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語る女

作者: 三坂淳一

『 語る女 』


 果物に(しゅん)があるように、人にも旬というものがある。

 あたしは、旬というものは何も果物ばかりではなく、人にもあると思うのだ。

 さて、『あのひと』の旬はいつだったのだろうか。


 あたしは思うのだ。

 人が人を語るということは難しい。

 どうしても漠然とした表現になってしまい、具体的なイメージは伝わらない。

 逸話で語る、ということが一番簡単であろう。

 さて、『あのひと』のことを逸話で語ることとしよう。


 あたしはどうも、B型の人間に振り回される運命にあるらしい。

 第一、『あのひと』がそうだった。

 本人は、A型が混じったB型だよ、と言っていたが、あたしの眼にはそうは映らなかった。

 典型的なB型人間だった。

 あたしがイメージするB型人間というのはこうだ。

 マイペース、ひとりよがり、自分勝手、自分をいつも正当化する、口がうまい、ノー天気、KY、細かいことに拘る割にはいいかげんでズボラ、無神経、実にしぶとい、などなど、もっと一杯、一杯あるのだ。

 そして、血液型には相性というものもある。

 あたしはO型で、B型人間に弱いのかも知れない。

 きっと、そうだ。

 これは間違い無い!

 何だかは知らないが、あたしのまわりにはB型のお姉さま方が多い。

 付き合っていると、いつの間にか、あたしに対してリーダーシップを発揮してしまう。

 妙に、振りまわされてしまうのだ。

 どうも変だなあ、おかしいなあ、と思っていると、何かの弾みでその人の血液型が判明することがある。

 ほとんど例外なく、その人はB型なのだ。

 本当に嫌になってしまう。

 『あのひと』には本当にイライラさせられてしまうことが多かった。

 年末で、家の大掃除を始めていると、『あのひと』が会社から帰って来る。

 普通なら、しょうがないなあ、と思いながらも妻の仕事を手伝うのが夫たる主人の務めだろう、とあたしは思うのだが、横目で見ながら、そそくさと近くのゴルフ練習場に行ってしまうのだ。

 岐阜に居た頃なんて、もっとひどかった。

 こっちは四人の子育てでお化粧する暇も無く、ばたばたと動いているのに、休日にも出勤すると言って、会社かどうかは知らないけれど、いつの間にか家から居なくなってしまうのだ。

 挙句(あげく)の果て、あたしが病気になり、寝込むようになってから、ようやく家事を手伝ってくれるようになった。

 手伝ってくれるのはありがたかった。

 料理も結構上手だった。

 僕は品質管理のプロだから、君と違って、マニュアル通り作るんだ、旨いのは当たり前だ、と自慢しながら言う。

 でも、洗濯だけは駄目だった。

 白物でも、黒っぽい色物でも何構わず、いっしょくたにして洗濯してしまうのだ。

 後で、黒のTシャツに付いた綿屑をガムテープで取る羽目になってしまうのだもの。

 本当に、B型亭主を持つと苦労が絶えない。


 体は結構丈夫なほうだったけれど、大きな病気をした時には本当にびっくりした。

 『あのひと』はクモ膜下出血に罹ったことがあるの。

 もう、十年も前のことだけれど、あの時は本当に驚いたわ。

 前日、確か日曜日だったけど、『あのひと』は岡山に行った。

 工場で開かれる月曜日の会議に出席すると言い残して。

 そしたら、月曜日の午後、家に帰って来たの。

 あら、随分早いお帰りね、と玄関に迎えに出たあたしはびっくりした。

 だって、その時の『あのひと』の顔は()(さお)だったから。

 具合が悪いの、と訊くと、頭が痛くてかなわないから、出張を取りやめて帰って来たと言うの。

 それが、クモ膜下出血の初期症状だった。

 その夜は全然眠れなかったみたい。

 第一、首筋が痛くて横にもなれないし、頭がガンガン痛むとも言っていた。

 翌日、朝、自分の車を運転して会社に出勤して行った。

 全然、首が回らず、後ろ向きに駐車する時は本当に辛かった、と後で話していたけれど。

 そして、休暇を取る旨、部下に告げて、糖尿病でかかっている病院に行ったの。

 その後、病院から電話がかかって来て、ご主人が緊急入院することになったから、パジャマなどの支度をしてすぐ来て欲しいと言われた時は頭の中がぐらぐらとしたわ。

 病院に行ったら、クモ膜下出血の疑いがあるので、これから最寄りの脳外科病院に搬送しますということを告げられた。

 あたしは、目の前が真っ暗になるのを感じたわ。

 だって、クモ膜下出血というのは死亡率が高い病気だもの。

 その頃は三人に一人は死ぬ、と言われてもいたし。

 『あのひと』が死ぬ、あたしと四人の子供を残して。

 まさか!

 まだ、『あのひと』は五十歳で、あたしは四十三歳、上の子供は二十歳の大学生で、下はまだ十五歳の中学生よ。

 悲嘆するな、と言うほうが無理な話よ。

 それから、二ヶ月もの間、あたしは一日も欠かさず、『あのひと』が居る病院に通った。

 後半、完治したかどうか、最終検査をするために、伊勢原にある大学病院に移った時もあたしは一日も欠かさず、片道一時間半もかかる高速道路を走って、『あのひと』の病院に通った。

