第7話 離れていく2人
「ご飯できたわよー」
台所から母の声が聞こえた。
悟は詩の手を引いて1階の食卓まで降りると、そこにはすでにスプーンとカレー、そして福神漬けがセットしており、心なしかいつもより綺麗に盛られているようにも見えた。
カレーのスパイスの香りが鼻の奥をくすぐり、悟と詩の涸れた食欲を掻き立てる。
「いただきます」
丁寧に合掌すると、悟は右手に、詩は左手にスプーンを持ち、温かなカレーを掬うとそのまま口へと頬張った。
その美味しさに、2口3口とそれは進んでいき、その様子に悟の母はご満悦な様子で笑顔を浮かべている。
「有栖川さんは悟とどういった関係なんです?」
母がゆっくりと口を開いた。
詩はカレーを食べる手を止め、お皿の上にスプーンを置く。
隣にいる悟は詩のその答えに心臓が思わず高鳴り、食べる姿勢のまま体が凍結し、その言葉に耳を傾けた。
「初めての友達です」
満面の笑みを浮かべながら詩は答えた。
隣居るだけの悟はその答えに、「生きててよかった」という熱い実感が心の奥底で沸き上がり、それ同時に詩への恋情の炎が一気に燃え上がった。
「あぁ……そうなんだ母さん。俺もクラスで初めて友達になった人なんだ」
おどおどしながら悟は答える。
どうもこの年頃というのは女子と仲がいいというのは誇らしさよりも恥ずかしさが先行してしまうようで、何か見せてはいけない恥部のようなものをまざまざと見せつけているような感覚に悟は陥っていた。
「どんくさい奴だけど仲良くしてやってねアリスちゃん」
悟の母は大笑いしながらカレーを平らげた。
いつの間にか、有栖川さんという丁寧な名前から、アリスちゃんという可愛らしい名前に呼び名を変えているところは、さすが母さんだと悟は感心した。
いつか下の名前で呼べたら……なんて妄想はするけれども、いまはちっとも彼はそんな勇気を振り絞ることが出来なかった。
カレーを食べ始めてから小一時間が経ち、気づけば時刻は20時を回っている。
食後のコーヒーを飲み終えると、詩は「そろそろ帰りますね。ごちそうさまでした」と自分の手荷物を持ち、帰り支度をした。
「悟、アリスちゃんだけじゃ夜道は危ないから家まで着いて行ってあげな」
「大丈夫ですよお母様。夜道は慣れていますし……」
「アリスちゃん。慣れていても夜道は危ないのよ。悟、これでも空手やってたから用心棒の代りにはなるだろうか今日は守ってもらいなさい」
「……はい、それではお言葉に甘えて」
ローファーを履いた詩は玄関で丁寧にお辞儀をした。
悟はジャージに着替え、「行ってきます」と母に言うと、「ちゃんと守ってあげんだよ」と背中を強く叩かれた。
その様子に悟はこっぱずかしさを感じたが、詩がクスリと笑った顔を見ると、たまにはこういうのもありなんだなと思わず心の中でガッツポーズをした。
そして2人は家から徒歩20分ほどの距離にある葉月駅に向かって、並んで夜道を歩いて行った。
「遠野くん、空手やってたんですね。意外です」
「中学の時に怪我しちゃって辞めちゃったけどね」
「私、運動音痴でスポーツなんか昔からできなくて……。武道なんてすごいですよ本当。尊敬します」
「いやぁ……それほどでも」
悟は普段褒められないところを詩から褒められ、頭の後ろを掻いた。
「有栖川さんだってピアノ出来るのすごいじゃん。僕なんてそんなセンスないから、音楽なんて全然だよ」
「そんなことないですよ」
悟は詩の横顔を見た。
その顔にはどこか寂しさが見えた。
青色の雰囲気を纏っているような、過去を物悲しく思うようなそんな表情が垣間見え、悟は思わず口を噤んだ。
以前、ピアノのことを聞いた時も同じ反応をしていたことを思い出した。
夜のせいもあるのか、お昼休みの時に見た時よりも落ち込んでいるようにも見え、よりにもよって2度も地雷を踏んでしまったことを悟は激しく後悔した。
それにしてもなぜピアノなのだろうか。悟の頭の中はそればかりが執着していた。
住宅街の静かな夜道を、沈黙しながら2人は黙々と歩いていく。
手の届く距離に詩の手があるのに、悟はその手までの20センチを恐ろしく遠く感じていた。
