精霊講・洞窟
◎精霊講
そして紳士は語り始めた。
そもそも、勇者というのは何者だと思う?
伝説の英雄? 間違ってはいないがそれが全てではない。
勇者というのは、職業なんだ。
といっても、それはパン屋とか皮なめし職人というのとはもちろん違う。
それは人間が生まれ持った使命のようなもので、謂わば天職というべきものなんだ。
つまりそれは星が決めるんだ。
結局星の話かよって?
まあ、話はこれからだよ。
天球上の十二宮と惑星の配置によって、稀に勇者のような傑出した人類が生まれることがある。
これがエステル先生の言う「下の物は上のごとく」っていうことだね。
けれどもこの賢者の言葉は、後にこんな風に続いているんだ。
「上の物は下のごとく」
ってね。
要するに星が地上を律するように、地上もまた星の世界に影響を与えることができるっていう理屈だね。
その思想を突き詰めて研究した人が、カリスマ錬金術師ヘルペス博士だ。
博士が星の世界に干渉するために採用したのは、精霊を利用する方法さ。
もちろん並の精霊じゃない。四大元素の精霊だよ。
こいつらを丁重にお祀りして、随分とご機嫌を取って、天と地の仲人役に据えようというわけだ。
ほら、君もこの世界が火風水土の四つの元素から成っていることは知っているだろう。
この四元素、実は天空にも存在しているんだ。
例えば黄道上の十二の星座宮にはこれらの元素がそれぞれ配当されている。
星座宮と惑星の位置関係によって、エレメントのバランスも変化する。
もしその状態を再現することが出来たら、特定の星の配置を疑似的に作り出せるのではないか? 博士はそう考えた。
結論から言えば、この目論見は成功した。
博士は、天界の元素のバランスを調整することで、地上に任意の奇跡を起こす術を確立したのさ。
そうして博士は、精霊を奉斎し自らの術を大規模に実践するために、秘密結社を作った。
「精霊講」と呼ばれるこの組織は、表向きは、信心深い職人ギルドの寄り合いの体を取っているが、その実態は星の力を勧請するオカルト団だ。
博士の理論は、教団の秘儀として体系化され、選りすぐられた講員が英雄に改造される。
この人造英雄は、彼らの間では獣帯士と呼ばれている。
こいつらは、十人力の腕力と、強靭な肉体、そして職業を持っている。
なんでも、その職種に応じて、色々な奇跡をおこなうことが出来るらしいよ。
それでねシグルド君。
「精霊講」は儀式を行う際、占星術でしかるべき時と場所を定めるのだけど
今回選ばれたその場所が例の洞窟だと言ったら出来すぎた話だと思うかな?
いや、こんな話を君にして、どうしろというわけじゃないよ。
まさか行ってみろなんて言えないよ。良識ある大人としてはね。
そうだね。
仮に君がダンジョンに行って、儀式の現場を押さえたとしても、そのまま即入団、奇跡のおこぼれに与れるなんてことにはならないだろうね。
それとも土下座して頼んでみるかい?
それより命乞いのセリフを考えた方が賢明だと思うよ。
秘密結社なんだから、君をただでは返すまいよ。
そんな理屈は君にもわかってるだろう。
にもかかわらず君はもう行きたくなってるんじゃないかな?
こんな胡散臭い男のいかがわしい話に人生を賭けてみようかと思い始めている。
今君の胸で疼いているものの名を教えようか?