 幸い、開頭手術も無く、抗生物質だけで完治することができた。

 お医者さんの話では、ご主人のような幸運な人は二、三%ですよ、ということだった。

 あたしは、普段は神様なんか信じないほうだったけれど、その時ばかりは柄にもなく、神様に感謝した。

 でも、『あのひと』は言っていた。

 抗生物質の投与で、俺は髪の毛を失くしてしまった、と。

 何言ってんのさ、命が助かったんだもの、髪の毛くらい何さ、とあたしは言ってやった。

 それから、一年間、『あのひと』は坊主頭で会社に出勤していたっけ。

 その後、少し生えてきて良かったけれど。

 うちの末娘は、坊主のお父さん、結構格好良かったよ、何だか悟りきった人のようで、と『あのひと』に無邪気に話していたっけ。


 クモ膜下出血も大きな病気だったけれど、一生続く病気と言えば、『あのひと』は糖尿病にもなってしまった。

 三大成人病の一つ、ね。

 なったのが、確か、四十五歳の頃だったと思うわ。

 工場勤務となり、仕事柄、必要だということで、ゴルフの道具を買って、練習を始めた頃ね。

 定期健康診断でひっかかったと『あのひと』は言っていた。

 尿検でも陽性、血液検査でも陽性で、検査入院させられた。

 数値はとても悪かったらしい。

 入院は二週間程度だったかな。

 でも、良かったのは、その時、煙草を止めたことよ。

 本人の話では煙草を吸い始めたのが二十歳と言っていたから、二十五年間吸っていたわけね。

 何でも、このまま煙草を吸い続けると、壊疽(えそ)になりますよ、と足を切断した患者さんの写真を見せられたんだって。

 その写真が恐くて、煙草を止めたって言っていたわ。

 『あのひと』は言っていた。

 一週間で止められた、と。

 もともとは、一日に二十本は吸っていた。

 半分ずつ減らしたの。

 禁煙の最初の日は十本、二日目は五本、三日目は三本、四日目は二本、五日目は一本、六日目でゼロ、つまり禁煙達成ね。

 それ以後、ずっと禁煙した。

 あたしはその点に関しては、『あのひと』をえらいと思ったわ。

 煙草を吸っていた頃はあたしも子供も嫌がって、家の中で吸うことを禁止していた。

 おかげで、『あのひと』は毎晩、雨の日も風の日も、雪の日も玄関前で、寂しいホタル族となって吸っていたっけ。

 本人も心の中では禁煙の口実を探していたのかも。


 『あのひと』の趣味の中で特筆すべきは何と言っても、ウォーキング、ね。

 これは、『あのひと』が厄年(やくどし)、四十二歳の厄年になって、糖尿病予備軍と診断されて医者から勧められた時以来、趣味として継続していた。

 始めは、一日一万歩というのが目標だったけど、その内、二万歩というのが目標となったみたい。

 感心するのは、こうと決めたら、案外意志が固いのよね。

 頑固というか、とにかく自分の意志で納得して決めたことは絶対守ろうとする。

 御殿場に住んでいた頃は、ウォーキングには丁度良いコースがあった。

 家、といっても社宅だけど、住んでいた社宅から御殿場プレミアム・アウトレットまでが丁度五千歩で、往復で一万歩になる。

 『あのひと』は結構人が集まるところが好きだから、アウトレットみたいな場所も好きだったみたい。

 それから、休日になると、山中湖に行ったり、箱根の芦ノ湖にウォーキングのために行くようになった。

 山中湖一周が二万歩、芦ノ湖一周が三万歩だった。

 特に、気に入っていたのは、芦ノ湖一周コースだったわね。

 表側コースは舗装された道だったけれど、裏側コースとなると、本当の山道だった。

 途中、青大将か何か、蛇に遭遇してびっくりしながら、五時間くらいかけてのんびりと歩くこの芦ノ湖一周コースは結構きつかった。

 連休の初日に、二人して箱根に車で行き、観光案内所の無料駐車場に車を停めて、それから湖に沿って歩き出すのよ。

 飲みものとか、お握りをリュックサックに詰めて、ハイキング気分でゆったりと歩く。

 『あのひと』は健康のためのウォーキングで一生懸命歩いていたけれど、あたしはどちらかと言えば、夫婦そろってのアウトドアライフ満喫のハイキングを楽しんだ。

 途中で、石の上か木の切り株に座ってリュックサックからお握りを取り出して食べる。

 自然の中で、湖の風景を見ながら食べるお握りはご馳走だった。

 ウォーキング最後のほうで、箱根神社に寄り道してお参りしたり、遊覧船乗り場付近で時々はランチを食べたり、ホテルの中にあるブティックで洒落た服を買ったり、今はもう無くなってしまったけれど、バーガーキングというハンバーガーの店で、ワッパーという大きなハンバーガーを半分に切ってもらって、半分こして食べたり、結構楽しかった。

