宝石
高校二年生のある夏の朝だった。首に何か引っかかるものがあるなと思って鏡を見た。かすかに光ものがあった。
信じられなかったけど、恐らく私は四月生まれだからダイヤモンドだ。
宝瘤病。
十代で、細身の女子が罹りやすいと言われている病気。大抵、美人の子がなるから、美人病とも呼ばれている。症状としては、身体のどこかに宝石の結晶が出来る。顔や手といった人目に付くところに出来やすく、症状が出ると隠すのが難しい。根本的に直すため必要なことは、手術とか投薬ではなく、その人の一番大きな悩みを解決すること。症状が治って取れた宝石は、綺麗な女の子から産まれたものとして闇取引で法外な値段が付いて売れるらしい。聞くだけで反吐が出る。
中学三年生だったとき、学年一位で容姿端麗なクラスメイトがこの病気にかかった。彼女は利き手の右手の指に宝石が出来てしまい、左手での勉強を余儀なくされた。周りからは奇異の目で見られて可哀想だったけど、指先に輝くサファイアはとても綺麗だった。彼女は九月生まれだった。それに、宝石がなくてもあんなに綺麗で何でも出来る子でも悩みが出来るものなんだなと思ったものだった。何より他人事にしか捉えていなかった。
なお、結局彼女の症状は卒業式直前まで続いた。どうやら彼女の悩みは受験だったらしい。親が教育熱心で、この辺りで一番の進学校の特進コースを目指していた彼女は、かなりプレッシャーを感じていたようだ。症状のために受験勉強の後半からは思うように勉強出来なかったこともあってか、彼女は第一志望に落ちた。それでも、卒業式の彼女はさっぱりした顔をしていた。胸元に輝く、彼女から産まれたサファイアのブローチも綺麗だった。
そんな病気に私も罹った。しかし、私には悩みの心当たりがなかった。尤も、この病気に罹った人のほとんどが悩みなどないと言うらしいのだが。
発症してから三日もすると、ダイヤモンドの結晶の大きさが直径一センチ四方くらいにまで成長してしまったので、絆創膏では隠しきれなくなった。私の通う高校はセーラー服で、しかも夏で露出が多いから隠すのが難しかった。学校では「やっぱり萌衣って美人だもんね」などと持て囃された。誰も私の悩みの解決のために動こうとなどしてくれなかった。きっと中三のときの彼女もこういう気持ちだったのだろう。
宝瘤病が、発症してから治るまでに長い年月を要する要因の一つに、私の周りのクラスメイトのように、誰も患者のために動こうとしないという環境的要因もあると言われている。「やっぱりあの子はかわいいから」、「宝石、綺麗だね」などと言うだけで、患者の悩みを探ったり解決しようとしたりする人がいないのだ。前述の彼女は半年ほどで治ったが、あれは全体から見ればかなり早い方で、一年以上かかるのが一般的とされている。
家に帰ると、母が疲れた顔でパソコンのモニターをのぞき込んでいた。どうやら宝瘤病を取り扱うまとめサイトを読んでいるらしい。
宝瘤病には二つの治療がある。一つは、悩みを解決するための心療内科や精神科。二つ目は、大きくなりすぎた宝石を切除する対処療法としての皮膚科だ。
宝石の成長進行ペースは千差万別だ。私はたった三日で隠しきれないほどの大きさになってしまったから、進行が相当早いほうだと思う。最初は首だけに出来ていた宝石も、頬にも出来始めていた。
「明後日の午後、この病院に行こう」
母が私にモニターを指し示した。家から車で一時間ほど行ったところに、宝瘤病専門外来のある大学病院があるようだ。精神科と皮膚科での診察や治療をワンストップで行えるのだという。
「明後日の午後は部活なんだけど」
「そんなに進行度早いんだから、放っておくわけにいかないでしょう」
「剛はどうするの」
弟の剛には、自閉症スペクトラムと軽度の知的障害がある。今は精神状態が不安定で学校に通わずに通院している。母が疲れた顔をしているのも、剛の世話で精一杯だからだ。
「剛はお父さんに頼むよ。だから部活休んでね。お姉ちゃんがちゃんとしてくれないと、この家大変なんだから」
部活は休みたくないけど、確かにこのまま放っておくとそのうち宝石のせいで楽器を背負えなくなるかもしれない。諦めた私は「……分かった」と返事をして、自室に向かった。
「あら、剛くんのお母さんですよね。お久しぶりです」
「ああ……」
土曜日、病院に行くと、診察室で待っていた精神科の先生が母の顔を見て声を上げた。母は少し表情を曇らせた。
聞けば、剛がまだ幼稚園児だった頃にこの病院に通っていて、そのときの主治医がこの柳先生だったのだという。ただ、柳先生と剛の相性が悪くて、二年で別の病院に変えたそうだが。
「では、ここからは萌衣さんのカウンセリングになるので、お母様は待合室でお待ちください」
「はい」不安そうに母が診察室を出て行くのを見送ってから、先生は口を開いた。
「改めて、はじめまして」
「はじめまして。弟がお世話になりました」
「剛くんのことは今は置いておいて、あなたの話を聞かせてもらいたいな。それ、きれいねえ」
