第2話 「目覚め」
【前回のアンクロ】
30歳近くになって就職活動に焦りを感じる安心院 一馬。
そんな彼の前に怪しい少年が現れ、契約を持ち掛けてくる。
その夜、眠りについた一馬を巨大地震が襲った……
ーー長い、長い夢を見ていた。
目が覚めて最初に感じたのは、冷たく固い床の感触。そして鼻腔をくすぐる花の匂い。
軋むような全身の痛みに顔を顰めた俺は、呻き声を上げながら目を開ける。
……視界が滲んでいる。泣いてたのか、俺は……泣きながら目を覚ますなんて子供の頃以来だ。
慌てて涙をぬぐい、周囲を見渡す……ここは何処だ? 薄暗くて良く見えない。
目を凝らすと天井に女性の絵が描いてあるのが分かった。
ここは……少なくとも、俺の部屋じゃないな。
俺は起き上がろうとして、床がタイル張りなのに気付いた。道理で冷たい訳だ。上体を起こした俺は、痛む首に顔を顰めながら部屋を軽く見渡した。
一ー白いな、この部屋。
壁や天井、床のタイル。全てが白で統一されている。部屋の隅に置かれた花瓶の花が数少ない彩りだ。
部屋の奥がカーテンで仕切られていて、そこから仄かに灯りが漏れている。暖色系の灯り……不規則に揺れているから、電球じゃなくて蝋燭の灯りか。
軽く頭を振ると、俺はゆっくりと起き上がった。節々が痛むが、歩けないほどじゃない。
ふと、部屋に置かれた姿見が目に留まった。家にある2,000円程度の安物じゃない。高級ホテルに有りそうな立派な鏡だ。
鏡に映る俺の姿は、スラックスにワイシャツ。短めに整えた髪は、寝起きで乱れたままだ。
嫌というほど見慣れた顔は、不細工では無いが、特別に良いと言うわけでもない。自分で言うのもなんだが地味な顔だと思う。
女性からは『優しそう』とか『誠実そう』と良く言われ、友人からも『人の良さそうな面構え』、『余計なことまで背負い込みそうな顔』と言われる……まあ、高級そうな鏡に不釣り合いな面構えだということには変わり無い。
それにしても、一体何故俺はこんな場所に居るのか……コンビニのバイトを終えて、うちのボロアパートに帰ってきて……それからここで目覚めるまでの記憶が曖昧だ。
「湯のお加減はいかがですか?」
「ちょうどいいわ……ありがとう、シャル」
「エリザベート様……明日はお勉強もお休みですから、気晴らしに何処かに出掛けませんか? 最近、表情が暗いですよ?」
「……うん。考えておくわ」
カーテンの向こうから女性二人の話し声が聞こえる。明らかに日本語ではない言葉だ。
でも何故だろう。話している言葉の意味は理解できる。
やがて聞こえる布ずれの音と、何かに水をかける音。目覚めたときに感じた花の匂いが強くなり、カーテンの隙間から湯気が漏れる……
ん? もしかしてここは……風呂場、か?
しかも湯船には女の子が二人もいる?
ヤバい……このまま見付かったら警察に通報されて、捕まって、問答無用で起訴されて、裁判で有罪になって、前科がついて、就職も結婚も一生出来なくなる!
何の罪になる? 住居侵入罪? 覗きは軽犯罪だったな……兎に角、気付かれないうちに抜け出さなければ。
急いで後退る。がーー何か固いものを踵で蹴ってしまった。さっきの姿見だ。
姿見は蹴られた弾みでバランスを崩し、大きく傾いた。
ヤバいっ! 倒れるっ!
俺は急いで姿見を支えると、そっと元に戻した。
「危なかった……」
思わず声が出て、慌てて口を覆う。
「……? 何かしら、声が聞こえたような……」
「そうですか? 私は聞こえませんでしたが」
「そう……? 気のせいかしら」
カーテンの向こうから声が聞こえる。
まずいな……このままじゃ見付かるのも時間の問題だ。見たところ姿を隠すような場所も無さそうだし。早くこの部屋を出なければ!
俺は出口を探して部屋を見渡し……見つけた。 カーテンの反対側。金の装飾が施された豪華な扉。きっとあれが出口だ。
足音がしないようにつま先立ちで扉に駆け寄り、ドアノブに手を掛けようとして……俺は迷った。不用意に素手で触って指紋とか残すのは不味いんじゃないか。
……いや、これは『事故』だ。なんで犯罪者みたいにこそこそしなきゃならない?