それは自由意志というんだよ。
神様から与えられた人間の特権さ。
こいつだけは星の光にも征服できない代物だ。
奴らだって万有の主には遠慮するからね。
だからこそ人間は、この自由意志を駆使して、運命に抗い未来を切り開くことが出来る…というのは勿論きれいごとだよ。
逆に俺は、自由意志なんて人間に馬鹿させるためにあるんじゃないかと思うよ。
だって神様は人間に無垢で従順であることを期待しているんだろう。全能の神なんだからはじめからそうなるように創造すりゃあよかったんだ。
だけど、人間には自由意志なんて罰当たりな長物が与えられている。
これはもう壮大なフリだよね。
お陰様で人間は今まで随分と馬鹿なことをしでかしてきた。
食べるなと言われた木の実を貪り、見るなと言われれば垣間見、押すなと言われれば熱湯へと突き落す。悲しいくらいに、僕たちはそういう風にできている。
禁止されるほどに自由意志が疼くようにね。
無責任な人は、よく「悪魔に誘惑された」なんて言うけど、それは間違いなく自分で選んだことなんだよ。
だから君がダンジョンに行きたくて仕方ないとしたら、それは君自身がそう思っているんだよ。
君は今、常識に遠慮したり、エステル先生の愛情に絆されたりして、柄にもなく利口な振る舞いをしている。
そうやって、自分を押し殺しているから自由意志が拗ねているんだよ。
僕を見て。僕は君の一部だよって。
その声に耳を傾けるかどうかはそれこそ君の自由だ。
どんな選択をしても俺はそれを尊重するよ。
君がその結末を、自分の責任としてきちんと受け入れる覚悟があるならね。
そうだな。たとえ未来を切り開けなくても、死にかけてるような今を切り捨てることはできるかもしれないよ。
おっと、これじゃあ、まるで俺がそそのかしてるみたいだね。いいかいくれぐれも行ってはいけないよ。
◎洞窟
後日、シグルドの姿は洞窟にあった。
地下ダンジョンの最下層。今は、魔物の住み処となり果てた、鍾乳洞の奥の奥。
十重二十重にそそり立つ鍾乳石の間を縫い、その地に足を踏み入れた、というよりも岩陰から覗き込んだシグルドの瞳にそれは飛び込んできた。
―おっぱい。
白く豊満な乳房がシグルドの目を奪った。
正確には、彼が最初に見たのは光だった。
洞窟はどこも真の闇で、「琥珀電球」のかすかな灯りを頼りに進んできた。
琥珀電球は、エステルの考案した錬金アイテムで、琥珀を摩擦することによって生じる微弱な電気が、中に閉じ込められた蛍を刺激して異常興奮させるというとち狂った照明器具である。
この瞬間も、蛍が交尾しているのかと思うと、童貞のシグルドにはおもしろくなかったが、それでもこの暗黒の中で、唯一きらめく希望の光なのだ。
その貧弱な灯りを一瞬で呑み込んでしまうほどの光がその空間を満たしていた。
眩しさに一瞬目がくらむ。
徐々に回復してきた視界の端に、今回のクエストの目的である薬草が生い茂っているのが見えた。
しかしすぐにそんなものはどうでもよくなってしまった。
目の前に、裸の女がいたからだ。
打ち捨てられた薬草畑。
踏みしめる地面が柔らかいのは、かつて人の手で運ばれた土が一面に敷き詰められていたからだ。
それも、今は成長を続ける鍾乳石に覆われて、至る所で石筍がそそり立っていた。
その岩間に地下水が流れ込んで出来た水たまりで、若い女が水浴びをしていたのだった。
美しい女だった。
水たまりの中に座して、上半身を後ろの大岩に預けていた。
肌がミルクのように白い。
その白い乳房に、燃え立つような赤い髪が掛かっていた。
女が少しでも体を動かせば、その髪の毛に隠れた乳首までが見えそうだった。
いや、髪の色と同化しているだけで本当はその薄桃色の蕾は見えているのかもしれなかった。
シグルドは、咄嗟に岩陰に身を隠しながら、彼女の一挙手一投足を凝視していた。
無論、それはいやらしいデバガメ根性からではない。
むしろ冒険者として当然の警戒心であった。
―自分は魔物に化かされているのではないか。
シグルドはそう思った。
