第50話 「帝都大火を阻止せよ~中編~」
【前回のアンクロ】
ゲルルフが帝都の西門を落とし、貧民窟の狼人たちも動き始める。
帝都の裏側で戦いの火蓋は切って落とされた。
「あの煙はなんだ? 火事か?」
「なに? 火事だって?」
街行く人の流れから聞こえた言葉に、ウィルギルは足を止めて後ろを振り仰いだ。
風上の方角にあたる空にもうもうと黒い煙が上がっている。だが、煙は暫くして消えてしまった。
「なんだ、小火か……つまんねぇな」
上半身裸の男がそう言って笑い、すれ違い様にウィルギルを睨み付けていく。
「ちっ! こっち見るんじゃねぇ。犬野郎」
すぐ後ろから聞こえる悪態に、ウィルギルは心の中で舌打ちした。
貧民窟。
ここは、貧困や、やむを得ない事情により中層で生きていけなくなった者や犯罪を犯して表で生きて行けなくなった者、地方から夜逃げ同然に移り住んできた訳有り者などが住む場所。
水溜まりが点々とする土むき出しの地面、決して広くない道路に犇めくように建ち並ぶ、廃材や布をかき集めて無理矢理2階建てにした今にも倒れそうな建物。
粗末な街の作りは居留地とさして変わらない。だが、道にはゴミや汚物が放置され、小蠅が飛び交っている様は居留地では有り得ないことだ。
狼人の嗅覚には、この貧民窟に充ちた饐えた臭いは堪え難い。
ふと、ゴミに埋もれ力なく座り込む老人と目が合う。が、老人はウィルギルを冷たく睨むとその目を閉じた。
彼だけではない。貧民窟に入ってから、周囲の人間から敵意や怖れが籠った視線を突き付けられることがよくあった。
街を見渡すと、建物の陰や道の隅から住民が鋭い視線をウィルギルに突き刺していた。
彼等の敵意は狼人であるウィルギルだけに向けられたものではない。自分と行動を共にしている騎士団の兵士達にも向けられている。
「ウィルギル卿、気にするな……ここでは我々騎士団は鼻摘み者さ。そのうち慣れる。まあ、臭いのだけはいつまでも慣れんがね」
ウィルギルが周囲の雰囲気に戸惑っていると感じたのか、黒の詰め襟を身に付けた兵士が苦笑いを浮かべてウィルギルの肩を叩く。
ーー『我々』、か。
ウィルギルは兵士の言葉に戸惑いを覚えた。自分は今朝まで叛乱を起こしたゲルルフの側に居たのだ。
ゲルルフが長老ヨルクの暗殺に自分を利用した事に怒りと失望を覚えて、彼のもとを去って居留地に協力することを選んだが……
その自分が一時的とはいえ騎士団の一員として動くとは。世の中何があるか分からないものだ。
……と。
ウィルギルの鼻が、貧民窟に充満する悪臭の中に別の臭いを嗅ぎとった。
狼人……しかも、居留地以外の縄張りの臭い。
臭いの元を目で追うと、目深にフードを被った男が隠れるように建物の影に消えるところだった。
「分隊長」
ウィルギルが短く告げると、彼は頷いて男が消えた路地を見た。彼も同じように気づいていたらしい。
「A班は男を追跡、B班は裏に回って奴の退路を断つ。C班はサポート。よし、行くぞ」
分隊長は分隊に素早く指示を出す。
「分隊長、俺が追跡班の先導をしよう。奴の臭いは覚えた」
ウィルギルの申し出に分隊長は一瞬考え、すぐに頷いた。
「よし、頼む」
「了解。当てにしてくれ」
ウィルギルは右拳で左胸を叩いて狼人式の敬礼をすると、フードの男が消えた路地に走った。
「やあ、御同輩。こんな所で何をやっているんだ?」
唐突に呼び止められた男は、全身をビクリと震わせ、恐る恐る振り向いた。
ウィルギルは慎重に男に近付く。
フードの中に見える顔……長い鼻面、顔を覆う毛並みは狼人のものだ。
「何だよ……俺は別になにもしてないぜ?」
「おっと、すまん。道で珍しく同胞に会ったから思わず声を掛けちまった。他所の狼人のあんたが帝都の貧民窟で何やってんだ?」
警戒心を顕にする男に、ウィルギルは安心させるように両手を広げ、笑顔を浮かべて聞き直す。
「出稼ぎに出てきたんだよ。故郷の居留地じゃ食えなくなってね。家族を養うために遥々働きに来たって訳……あんたは帝都の狼人かい?」
「ああ……」
「あんたこそこんな貧民窟で何してるんだ?」
男の問いに、ウィルギルは一瞬答えに窮した。
俺は……ここで何をしているのか?
