世界は思想で溢れている。
キーンコーンカーンコーン。チャイムが鳴った。
一限目の授業は「世界史」だ。世界史の先生は長髪の男性だ。眼鏡をかけた知的な雰囲気が目立つ。名を時流先生という。漢文で言うところの途中に「レ点」を振ると「流れる時」となる。この先生の名言として、「歴史を学ぶには時の流れを読め」と言う格言があった。
椅子に座ってだらけていた委員長の生徒が突如、声を張り上げる。
「一同、起立ッ」
僕たちクラスメイト、一年二組の生徒たちは一斉に立ち上がった。
「礼ッ」
クラスメイトたちが礼をする。礼をした後の「ザッ」という音が心地よかった。
「着席ッ」
先生は教科書を取り出す。
「では256ページを開いてください。今日は世界の哲学史の時間です。中世から近世、近代、現代に至る哲学の流れについての授業を行います。尚、中世からと言った通り、古代ギリシャ・ローマ時代からの哲学的思考の授業は省きます」
僕は教科書を取り出し、256ページを開いてノートの隅の日付に八月五日、と記載した。タイトルは「中世から現代までの世界の思想の流れ」にしておいた。時流先生は続け様に黒板に板書しつつ説明し出した。
「中世は封建制の時代区分になりますが、活版印刷術が15世紀に発明されたことにより、民衆に聖書という教えが大量に広まりました。その広まりによって教会の権威が低下し、個人の信仰の自由へと繋がりました。16世紀のマルティン・ルターが発表した「九五ヵ条の論題」、そこから宗教革命に繋がったということですね。それが後に個人の考えを大衆に広めて共有するという啓蒙思想に繋がるということになります」
僕はノートにつらつらと書きながら思う。
啓蒙思想とは?
合理主義や精神的批判に基づき封建社会やキリスト教の伝統的権威、および旧来の思想を批判。その結果として個人の理性を重んじ、人間性の解放や自由を追求した。そして、世界の中心だった神の思想から人間中心主義への転換を導き、新秩序への建設を主張する思想形態である、と。
僕はそして、こそこそとスマホを覗いた。もちろんツイッターを見るためである。
「黒いカラス:啓蒙思想は旧来の思想を批判しているし、個人の理性を重んじているから今の僕の思想と合っているな…」
そう呟いた。時流先生が板書を続ける。
「16世紀ごろの近世では、ルネサンス、つまるところの古代ギリシャ・ローマの文化の再評価の人文主義運動や、先ほど述べた宗教改革、そして新天地を求めて航路開拓をした大航海時代を経て、人民の市民社会や帝国主義、つまるところの植民地や市場の独占を目的として海外発展を図る政治や経済体制および政策、それらへの基盤ができるようになっていきました」
僕はつらつらとノートにそれらを写している。その時、ブブッとスマホが鳴った。危ない危ない、スマホの通知音が先生にバレたら大変なことになる。僕は時流先生をこっそり見つめた。時流先生は一旦板書を止め、聞き耳を立てているような気がした。教室にペンをカリカリと走らす音と窓から来る風の音だけが響く。僕は慌ててスマホを非通知にした。時流先生は引き続き板書をし始める。僕はホッと胸を撫で下ろした。
ゆっくりと机の中からスマホを取り出し、膝の上で通知を確認する。内容はさっきの僕の呟きに対するリプライだった。
「アライグマ:今のお前の思想、なんだよ。啓蒙思想なんて言ってないで、現代思想に目を向けやがれ」
僕はさっとリプライを返して机の中にスマホをしまった。そして引き続き時流先生の話をノートにまとめ出した。
「黒いカラス:個人の理性を重んじた結果、一人の人間に天使が舞い降りたのである」
時流先生の板書と教科書の考察は続く。
「19世紀ごろの近代は、市民革命による市民社会の樹立、産業革命と呼ばれる労働の機械化による産業資本社会主義、そしてイギリス・フランス・ロシアなどの列強国がアジア・アフリカ・ラテンアメリカ地域を植民地化して支配するという帝国主義を特徴とする時代とされますね」
僕はノートに板書を書き写しながら思う。なんていうか、昔の列強国って嫌いなんだよなぁ。自分たちの利益のために他国を軍事的にも経済的にも支配するなんてやり方、本当に嫌い。とても友達にはなりたくない。まあ僕はアジア人だし、いじめられるのは好きじゃないからな。