ただでさえ険阻なこの洞窟には、多くの魔物が棲みついていたし、奴らの牙に掛かり果てた冒険者の屍もいやというほど目にしてきた。
ここは女子供がピクニック気分で足を踏み入れて、暢気に水浴びなどしていていい場所ではないのだ。
シグルドは恐らく、自分だけがこの場所に辿り着いたのだと考えていた。
証拠は、この薬草だ。
辺り一面には、彼らのクエストの目的である「常闇草」が手つかずのままに生い茂っている。
常闇草と言うのは、暗闇の中で育つ特殊な草でかつて、長雨の際の救荒作物として注目されたが、今では出涸らしのお茶よりも栄養が少ないことが分かっているという代物だ。
その雑草が再び脚光を浴びるようになったのは、とあるカリスマ錬金術師が「これこそが鉛中毒に多大な効能を示す万能薬である」と触れ回ったからであるという。
尤もエステルに言わせればそれも胡散臭い話であるという。
「常闇草にそんな効能があるなんて聞いたこともありません。そのカリスマとかいう人も胡散臭いですね。錬金術師の中には人をだましてお金を巻き上げる山師みたいな人も多いんですよ」
そう、自分のことを棚に上げてプリプリと怒っていたのをシグルドは覚えていた。
元よりシグルドにとってそんなことはどうでもよかった。
彼の目的は、あくまで精霊講だった。
それでも、このつまらない草のために大勢の人が命を落としたこともまた事実である。
そのことに思いを致すと、しんみりとした気分になる。
奇妙な感傷に襲われたシグルドは雑嚢から一束の護符を取り出した。
護符には様々な魔術的効果がある。
今シグルドが手にしているそれのご利益は、恨みを抱えた魂を慰撫し、天国への旅路を守護することであった。
それはエステルが書いた護符であり、うっかり殺してしまった患者の逆恨みから自らを守るために作成したものであった。
シグルドはそれらをそっと足元にバラまいた。
鎮魂のためである。
(俺は、無念のうちにこの洞窟に斃れた無数の冒険者の志を継いでいるのだ。同志たちよどうか安らかに至高天へと旅立ってください。そして我に幻影を打ち破る勇気を与えたまえ。)
シグルドの胸は、冒険者の矜持にはち切れそうであった。
よもや女性の美しさなどに惑わされようはずがない。
彼も世間並みに助平な男の子だったが、助平に冒険者の魂を売り渡すほどの見下げ果てた助平ではないのである。
女が水たまりから立ち上がった。
ガバッ。
シグルドは思わず身を乗り出す。
薄桃色の乳首はもとより、引き締まったお腹、くびれた腰、むっちりとした太ももまですべてが露わになった。
そして、もちろん太ももに縁どられた、その三角形の領域までもが…。
(―黄金郷!)
シグルドは心の中で喝采した。
もう我慢が出来なかった。
がちゃがちゃがちゃ。がちゃがちゃがちゃ。
皮のベルトは湿気を吸って縮みあがり、なかなかバックルから外れてくれない。
シグルドが熊に襲われたのは、そんな時だった。
全神経を裸体とベルトに集中していたので、背後からぬっと現れた阿呆熊にとっさに反応することが出来なかった。
阿呆熊は、世界でもパーデンネン王国の山岳地帯だけに棲息する魔物である。糞穢のような黄色地の体躯に、腹の部分だけが血のような緋色というカラーリングが特徴的な怪物だ。
主食は蜂蜜だが人殺しが大好きな熊である。
その殺意に満ちた気配に振り返った瞬間、左肩口から右わき腹にかけて、袈裟掛けに熊の爪を受けた。
「うわああああ」
痛みに悶えるシグルドの前に立ちはだかったそれは、体重二百キロ以上はあろうかと思われるほどの巨大な獣だった。
その巨体が、雪崩のようにシグルドに覆いかぶさってきた。
シグルドは恐怖のあまり目をつぶった。
全身の細胞がやんわりと死を受け入れ始めた。
しかし、その瞬間は一向に訪れなかった。
訝しく思い、眼をあけると、そこには顔面に鍾乳石が突き刺さった熊がもだえ苦しんでいた。
「お兄ちゃん伏せて!」
よく通るソプラノの声が洞窟に轟いた。
声の方を振り向くと、女が背を預けていたあの岩の上に一人の少年が立っていた。
