第一話/夕焼けと夜空のアマルコライト
Time/201X,Sep,3rd-6,14,41(PM)
Side/Third Person
少女の腹に、鈍痛が走った。
腹を貫通しそうなその痛みに、思わず前に倒れかける。
しかし、少女は倒れない。少女が踏ん張った訳ではなく、少女の体が支えられているからだった。
腹にめり込んだ拳によって。
拳の持ち主の少女―――――――――三鷺 碧は獰猛な笑みを浮かべた。
「ほーらほらっ! もっと抵抗しないと死んじゃうぞっ、なーんてねッ!!!」
ドゴッ、と今度は胸の辺りに拳がめり込んだ。
「もう……ガハッ……やめてよぉ……」
殴られていた方の少女が、声を振り絞る。でも、その声は"彼女ら"には届かない。少女の腹を殴っている少女、三鷺 碧と後ろから少女を羽交い締めにしている少女、白風 綺の耳には届かない。いや、耳には届いただろう。しかし、"彼女ら"の脳が、それを取るに足らない雑音だと判断した。
碧の拳が振るわれる度に、少女は苦痛の声を上げ、涙を流す。少女は、なんで私がこんな目に…… などと思っているかもしれない。しかし、そんなことは碧と綺にとってはどうでもよかった。二人は、殴り始めた当初、不機嫌そうな顔をしていた。でも、殴っているうちに次第に笑顔になっていく。今では二人とも満面の笑みを浮かべている。どこか空虚で、どこか歪んだ笑みを。
二人は頬を紅潮させて、熱い吐息を吐き出した。まるで熱に浮かれたような表情。“いじめる”という行為で絶頂に達したとでもいうのだろうか。
ザッザッ、と綺に少女を羽交い締めにさせたまま、碧は少女から少し離れる。そして、ゆっくりとぎこちない動作で足元に捨てられたタバコケースを拾い上げた。恐らくは不良生徒の吸い残しだろう。幸いなことながら、中にはまだタバコが二、三本入っていた。碧はポケットからライターを取り出す。ライターを左手に持ち変え、タバコに火をつける。数秒もしないうちにタバコの先端が赤くなった。静かに煙が立ち上る。碧は少女の制服をめくり上げて、しばらく燃焼させた"それ"を腹に押し付けた。
「うっ………あ゛っ……ヤ゛メ…」
静かな悲鳴が放課後の体育館裏に響く。だが、誰も来ない。
この時間帯なら、もう誰も体育館を使っていないからだ。後ろは森に挟まれていて、人気ゼロ。教師も警備員も来ることはない。絶好の虐めスポットだった。
「あはははは、ねえ? 痛い? 熱い? 苦しい? それはよかった。貴女の苦しみが私のしあわせー みたいな?」
「おね…あぃ゛っ……ヤメ゛でよぉ……」
沈む夕日が少女を照らしつける。絶対的な上位者に抗おうとする少女を赤々と。けれどもその赤は、燃える炎の赤ではなく、少女の血の赤。それを表す太陽は山の彼方に沈みかけている。
夜が、近い。東の方はすでに黒い天蓋に覆われていた。
「何をしているの!?」
絶好の虐めスポット"だった"体育館裏に凛とした声が響く。
一瞬、教師ではないかと身構えた彼女らだったが、その正体に気付いて警戒を解いた。
三人から少し離れた所に、もう一人の少女が立っていたのだ。彼女は黒のポニーテールをなびかせ、肩で息をしていた。おそらくは、少女の姿を見つけて走ってきたのだろう。
「また出たよ……」
綺が鬱陶しそうに呟く。その言葉は、違和感なく心の奥底まで入ってくるのに、受ける印象が狂っている。まるでメデューサが放つ呪いの言葉のように聞いた者を凍りつかせる。
綺は光を映さない濁った目でポニーテールの少女を睨み付けた。その瞳は、この世の全ての不条理、この世の全ての痛み、この世の全ての狂気を体現しているかのように、暗い。
常人なら気持ち悪さと不気味さで腰を抜かすところだが、ポニーテールの少女は少し怯んだだけだった。
「行こう?」
碧が手を差し出す。
綺は少女を解放して、その手をとった。
倒れ込んだ少女の腹に一発蹴りを入れてから、二人は踵を返して校門の方へと向かった。
ポニーテールの少女が少女に駆け寄る。
少女は、泣いていた。
小さな嗚咽しか聞こえないが、その目からは涙が溢れていた。両頬をぽろぽろ流れ続けて止まる気配がない。
「あんたたち……次に雫に手を出してみ? 殺すから!!!」
ポニーテールの少女はいじめられていた少女―――――――篠村雫を助け起こしながら、小さくなっていく二人の背中に向かって叫ぶ。それは間違いなく負け惜しみだった。
二人は馬鹿にしたように手を振ると、校舎の角を曲がって見えなくなった。後には、雫と廻を照らす夕日しか残らない。廻はこの光景を、この構図をどこかで見たことがあるような、そんな気がした。だが、デジャヴだろう。
