第44話 「暗躍」
【前回のアンクロ】
ゲルルフの襲撃から逃れ、居留地のヨルク老に匿われるカズマたち。
顔見知りの婦人からヨルク老が誰かと会うために家を出たことを聞いたカズマは、胸騒ぎを覚えて後を追う。
カズマは間に合うか?
「呼び付けるならこのような場所でなくても良かろう……ウィルギル」
バルバ獣人居留地の外れにある、半ば崩れて放棄された倉庫。埃が舞い、破れた屋根から射し込む陽光が光の帯のように室内を薄く照らしている。
ヨルク=アンダースは注意深く周囲を見回しながら、自分を呼び出した男に問うた。
彼は居留地に幾つかある若い狼人の集団のひとつを束ねる若者。クリフト処刑騒ぎの時、銀狼の一味の濡れ衣を着せられて英雄広場の絞首台に登った男の一人でもある。
クリフトの処刑が中止されたことで取り調べが見直され、無罪放免となったあと、数人の若者を引き連れて居留地から姿を消していた。
「我々の機密に関わる事。話すにはここが最適だと判断した」
「……ふん。我々な。野盗の類いに機密もあるまい」
ウィルギルの答えをヨルクは鼻で笑う。狼人の青年はヨルクの言葉に口許を不愉快に歪めた。
「野盗の類いではない。我々は狼人の誇りを世に示すために集まった戦士だ……長老は理解してくれていると思っていたが」
「……」
真っ直ぐヨルクを睨むウィルギル。ヨルクは深く溜め息をつくと、青年の目を射抜くように見据えた。
「その『戦士』がこの老いぼれに何を話す」
「我々『銀狼団』は今宵、帝都で決起する。帝国の支配と力の象徴である中央本庁に一撃を加え、帝国の人間に狼人の力と意思を見せつけ、抑圧に甘んじる狼人達の牙と誇りを奮い起こす……その為に帝都の狼人も我々と共に戦って欲しい。同志ゲルルフはそう望んでいる」
「帝国に狼人の力と誇りを示す? その為に戦えだと……何を言い出すかと思えば。儂は居留地の狼人がやることに干渉しない。だから貴様がゲルルフの元に奔った時も好きにさせた。だが……居留地の狼人の平穏を脅かすような事は許さん」
ヨルクは強い口調でウィルギルを睨む。だが、ウィルギルもヨルクの気迫に怯む事無く口を開く。
「長老……貴方は、その平穏を守るため、居留地に澱のように溜まった怒りや餓えに見ぬふりをするのか? 今蜂起たなければ、狼人は二度と誇りを胸に立ち上がることができなくなる」
「儂とて居留地の狼人達の餓えと怒りを知らぬわけではない。だが、それは一握りの悪意ある人間によるものだ。無辜の市民に牙を剥いたとて、我等の餓えが満たされることはない……それは貴様もわかっている筈だ。ウィルギル」
「……」
ヨルクは頭を振って溜め息をつき、諭すように言った。ウィルギルは、ヨルクの言葉に不服そうな表情を浮かべ反論しようと口を開くが、ヨルクは厳しい表情でそれを制す。
「儂らはまだ将来を生きねばならん。死に急ぐお前達に付き合う謂れはない……ゲルルフに言っておけ。何度来ても、誰を寄越しても儂の答えは変わらぬ」
「……それは残念だ。消え行くものの誇りを咲かせる場を与えてやろうと言うのに」
ヨルクとウィルギルが対峙する場の奥……闇の向こうからくぐもった声が聞こえる。音もなく闇から滲み出るように現れた影に、ヨルクは眉を顰めた。
黒ローブの男はフードを目深に被り、顔を窺うことができない。だが、これだけはわかる。
この男は狼人ではない。そして危険だ。
「貴様……!? 何故ここに!」
突然の事にウィルギルは取り乱して声を荒げる。
男の発する重く、冷たい圧迫感に、ヨルクは低い唸りをあげ拳を握り締めた。
と、ヨルクの耳が微かな布ずれの音を捉える。
音は、自分のすぐ背後……!
「ぬぅっ……!」
視界の隅を過った黒い外套に、ヨルクは目を剥いた……
ーー時間は少し遡る。
「そこだ、その建物が匂うぞ」
細い路地を駆け抜け、倉庫街のような場所に出た黒獅子は、その一角にある崩れかけた倉庫を顎で示した。
「あそこ……って、本当かよ」
その倉庫は、かなり広いが屋根には穴が開き、外壁の漆喰も殆ど剥がれて蔦が這っている。中を覗き込むのも躊躇われるほど、今にも崩れそうだ。
あそこにヨルク老が居るのか……!
