0・戴冠式
連載版です。
永遠に太陽の加護を受ける国。
北アルゼリア大陸の全土を支配し、その領土は必ず何処かが陽光に曝されるという逸話を元にそう呼ばれたのは、神聖サルヴェニア王国。
建国から数百年の時を経ても、大きな戦乱に巻き込まれず永い平和を享受した大国。
神聖サルヴェニア王国王都、エヌマリオン。
その中心に位置するのは、天高く聳える尖塔に囲まれ月光の如く輝きを放つ白亜の城。
王国の栄光と繁栄を示す、壮麗なる古城である。その一室で、神秘的な色彩を精緻に施された薔薇窓から外を眺める一人の少女が居た。
ブレイドシニヨンに纏められた黄金の如き高貴な煌めきを放つ亜麻色の長髪、蒼石の様な大きな瞳と秀麗な眉に形の良い鼻、そして瑞々しい薄紅色の唇はまさに絶世と言えるだろう。
年は二〇にも満たないだろう、華奢な体躯が儚さを醸し出している。
そんな少女が身に纏うのは、純白と濃蒼のコントラストが目を惹く豪奢なドレス。王国随一の職人達の手に依って仕立てられた、今世に二つとない至極の品である。しかし、そんな衣装の圧倒的なオーラに気圧されることのない、不思議な威圧感を放つ少女。
何を隠そう、彼女こそが神聖サルヴェニア王国第一側妃_____《祝妃》の位に座する侯爵令嬢______ロウェナ・ラ=サルヴェニアなのだ。
豪華な調度品に囲まれ、雲に座っているかのように柔らかな座り心地の椅子に背を預けるロウェナ。無表情で窓の外を眺める彼女は、果たして思案に耽っているのか夢幻の中に生きているのか。
祝妃付きの女官達は、随時主人からの命令に答えられるよう首を垂れながら直立不動の姿勢で彼女を見守っている。彼女達の殆どは、経験豊富で熟練の手腕を持つ子爵家の婦人や男爵家の婦人である。
しかしその中で一人、燃えるような真紅の髪が目立つ一際若い女官が居た。
彼女は静寂が支配する部屋の中、そっと腰から懐中時計を取り出して時刻を確認する。
予め知らされていた予定の時刻を長針が指し示したのを見るや、左右に並ぶ年配の女官と目配せをして一歩前に進み出る。
「祝妃殿下、戴冠式が開始されます」
「…」
すぅ、と息を僅かに吸い込むロウェナ。
彼女は瞳を閉じ、無意識に左手小指に嵌められた小さな指輪に触れる。
指輪には、彼女の位には似つかわしくない安物の翠砂石が嵌められている。ロウェナは石を撫でながら、微かに嘆息した。
時が止まったかのように微動だにしないロウェナを女官達が心配し始めると、漸く彼女は黄金の睫毛に縁取られた瞼を上げた。
そしてその口元には、誰にも分からないほど、若しくはロウェナ本人ですら気付かない程の薄らとした微笑みが浮かんだ。
「参りましょう」
竪琴の様に軽やかで、それでいて落ち着きのある柔らかい声が空間を支配する。
背筋を伸ばし、気品に溢れた所作で立ち上がり右手をそっと掲げる。
合図を目にした女官が入口の重厚な両扉を開く。ギィー、と軋む音が響くと同時に、ロウェナの周囲に控えていた女官が一斉に彼女の後ろに整列をする。
ゆったりとした動作で歩き始める祝妃。
女官らは一糸乱れぬ動作で、己の主人の後に続くのであった。
⭐︎⭐︎⭐︎
神聖サルヴェニア王国の国王の居城である、フェレストリア宮殿。
神が涙を溢した果てに創造されたという険しい山を切り開き、橋梁や尖塔が幾重にも建立され、本殿の美しさは大陸随一と名高い城。その城の正面、首都街に面していて普段は固く閉じられている《南嶺門》は、この日に限りその門を開いて国民達を受け入れていた。
門を潜り、深い渓谷の上に架けられた宮殿へと続く橋を渡る大勢の人々。
「ねえ、お母さん。なんでこんなに人がたくさんいるの?」
「それはね、祝妃様が王妃になられるからよ」