「廻ちゃん…… ありがとう」
雫が涙を拭いながら、小声で呟く。その顔はほんのりと赤くなっていた。
「当たり前の事をしたまでよ。だって私達、友達でしょ?」
ポニーテールの少女、浮鞠 廻は、少し照れ臭そうに言った。
表面上の友達とは違う、心の底から信じ合える本当の友達。それが二人の関係だった。元々、クラスでも孤立しがちだった雫に、廻の方から話しかけた。たちまち二人は意気投合し、大親友になった。一部の男子からは"百合カップル"と囃し立てられるが、あくまでも友達である。
「とも……だち……?」
雫は呆然として言った。
もちろん、嬉しさからであったが、
「え゛っ……もしかして友達だと思ってたのって私だけ……?」
廻はガーンという効果音でもついているかのようにガックリとうなだれた。
もはや負のオーラまで出ている。
「いやっ、そんなことないよ廻ちゃんは大切な私の友達だからぁっ! お願い元気出してよ廻ちゃんっ!」
雫があたふたと廻の誤解を解こうとする。後ろから必死に廻の肩を揺さぶる雫はもう、涙目になっていた。突然、「ぷにっ」と、廻の人差し指が雫の頬を変形させる。
「ふえっ!?」
雫が驚いたような声を上げる。廻の顔には先ほどの落胆は微塵もなく、悪戯っ子のような笑顔が踊っていた。
「本当に雫は可愛いなあっ♪」
そして、ひたすら雫の頬をぷにぷにする行為に左手も加わった。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに。
廻の両手が雫の頬をぷにぷにする。その感触は温かいマシュマロか、低反発枕……いや、そんな物に例えるのもおこがましい。雫のほっぺたの感触はそんな物とは比べ物にならない。だから、廻は雫のほっぺたをぷにぷにするのである。
ぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷにぷに。
「ちょっと廻ちゃん! いい加減やめてよぉ」
「ああ…… ごめんごめん」
廻はパッと手を離す。一方、雫はぷくぅーっとフグのように頬を膨らませて、涙目で廻を睨み付けている……つもりだった。でも、全く恐くない。
それよりも可愛い。
むしろ萌える。
小動物萌えとでもいうのだろうか。人類全てが共有する価値観である"妹萌えの法則"に従って、庇護欲をそそられる。それは、廻も例外ではなかった。
むしろ、雫に対して友情以上の思いを抱いている廻には、過剰な刺激になった。
「ぶふぉっっっ!」
廻が鼻血を吹き出して勢いよく倒れた。
「廻ちゃん!?」
雫は、被弾した戦友を介抱するかのように廻を抱き起こしてガクガクと揺さぶる。廻はどぼどぼと鼻血を垂れ流しながら、残った力を振り絞って、親指を立てた。
「最後に……いいものが見れて…………よかっ…た……ガクッ」
「廻ちゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
雫の叫びはコンクリートに吸い込まれていった。
Time/201X,Sep,3rd-7,17,57(PM)
Side/浮鞠 廻
私はゆっくりと、目を開けた。舞台の幕が上がるように、意識が明確になっていく。倒れた時に打ち付けた背の痛みを堪えながら、ゆっくりと起き上がる。
周りを見回す。
雨風に晒されて、茶色く変色した校舎の壁。ヒビが入った窓。掃除もろくにされていないのか、窓枠は腐って形を失っている。窓を通して、乱雑に積み上げられたマットやら跳び箱やらバスケットボールが見える。
さらに、なんでここにあるのか、窓を貫通している釘が大量に刺さったバット。
視線を外すと、コンクリートで舗装された床が所々ひび割れている。瓦礫になっている所すらあるし、スプレーで落書きされている所も。非常階段は使われないのをいいことにまったく手も触れられず、腐敗していたり錆びたりして全体的に黒くなっている。視覚的にも気持ち悪い。
柱はほとんど瓦礫になっていて、内部の鉄骨がむき出しになっている。森の方は全く手入れされていなくて、雑草が生い茂っていた。
空を見上げる。
私が倒れるまでは薄紅色だった空が、本格的に紫を帯びた墨色になっていた。太陽は完全に沈み、代わりに半分の月が昇っている。
そして、視点を下げると目の前には雫。
私の顔まで5Cmもなく、鼻が触れ合いそうになった。雫の群青色の瞳は、真っ直ぐに私の目を見つめている…………
「って雫!?」
――――ッッッッッッッッ!!!