俺は思いきってドアノブに手を伸ばす。
その時、ドアが4回ノックされ、向こうから女性の声がした。
「失礼します。エリザベート様、御召し物をお持ちしました」
失礼しますって……え? ちょっと待って!
音もなく開くドア。向こうに居たのは、白髪の混じった琥珀色の髪をアップにまとめた、細面の女性。縁の細い眼鏡と切れ長の目がキツい印象を与える。
お互い近い距離で見つめ合う形になり、女性の表情が固まった。
「なっ……」
「あ……は、初めまして」
なるべくにこやかに話し掛けると、女性の表情がみるみる険しくなる。
「何者です! 貴方は! ここを皇女殿下の湯殿と知っての狼藉ですか!」
「いや、これは、その……別に怪しい者じゃないですっ!」
俺はおばさんの剣幕に圧され、両手をあげて後退る。皇女殿下ってなんだ?
「何があったのです? アルマリア?」
カーテンの向こうから女の子の声がする……こうなったら、目の前の女性を突き飛ばしてでも逃げるしかないか?
俺が覚悟を決めたとき、カーテンが開いて二人の少女が現れた。
一人は赤っぽい癖っ毛をゆったりとした三つ編みにしている。くっきりとした目許が印象的な、気が強そうな雰囲気の少女。
そして、もう一人。赤毛の少女の背中に庇われた少女と目があって、俺は言葉を失った。
腰まで伸びた、絹糸のように艶やかな濡れ髪は輝く亜麻色。整った鼻梁とふっくらとした唇。驚きに見開かれた瞳は深く澄んだ青。ほんのり桜色に上気した肌は透き通るように白い……まるで咲いたばかりの白百合のような少女。
何だろう。初めて会った筈なのに、すごく懐かしい?
「貴方……は?」
亜麻色の髪の少女が呆然と呟くように言う。その声に俺はハッと我に返った。
「あ……いや、これは」
俺は思わず少女の顔から目を逸らした……が、その先が悪かった。
目線の先に彼女の胸元が……薄絹のローブを纏ってはいるが、お湯に濡れたそれは体に貼り付いて、素肌より艶かしく体のラインを浮き上がらせている。
自分の体が見られているのに気付いたのか、少女は慌てて腕で胸元を隠した。
清楚な外見の割りになかなか大きい……って馬鹿野郎。これじゃただの変態だ。今さら言い訳できないじゃないか。
「誰か! 曲者です! 近衛騎士っ!」
後ろで先程の女性が叫び声をあげた。ヤバい! 人を呼ばれた!?
にしても、曲者とか近衛騎士? とか、ここは何だかおかしい。まるでドラマか映画の中に迷い込んだみたいだ。
と、俺の注意が背後の女性に向いたのを、もう一人の少女が見逃すはずがなく……
絹を裂くような叫び声に振り向いた俺の目に映ったのは、バスケットボール程の陶器の花瓶を、両手で思いきり振り上げた赤髪の少女の姿だった。
おいおいっ! そんなもので人を殴っちゃ駄目っ……!!
刹那、花瓶が割れる派手な音と凄まじい衝撃に俺の意識は吹っ飛んだ。
ーーはあ……何でこんな事になったかな。
俺は溜め息をついて肩を落とす。
目が覚めたとき、俺は腕を後ろ手に縛られ、木の椅子に座らされていた。今度は何処だろうか。部屋の雰囲気は先程の湯殿とは打って変わって、石積の壁が露出した部屋だ。
部屋の入り口は鉄で補強され、格子窓のついた無骨な木の扉……流れからして牢屋か。揺れる蝋燭の灯りに照らされる室内は重苦しい雰囲気が漂っている。
部屋には俺の他に男が4人。部屋の入り口に2人、目の前に2人。全員黒い詰め襟の服を身に付けていて、腰にはサーベルを佩いている。
さっきも思ったが、まるで映画の一場面みたいだな。いや、そうなんだと思いたい。
「もう一度問う。貴様の名前は? どうやって王宮に忍び込んだ?」
目の前に立つ男の一人が冷たい声で言う。
肩まで伸びた癖のない金髪と切れ長で涼しげな深い緑の瞳、整った鼻梁、おまけに色白で背も高く、高圧的に俺を見下ろす態度も絵になる色男だ。
「同じ事を言わせないでください。私の名前は安心院 一馬です。あの場所には、目が覚めたらいたんです。信じてくれないかもしれないけど、嘘は言ってません」
俺の言葉を聞いた二人の表情が厳しくなる。金髪の隣で腕組をする男が苛立たしげに言った。
「いい加減にしろ! 意味不明な言葉を喋りおって。お前ふざけているのか? 素直に話した方が身の為だぞ?」
こちらの男は金髪男より一回り大きい。黒髪を短く刈り上げ、赤銅色に日焼けした顔には太い眉と鳶色の瞳、大きめの鷲鼻がくっついている。肩幅が広く、服の上からも分かるほど筋骨逞しい体をした偉丈夫だ。体から発する威圧感が半端ない。
俺はふざけちゃいない。真面目に応じてるのに、何でわからないんだ。
あ、そうか……これ、もしかして会話が成り立っていないんじゃないか?