 翌日は疲れて、のんびりと家で過ごすこととなる。

 でも、『あのひと』は好きなことには貪欲だった。

 夕方になると、むずむずするらしく、夕食前にいそいそとゴルフ練習場に行く。

 そして、帰って来るなり、あたしに言うの。

 昨日の芦ノ湖一周コースはかなりきいたよ、足のふんばりがきかず、おかげで、今日のボールはスライスばっかりさ、と。

 自分の腕を棚にあげて、何言ってんのさ、とあたしも負けずに言い返す、そんな日がよくあったっけ。


 そうそう、ゴルフというのも『あのひと』の趣味だった。

 かなり年齢がいってからの趣味は人を過剰に夢中にさせると言うわね。

 四十過ぎて、工場の課長となり、その時、工場長から言われたらしいのね。

 品質管理課長の仕事の一つとして、お客さんとの接待ゴルフがある、君も今まではゴルフをしなかったらしいが、今後は仕事の一つとしてゴルフを覚えるように、と。

 結構、『あのひと』って、上司には素直なのよね。

 言われた翌日、沼津あたりのゴルフ用品店に行って、靴・帽子・ゴルフバッグ含め一式を買って来たの。

 もう、それからは大変。

 近くにある、会社と契約している打ちっ放しのゴルフ練習場に日参して、練習にいそしむ毎日となったのよ。

 熱しやすく、冷めやすいと云うけれど、案外、()(しょう)なのよね。

 熱しやすく、冷めにくかったみたい。

 丁度、工場のグラウンドにも小さな打ちっ放しの練習場があり、毎日、昼休みを待ち兼ねて、食事をすばやく食べて、一目散に行って、練習していたみたい。

 退勤後も、暗くなってボールが見えなくなるまで、そこで練習していたと言っていたわ。

 夜は夜で、夕食後は子供と遊ぶこともせず、ゴルフ練習場にまっしぐら、といった生活。

 それだけ、練習すれば上手になると思うでしょう。

 でも、それはそうはいかないものよ。

 年をとってからのゴルフはレッスンプロにでもついて基礎から学ばないと駄目なんだって。

 つまり、我流では駄目、ということよ。

 『あのひと』の口癖は、僕は上手になるために練習しているんじゃない、丈夫になるために練習しているんだよ、ということだった。

 負け惜しみもいいところね。

 ウォーキングとゴルフ、これが『あのひと』の大きな趣味となった。


 もう一つ、あった。

 それは、小説を書くことだった。

 僕はクリエイターだよ、と常日頃言っていた。

 あたしはその都度、紙とインクの無駄遣いよ、エコに関心があるなんて言うけれど、言う傍から、資源を無駄遣いしているんだから、と言ってやった。

 でも、御殿場勤務の頃は、もう十五年以上前になるけれど、地元の文芸誌に応募して入選を何回かして、メダルを貰ったこともあったので、箸にも棒にもかからないというほどでは無かったと思う。

 おかげで、あたしも少しは本を読むようになった。

 これを、亭主の好きな(あか)烏帽子(えぼし)、とでも云うのかな。

 その後も、ちょくちょく書いていたみたい。

 しかし、何と言っても会社を早期退職してからは、家に引き籠って一杯書いていたわね。

 それまでの鬱憤(うっぷん)晴らしをしていたみたいだった。

 書いては、少し推敲(すいこう)してから、自分で製本キットを買ってきて、器用に製本していた。

 ほら、君、これを見ろ、とあたしに製本した創作集の厚さを示していた。

 三十センチ以上になったよ、と自慢げに創作した印刷の厚さを示していた。

 あたしは思わず、笑ってしまった。

 どこの世界に、書いた原稿用紙の紙の厚さを自慢する作家が居るというの。

 笑うあたしを見て、文学の分からぬ愚か者め、とばかり『あのひと』は不機嫌だった。

 でも、退職後、それほど暇を持て余すこともなかったのはいいことだったかも知れない。

 本人は大真面目で、売れる作家を目指して、いろんな文学賞に応募したのも、退職後だった。

 しかし、入選したよ、という話はついぞ聞いたことは無かった。

 一定期間内で書いた原稿用紙の厚さコンテストがあれば、きっと入選したでしょうに。


 驚いたと言えば、早期退職した時もそうだった。

 五十八歳を迎える年のことだった。

 あたしたちは、大学院に通う息子と文京区の借り上げ社宅で暮らしていた。

 一月の初め、帰って来るなり、あたしを誘い、夜のウォーキングに出た。

 その時、『あのひと』は歩きながら、ぼそっと、早期退職することをあたしに告げた。

 早期退職優遇制度という退職勧奨制度が会社にあり、応募すると言った。

 あたしはいきなりの宣告に驚いたけれど、その時の気持ちは自分で言うのも何か変だが、妙に平静だった。

 前から、このように告げられる日を予感していたのかも知れない。

 『あのひと』が働き盛りの五十歳で、クモ膜下出血に罹った時以来、いつかはこんな時が来るだろうとあたしは思っていた。

 二ヶ月ほど会社を休んで、坊主頭で出勤した『あのひと』はいつの間にか、会社での出来事をあまりあたしに語らなくなった。

 それまでは、結構会社のことをあたしに話してくれていたのに。

 後で、『あのひと』から聞いた話では、管理職の場合は、役職定年は五十五歳という内規があり、それまでに役員になれなかった者は、早期退職優遇制度で繰り上げ定年退職するか、関連会社に出向或いは転社して勤務するか、嘱託(しょくたく)として勤務するか、という三つの選択肢から選ぶことになるのだそうだ。

 出向、転社、嘱託という道は、いずれにしても、給与等の待遇は悪くなるという話だった。

 出向の話も具体的にあったんだ、という話も後から聞いたけれど。

 早期退職優遇制度ならば、賞与だけは半額になるものの、一年間の給与は保証され、一年後に退職しても六十歳までの期間に応じて、退職金の上積みがあるという話だった。

 この一年間の休職扱い期間を通じて、郷里に家を新築すると共に、文京区の社宅にそのまま住めるというのはあたしにとっても結構魅力的だった。

 丁度、一年後であれば、息子も大学院の修士課程も修了し、社会人となっているはずだ。

 今が潮時かな、と『あのひと』は呟いた。

 郷里に引っ込むまでの一年間、大いに都会生活をエンジョイしようということになった。

 そして、『あのひと』とあたしは誰に気兼ねすることもなく、一年間というモラトリアムを十分楽しんだ。

 『あのひと』は二人で外出する時を除いては、語学の勉強、自称クリエイターとしての小説書きといった創作を楽しそうに行なっていた。


 この一年間というモラトリアム期間の中で、『あのひと』とあたしは結構旅行をした。

 都内の小旅行、京都とか岡山といったところへの国内旅行もして、海外旅行にも行った。

 特筆すべきはメキシコ旅行だった。

 『あのひと』が五十五歳の時、永年勤続三十周年ということで会社から旅行クーポン券を貰い、一週間ばかりメキシコのカンクン旅行に出かけたことがあるが、今回の旅行は少し長めにしようということで、 『あのひと』が計画し、延べ十五日間のメキシコ旅行となった。