雑踏の中で、一人の少女が手を引く母親へと尋ねる。
母親は普段よりも小綺麗な格好をしており、微笑みを浮かべて少女に答える姿はいつもの厳しい姿とは大違いだ、と少女は思った。
周囲を見渡すと、歩くのにも苦労する混み具合だというのに、人々の多くは希望に満ちた眼差しで近くに見える宮殿を眺めている。少女も宮殿を目にしようと背伸びをするが、躓きそうになり踏み留まる。
ふと疑問に思った少女は、再び傍の母親へと尋ねた。
「どうして、祝妃様は王妃様になるの?」
「それはね、祝妃様_____ロウェナ殿下が、ずーっと王国で悪さをしていたヴェノア一族……悪い人たちをね、皆やっつけたからよ」
「ふーん、すごいね!」
世間の情勢など気にも留めた事のない花屋の少女は、その一言を母親が奥歯を深く噛み締める様にして搾り出したのには気付かなかった。
少女の知る由も無かったが、この戴冠式の数ヶ月前までは、首都で花屋を構える平民の母親は尽きる事のない税金の徴収と地代の値上がりに喘ぎ、少女と共に心中を考えるほど貧困の底に居た。
そんな生活が一変したのは、数ヶ月前に王都で大規模な政変が起きてからだった。厳しい情報統制と慌ただしく大通りを行き交う騎士の姿に、只事ではないと市民が怯える中、突如として悪逆の限りを尽くしていた高位貴族_____ヴェノア公爵家が討たれ、傀儡となっていた国王が王権を取り戻したという情報が飛び込んで来たのだ。
それと同時に苛烈な税の徴収は一時的にではあるが中止され、国の穀物庫が開放されたため食糧難に苦しんでいた国民の生活は一変した。そして、貧しさからお互いを恨み、一生浮上することはないと絶望していた状況を変えた立役者______かの政変の首謀者こそ、現国王第一側妃である《祝妃》ロウェナ・ラ=サルヴェニアだったのである。
その功績を讃えられ、彼女は空白となった王妃の座を国王より拝命した。
そして今日こそ、ロウェナが王妃となる戴冠式の日。
人々はまさに救世主たる勝利の女神を一目目にしようと、大々的に公開されている戴冠式へと殺到していた。親娘らが渡る橋とは別の、遠くに見える《西銅門》や《東劉門》に架かる橋には他国の外交官らなのだろうか、見慣れない様式の馬車が列を成している。
少女は改めて王国の影響力の強さを感じ、純粋な気持ちで祝妃の戴冠を楽しみにしていた。
⭐︎⭐︎⭐︎
フェレストリア宮殿、正殿前。
色彩豊かな花々が咲き誇り、年中絶える事の無く王宮を華麗に染め上げる庭園には、王妃の戴冠式の為の舞台が用意されていた。
白亜岩のアーチが円陣のように建てられ、黄金や在らん限りの宝石等の装飾を施された歴代国王の彫像が並べられている。古代の様式に近いその荘厳な舞台は、たった一度の儀式の為に設けられたとは思えぬほど豪華絢爛であり、近隣諸国から祝福にやって来た王族や外交官らは一様に驚愕を瞳に浮かべている。その舞台の周囲では王宮に仕える使用人から文官、武官など数千人に渡る人々が片膝を地に着け、不動の姿勢で首を垂れている。
遠くで銅鑼の音が鳴り始め、王立管弦楽団が儀式の開始を合図する重厚な楽曲を奏で始める。空は果てしなく澄み渡り、太陽は天の彼方から暖かな陽射しを人々の頭上へと与える。
まるで芸術の如く完成された舞台演劇の幕を上げたのは、宮廷侍従長の発した大きな一言であった。
「王妃殿下の御成にございます」
ギィィィ、と。
人々が静まり返り静寂が支配する空間に、大きな扉の軋む音が響く。
宮殿の正面玄関から姿を現したのは、数十名の女官を引き連れてゆったりと歩みを進める少女_____ロウェナであった。その双眸は凛と前を見据え、彫刻のように完成された美しさは儀式に参加している全ての人々を魅了し、あるいは畏怖させた。