瞬間、心臓が、停止。
数瞬後、動き出す。
しっかりと耳に届く心音。五感がまっ逆さまに落ちたような落下感。真空パックで圧縮されたような息苦しさが身体中を襲う。それらから逃れるために深呼吸をして落ち着いて、ようやく気付く。息が詰まりそうになるほど、雫と接近していることに。
「よかったぁ~ 一時間近く倒れたまま、ピクリともしないから本当に心配したよぉ…… ずっと人工呼吸とかしてたんだからねっ!」
「あ……ありがと。心配かけてごめんね?」
「ううん。大丈夫だよ」
私の心が暖かくなっていくのを感じる。今まではなかなか機会がなかったけど今回はなんと、看病までしてもらえた。毎日、会えてるだけでも嬉しいのに、一時間も付きっきりで隣にいてくれた。
「って人工呼吸ぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!?」
「うん」
「それってマウス・トゥ・マウスの方!?」
「うん。まうすとぅまうすの方」
また鼻血を吹き出しそうになるのを辛うじて堪える。
おかげで一滴の鼻血が滴り落ちただけで済んだ。それだけでもうフルマラソンを三回走ったくらいエネルギーを消費したけど。でも、人工呼吸って! 雫が私に口付けって!
「£たJ2なδKhル‰ヌタ54p√〒々Ωはな♯マ4051¢Θ‰々£〒£……」
「廻ちゃん…… 日本語喋ってよぉ」
「ででででっでっでもっ、ししっししししっししっしっ雫とききっきき
ききっききっきききっきっキスとかってててて」
「え? あれキスじゃないでしょ。あれは救急手段だし、唇をつけただけ
でキスとは違うと思うよ?」
「ちくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!!!」
絶望した! キスすらキスと認められないこの世の中に絶望した!
ていうか落ち着け私!
これはキスなんだ。私が認めればキスなんだ! 雫が何と言おうとこれはキスなんだうわあああああああああああああああああああ!!!
「廻ちゃん、大丈夫? どこか打ち所悪かったりしない? 特に頭」
「失礼なっ! 私は正常だっ!?」
雫が私の額に手を当ててくる。私を覗き込む雫の顔は本当に心配しているようだった。
こんな私でも、雫に心配してもらえる。その事実だけでも私の器を幸福で満たすには充分過ぎるほど。
雫は更に身を乗り出してくる。頬に頬が触れそうになる距離まで。まさにワン・インチ・距離。
「ちょっと廻ちゃん静かに」
雫が小声で囁いてきた。
耳をすませてみると、遠くの方から8~9人の足音がと話し声が聞こえる。もしかしなくても、"奴ら"だ。
不良グループ"山本組"。
私達の学校の二年生を中心に構成されている小規模のグループだ。一丁前に山本組とか大手ヤクザみたいな名前を名乗ってるけど、実際には10人にも満たない弱小組織。おそらくはコンビニ前とかの定番スポットは他のグループにとられて、ここに来るしかなかった……のだろう。
でも、それでも私達二人には十分脅威に成り得る。空手4段、柔道2段の私でも同時に相手できるのは5人程度。さすがに9人一斉にかかって来られると、ちょっと困る。でも、逃げるにしてもここは袋小路。さすがに私と同じ背丈の草の中に突っ込む勇気はない。ここは逃げ場を探そう。
「もうそこまで来てるし、どこから逃げよっか……?」
雫も同じ結論にたどり着いたらしい。可愛らしい仕草で周りを見回す。
今出ていくと"奴ら"に鉢合わせ。体育倉庫にはまさかガラスを割って入っていくわけにはいけないし、森は論外。刻一刻と奴らが迫ってくる。二人で必死に活路を探す。
―――――――あった!