 メキシコは三十年ばかり前、あたしも『あのひと』と三ヶ月ほど暮らしたところでもあるし、懐かしく愛着を持っている国だ。

 十か月暮らした『あのひと』なんて、第二の祖国だなんて、大袈裟なことも言っていた。

 格安で飛行機を手配し、インターネットで現地のホテルを予約し、結構緻密な計画を立てて、旅行した。

 そんな時の『あのひと』はいつにも増して生き生きとしていた。

 メキシコではスペイン語を話すことができて、結構楽しそうだった。

 日本人のスペイン語は上手だ、と昔言われたことがあるんだ、と自慢げに話していた。

 メキシコシティに三泊、バスでタスコに行って三泊、そこからまたバスでクエルナバカというところに行き三泊、またまたバスでグアナフアトという街に行き三泊、終わりもバスでシティに戻り、二泊して日本に帰って来た。

 シティでは巨大な謎の遺跡・テオティワカン遺跡を見物し、タスコでは三十年前と同じような「慕情の街」の雰囲気を味わい、初めて訪れたクエルナバカでは長崎二十六聖人殉教の壁画を教会で偶然観たり、やはり初めて訪れたグアナフアトではミイラ博物館で数多くのミイラを見たりして過ごした。

 でも、笑ってしまうこともあった。

 旅行の後半で、『あのひと』がひどい下痢に罹ってしまったことだ。

 グアナフアトから変になったみたいで、薬局で下痢止めの薬を買って飲んだ。

 効き目はなかったようだった。

 日本への戻りの飛行機の中でも、しょっちゅうトイレに行っていた。

 飛行機の中のトイレって、結構混む時は混むもので、我慢するのに死ぬ思いだったと後でしみじみと言っていた。

 メキシコシティからヒューストンまで三時間、ヒューストンから成田まで十二時間はかかる。

 その間、『あのひと』は何回、トイレに駆け込んだことだろうか。

 あたしは窓際に座り、中央に座っていた『あのひと』が通路席の人に詫びながら、トイレに立って行く姿を見ないふりして、見ていた。

 あの時ほど、切羽詰った顔をした『あのひと』を見たことはない。

 気の毒やら、可笑しいやら、何とも言えない気分だった。

 あたしに隠れて、何か悪いものでも食べたんでしょう、とあたしが言うと、馬鹿言え、僕は君ほど食べてはいないし、隠れて食べるようなこともしていない、おかしい、メキシコの水にでも当たったのか、そう言えば、君と違って僕は牛乳をやたら飲んだ、もしかするとその牛乳に当たったのかも知れない、と怒った口調で弁解していた。

 でも、何かあたしに隠れて、美味しいものでも食べたに違いない。

 きっと、天罰があたったんだわ、と今でもあたしは思っている。

 で、なければ、三十年前の十ヶ月間のメキシコ生活で、他の仲間がバタバタと下痢する中、ただ一人、下痢にならず、皆からエストマゴ・デ・アセーロ(鋼鉄の胃袋)と敬意を込めて呼ばれていた『あのひと』が下痢なんかになるわけがないのだ。

 海外旅行には、その後、ハワイ、上海、スペインに行ったが、下痢にもならず、元気に日本に戻った。

 今でも、メキシコのあの時の突然の下痢は不思議な出来事だったと思っている。

 

 三十年前、『あのひと』とあたしが住んだのは、メリダという街だった。

 結婚してすぐ、『あのひと』は新婚の最愛の妻、あたしを一人日本に残して、メキシコに行ってしまった。

 会社からの指示で、日墨交換研修生の一人として十ヶ月のメキシコ研修に行ってしまったのだ。

 あたしは会社の社宅に居てもしょうがないから、実家に戻り、『あのひと』からの連絡をひたすら待った。

 何だか、出戻り娘のようで、近所の手前もあり、嫌だった。

 『あのひと』からの呼び出しが来たのは、半年も過ぎた後だった。

 早速、JALに行き、飛行機の手配をした。

 一月の初め、あたしは『あのひと』からのリクエスト、キャンディーズのカセットテープをバッグに忍ばせて、メキシコシティ空港に降り立った。

 入国手続きを済ませ、出口に歩いて行くあたしの前に、ニコニコしてあたしを迎える『あのひと』が居た。

 メキシコシティで三日ほど過ごした後で、『あのひと』の研修先のメリダに向かった。

 メリダはユカタン半島の東にある州都で当時は三十万人ほどの街だった。

 夏の雨季の頃はスコールが毎日のようにあり、蒸し暑くて大変なところだと云う話だったが、あたしが行った時は一月ということで、乾季で雨はほとんど降らなく、快適な気候だった。

 一月と言っても、全然寒くはなかった。

 この街には蒸し暑く地獄の夏と爽やかで暖かい春という二つの季節しか無い、と『あのひと』は言っていた。

 『あのひと』と住んだ三ヶ月は本当に楽しかった。

 二人きりのアパート暮らしで気兼ねなく、のびのびと異国情緒を満喫しながら暮らした。

 三ヶ月の間でメリダに居たのは半分で、後の半分はメキシコ国内を旅行して過ごした。

 メキシコシティ、グアダラハラ、オアハカ、タスコ、イスラ・ムヘーレス、コスメルといったところを旅行して廻り、古代の遺跡もテオティワカン、ミトラ、モンテ・アルバン、チチェンイッツァ、ウシュマル、カバーなどマヤ文明の遺跡も含め、多くの遺跡を見物した。