彼女は堂々と歩みを進め、鮮血のような薔薇が成す道を舞台へと近付いて行く。微風が城の至る場所で焚かれた馨しい桂皮の香りを運び、まるで夢の中のように幻想的で現実離れした情景を創り上げる。
円形舞台の側に設けられた貴賓席には、太陽宰相や月山宰相を始めとする高官や国教の枢機卿、そしてロウェナを除いた側妃らが座していた。
宵の空のように深く昏い藤色の髪を結い上げた乙女、第二側妃である《麗妃》ルティアは、舞台へと近付くロウェナの姿を認めると口元を綻ばせる。王妃の気品に満ちたその姿に、彼女は過去の祝妃を想起して思わず溜息と皮肉を漏らす。
「……ロウェナ。復讐の果ての末路にしては、余りにも大団円だこと」
隣でその呟きが聞こえたのか否か、第三側妃は無意識の内に己に生じた震えに驚き、右手で左の手を覆う様にして堪えている。ルティアは王宮の者が跪く姿、そして国中から己の意思で集まった数え切れぬ程の観衆を俯瞰し、嘗て己の敵であった少女が前人未到の偉業を成し遂げたのだと改めて感嘆する。
そんなルティアらの前を通り過ぎたロウェナは、舞台へ続く緩やかな階段を登る。その蒼い瞳はロウェナの為に犠牲になった者達、そして戦いで失った仲間の姿を鮮明に幻視していた。
ああ、お父様、お母様、ベティ、みんな。
私はやり遂げました。
仇を討ちました。
これでやっと、浮かばれますか。
幾人もの死者が彼女に無言の祝福を与える中、遂にロウェナは絢爛な儀式場へと辿り着いた。アーチを潜ると、その先で待ち構えていた人物が此方へと振り返る。
月の光よりも眩い白銀の髪に、透き通る様な翡翠の瞳を持つその青年こそ神聖サルヴェニア王国国王______王権を奪還したアルバート・ギルデシオン=サルヴェニアである。
中性的な雰囲気を漂わせ、体格が然程立派ではないことに加えて優しげで秀麗なその眉目は、威厳ある王というよりも賢王といった印象が正しい。しかしロウェナは、彼がその儚く手折れそうな容姿に反して心の奥底に細くも決して曲がらぬ芯がある事を知っている。
瓊の眼差しを正面から見据え、微笑みを浮かべた彼女は三歩進んで国王の目前へと至る。数千、数万もの瞳が静寂と共に国王と祝妃に視線を注ぐ中、宮廷侍従長が再び威厳ある声を張り上げる。
「国王陛下に栄光あれ」
栄光あれ、栄光あれ、栄光あれ。
万歳のように両手を掲げた観衆達が、祝福の言葉を幾重にも繰り返す。暫くすると演奏されていた曲調が変わり、今度は春空のように軽快で洒落た古い伝統楽曲へと移行する。
アルバートが右手を掲げると、円形舞台の脇に控えていた数名の女官が恭しく一つのティアラを運んで来る。
真紅の緩衝袋の上に載せられ、碧を中心とする様々な宝石に彩られたそれをそっと持ち上げる国王。
そして楽曲が高まりへ近付き、人々の視線に熱が籠り始めると、アルバートはふと誰にも聞こえない距離でロウェナに囁いた。
「ありがとう」
手を前に置き、礼儀に則って頭を僅かに下げている美しい祝妃はその言葉を黙って受け入れる。果たして、その一言はどれ程の悲劇が積み上げられた上に放たれたのか。儀式場の中央に佇む国王と祝妃にしか、その重さは理解出来ないだろう。
楽曲の頂が近付くと、舞台の周囲を囲むように跪く近衛騎士らが一斉に立ち上がり、良く磨かれた美しい剣を天高く掲げる。
国王は、陽光を反射して燦めくティアラを俯くロウェナの頭上に掲げ祝詞を寿ぐ。
「恩恵を与えし神々よ、父よ、母よ、精霊よ。愛の加護を受けしサルヴェニアに、永劫なる祝福と繁栄が与えられんことを我は願う」
陽が中天に座す。
同時に流れるような動きで膝を折るロウェナは両手を胸の前で組み、跪く。
「叡智を備える汝に天の加護を」
