第6話 光と影
次の日、悟はわけもなく風邪を引いた。
胃が痛い、気怠い、頭が痛いといった症状ではあったが、病原菌といったものの病気ではなかった。
一種の心の病のようなものであった。
些細な行動、些細な言葉、些細な表情。
そんなものを気にしてやられてしまうなんてと、悟はまた深く落ち込んでは布団の中でくるまった。
明かりを消した自室のベッドの中でただただ意味なくスマホをいじる。
時刻を見れば10時15分と表示されていて、ちょうど2限目が始まったころ合いだろうか。
何度見てもコミュニケーションアプリには1という表示時はつかず、ついたと思ったら企業のお知らせだの、スタンプ新発売だのどうでもいい知らせばかりで悟はもじもじしながらため息をついた。
悟は本当は学校に行きたいと望んでた。
恵とバイトがつらいよとかいう話をしたり、慎之介と少年誌の漫画で馬鹿笑いしたり、隣の有栖川さんと一言でも話したいと強く思っていたが、それを思えば思うほど、体は強張っていく。
小さな不安の火種がもわもわと煙を燻し出すが、それを振り払おうとぎゅっと目を瞑り、気にしないように布団の奥へ奥へとカタツムリのように潜っていった。
そうしていつのまに時間は経過し、悟は自分が眠ったことに気づいたのはお昼過ぎのことであった。
目を覚ましたのは単純にお腹がすいたからであった。
一階のキッチンへとおり、冷蔵庫の冷凍室を開け、うどんを1玉取り出し、水の張った鍋に放り込んで火をつけた。
ボケっとしながらついスマホを開いた。
何件か通知はきていたが、その中に1件だけ、見覚えのないアイコンからメッセージが来ていた。
森の中にたたずむピアノに木漏れ日がさした画像がアイコンになっている。
名前を見ると有栖川 詩と表示されていた。
悟は思わずスマホを2度見し、震える手で通知をタップしてスワイプする。
『体調大丈夫ですか?心配してますよ』
たった一文であったが、そんな一文に悟はきゅっと心臓を掴まれた。
『ありがとう。大丈夫だよ。心配してくれてありがとうね』
ああだこうだと文章を10分ほど考えたが、考えた末、淡白な文章になってしまった。
茹で上がったうどんに温めためんつゆを入れ、素うどんを食べる。
先ほどメッセージを送ってから5分ほどしか経っていないが、すぐさま返信が返ってきた。
『授業のノート貸しましょうか?』
その返信に思わずうどんを食べる手が止まる。
悟は自分からお願いしようとしていたことが、まさか彼女のほうから提案してくれると思っていなかったために驚いたのだ。
『うん、貸してほしい』
そのメッセージを送ってからというもの、返信が返ってくることはなかった。
ちょうど時刻は4限目が始まった時間にかぶさっていたため、授業中なんだなスマホを伏せて再びうどんを食べ始めた。
お腹がいっぱいになると、ふとまた眠気が襲ってきた。
このころになると、気怠さや気持ち悪さといったものはなくなっていたものの、悟にとっては今更学校に登校する理由もないために、スマホで見忘れていたアニメ映画に没頭した。
何時間か経った頃のことだった。
ピンポーンと家のチャイムがリビングに鳴り響いた。
悟は宅配便かと思い、2本目の映画を途中で一時停止させ、インターホンのモニターをつける。
モニターに映っていたのは予想していた宅配業者ではなく、金色の髪の毛をした詩であった。
「は、はい」
思わず彼の声が裏返る。
「あ、あの、有栖川です。ノート貸しにきたんですけど……お邪魔でしたか?」
「あ、いや、大丈夫だよ。ありがとう。今開けるから少しだけ待っててもらっていい?」
「大丈夫ですよ」
そういうと悟はモニターを切り、急いで2階へと駆け上がった。
なんせ詩がまさか自分の家に来るだなんて思ってもいなかったので、上下だぼだぼのスウェット姿のだらしない恰好を見せるわけにはいかないとすぐさま私服に着替えた。
下はスリムジーンズに、シャツの上から青いニットを被る。
普段絶対家の中ではしないであろう服装に着替え、階段を下りて、玄関の鍵をガチャリと開けた。
