<落日(らくじつ)荘 201号室>
<落日荘 201号室>
夏至が近づく六月初旬ともなれば、
午後七時を過ぎても外気はまだまだ汗ばむ高さで、
古い木枠の硝子窓を覆う薄い安物のカーテンの隙間から差し込む西日が、
真柴直夫の苛立ちを更に高めていた。
自称フリーランスのITコンサルタント業という直夫の実態は、
無職のプータローであり、まとまった月次の収入などはない。
日々三度の食事にも困窮しているなか、
住処としている落日荘の月1万円という破格の家賃さえも滞納していた。
そして遂に、数日前から電話とメールに特化した安物携帯と、
電気・ガスの供給も止められてしまった。
携帯は止められても、借金返済の催促が来なくなる利点があったが、
電気とガスを止められると、インスタントラーメンの湯を沸かすことさえできなくなる。
腹減った・・
これで水道まで止められたら、遠い旅にでも出るか。
具体的なアイデアもなく、直夫はそう考えた。
自殺?
いやいや、そんな勇気など自分にはない。
少なくとも、生きることに対し必死にもがくだけのプライドはまだ残っている。
プライドを捨てて考えれば、
日用雑貨や食べ物は万引きで手に入れる方法もあるだろう。
金銭的には、アンダーグラウンドな稼業に手を染めることもできる。
実際誘惑に負けて警察に何度も厄介になり、
掘の中で余生の大部分を過ごす輩も少なくは無い。
雨風を凌げて寝床があり三食付きの掘の中。
考えようによっては、今の自分より余程ましな生活かもしれない。
自嘲気味に、直夫は掘の中の生活に思いを馳せた。
コン コン コン ドンドンドンッ
誰かが入り口のドアを強く叩いている。
直夫には、心当たりがあった。
『はい、どなたですか』
直夫は、ゴミで散らかった四畳半の僅かに残された隙間から立ち上がり、
レジのポリ袋や空になったインスタント麺のカップを左右に掻き分け、
入り口近くまで歩み寄った。
『大家の嶋谷ですがね、今日こそ家賃をいくらかでも払って貰わんと、
出て行って貰うしかないよ。さあこのドアを開けておくれ』
直夫の予想通り、ドアの外に立っているのは、
御年89歳になる大家の嶋谷初江だった。
初江は、直夫の部屋の真下にある101号室に独居するオーナーである。
この六戸建ての古アパートが完成してから約50年。
新築の頃は、風呂無しで形だけ台所用シンクタンクが付いている四畳半でも、
立地の良さで月5万円近く稼げた。
しかし現在は、近隣にいくつかあった銭湯が殆ど廃業しており、
初江の部屋を除いた5部屋に、
月一万円の家賃をやっと払える類いの住人だけが住んでいた。
『えーと、へやがとっ散らかってるんで、
申し訳ありませんが、もうちっと後に来て貰えませんか』
直夫は、初江がまもなく催促に来る頃であると経験上察していた。
しかし余りにも腹が減りすぎて、
大家が来る前に逃げるタイミングを失っていた。
ここはひとつ、なんとか誤魔化してやり過ごすしかない。
『ばか言ってるんじゃないよ、
アンタの部屋が汚いのは毎度じゃないか。さっさとここを開けな』
初江の勢いは更に増すばかりである。
老朽化が進み錆だらけの外階段を苦も無く二階まで駈け上がる姿は、
89歳の齢を微塵も感じさせない。
直夫は、観念したかのように首を左右に振り頭を掻いた。
そしてドアノブのストッパーを片手でカチリと外し、
コンパネで補強された玄関の戸を10センチほど外に押し出した。
直夫の遥か下方、怒りに目を剥く小柄な老婆の姿があった。
『どうも毎度お世話になってます、おばあちゃん。
今日はたいへん蒸し暑かったですね』
直夫はぺこりと頭を下げ、精一杯の笑顔を演出した。
ここからどのように話を持っていくか、素早く策を巡らせる。
直夫にはコンサル業を自認するだけあり、
人との応対には非凡な才能があった。
今回も起死回生の一発で、爆発寸前の大家を納得させねばならない。
『なんも、年取るとな、暑さも寒さも感じなくなるのさ。
ほれ、今持ってる金、そっくり全部出しな』
皺だらけの手を差し出し仁王立ちする初江を西日が赤々と照らし、
芸術的なデフォルメにより更に威圧感が増している。
『あ、大家さんのテレビ、まだアナログだったでしょ。
確かDAコンバーターで視聴してましたよね。
あれね、俺んとこのデジタルTVと交換しましょうか。
そしたら、大家さんの大好きな杉平健とか松良太郎のドラマが、
今からはっきりくっきり見えちゃいますから』
確かに直夫の部屋には、
四畳半に不似合いなほど大きい40インチの4k対応テレビが置いてあった。
昨年末、商店街の福引きで特賞を引き当てた代物である。
『す、杉さまだと・・・松さまもか!
はっきりくっきり、むぅぅぅ、お主なかなかやるのう。
お前のテレビで、はっきりくっきり、杉さまと松さまを毎日とな。
ええい、ままよ、今まで溜まった家賃は勘弁してやる。
だから、早う交換を始めておくれ』
まさか、このおっかない婆さんがテレビに食いつくとは思わなんだ。
まあ今時の年寄りは、テレビぐらいしか楽しみが無いんだろう。
直夫は内心ほくそ笑みながら、更にたたみかけた。
『ありがとうね、おばあちゃん。
今からテレビを下に運ぶから待ってて。
でもね、俺ここ3日ほどロクなものを食ってなくて、
力が全く入らないんですよ』
直夫は最大のピンチを脱しかけているが、
それを初江に悟られてはいけないし、
空腹で力が入らないのも決してウソではなかった。
『そうかそうか、なら先に下でメシを食え。
腹が膨れたら、テレビを付けてくれればいい。
お前の口に合うかわからんがの』
初江の瞳は、憧れの人気俳優の映画やドラマが、
自宅ではっきりくっきり見ることができる期待感に満ちあふれ、
さながらアイドルを待つ少女のように輝いていた。
直夫は最大限の努力で平静を装い、
足取り軽い大家と共に、よろめきながら階段を降りていった。
こうなれば、いけるところまでいこう。
とりあえず、有料の時代劇専門チャンネルのセッティングもしてやれば、
しばらくは、食事もありつけるかもしれない。