俺はフェレスから飛び降りると急いで倉庫に走り寄った。
「ちょっ……迂闊よ!」
鬣を掴むようにしがみついていたステラが俺を追うようにフェレスから降りて小声で叫ぶ。
「二人とも気を付けろ。結界魔法が仕掛けてある」
「えっ? 結界?!」
フェレスの警告に俺は慌てて飛び退った。見た限りでは魔法の痕跡は見えないが、気を付けて視ると確かに何かを感じる。
危うく結界に突っ込むところだった。
「この術式は結界に触れると術者に警告するものだな……これくらいなら無力化するのにそう時間はかからん。暫し待て」
フェレスはそう言うと、ぶわりと鬣を逆立てて何事か呟き始める。
しかし、こんな廃屋に結界魔法とはただ事じゃない……ヨルク老は無事だろうか。
「ヨルク爺の匂いがする。まだ新しい匂い。この倉庫、滅多に人が来ないから隠れて人に会うには最適なの。外は壊れているけど中は意外にしっかりしてるから」
「なんだ、詳しいな」
ステラの言葉に、俺は眉を顰めた。この場所をよく使っているような口振りだ。ステラは俺をちらと振り向き、慌てたように首を振る。
「私がここに来たのは一回だけよ。前に、ゲルルフと一緒に来たの……ヨルク爺に、自分達に協力するように頼みに」
「……いつ?」
「カズマがスープをくれた日」
そうか。そういや、居留地で彼女に再会したあの日、炊き出しの様子を眺めていたのを見付かって逃げ出したステラにスープを差し入れしたな。
そして、そこでいきなりゲルルフに襲われた。
居留地の裏路地とはいえ、お尋ね者のゲルルフが白昼堂々うろついて何をしていたのか不思議だったが、ヨルク老に会っていたのか。
「解除した。行けるぞ」
「わかった。ステラは外で待っていてくれ」
俺はいつでも抜けるよう、腰のサーベルに手をかけて崩れかけた木の扉の隙間から倉庫に飛び込む。
その足元を音もなく黒い塊が駆け抜け、薄闇に消えていく。
建物の床は半地下のように地面より低くなっており、外から見たときより天井が高い。建物に漂う埃に破れた天井から漏れた光が反射して光の柱のように見える。
身を屈め、割れの入った木の柱や打ち捨てられた木箱を縫うように走っていると、薄闇の奥から声が聞こえてきた。
「……貴方は、その平穏を守るために、居留地に澱のように溜まった怒りや餓えを見ぬふりをするのか?」
「儂とて居留地の狼人達の餓えと怒りを知らぬわけではない。だが、それは一握りの悪意ある人間によるものだ。無辜の市民に牙を剥いたとて、我等の餓えが満たされることはない」
結構近いな。一つはヨルク老の声。もうひとつの声は若い聞き覚えのない声だ。
俺は手近な木箱の影に身を隠すと、木箱の脇から声のする方を窺った。
薄暗い倉庫の一角で、ヨルク老と若い狼人が対峙している。若者の方の表情はよく見えないが、ヨルク老は眉間に皺を寄せ、厳しい表情で青年を睨み付けている。
一体何を話しているんだろう。楽しい話じゃないのは確実だが。
「あの人……ヴィルギルね。居留地の若者衆の頭分で、この前手下を数人連れてゲルルフの所に来たわ」
俺の耳元でステラが囁く。いつの間に来たのか、彼女は俺の背中にピッタリと寄り添っていた。
「馬鹿。外で待ってろと……」
「カズマ!」
小声で注意する俺を、ステラが小さく叫んで遮る。彼女の指差す先……ヨルク老の状況が一変していた。
「……それは残念だ。消え行くものの誇りを咲かせる場を与えてやろうと言うのに」
二人がいる場所の奥から黒ずくめの男が現れ、ウィルギルと入れ替わるようにヨルク老の前に立つ。
あの悪趣味な黒いローブ、姿は目に見えているのに存在を感じられない薄気味悪さ。
忘れもしない。あいつはあの時の……!
と、その時、ヨルク老の背後の薄闇から漆黒の影が舞い降りる。
降り立ったのはヨルク老のすぐ後ろ。そしてその手には黒刃の短刀……!?
やらせるかっ!