やがて、遠くのほうからがやがやとした音が聞こえ始め、駅前の繁華街が近いことから住宅街の道が終わりに差し掛かろうとしていた。
それは沈黙の終了の合図でもあった。
住宅街のエリアと繁華街を分断するように国道が走っており、仕事帰りのサラリーマンやOLがスマホを眺めながら、青になった横断歩道を繁華街から住宅街に向かってとぼとぼと歩いている。
その光景をきょろきょろと不思議そうに詩は見ていた。
「この時間にここくるのは初めて?」
「はい、門限はありませんけど、夜はあまり外出しないもので……」
「そっか。じゃあはぐれないでね。危ない人、結構ここら辺多いから」
そういうと、悟は横断歩道を渡りながら詩の手を優しく握った。
怯えるのでもなく、緊張するのでもなく、優しく、さり気なく。
繁華街は昼間とは程遠い風景で、そこらへんに「ワル」が溢れていた。
途中、向かいから歩いてくる男たちが悟と詩をみながらひそひそと卑しく笑い、その様子に彼女は少し怯えた表情を見せた。
ふと、悟が立ち止まり、詩は「どうしたのですか?」と呼びかける。
「昨日……なんだけどさ、多分有栖川さんの妹の"梓"さん、ここで見かけたんだよね」
小さく悟がつぶやく。
ゲームセンターの前は、昨日と同じく大音量で機械音を鳴らし、2人の会話に割って入ろうとする。
だが、人間の耳というのは不思議なもので、いくらノイズが混じろうとも、自分が聞きたい言葉、聞きたくない言葉、自分にとって都合の良いこと、悪いこと、とにかく自分事というのは自ずと聞いてしまう習性があるようで、それはもれなく詩も例外ではなかった。
「え……? 梓がここに……?」
「うん。見間違い……ではないと思う。会話もしたし」
悟が詩を見ると、そこにはいつもとは違う、戸惑いと必死さに苛まれている彼女がいた。
だが、足の方向はすでにゲームセンターへと向いている。
「ちょっとだけ入ってみようか」
そのまま、悟は詩の手を取り、ゲームセンターへと入場した。
ユーフォ―キャッチャーの合間を通り抜け、奥にある2階への階段を登った。
2階のゲームコーナーへ行き着くが、けたたましい爆音に詩は思わず耳を塞いだ。
「あそこだよ」
悟は左手の方向を指さした。
そこには、灰色のパーカーを着て、黒いヘッドフォンをした梓が昨日と変わらずに無心でスロットを回していた。
その様子に「あっ」という詩が呟き、握っていた手は小刻みに震え始めた。
「大丈夫?」
「うん……ごめんね。大丈夫」
詩は目を瞑り、ゆっくりと深呼吸する。
そして彼女は悟の手を離れ、ゆっくりと梓のもとへと歩き出した。
悟はその後を影を踏むように歩いていく。
双子というのは以心伝心というもので繋がれていると、何かの小説で読んだ覚えもあるが、彼はこの時ほどそれを身に感じたことはない。
昨日の梓は悟が真後ろにいても気付かなかったのに、残り2メートルという距離で、何かを感じた梓は回しているスロットを無視して、勢いよく振り向いた。
「おねぇ……ちゃん、どうして」
「あずさ……」
姉妹の距離はそれ以上近づくことはなかった。
詩は梓に手を伸ばそうとするが、その手は少し上げたところで止まり、そしてまた振り子のように元の位置に戻った。
梓は詩の後ろにいる悟を見つけると、詩を見る怯えた目とは違う、鷹のように鋭い目を向けた。
そしておもむろにスロット台の席から立ち上がり、靴の底で床を強く踏むようにかつかつと歩いて、悟に近づいたかと思うと、ふいにその胸倉を強く掴んで顔を引き寄せた。
悟は誰かに胸倉をつかまれたことなんてないものだから、あまりの突然なことにたじろぐ。
「お前……ふざけるなよ!」
その大声はゲームセンター中に響き渡った。
「え……いや、あの……」
「こんなところにおねぇちゃん連れてきやがって!クソ野郎!」
梓は悟の掴んだ胸倉を強く後ろに押し、彼はそのままバランスを崩し、ちょうど真後ろにあったゲーム台の椅子に勢いのまま頭をぶつけた。
彼は後頭部の強い衝撃に、視界が揺らぐ。
朦朧とする意識の中、駆け出していく梓の足音を聞きながら、その後を追う詩の後ろ姿を悟は見つめていた。