赤黒く錆びた非常階段。
屋上に繋がっているこれなら……逃げられる!
ちょうど同じタイミングで同じ結論に辿り着いた雫が、私の手を引っ張って急かす。私も非常階段に向かって駆け出した。
風が吹いて、夜の森が不気味にドウッとざわめく。その瞬間、"奴ら"が角を曲がって現れた。
その頃には私達はもう、階段を駆け上がるところだった。
ガンガンガンガンと、足音がけたたましく響き渡る。それに混ざって後ろと下から「おい! 誰だ!」、「捕まえろ!」等と雑音が聞こえてくる。
――――――五月蝿い奴らだ。
出来ることなら消してしまいたい。奴らだけじゃない。雫を虐めている名も知らない二人。友達を気取って私と雫の恋路を邪魔しようとする同級生。私と雫が触れ合っていると注意してくる生徒指導の教師。雫を怒鳴って落ち込ませる雫の両親。雫と笑顔で話していたコンビニのバイト。昨日、雫の前を横切った老人。雫と接したニンゲン全部。
塵も残さず消してしまいたい。
ファサッ。
先を行っていた雫の髪の毛が私の鼻先を撫でた。
艶やかに光輝く紫の長髪。
そして、それが私を正気にさせる。
我ながら自分が恐ろしい。
さっきまで私、何を考えていた?
その問いかけに答えるように、思考が深く冷たく沈没する。
手に持った白銀に光るナイフで真っ赤な心臓をザクッザクッと突き刺して抜いて突き刺して抜いて突き刺して抜いて突き刺して抜いてそれを繰り返す。さらに突き刺して切り開く。ナイフの白銀がどす黒い赤に染まる。
肋骨に邪魔されてうまく切れないけど、真ん中から切り開けば大丈夫。まるでチャックを開けるように、人間の肉体が開いていく。
私は中に手を突っ込む。
死んだばかりの人間は、まだ温かかった。
木の枝やゴミが埋まっている泥の中に手を突っ込むような感触。
手探りで解体していくと、人差し指の先に硬い袋みたいなものを感じる。逃がさないように、それを掴む。腐った蜜柑を握るように、指が中にめり込む。
私はそれを、一気に引っ張り出した。
例えるなら、じゃがいもの収穫。人肉という土を掘り返して、心臓というじゃがいもを、血管という根を引きちぎって収穫する。
月の光に照らされて、深紅のじゃがいもが露になる。少し握ってみると、ドピュッ、と赤黒い血液が吹き出す。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。ドピュッ。
つい、面白くて何回もやってしまう。人間の心臓を、何回も握ってしまう。
試しに、深紅のじゃがいもの一部分を千切りとって、口に含む。
飴玉のように、口の中で転がす。
口の中に広がる鉄の味。
試しに噛むと、固い。
長時間煮た牛肉の塊のような噛みごたえ。
正直、不味い。
なんで食人族はこんなものを好んで食うのか分からない。
いや、噛んでいるうちに、肉汁が口の中に充満する。唾液と肉汁、そして血のフルオーケストラ。思わずうっとりしてしまう程の味わい。
前言撤回。最高だ。
今まで私は、こんなに美味しい料理を食べたことがない。
この時、私はこう思った。
――――――――人間って美味しい、と。
でも、一番問題なのは、
こんなに鮮明に思い出せるにも関わらず、
私は人間を殺したことも食べたこともない。
正直、これが誰の記憶なのかも分からない。
多分私の記憶だろうけど、確証がない。
この記憶には5W1Hが欠如している。
誰を殺して食べているか、そこがどこなのか、私はなぜ殺したのか、いつ殺したのか、分からない。逆に言うと、殺したときの手順と感触しか思い出せない。もしかしたら夢かもしれない。
でも、ここまで鮮明な夢があるだろうか?