 あたしには気楽な旅行だった。

 言葉は分からなかったが、何と言っても強いガイドがあたしには付いていた。

 あたしだけのガイドであり、当時はレデイ・ファーストでエスコートしてくれた。

 女にとって、身近なところに、何でも言うことを聴いてくれるイエスマンが居るということはとにかく嬉しいものである。

 あたしはこの三ヶ月、『あのひと』には女王様として振る舞った。

 何と言っても七か月の間、あたしに寂しい思いをさせたのだから。

 今でも、あの三ヶ月のメキシコ暮らしは大切な思い出の宝庫となっている。


 しかし、いいことは長くは続かない。

 日本に帰ってからは、「大変」の連続だった。

 最初の子供がすぐ生まれた。

 メキシコであたしは妊娠し、二ヶ月過ぎた頃からつわりで苦しんだ。

 油ものとか肉系統は受けつけず、フランスパン、果物、野菜だけで生きながらえたようなものだった。

 あたしは完璧に痩せた。

 日本に戻ってきた時、痩せたあたしを見て、『あのひと』のお兄さんは『あのひと』を叱りつけたという話を聞いた。

 何か、あたしに冷たい仕打ちをして、苦悩のあまりあたしは痩せたものと勘違いしたらしい。

 でも、心配はご無用であった。

 あたしは日本のご飯ですぐに太り、前よりもかなり太って、周囲を今度は、少し太り過ぎじゃない、と逆に心配させるようになった。

 冬に入る少し前に、あたしは最初の子供を産んだ。

 それから、二年後に二番目の子供ができ、それから三年後に今度は双子の子供たちが生まれた。

 この間、二回ほど『あのひと』は勤務地が変わった。

 本当に慌ただしい毎日だった。

 御殿場では同じ小学校に、四人の子供が一年だけ一緒に通った。

 つまり、六年生、四年生、一年生、一年生という四人の子供がランドセルを背負って、近所の小学校に通った。

 四人の子育ては本当に大変だった。

 あたしは一時、うつ病というか、一種のノイローゼにかかった。

 でも、『あのひと』はほとんど育児を手伝うことはなかった。

 親元を離れ、知らない土地での四人の子育ては辛い。

 このことで、あたしは何度も『あのひと』を責めてなじった。

 喧嘩もした。

 御殿場に来る前、岐阜に居た頃、あたしは腎盂(じんう)腎炎(じんえん)という病気に(かか)った。

 丁度、双子を妊娠している時だった。

 入院する羽目になり、二人の子供を郷里の実家に預かって貰い、そこの保育所で面倒を見て貰うこととした。

 二人の子供は母に付き添われて郷里に戻り、私は社宅近くの病院に入院した。

 入院し、双子を出産し、病院を退院したのは半年後だった。

 その間、『あのひと』は結構まめに病院に来てくれた。

 あたしは果物が好きで、グレープフルーツのジュースが飲みたいと言うと、搾って器に入れて持って来てくれた。

 後から聞くと、勤務先もなかなか大変な状況だったと言っていた。

 受注が無く、勤務していた工場にも閉鎖するという話もまことしやかに囁かれていたと云う話だった。

 製品の品質も悪く、品質保証の仕事をしていた『あのひと』は毎日のように、お客さん宛にクレーム報告書を書いていたのだそうだ。

 でも、B型の『あのひと』はしぶとく業務をこなし、あたしに生ジュースを持って来た。

 あたしはあたしで、おおらかで楽天的なO型らしく、何とかなるさ、と思いながらこの大変な時期を乗り切った。

 言葉としては妙だが、『あのひと』はあたしのことを戦友と思っていたようだ。


 三十四年間という会社勤めの中で、『あのひと』は五回ほど勤務場所が変わり、社宅も都合、十回ほど変わり、引越しをした。

 でも、『あのひと』にとって幸いだったのは、一度も単身赴任が無かったことだ。

 社宅住まいでも人によっては、子供の学校の都合で、数年間の単身赴任を強いられるということもあるが、子供たちは全員、御殿場勤務の歳月の中で、小学校、中学校、高等学校を終えることができ、単身赴任という事態は避けることができた。