先生が、私の首元からニョキニョキと生えたダイヤモンドを触ろうとしたので、私は首を引っ込めた。結局、先生も宝石しか見ていないではないか。
「ごめんね。嫌だよね、こういう言い方」
「はあ」じゃあ言わなきゃよかったのに。
「何か思い当たる悩みは……なさそうだね」
思い当たる節があったら宝瘤病になってないし、思い当たる節がないからこうして来院しているのではないか。
それから二、三、質問された後に、先生から宿題を出されて、その日の精神科の診察は終わった。私の宝石の成長具合が早いので、その後は皮膚科で今出来ている分を出来るだけ取り除いた。
宿題というのは、自分史の作成だった。産まれてから今までで「悩み」をテーマに出来事を年表の形にするというものだ。と言ってもまだ十数年しか生きていないのだから、大した出来事もないのに、何を書けというのだろう。
二週間後、二回目の診察で、私は先生に自分史を提出した。先生は、私の自分史をフンフンと言いながら読んだ後に「宿題をやって来てもらっておいて申し訳ないけど、これ、萌衣さんの自分史になってないよ」と指摘された。
「え?」
「だってこれ、ほとんど剛くんのことしか書かれてないよ」
「そうですか?」
改めて見返してみると、私が書いているのは確かに剛のことばかりだった。弟の症状が出始めたとき、確定診断を受けて両親が私たちの目に触れないところで泣いていたとき、弟が普通学級に進学を断られたとき、等々。私の悩みと言えば、中学で吹奏楽部に入部して、テナーサックスをやりたかったのにクラリネットになったことくらいしかなかった。
「あまりこういう言い方は失礼かもしれないけど、剛くん、大変だよね」
「まあでも両親が頑張って接してますし、私は私のことをやっていればいいだけですから」
「自分のことは自分でやりなさいって、小さい頃から言われたの?」
「そうですね、『お姉ちゃんなんだから』とはよく言われます」そう言いながら、何か自分の中で脈打つものを感じた。
先生は深く頷いた後「次回の診察は、ご両親を呼んでもらえますか。剛くんも来ていただいていいですから」と言った。今日は私一人だけで電車を乗り継いで来ていた。
「あまり親の手を煩わせたくないのですが」
「あなたの病気を治すには親御さんが必要不可欠なんです」と言って先生は手紙を渡してきた。「家に帰ったら、これを親御さんに渡してください。で、次回は皆さんで来てください。お願いしますね」
「はあ」
それからさらに二週間後、先に皮膚科でダイヤを削った後、私たちは先生のところを尋ねた。
「今日は皆さんありがとうございます。早速ですが」と先生は資料を渡しながら説明を始めた。「恐らく萌衣さんの宝瘤病の原因は、ご両親に『お姉ちゃん』を強いられたことだと思われます」
「は?」母が資料から顔を上げて先生を睨んだ。
「剛くんの世話でお二人が精一杯なのは分かります。でも、そのしわ寄せが萌衣さんに行ってしまって、今回それが宝石となって爆発したのだと思います」
「私たちはちゃんと萌衣の世話をしていますよ。ちゃんと本人が希望した高校にも通わせていますし」今度は父が反論した。
「そういう、経済面ではないんです。ネグレクトをされているとも思っておりません。ただ、今まで、お二人が剛さんにかかりっきりで、萌衣さんを放っておいたことが多いと思うんです。実際、萌衣さんも非常に良く出来る子だから、二人の要望にちゃんと答えてきた。だけど、これからはお二人に二つ、実践して欲しいことがあるんです。一つ目は『お姉ちゃんなんだから』と言わない。二つ目は、一日一回は二人で萌衣さんを抱きしめてあげる」
「高校生にもなってですか?」母が呆れたような声を上げた。「私たちの愛情不足が原因だったと言うんですか」
「じゃあ試しに今ここでお二人で萌衣さんを抱きしめてください。それで何の効果もなかったら、してくださらなくて結構ですから」
母はかなり反発していたが、先生もあくまで強気だった。仕方なさそうに、母は握っていた剛の手を離して横にいた看護婦さんに剛を見守るようにお願いした後、私の元に来た。父も寄ってきた。そして二人が私を抱きしめた。
この感覚はいつ振りだろう。いつだったか思い出せない。少なくとも中学以降はないはずだ。もしかしたら、剛が産まれる前まで遡るかもしれない。
二人が手を解き、私が頬をポリポリと掻くと、ダイヤのかけらが床に落ちた。自然とダイヤが剥がれたのはこれが初めてだった。
「ほら、これが証拠です」先生がダイヤを拾い、私に渡した。「これから毎日、ハグしてくださいね」
それから少しずつ私の症状は改善した。最初の発症から三か月経った頃には、ほとんどダイヤモンドは生えなっていた。結果として、宝瘤病にしては私の快復はとてつもなく速まった。学校でも、私が早々に治ってしまうのがつまらないようで、そのうち宝瘤病のことについて誰も何も言わなくなった。
家では、あれから大学進学のために一人暮らしを始めるまで、症状がなくなってからも、毎日両親は私をハグしてくれた。今となっては、帰省する度にハグするのが習慣となっている。