「遅くなってごめんね、有栖川さん」
「大丈夫ですよ。そんなに慌てなくてもお待ちしておりますよ」
悟の額は気づかぬうちに汗ばんでいた。
焦って着替えたことが詩に分かられていて、彼の恥ずかしさが徐々に上昇していく。
悟は自身の緊張を隠すように、詩を家の中へとそそくさと引きいれる。
「お邪魔します」
詩はぺこりと玄関でお辞儀をして、前かがみになりながら茶色いローファーをゆっくりと脱ぎ、端に寄せた。
階段をゆっくりと登り、2階へと招き入れる。
「ちょっと散らかっちゃってるけどごめんね」
「いえいえ。私が突然押し掛けたのが悪かったですから」
悟は自室に女の子をあげるなど初めての経験であった。
初めての経験ゆえか、どう対応していいのかわからず、ひたすらに緊張し、何を話せばよいかと頭を回転させていた。
「この間ノート見せてもらったので……。私も今日の分の授業のノートをお見せしなきゃと思いまして。突然お伺いしてごめんなさい」
「いやこっちこそすごく助かるよ。中間テスト近いから取りこぼしたらどうしようって思ってたし」
「真面目なんですね、遠野くん」
「そんなことないよ。ただ、大学の推薦枠入るのに評定平均上げなきゃいけないからさ」
「そうだったんですね」
雑談で場が柔らかくなったところで、部屋の真ん中に折り畳みのテーブルを出し、その上に詩のノートを広げ、悟はそれを自分のノートに写した。
その間、詩はずっと読書に耽っていた。
途中ちらりと横目で悟は詩を見たが、その横顔は普通の女子とは違う、フランス人形のような白い輪郭を描いていて、窓辺から差し込む斜光がきらきらとその輪郭に反射して、思わずその神秘性に悟は息を飲んだ。たった3秒、悟は詩を見つめた。彼にとってこの3秒の時間は、尊い一滴の幸福を与えた。
ノートを写し始めて1時間ほどが経過したころだろうか。
ガチャンと玄関の開く音が聞こえ、「ただいまぁ」と声が聞こえた。
「え、うそだろ、はや」
思わず悟は呟いた。
「え?」という声を詩は出したが、その声は悟には届いてはいなかった。
その聞きなれた足音はぎしぎしと階段をのぼり、悟と詩のいる部屋の扉をガチャリと開けた。
「悟ー、大丈夫?誰か家に来てる―――」
悟の母は部屋にいる詩を見るなり硬直した。
詩は「お邪魔してます」とぺこりとお辞儀すると、「こちらこそ邪魔してごめんね」と見てはいけないものを見てしまったというような顔を浮かべ、そそくさと部屋の扉からフェードアウトしていった。
「ごめん、母親がこんなに早く帰ってくると思ってなくて」
「こちらこそお邪魔でしたら、遠野君がノート写したらすぐに帰りますよ」
時間も気付けば17時30分を回るところである。
普通の一般家庭なら夕食の準備時に差し掛かることを察したのか、詩は慌てるような表情を浮かべた。
ピコン。
そんな様相とは裏腹に、悟のスマホに1件の通知が表示された。
『夜ごはん食べていくなら作るよ。カレーでいいならね』
母からのメッセージであった。
「どうしたのです?」
詩は首を傾げながら、悟を見つめた。
「有栖川さんって門限とかある?」
「いえ、門限などは特にありませんが……10時頃までに帰れれば大丈夫ですよ」
「じゃあさ、夜ご飯食べていかない?お母さんがカレー作ってくれてるって」
「いいんですか!頂きたいです!」
すると2人からぐーという腹の音が鳴り、お互いがお腹をさすって恥ずかしそうに顔を赤くした。
幸い、今日の授業のノートを必要とするコマ数が少なかったせいかノートの写しは手早く済み、その後は学校での出来事を談笑していた。
「楽しそうですね、遠野君。羨ましいです」
「そんなことないさ。仲良く話せるのなんて恵と慎之介だけだよ」
「私……友達作るの昔からすごく苦手なんです。人見知りなのかもしれませんけど、どうしても人を遠ざけてしまう癖みたいのがついているみたいで。だから今学校で友達なのは遠野君だけなんです」
ふと、悟に恵の言葉が蘇る。
『―――いい評判聞かないよ』
その言葉が彼女の輪郭をぼやけさせ、悟は肝心な一歩を踏み出せずにいた。