俺は二人の話している言葉が理解できる。しかし、相手は俺の言葉が理解できない。でも、二人は俺の雰囲気や反応で俺が言葉を理解できていることを感じている。
キャッチボールでいえば、相手の投げたボールはしっかり受け止めているのに、俺が投げ返したボールは大暴投で相手に届いていない感じか。
そりゃ、ふざけているように感じるな。
どうしよう……色々訴えたくても伝わらないんじゃどうしようもないし、ボディランゲージを試みようにも椅子に縛られている……うーん。
「ロベルト、どう思う?」
金髪の男は意味ありげな笑みを浮かべた……この顔、ろくなことを考えてないな。
「どうって言ってもな」
「考えられることは二つ。ひとつは、この男は大陸公用語を理解できるが、話せない。もうひとつは理解できるし話もできるが、出鱈目の言葉を話して俺達を混乱させようとしている……」
彼等の言葉は大陸公用語っていうのか。いや、それより出鱈目に話してなんかないからな。
「理解できて話せないなんて、あるのか? そんなこと」
「あるかもしれんし、無いかもしれん。だから、試すのさ……ハンソン」
金髪の男が後ろに控える男を呼び、何かを伝えた。男は小さく頷くと部屋を出ていく。
試すって、何をするつもりなんだ? 嫌な予感しかしないぞ。
心なしか楽しそうに聞こえる金髪男の言葉に、ロベルトと呼ばれた黒髪の男は渋い顔をする。
「しかしラファエル、上層部はこの男の処遇について、『尋問の必要なし、速やかに処刑せよ』と指示を出している。それを曲げて尋問してるんだ。余り時間は掛けられんぞ?」
ちょっと待て。直ぐに処刑だって? 取り調べも裁判もなしに? 確かに風呂に無断で入って女の子の裸を覗き見ちゃったのは事実だけど、問答無用で処刑はおかしいだろ。弁護士呼ばせろ。
ラファエルと呼ばれた金髪男はロベルトの言葉に頭を振った。
「分かってるさ。だが、すぐ処刑してしまっては何も分からぬ仕舞いだ。もし同じ事が起こったとき、今回と同じ醜態を晒すことになる……まあ、上の連中はそれでも構わんのだろうがな」
「……確かに。幸い今回は皇女様に大事はなかったが、また同じような不届き者が現れないとも限らんな」
……王宮ってのは王様とかの生活の場だから、ラファエル達からしたら、俺がやったことは王様の家のお風呂場に飛び込んで、お姫様の裸を覗いたって事だ。
そりゃあ、大騒動になるだろうけど……それで処刑されるなんて冗談でも理不尽すぎる。
何とかしなきゃ……俺はまだ死にたくない!
「しかし、王宮に侵入したかと思えば、丸腰のうえに侍女に隙を突かれて花瓶で殴られて昏倒する……大胆不敵なのか、ただの間抜けなのか。興味深い男だよ」
ラファエルは俺を横目で見て鼻で笑った。くそっ! 顔が綺麗だから余計に馬鹿にされてる気がする。
その時、扉が開いて先程部屋を出ていった男ーーハンソンといったかーーが入ってきた。手には見るからに凶悪な形の物を持っている。
ネットで見たことあるぞ? あれは確か……。
「ラファエル様、『クニー・ツェアシュラーゲン』をお持ちしました」
膝砕き……って、拷問具じゃねぇか!
一体どうなるんだよ……俺。