その少年は、身の丈に不釣り合いなほど大きな弓を携えていた。
限界まで引き絞られたその弦には、人体よりも少し大きい岩が番えられている。
それは奇妙な光景であった。
歪な岩の塊が、尋常の理を超えて、行儀よく弦に固定されているのだった。
シグルドは尻餅をつくようにその場にへたり込んだ。
少年が弓の弦を離す。
シグルドの頭上を大岩が飛び越えていく。
熊の頭が爆ぜた。
血と肉片が飛び散り、シグルドの上にも降り注いだ。
呆然とその光景を眺めていたシグルドに少年は続けて言った。
「お兄ちゃん、そこ危ないと思うよ」
見ると、頭部を失った熊の体から、濛々と煙のようなものが噴き出していた。
(あれは、鉛瘴気…)
―逃げなければ。
ぼんやりした頭でそう思うのと、自分の体が痺れて動かなくなっているのに気付いたのはほぼ同時だった。
あっというまに広がった瘴気が、シグルドを包み込み、そして…。
刹那、女は十メートルに近い跳躍を見せた。
水たまりから、シグルドの所まで人ならぬ脚力で飛んだのである。
瘴気のカーテンの向こうに女の影がシグルドのもとに降って来るのが見えた。
女は、いつの間にか下着を身に着けていて、その両腕には一振りの長い剣を握っていた。
その剣は、光っていた。女がその剣を振るうのに合わせて、洞内の明かりも揺れた。その剣こそが、この洞窟を満たす不思議な光の源なのだ。
女の顔は笑っていた。
肉食獣を思わせる獰猛な笑みだった。
着地とほぼ同時、女は熊から吹き出る煙を両断した。
その時瘴気が凍った、かのようにシグルドには見えた。
半分ずつになった気体は、その形のままに二つの金属の塊となって地に鈍い音を立てた。
その片割れは、なおも熊の胴体と繋がっていた。
「ふしゅううう」
獲物を仕留め終えた女は、内なる狂気を排出するかのように細く長い息を吐き出し、その剣を岩の上に突き立てた。
剣は熱せられた金属に特有な赤い光を放ち、その明かりが洞内を照らしていた。
その時、シグルドは女の胸のあたりに先ほどまではなかった紋章が浮かんでいるのに気付いた。
炎の図柄に縁どられた盾形模様。その銀色の地の上に火蜥蜴と剣が交差して描かれていた。
その模様が、女が息を吐き出すのに合わせて次第に薄れていくのだった。
「しゅ、しゅごい…」
シグルドは、鉛の毒で萎え切った体に鞭打って、女の足下にいざり寄った。
先ほどまで紋章が浮かび上がっていた女の乳房に露骨でぶしつけな視線を注ぐ。
彼の瞳は、畏敬の念にきらきらと輝いていた。
冒険者に成って早三年。
その日初めて、シグルドは奇跡というものを目の当たりにしたのである。
少年は巨岩を射、美女は瘴気を凍らせた。
まさにそれこそが、シグルドのあこがれ続けた冒険者の世界なのだった。
「すごい。すごい。これは並みの魔法じゃない。星の力ですね? あなた方のジョブは何ですか? ヘルペス博士もこちらにいらしてるんですか?」
熱っぽく問いを発するシグルドに、返って来たのはしかし、答えではなかった。
―ごちん。
ものすごい勢いで、頭上に拳骨を落とされた。
「お前は、人に助けてもらったとき何て言うのか、お父さんお母さんに教わって来なかったのか?」
すごい剣幕だった。
美人が怒るとこんなに怖いのかとシグルドは思う。
「ご、ごめんなさい。ありがとうございました」
女は、むすっとした表情のまま、シグルドに手を差し伸べた。
「ほら、一人じゃ立てないんだろう?」
シグルドは、恐る恐るその手を取った。
とても、女とは思えない乱暴な力で引き上げられる。
「ありがとうございます」
良かった。今度は、ちゃんと言えた。
突然、万力のような力で、腕を締め上げられた。
「ぎにゃあああ」
すごい剣幕だった。
これが、怒り顔だとすれば、さっきまでのあれは微笑である。
憤怒の形相が、美女の顔じゅうを染め上げていた。
釣り上がった眦には、まだ瘴気をぶった斬った時の殺意が燻っている。
「てめー、この紋章は何ごとだ?」
そう言って女が高々と掲げた腕に連なるシグルドの左肩には、彼女と同じくらい物々しい意匠が刻まれていたのだった。