 かと言って、『あのひと』は子育てに貢献したことは無く、ほとんどあたしに委ねられた。

 子育てに関しては、あたしに頭が上がらないはずなのに、不思議と子供たちには人気がある。

 あたしが腹立たしかったのは、子供に結構気前が良かったことだ。

 あたしには人気取りの行為としか思いようが無い。

 丁度、今の民主党みたいなものだ。

 美味しい餌をぶら下げて、国民の人気を取り、政権交代を果たした。

 その後、マニフェストには知らんぷりをして、選挙公約を果たそうとしない。

 四年間の中では果たすつもりだから心配するな、と言うが、どうも裏切られたような気がしてならない。

 『あのひと』も民主党はマヌーバーとポピュリズムで政権を奪取した、とよく言っていた。

 そのくせ、民主党が好きだったのだ。

 デモクラティック・レボリューションを果たした、と喜んでいた。

 民主党に期待した純な国民は結局老獪(ろうかい)な政治家に騙されたということかな。

 ま、それはともかく、『あのひと』は子供にいい顔を見せ過ぎる。

 小恵(しょうけい)を施し過ぎるのだ。

 ご機嫌取りもいいところだ。

 あたしはそれが我慢できず、よく喧嘩をした。

 でも、結局、『あのひと』のそういう悪い癖はとうとう治らなかった。

 社宅は東京ではアパート住まいだったけれど、その他の場所では一軒家に住むことができ、ラッキーと言えばラッキーだった。

 でも、子供たちは不満だった。

 二階建ての新しい家に住みたかった、とよく言っていた。

 平屋で老朽した一軒家では嫌だったのだろうが、四人の子供を育て、大学まで出してやりたいと願う夫婦にとって、家を建てて住むなんていうことは先ず許されない。

 とにかく、全員を大学まで出す、ということに『あのひと』とあたしは全力を尽くした。

 あたしの家計の遣り繰りは『あのひと』も認め、感謝するところであった。

 でも、子供たちはあたしのおかげとあまり思ってはいず、お父さんの働きが良かったものと思っているらしい。

 時々、腹が立ち、あたしは『あのひと』と喧嘩したものだ。

 あたしもパートをして家計を助けたつもりなのに、子供たちはあまり評価してくれない。

 それが、(しゃく)の種だった。

 でも、よく考えたら、『あのひと』もゴルフの練習にお金を使う以外は、そうお酒を飲みもせず、贅沢はしていなかった。

 夫婦揃って、子供には尽くしたと言うべきか、そう思ったら、急に肩の力が抜け、『あのひと』と喧嘩することも無くなった。


 こうと決めたら、意志が強い。

 この点に関しては、『あのひと』の良さは認めなければならない。

 禁煙、毎日のウォーキングの他に、退職後のダイエットがある。

 退職して新築した家に看護師となっている娘が訪ねてきた。

 かねてから、娘は『あのひと』の糖尿病に関して気にしていた。

 娘からヘモグロビンA1Cの数値を問われた『あのひと』は正直に答えた。

 お父さん、その数値では駄目、危ないよ、と言われたらしい。

 その指摘が契機となって、ダイエットを始めた。

 と同時に、ウォーキングも強化した。

 一日二万歩をウォーキングの目標とした。

 そして、二ヶ月後、四キロほどダイエットし、数値も良くなった。

 それ以後、そこでダイエットした体重をキープしようとしていた。

 ハワイ、上海と海外旅行した際、二キロほど太った。

 一ヶ月かけて、元の体重に戻した。

 あたしは感心したが、別に()めようとはしなかった。

 下手に、誉めたら大変だ。

 『あのひと』はすぐ図に乗って、あたしにダイエットを求めるのが目に見えているのだ。

 あたしは知らんぷりしていたが、心の中では『あのひと』を見直した。

 自分が納得して決めたことは絶対守る人だ。

 その調子で、あたしのことも守って欲しいと思った。

 思うだけで、これは言わなかった。

 これは、夫婦の阿吽(あうん)の呼吸だと思ったからである。


 退職して田舎に引っ込んで暮らす『あのひと』に一つだけあたしは不満を感じたことがある。

 働こうとしない、働く意志がない、といったことでは無く、どうも社会と付き合うという意志が感じられないということだった。

 別に、お金にはさほど困っているわけでもないので、お金のためだけなら、働く必要はないとあたしは思っているから。

 あたしは年をとったら、尚更、社会とは積極的に関わっていくべきと思っている。

 社会と隔絶したら、年寄りはすぐ呆けるという話は結構耳にするからだ。

 社会から刺激を受ける、或いは、社会的な活動に参加していくことは『あのひと』のような会社人間でリタイアした人間には絶対必要なことだと思っているのだ。

 ボランティア活動をする、何か地域のサークル活動に参加する、地域の行事に積極的に加わる、趣味の世界に飛び込み、友達を増やす、といったことをあたしは『あのひと』に求めていたのだけれど、どうもその気がないらしく、家に閉じ籠ってインターネットをしたり、小説ばかり書いている。

 どうも、あたしの眼には閉じ籠り人間に見えてしまうのだ。

 でも、旅行だけは大好きで、旅行で人と会話するのは好きらしい。

 上海に行った時も結構ツアー仲間と気軽に話をしていた。

 それほど、社交的な性格では無いにしても、結構相手に合わせて行くのは慣れているらしい。

 現役時代の仕事の性格上、そういう気質になったのかも知れない。

 品質管理・品質保証のエキスパートとして三十年勤めあげた人だもの、知らず知らず、相手に合わせて適宜話をするという習性を身に付けたのだろう。

 品質管理は人とのコミュニケーションから始まる、という話をよくしていた。

 あたしの親に対する態度もそうだった。

 話を合わせるというか、相手に調子を合わせるというか、あたしがえっと思うほど、素直な態度を示した。

 あの素直な態度、あたしに対しても欲しかったわねえ。

 今更、言ってもしょうがないけれど。


 旅と言えば、こんなことを言っていたわ。

 つまり、六十歳台の前半は自分で計画する比較的長い海外旅行をしたい、六十歳台の後半はツアー中心で短期間の海外旅行、そして七十歳以降はもう海外旅行に行く元気もなくなるだろうから、国内旅行中心とする、と言っていたわね。

 あたしは海外旅行もいいけれど、国内の温泉旅行にも行きたかったのに。

 品質管理とか品質保証といった生真面目さが求められる仕事をしていたせいか、『あのひと』は旅行に行く前から、緻密に計画するのが好きだった。

 あたしは、そんなことはどうでもいいじゃない、行き当たりばったりの当たって砕けろ、といった性格だけど、『あのひと』は事前に調べられることは徹底的に調べ、手配できるところは細かく手配してから旅行に行くのが好きだった。

 B型の性格ではないと思うけれど、『あのひと』が常日頃言っていたように、A型の血も濃かったのかねえ。

 おかげで、あたしは気楽に『あのひと』にくっ付いて行くだけで良かった。

 あっ、思い出した。

 『あのひと』がメキシコで下痢を起こした時、下痢の原因として挙げたことを思い出した。

 『あのひと』の言うことには、ノー天気に日本語混じりの英語、スペイン語でまくし立てて交渉するあたしを脇で見ていて、ハラハラするあまり、神経症になって下痢をしたんだ、と言っていたわ。