国王は凛と告げる。
「勇気を備える汝に地の加護を」
ロウェナは固く目を閉じる。
「人徳を備える汝に王の加護を」
王に掲げられたティアラが一際大きく輝きを放つと、それは王妃となる少女の頭へと載せられた。人々が息を呑む中、国王は最後の祝詞を告げる。
「汝、ロウェナ・ラ=サルヴェニアを神聖サルヴェニア王国正妃とせんことを此処に宣言する。……その道行に光在らんことを、我は願う」
国王の宣言を聞き届けた太陽宰相、そして月山宰相が同時に立ち上がり両手を掲げて万歳三唱を始める。神官らがそれに続き、側妃らも起立する。軈て王宮に仕える全ての人間が立ち上がり、万歳三唱の響きは遠くから見守る民衆の元へと届く。
王妃殿下、万歳。国王、万歳。王国、万歳。
王妃殿下、万歳。国王、万歳。王国、万歳。
拍手と共に響き渡る民衆の声は、再び蘇った神聖サルヴェニア王国の繁栄と権威を示していた。数万に及ぶ祝福は音の波となり、王妃のティアラを戴冠したロウェナの心臓を揺らめかせる。跪いた姿勢のまま、微動だにしない彼女に手を差し出すアルバート。
ゆっくりと顔を上げた祝妃______王妃は、その瞳で国王を視詰める。
アルバートの目を見ているようで、その先に視える何かを凝視しているかのような視線に妙な心地を覚えつつも彼は表情筋を緩めて柔和な笑みを浮かべることに努める。
「王妃よ、行きましょう」
差し出された手に伸びる細く白い腕が一瞬震えているように見えたのは、アルバートの見間違いだろうか。小指に嵌った翠_____国王の瞳と同じ色の指輪は、王妃と初めて出会った時から全く変わっていない。
その手の暖かな温もりに触れ、国王の脳裏にロウェナに初めて救われたその日の情景が過る。懐かしさを覚えた彼の目の前で、手を引かれた王妃はすっくと立ち上がって周囲を見渡す。
ロウェナは慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、国王と共に民衆がいる方面のアーチへと向かう。人々は近付いてくる国王と王妃、その二人の完成された美しい光景に息を呑み涙を流す。
歓声、そして拍手。
しかし王妃の紺碧の瞳の奥底にある、果てしなく昏く澱んだ深淵に気付く者は誰も居ない。国王ですらも。そんなロウェナは胸に渦巻く様々な感情を抑え込み、幸福な雰囲気を纏いながら小さく手を振った。
民衆、武官、女官、文官、宮仕、側妃。
そして他国からの来賓の人々が座する方面へと目を移したその瞬間、彼女は完璧に隠していた己の感情を図らずとも面に表してしまった。
「……あぁ」
視線の先に居たのは、隣国スフィアの王_____ではなく。
その背後に控えている無数の側近の一人、他国のめでたき舞台に参列しているにも関わらず漆黒のローブを身に纏った青年だった。
彼は唯一人、万歳もせずに王妃となったロウェナに視線を注いでいる。
遠い儀式場の上からでもはっきり見て取れるその美しい緑の瞳は、祝福というより悲嘆の色に染まっているようであった。
ロウェナは、嘗てその青年から授けられた言葉を胸の内で反芻する。
『祝妃殿下は、決して迷わず、決して躊躇わず、そして決して曲げずに己の信念を貫いて下さい。それこそ、僕が貴女に願う最後の望みです。過去を捨てず、両手で抱いて未来へと御運び下さい』
嗚呼、そうだ。
私は信念を貫いた、貫いたとも。
この手は血に染まり、私の歩いた道は死屍累々だろう。
後悔なんて出来ない。
これこそが私の復讐なのだから。
ロウェナの頬を一筋の涙が伝い、彼女の脳裏に記憶が溢れ出す______
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