「仕事、かな」
「仕事? そりゃ、儲かるかい」
「ぼちぼち……と言ったところだな。どうだい、これから一杯」
ウィルギルの誘いに、男は困ったような表情をして頭を振る。
「有り難いが、俺も仕事でね。じゃ、失礼するよ」
男が急いだ様子でウィルギルに背を向けた、その時、男を挟み込むように騎士団の兵士が物陰から飛び出してくる。
「そこの狼人、止まれ!」
「……っ! 何だ! 騎士団か!?」
「持ち物を改める。大人しくしろ」
分隊長が合図をすると、兵士が二人男の体を探り始めた。
「何も怪しいものは持っちゃいませんぜ? 兵隊さん」
鉾槍を向けられ、体を探られながら、狼人は不満げに分隊長を睨み付ける。
暫く全身を探っていた兵士が、小さく舌打ちして分隊長に首を振った。特に怪しいものは身に付けていなかったのだ。
「……ったく、どこも兵隊は不躾でやだね。じゃあな」
ほれ見たことか、といった表情で男は兵士達を見渡すと、手を振って立ち去ろうとする。
その背中を、ウィルギルは呼び止めた。
「待てよ、御同輩……これ、あんたのだろ? さっき落としたぜ」
ウィルギルが男に突き出したのは、拳大の皮袋。
「……!! それは!」
ウィルギルの手にある袋を目にした男の表情が驚愕に歪む。ウィルギルは焦る男を他所に袋の中身を取り出した。
「油の瓶と火打石……どこかに火でも付けるのか?」
「くそっ! 騎士団めっ!」
男は表情を一変させると近くの兵士を殴り付け、手から鉾槍を奪う。
「貴様っ! 同胞でありながら何故銀狼の邪魔をする?! 牙が折れただけでなく、狼人の誇り、魂まで売り渡したか!」
絶叫してウィルギル目掛け鉾槍を振るう男。ウィルギルは穂先を素早く躱すと、そのまま男に肉薄して顔面に拳を叩き付ける。
「俺の牙は折れてなどいない! 俺の牙は帝都の同胞を守るためにある。それが俺の誇りだ。それを傷つけ、奪おうとする者は許さん。例え同胞であろうと、だ」
顔面を殴られふらついた男から鉾槍を奪ったウィルギルは、膝をついた男に穂先を突き付け、そう言い放った。
「くっ……!」
観念したのか、男は力なく項垂れ座り込み、そこに兵士が縄をかける。
引っ立てられていく狼人の背中を複雑な表情で見詰めるウィルギル。その肩を、労うように分隊長が無言で叩いて行った……
……
……
……
……
「おい! 勝手に行くなよ! ステラ!」
「だって、あんなごちゃごちゃした街を歩き回っても見付からないよ。こう言うときは高いところから見てみるもんだってゲルルフが言ってた」
ステラはそう言って笑うと、まるで猫のように建物を登っていく。
捜索中隊が貧民窟に入った後。俺とステラはルーファスの指示で本部テントに残った。
しかし、ステラが『歩いて探すより良い方法がある』と言い出して勝手に走り出したのだ。
治安の悪い貧民窟を女の子一人で歩かせるわけにはいかない。俺は急いで彼女の後を追い……そして貧民窟の一角に立つ大きな木の下に居た。
「大体、夜の貧民窟に一人で飛び込むなんて、お前、危機意識足りないんじゃないか? ったく」
去年もある宿場町で男達に乱暴されそうになったんじゃなかったか。貧民窟は宿場町よりも危険だろう。
「私も一人でこんな所行かないわよ! アンタが居るじゃない」
「……あのな」
当然のように言うステラに、俺は溜め息をついて肩を落とした。
ステラは、踏めば抜け落ちそうな屋根をふらつきながらも器用に伝い、建物の屋根から木の枝に飛び付く。
そこからは猿のように木の幹を登り、あっという間に梢から顔を出した。
「うん! よく見える! それに臭くない! 思った通りね」
木の上から少女の歓声が降ってくる。さっきまで『ゲルルフを見届ける』とか言って深刻な顔をしていたくせに。
「何だ、結局臭いのが嫌だっただけじゃないのか?」
俺はサーベルの柄に手を掛け、辺りを見渡しながら樹上の少女に声を掛けた。
「だって、ここの臭い、キツくて臭くて鼻がもげそうなんだよ? 人間のアンタには分からないかも知れないけど」
ステラの言う通り、ここは臭い。境界の運河は都会の下水みたいな嫌な臭いがしてるし、この通りだって排泄物や吐瀉物や生ゴミが垂れ流されている。
まあ、『花の都』パリも一昔前はこことさほど変わらない感じだったらしいが。
兎に角人間よりも嗅覚が敏感な狼人にはこの臭いは堪えるのだろう。
「ん……なんだろ。この臭い、知ってる臭いだ……この近くに居るわ」
「知ってる臭いって、なんだよそりゃ」
「狼人の臭い。ゲルルフとよく会ってる奴だから覚えてるの。行って止めなきゃ」
ステラはそう言うと、木の幹を滑るように降りてくる。こいつ、本当は狼じゃなくて猫なんじゃないだろうか?
しかし、ゲルルフに接触している狼人って事は、つまり付け火をするため潜伏している奴って事だ。
「行くってお前、まさか二人でか? ルーファスに言って騎士団と一緒に向かった方が……」
「そんなことしてたら、手遅れになるわ。火は小さいうちに消さないと手が付けられなくなるんだから」
ジト目で俺を睨むステラ。
確かに付け火の最中だとしたら早く止めなければいけない。火事は最初の5分が勝負だって言うし……しかし、だ。
「……そういう問題じゃないだろ? 大体相手の人数も分からないんだぞ? 無茶だ」
「10人近い狼人の戦士と戦おうと無茶したアンタに言われたくないわ。アンタは強いんだから自信を持ちなさいよ」
「ぐっ……」
それを言われたら言い返せない……が、あれは向こうから襲ってきたのだ。状況が違う。
「兎に角、私は行くわ。アイツらにこれ以上罪を重ねさせられないもの」
そう言って走り出すステラ。その表情はどこか思い詰めた感じに見えた。
仕方ない……危ないときは守ってやるって約束したからな。
その時、俺の前を一匹の黒猫が横切った。
金色の瞳を持ったその猫は、俺の方を見て一声鳴くと、そのままステラとは反対方向……貧民窟の出口の方に走り去っていく。
黒猫が目の前を横切ると、不幸があるとも幸運が訪れるとも言うが。兎に角。
頼んだぜ。フェレス!
俺はサーベルの柄を握る手に力を込めると、ステラを追って走り出した。