 嘘ばっかり。

 そんなことで下痢をするようなヤワな神経はしていないくせに。

 あたしに隠れて、何か美味しいものを食べた報いだと、あたしは思っている。

 『あのひと』は英語もスペイン語も結構話せるくせに、妙に引っ込み思案のところがあって、訊くべき時も妙に遠慮して訊かない場合がある。

 そこで、あたしは勇気を奮って、『あのひと』の言葉を借りれば、無茶苦茶な言語を使って訊いてあげる。

 すると、何故か、相手はあたしの言うことを理解しないの。

 そこで、やおら、『あのひと』があたしの後ろから登場して、相手にあたしの言わんとするところを告げる。

 その結果として、メキシコのクエルナバカでも欲しかったCDも探し出すことができたし、メキシコシティでも欲しかったテキーラも買うことができた。

 あたしが口火を切らなかったら、買えやしなかった。

 手に入れて、『あのひと』はニヤニヤ笑って、ありがとうとあたしの耳元で呟く。

 お礼なら、もっと大きな声ではっきりと言って欲しいものだわね。

 でも、結構良いコンビであったかも。


 そうそう、『あのひと』にははっきりとした欠点があった。

 自分で興味が持てないことは徹底的に無関心で無視するといった欠点があった。

 庭造りには全然興味を示さなかったし、花にも興味が無かった。

 第一、樹木とか草花の名前も何度教えても覚えなかった。

 覚えなかったというより、覚える気も無かったみたい。

 同じことを何回も訊くの。

 あたしが癇癪(かんしゃく)を起して、何回も同じことを訊くのは止して、と言うと、ああそうだっけ、

前にも訊いたよなあ、と無愛想に言う。

 とにかく、お互いの好みの違いは甚だしかった。

 あたしはアウトドア派で行きたがりの、見たがり屋なのに、『あのひと』はインドア派で引き籠り。

 あたしは折にふれて、何とか『あのひと』を連れ出そうとした。

 東京に居た時は、いろんなところで開催される花火大会、お祭り、地域の行事に『あのひと』を連れ出すのに苦労したし、ここでは、住んでいる地域で開催されるいろんな催しもの、港のお祭り、市のフラワーセンター、近くにある温泉街で開催される行事に連れ出そうと、やはり苦労した。

 しょうがないな、という顔をして『あのひと』はあたしについて来た。

 でも、それほど、興味は長続きせず、すぐに帰りたがった。

 なかなか、教育はできなかったものね。

 その反面、興味を感じたことに対する熱意はこちらが感心するくらい、凄かった。

 退職後、急にドン・キホーテを読みだした。

 何でも、今までに何回かトライしたものの、中途で止めて、読破できなかった、退職して時間もできたことであるし、この際、徹底的に読んでやる、とあたしに宣言した。

 それから、読みだした。

 スペイン語版、英語版、日本語の翻訳本と買い集め、読み出した。

 スペイン語版に関しては電子辞書を片手にして、読み進め、分からない時は英語版を読んだり、和訳本を参考にしたりして一日中読んでいた。

 スペイン語版に関しては、四分の一ほど読んで、とうとうギブアップしたようだったけれど、翻訳本に関しては三回読破したと言っていたわ。

 読破した上で、ドン・キホーテは諺がいい、とか言っちゃって、諺とか名言集も自分で編集して作成してしまった。

 上智大学の知り合いの先生に送ろうか、と以前言っていたけれど、結局送ってはいなかったみたい。

 退職して良かったこと、嬉しいことは時間がたっぷりあることだと言っていた。

 働くということは時間を売ることであり。働かないということは自由な時間を得ることだとあたしにはよく言っていた。

 働かない、ということの理由付けかと思っていたけれど。

 女の眼から見たら、男は働ける限りずっと働いて欲しいものよ。

 亭主、元気で留守がいい、というCMが昔あったけれど、これは女の本音かも。

 でも、『あのひと』が働いている限り、海外旅行なんて行けやしなくなるし、これではつまらないし、なかなか複雑な感情を持つものよねえ。

 退職して、何かしないとまずいと思ったせいか、家事も結構するようになった。

 洗濯、朝食、昼食、ゴミ出し、という四つは『あのひと』の分担となった。

 あたしが望んだわけでもないのに、いつの間にか、この四つが『あのひと』のルーチンワークとなった。

 バナナとヨーグルト、コーヒーが朝食、野菜サラダと食パン二枚の昼食準備が『あのひと』のいつもの仕事で、夕食だけがあたしの分担となった。

 夕食といっても、二人きりの夕食だから、六人分作っていた昔と比べたらそれは簡単なものよ。

 野菜中心で、時にお魚、時にお肉を少し混ぜるといった質素な夕食が主体となったが、『あのひと』は別に文句は言わなかった。

 子供は全員独立し、二人きりの人生となり、楽な人生に急になったとあたしは思った。

 

 これからの旅行の計画に関して、あたしたちはあれこれと話し合った。

 常日頃、『あのひと』が言っていたのは、旅行は無形の財産だよ、お金はあの世には持って行けない、有意義な旅行を一杯してあの世に行こう、ということだった。

 これには、あたしも賛成だった。

 今の人生を彩っているものは、あたしの場合、何と言っても、三十年前のメキシコ滞在であり、その後、何回か行った『あのひと』との旅行の思い出だった。

 海外旅行も、メキシコには都合三度、シンガポールに一度、ハワイに一度、上海に一度、スペインに一度、全部で七回ほど行っているが、全て思い出は凝縮してあたしの心の中にある。