昔の人は寝ている間、魂が体を抜け出してさ迷っていると信じていた。ならば、その殺人は私の肉体ではなく、抜け出した魂が行った殺人とすることはできないだろうか。実に馬鹿らしい発想だし、動機がない。何かしらの怨恨がある人物ならともかく、記憶に残っている顔は全くの初対面だった。私の魂が通り魔のような事をやっていたのかもしれないが、今のところ持っている殺人の記憶はその記憶しかない。そもそも、魂はエーテルで出来ている霊体だ。意識という形でそこに存在するだけであって、実際の物質には干渉出来ないと聞いたことがある。でも、記憶の中の私はしっかりとナイフを持って、心臓をこの手でえぐり出している。なら、少なくとも肉体はあるのだろう。第一、科学万能が叫ばれるこの21世紀に魂は存在しない。意識は脳内電気信号の強弱、ニューロンの電気信号の伝達、感覚質―――――――クオリアから生まれるとされている。そこには魂も神も大いなる意思さえ介入する余地はない。
ならば果たして、この記憶は夢なのか現実なのか?
もしも、その記憶を現実とすると矛盾点がある。
記憶の中の私には、殺人と食人に対する忌避感が全く無かった。でも、今の私は人を殺したいとは思わないし、人を食べたいとも思わない。雫と接した人間には消えてもらいたいだけ。殺そうとは思わない。
でも……。
ふわり。
妙な浮遊感が私を思考の渦から引きずり出す。気が付いたら階段の最上段にいた。
そして、浮いていた。
私の右手はしっかりと、雫の右手に繋がれている。
屋上に足を踏み入れた雫が、私を引っ張り上げたのだ。私の体重は禁則事項にしても、鍛えてもいない人間に片手で持ち上げられるほど軽くはない。
しかし、雫は持ち上げるどころか引っ張り上げた。それにはどれほどの力が必要なのか見当もつかない。それに加えて、雫の重心・体重移動を見る限り、素人そのものだ。隠れて武術をやっているとかはないだろう。
私が空中で一回転して屋上の白いコンクリートに着地した瞬間、怒声が響き渡った。
「ゴルァッ! お前ら何してる!!!」
一瞬、先生に見つかったのかと思って覚悟を決めたが、それは間違いだった。
怒声は下から響いてきたのだ。
恐る恐る下を覗いてみると、懐中電灯の光が見えた。でも、それは屋上にいる私と雫を照らしてはいなかった。
照らしていたのは、不良達。
どうやら巡回の先生に不良達の方が見つかったらしい。
散り散りに逃げている不良達と、それを追いかける先生が見える。おそらくは体育のゴリ田だろう。これはまた大変な奴に見つかったものだ。
ゴリラのような体格に、角刈りにした頭。性格は熱血そのもので不良とかチンピラとかには物凄く厳しい。数週間前に不良生徒を殴って親が怒鳴り込みに来たが、「愛だ!!!」の一言で退けたのがもっぱらの噂だ。
雫が引っ張り上げなければ私も見つかっていただろう。まるで未来を読んでいたかのようなナイスプレーだった。
ゴリ田の持つ懐中電灯の光が遠くに消えたのを確認して、ようやく一息ついた。
備え付けのフェンスを掴んでガチャつかせながら、給水塔を目指して梯子を登る。給水塔のあるところは高くなっており、一脚だけベンチがおかれている。昼食時はカップル同士の激しい場所争いが展開されるが、学校階層の最下層にいると決めつけられている雫と、一応上層部だと自負しているけど、中庭を縄張りとしている私は一度も座ったことはない。雫と手を握ったまま登るのはきついが、たった10m。なんとか登りきることができた。
感動を損なわないように目を閉じて、雫に導かれながら歩く。雫の手の感触を楽しんでいると、手を引っ張って座るよう促された。
雫の隣に座って、静かに目を開ける。
そこには、満天の星空。
黒一色の帳から幾百、幾千もの白い点が滲み出ている。その点は全て星だった。そう、"天の光は全て星"。そんな言葉が思い起こされた。
「廻ちゃん」
雫が話しかけてきた。
「綺麗だね」