その時、またスマホが振動した。おそらくリプライだろう。僕はスマホのツイッター画面を見た。
「アライグマ:なんだそれ。天使の時代はとうに過ぎてるわ。お前はデジタル化の波を受けて、ただのデジタル中毒になっただけだわ」
続けて、リプライが来る。
「フクロウ:まーたお前らなんかやってるっすね。暇人乙っす」
僕はさっき受けた講義の内容を振り返った。そして、スマホを高速でタップした。
「黒いカラス:デジタル化が進んだということはそれだけ機械化が進んだということ。僕の心はとうに天使に支配されている」
「黒いカラス:デジタル化が進み過ぎてうちら暇人じゃなくなったんだわw」
速攻でリプライが飛んでくる。教室には時流先生の板書するチョークの音が響き渡る。外から吹く風で教科書がペラペラと捲られる。僕はスマホを一旦机の中に戻し、教科書のページを元に戻した。時流先生の授業が続く。
「20世紀前半ごろから現代においては、アメリカ陣営とソ連陣営という二つの二大勢力、資本主義陣営と社会主義陣営の対立という冷戦がありましたね。互いに核兵器軍備の増強によってお互いがお互いを牽制し合うというものです。その最も危険だった時が1962年のキューバ危機。その後、世界中の人々が国際連合の旗の下、グローバル化を推し進め、現代のエネルギー問題や環境汚染問題、経済格差やテロリズムといった諸問題に向き合うことになったのです。つまりはグローバリズム、皆さんもよく聞いたことがあると思います」
ここら辺の話はノートに書かなくてもわかる。冷戦は「メタルギアソリッド3」で学んだし、グローバリズムは直近のデジタル中毒で嫌というほどわかっているつもりだ。
僕はスマホのツイッターを見たい衝動に駆られた。フクロウなら、僕の心理がわかってくれるという確信がなんとなくあった。それは僕とフクロウが長年のツイッター相互フォロー者であるからというだけではない。互いに日々の日常を漫然と呟き合い、返信を飛ばし合い続けているからこそ相手の考えがなんとなく読めるのだ。まるでフクロウの思考パターンが手に取るようにわかるのだ。
「フクロウ:ま、俺も暇人じゃないことはそうっすw ネットの徘徊で忙しいったらないっすねw」
僕は苦笑した。彼も僕と同じようにネット中毒なのは知っている。僕が呟けば必ずリプライを飛ばしてくれる第一人者であるからだ。暇人じゃないはずがない。
「黒いカラス:だよなあw ネット中毒は現代病すぎる」
「トラ:それが問題なんだよな…」
最後のトラからの一撃を喰らった直後、チャイムが鳴った。キーンコーンカーンコーン。今日の一限目が終わった。時流先生は、では終わりにしましょう。と言う。僕は目が固まっていたと思う。
「一同、起立ッ」
一年二組の生徒たちは一斉に立ち上がった。
「礼ッ」
クラスメイトたちが礼をする。時流先生がザッと立ち去って教室の扉を開けて出て行った。
出て行ったのを見届けた僕を含めたクラスメイトたちはハーッと息を吐き、ぐでっと席に座った。そしてまた各々机に突っ伏して疲れ果てているのがちらほら、寝ているのがちらほらである。それがこの男子校、北部北高校の日常だった。
僕は授業の最後に来たトラからのリプライ画面を見ていた。ネット中毒――それは問題なのか?
……確かに問題の側面もあるだろう。授業中にツイッターを開いて呟いているのはどうかと思う。思うがそれは先生が判断することだ。僕が判断することじゃない。いや、僕も一部は判断しなければならないが…。いや、しかし、僕がネット中毒になり、呟くだけで少なくとも僕という個人は幸せになる。なぜならそれは呟くのが楽しいからだ。誰にも迷惑はかけていない。僕個人が僕個人の趣味として呟いているのだ。それを側からどう思われようが、そんなことはどうでもいいことではないのか。いや、そう思うことそれ自体が考えすぎなのではないか…。
皆が次の授業の準備をダラダラと始めている中、僕は頭の中でぶつぶつと言いながらアカウントを切り替え、白い鳥アイコンを見た。僕のよくわからない呟きの集合体であるカラスアカウントと違って、白鳥アカウントはまだ一件しか呟いておらず、純白であった。
僕の指が自然と文字画面をタップする。
「白い鳥:肩の力抜きなよ」
僕は、白い鳥アカウントに段々と自我が芽生え出したような、そんな気がしてならなかった。