「穿てっ! 『飛礫』っ!!」
迷わず叫んだ俺の『ことば』に応え、虚空に生まれた石轢が鋭く空を裂いて飛ぶ。
礫はヨルク老を掠め、襲撃者の肩を撃った。不意の一撃に襲撃者は動きを一瞬止める。
そして、それを見逃すヨルク老ではなかった。
「哼っ!」
短い気合いと共に放たれたヨルク老の岩のような拳を顔面に受けた男は、ぐしゃりという嫌な音と共に吹き飛ぶ。
そのまま床に倒れた襲撃者は、二、三回痙攣して動かなくなった。あの一撃をまともに喰らって無事に済む筈がない。
「シャッっ!」
仲間の不意討ちが失敗したと見るや、黒ずくめの男はナイフを抜き放ってヨルク老に襲い掛かる。
「はっ!」
俺はサーベルを抜いて木箱の影から飛び出し、男の前に躍り出て斬りつけた。
男は身を翻して俺の一撃を躱し、大きく飛び退く。男に追い縋り間合いを詰める俺に、男は印を組んだ左手を突き付けた。
「『飛礫』っ!!」
「なんとっ!」
咄嗟に身を捻った瞬間、俺の頬を刃物のように鋭い飛礫が掠める。
あぶねぇなっ! このやろ!
続いて繰り出されるナイフをサーベルで弾いたその時、低い『ことば』が響く。
「『疾風』」
『ことば』によって生まれた強烈な突風が男の体を吹き飛ばす。床に叩き付けられながら素早く体を起こした男は、ナイフを構えたまま動きを止めた。
「そこまでだ。最早逃げ場はない……観念せよ、黒の使徒よ」
闇の奥からゆっくりと黒獅子が現れ、男に告げる。ヨルク老と俺、そしてフェレス。既に男は三方を包囲されていた。
フェレスの奴、最後に美味しいところ持っていきやがったな。しかしまあ、あの一撃で男の動きを止めたのは流石だ。
「……くくくっ!」
だが、男は追い込まれてなお口許を歪めて笑う。
何だ……? こいつ、何をするつもりだ?
「こうなる時もある、か……是非もない」
男はそう呟くと、手にしたナイフを躊躇いなく自らの喉に突き立てた。男はそのままゆっくりと床に倒れる。
「なっ……!」
突然の事に俺は言葉を失った。なんの躊躇いもなく自分の命を絶ったのか。
「目的が果たせぬと知れば、平然と死を選ぶか……なんとも恐ろしい奴よ」
ヨルク老は男のフードを剥ぎ取って表情を歪める。フードの下にあったのは、何処にでも居るような普通の壮年男性の顔。
口から血を流して息絶えた男の顔は、自ら命を絶ったとは思えないほど穏やかだった……それが逆に不気味だ。
「しかし、大賢者の弟子よ。よくここが分かったな」
「ええ。フェレス……師の使い魔が導いてくれました。間に合ってよかった」
「ふむ。正直危なかった……礼を言う」
巨躯を折り曲げるようにして俺に頭を下げるヨルク老。そして、未だ呆然と立ち竦んだままのウィルギルを睨む。
「さて、ウィルギル……これはどう言うことか、説明してもらおうか?」
ヨルク老の低く唸るような問いに、ウィルギルはハッとしてすぐ頭を振る。
「俺は知らんっ! ゲルルフからは何も聞いていない。このように破廉恥な……!」
ウィルギルは握り締めた拳を震わせて唸った。
この人の言葉を信じれば、ヨルク老の暗殺計画を知らされないまま、老をここに呼び出したって事になる。
敵を欺くには先ず味方から……と言うには悪質なやり方だ。
「ゲルルフは違うわ。彼も狼人よ? 長老を手をかけることの意味は十分知っているはず……だからこんな事はするはず……」
そこまで言って、ステラは俯いて口をつぐんだ。これがゲルルフの指示だと思いたくない。しかし、現にヨルク老は暗殺されかけた。彼女の目の前で。
ステラも混乱しているのだ。
「ゲルルフが命じたにせよ、そうでないにせよ、儂の息子に等しい居留地の同胞に長老殺しの片棒を担がせようとしたのだ……それなりの報いは受けてもらう」
ヨルク老は床に倒れる黒ずくめの男の死体を忌々しげに見下ろしながら言った。
と、男の死体から黒い煙のような物が立ち上ぼりはじめる。煙は瞬く間に全身に広がり、その姿を覆い尽くす。火は上がっていないし臭いもないから、燃えているわけではない。
「何だよ、こりゃ!」
「……むう」
俺は慌てて死体から離れ、ヨルク老は腕で口許を覆って不気味な煙を睨む。
やがて煙が消えた時、男の死体は身に付けていた黒いローブもろとも消え去っていた。まるで最初から無かったように消えたのだ。
一体どうなってるんだ?
「……どうやら、ゲルルフにはよからぬモノが憑いているようだな」
フェレスの呟きが、倉庫の重苦しい薄闇に響いた。




