シナダレ
徹夜連勤なんて時代錯誤だ。そう思いつつも、カタカタとキーボードを打ち、目頭をほぐしながら液晶とのにらめっこを続ける。
早く帰りたいが、今やらねばプロジェクトが終わらないので仕方がない。
我が社のブラックな体質は依然として変わりない。どうやら他の会社では有休があるとか、それも強制的に取らされるとかいう訳の分からない天国みたいな事態が起きているらしいが…なんともまあ、心底羨ましいことだ。
「はぁ。ていうか、もうすぐクリスマスか…」
クリスマスといっても、やることなんてない。友達との付き合いなんてものはないし、勿論誰か異性とデートの予定なんてものもない。
けれど、そんなことはさして気にしていない。
「ただいま〜!」
なぜならば、僕にはペットがいるのだ。
友達も、異性との関係も、風が吹くだけで吹き飛んでしまいそうだ。僕はそんなものに価値を見出さない。どうしても見出せないのだ。
けれど、そんな僕にも大切な存在がある。絶対に消えない関係、それゆえに信頼がおける、僕の最愛。それこそが、"シナダレ"なのだ。
「おういシナダレ?ごはんだよ〜」
ぺぎぺぎぺぎ。
可愛らしい音を立てて、シナダレが歩いてくる。
「シナダレは可愛いなあ」
誰のことも信じていない僕だが、"彼"のことだけは信じられる。
なぜなら彼だけは、人間と違って裏切らないのだ。
「シナダレ、ご飯を食べたらちゃんとお皿を洗うんだよ?」
「プギ?」
「ふふ、首をかしげたシナダレも可愛いなあ」
シナダレは可愛い子だ。けれど、ちょっとお馬鹿さんなのが玉に瑕だと思う。まあ、そんなところも痘痕あばたも靨えくぼというか、可愛いと思う要素の一つなのだが。
シナダレに対して、ふだん僕は何もしていない。
特に何もしなくてもいいようにしているのだ。自分で服を着て、洗濯をし、料理を作って、皿を片付ける。これらの一連の行為が出来るよう、みっちり教えているからだ。
けれど、たまには僕が料理を作ってあげたくなる日もある。そんなときは、シナダレは黙って料理ができるのを待っていてくれる。
"自分で作った方が早い"
そう言いながらも、わざわざ僕の思いを察して待っていてくれるのだ。
彼の料理は一瞬だ。だから、ぶっちゃけ僕が料理をする必要なんて無い。僕の自己満足に過ぎないんだ。
シナダレの料理のやり方はやや特殊だ。剃刀のような歯で、全てを一度細切れにしてからお椀のように凹んだ腹部にそれらを詰め込んでからようく棒状の腕でマリネするのだ。はは。そんなクリーチャーがいるかよ。
そのときふと、僕は我に帰る。
僕は何を言っているのだろうかね。はあ。
というか、シナダレ?
ああ。これのことか。
さっきスーパーで買ったたこ焼きのパック。たこ焼きは湯気を立てて鰹節たちをくねくねと躍らせている。しかし水分が一定の量くっつくと、彼らは踊るのをやめてしまう。そう、まるで疲れたサラリーマンが、椅子の背凭れに"しなだれ"かかるように。
シナダレなんていなかった。よくよく考えてみたら、ペットなんて飼っていなかったよ。
たこやきの上の鰹節を見ていた時、どうやら疲れで思考があらぬ方向へ行き、いつかペットを飼いたいと思っていた、そのわずかな希望と合流して、自分自身にありもしない幻を見せたのだろう。
僕には何もない。友人も、恋人も、ペットも。
しかしその孤独を、どうにか埋めたいとも思わない。もうすでに、そんな気概は湧いてこない。老いさらばえたのは肉体ではなく精神なのだろう。
クリスマス、と聞いて思い出すのは、幸せそうなカップルとそれを遠巻きに眺めて歯噛みしている人々だ。
たぶんここでどちらかに属している人は、いつか人と人との巡り合わせがあるだろう。
けれど、どちらにも属さない人。たとえば無関心を傘に、全ての人間関係の煩わしさから逃げ出そうと試みる人は、決して人並みの幸せを謳歌することはない。無論、単に嫉妬などをしない性格の人もいるかもしれない。
人は一人で生きることができる。けれども、そこには食べて寝るという生理的動機に基づく行動が繰り返されるだけで、人間性は失われる。
人間性は、人と人との関わり合いにおいて浮かび上がり、確かなものになっていく。
だから、誰かと話をすることには価値があるし、コミュニケーション能力がいくら欠如していても対人関係の構築を放棄するべきではない。そこにどんなトラウマがあったとしてもである。
まったく、僕はそう思うよ。
なんてことを考えるが、第一孤独を極める僕自身が言うべきことじゃないな。
「でもまあ、クリスマスの例で言えば、どっちかになった方がいいんじゃないかな。中立はダメだよ?」
僕はエ〇クス(旧T〇itter)を開くと、リア充爆発しろ!とポストした。