……なんだか、余計に腹が立ってきた。
この女は一体何を考えているのか。
それとも、本当に何も考えていないのか。
……どちらにせよ、昨夜のことなどもう忘れるべきだ。
それが最善の選択であるはずなのだから。
頬を数回、軽く叩く。ぺちん、と乾いた音が響いた。
そう、忘れてしまおう。今考えたところで、答えなど出るはずもないのだから。
深く息を吸い込み、心の中で気持ちを切り替える。
そんな私の様子を、レヴェナはじっと見つめていた。珍しく驚いたように目を瞬かせている。
「……何をしている?」
素っ気ない声で問われる。
「何でもいいでしょ」
ぶっきらぼうに返し、ついでに彼女を睨みつける。
しかしレヴェナは特に気にした様子もなく、何も言わずに視線を逸らした。
そのまま静寂が訪れる。
揺れる馬車の中、窓の外にはどこまでも続く灰色の雲。
とっくに魔界への境界は越えていた。
いっそ、このまま眠ってしまえば、何も考えずに済むかもしれない__そう思いながら、私はゆっくりと瞼を閉じた。