 最近はスペインに四週間ばかり行った。

 スペインでは都合、八都市を廻った。

 バルセロナから始め、バレンシア、グラナダ、コスタ・デル・ソル、セビーリャ、コルドバ、トレド、最後はマドリッドというコースだった。

 『あのひと』には珍しく、この旅ではお酒も結構飲んだ。

 日本人には妙な響きを持つが、タベルナという飲み屋でタパと呼ばれるおつまみをつまみながら、ビールを飲んだり、ワインを飲んだりした。

 スペイン人はラテン系の民族であり、人懐っこく話しかけて来た。

 あたしは壁の花だったけれど、『あのひと』は結構賑やかに応対していた。

 スペイン語はスペイン語でも、本国のスペイン語と中南米のスペイン語では発音に相当の開きがあり、君のスペイン語は中南米のスペイン語だと結構指摘されたらしい。

 英語で言うと、thの発音が本国のスペイン語にはあるが、中南米のスペイン語には無く、全て日本語の「さしすせそ」で通じてしまう。

 日本人にはありがたいが、スペインという国では少し馬鹿にされてしまうのだ。

 何と言っても、昔はスペインの植民地だった地域の言葉であるという認識がスペイン人には潜在意識としてあるからだ。

 発音で、中南米のスペイン語はすぐ判ってしまうんだ、と『あのひと』はあたしに語っていた。

 で、バスの切符なぞを買う時は、言葉は少なめにして、書いた紙を窓口に渡していた。

 いろいろとあったけれど、スペインは何と言っても芸術の国だ。

 最後のマドリッドは五泊したが、まる三日間はプラド美術館、ソフィア王妃美術館などの美術館をはしごしてスペイン美術を満喫した。

 プラド美術館には、ゴヤの「裸体のマハ」と「着衣のマハ」が展示されている。

 『あのひと』は懐かしそうにこの名画を見ていた。

 あたしも懐かしかった。

 実は、この二つの絵は三十年前にもあたしたちは見ていた。

 メキシコシティの国立芸術院のサロンで観ていたのだ。

 国立芸術院で国立民族舞踊団の公演を観るつもりで行ったら、あいにく公演は休みの日であたしたちはがっかりした。

 しょうがないな、と芸術院の中を歩いていたら、二階の展示場でゴヤ展があった。

 行ってみたら、いろんな有名な絵と共に、この二つの名画が展示されていた。

 「着衣のマハ」はいささかお澄まし顔、それに比べ、「裸体のマハ」は挑むような眼をしており、女のあたしでもぞくぞくするような表情をしていた。

 この絵に再会しただけでも、『あのひと』とあたしは十分幸せだった。


 四週間にわたるヨーロッパ旅行から帰った。

 帰ってから、『あのひと』はどうも体調が優れず、昼間もベッドに横たわり、雑誌を読んでいる時間が長くなった。

 ハワイとか、上海から帰った時も、こんな風にゴロゴロとしていたから、あたしは疲れているんだろうと思い、それほどは気にしていなかった。

 帰って一週間ほど過ぎた時、急にあたしを書斎に呼び、いろんな通帳とか証書類はここに纏めてあるよ、とか、パソコンにエクセルの表を出し、今迄の家計簿とか、今後のお金の計画とか、あたしに細々と説明した。

 備え有れば憂い無し、万一の場合に備えてだよ、と『あのひと』は言っていた。


 それから、一週間ほど過ぎて、或る夜のこと。

 夕ご飯の用意ができましたよ、とあたしは『あのひと』に声をかけたが、返事が無かった。

 何回か、声をかけたが返事が無い。

 書斎に行ってみたら、『あのひと』がパソコンを前にして机に突っ伏していた。

 二回目のクモ膜下出血が起こってしまったのだ。

 それから、お葬式とか死亡に関わる事務的な処理など、忙しい日々が続いた。

 少し、落ち着いて『あのひと』の書斎を片付けていたら、『あのひと』がここ数年書き貯めた小説の冊子が綺麗に製本されて出てきた。

 製本と言っても、製本キットを買って自分で製本したものだ。

 素人らしく、少しシワもよっているものもあった。

 あたしは、それらの創作集を積み上げて巻き尺で高さを測ってみた。

 いつか、『あのひと』があたしに自慢していたように、三十センチという高さがあった。

 翌日から、あたしは家事が一段落した後、『あのひと』の書斎に行って、ぼちぼちと『あのひと』の書いたものを読むのが日課となった。

 『あのひと』はいろんなものを書いていた。

 童話、時代小説、現代小説、ファンタジー小説、随筆、スペイン語の諺・格言集、マヤ・アステカの童話翻訳など、いろんなジャンルの物語、創作に手を染めていた。

 あたしらしい人物が出てくる物語もあった。

 そう悪くは書いてなかったので、少し安心した。

 欲を言えば、もうちょっと可愛く書いてもらいたかった。

 パソコンを見たら、創作集リストというエクセル表があり、創作した題名と原稿用紙換算枚数が記されてあった。

 合計枚数は、七千七百枚となっていた。

 五十七歳半から六十一歳少し前までの三年半という期間の中で『あのひと』が書いた創作の枚数が七千七百枚であった。

 今、読んでみると、どんな小説でも文章でも、『あのひと』の匂いがする。

 あたしには、この七千七百枚全てが『あのひと』の「長い遺言」のように思えてならない。

 随分と、長い遺言を書いたものだとあたしは思っている。


 しかし、『あのひと』が書いた「長い遺言」の中で、書かれなかった一章がある、とあたしは思っている。

 それは、あたしへの愛の一章でなければならなかったはずだ。

 でも、書くべき時を持たぬまま、『あのひと』は足早に逝ってしまった。

 そう、あたしは思っている。

 そう、思っていたい。

 今まであたしが話したこと。

 すべて、『あのひと』への、あたしの長いレクイエム。



 完


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