ギュッと、雫が私の手を握り締める。思わず雫を見てしまった。暗くてはっきりと見えないが、雫の頬が赤くなっているように見える。すると、連鎖を引き起こしたように、私の頬まで赤くなる。雫が私の方へすりよってくる。20Cm……15Cm……10Cm……
5Cm……。
そして、0Cm。
私と雫は、密着した。
効果音で表すなら、「ピトッ」程度の軽い音だった。でも、私にとってはその音が何十倍も何百倍も大きく、響いて聞こえた。制服はまだ半袖の夏服だったため、直に腕同士が触れ合う。腕を通じて、雫の様々なことが伝わってくる。
雫の温もり。雫の拍動。
それらが腕を伝って私の中に流れ込んでくる。
それに釣られて、私の心臓の動きも活発になる。鼓動がはっきりと聞こえてくるほどに。
――――――やっと自覚できた。
私は今、かつてないほどに緊張している。
だってこれは千載一遇の大チャンス。
今までずっと、虐めから助けて好感度を上げようとしたけど――――いや、着実に好感度は上がっている。でも、一向に告白してくる様子はない。
未だに雫から私への"好き"は「Love」じゃなくて「Like」だった。さらに、百合に対する嫌悪感がまだあるのかもしれない。二年間もの長期間をかけて、心理学の論文とか本とかを参考にしながら、心理操作をして百合に対する嫌悪感を無くして、同性愛の種を植え付けた………はず。
実際に反応テストにはドンピシャで想定通りの反応を返してくれている。
うまくいきすぎて怖いくらいだった。でも、結果を見るなら失敗に近い。
恋人としての"好き"という感情を増幅する心理操作をかけていたけど、どこで歪んだのか友達としての"好き"を増幅する心理操作になってしまった。 しかもときどき、雫は私にすら心を開いていないのではないかと疑問を抱く瞬間が何回かある。
でも、それでも私は"好き"を諦めない。
だからこそ、このチャンス。このムードを利用して、既成事実を作る……とはいかなくても、今をトリガーにして、友達としての"好き"を恋人としての"好き"に転換させる。
私は、雫の手を握り返した。
雫は驚いたように私を見る。しばしの後、嬉しさに満ち溢れた笑みを浮かべた。
刹那、吹いた風に煽られて雫の髪が靡いた。
その髪は、さらっと私の鼻の辺りを撫でた。
「くしゅんっ!」
出たのは、可愛いくしゃみ。それには自分でも驚いた。まさか、私がこんなくしゃみを出せるなんて……、と。正直、かなり恥ずかしい。私は、スポーツ万能系クールっ娘を演じている。でも今、そのキャラが崩れた。しかも隣には雫がいる。
私の顔が急激に紅潮していくのを感じる。
雫はそれを見て、「ふふっ」と柔らかい笑いを漏らした。恥ずかしくて顔が爆発しそうだ。
雫の手が両頬に添えられる。気がつくと雫は目の前にいた。
その時私は、1秒が1分に感じられた。雫を残して真っ白になった世界で、全ての音が消えた無音の世界で、ただ一つ聞こえる音がある。
トクン。トクン。と弾む、私の心臓。
繰り返されるBGM。その中で、スローモーションの世界の中で唯一、雫の顔が接近するのがわかる。私は目を瞑って待つ。目を閉じると余計に心音が大きく聞こえる。トクン……トクン……トクン……。
鼻先に何かを感じる。雫の髪ではない。空気の流れ――――――吐息だ。
つまり、吐息を感じるほど雫の顔は近くにある。気配は、近い。
しかし、最後の一歩が踏み出せないのか、気配が停止する。
それは仕方ない。
雫はノーマル。
ノーマルからレズになるのは、これまで持ち続けていた価値観を全て否定してレズという新たな価値観に染まるということ。人間はそう簡単に自分を変えることはできない。私だって、レズからノーマルに転換しろと言われたら全力で拒否する。それほど、思想の壁は高い。私にはその気持ちが理解できる。
"変わるのが怖い"
人は自分というフィルターを通して、世界を見ている。
幽霊だと思ったら柳だった。じゃれているように見えるのは、ただ虐められているだけだった。そんなこともフィルターによって引き起こされる。
思想が変わるのはフィルターが変わるのと同じ。今まで見ていた世界が途端に別のものに見えてくる。例えば、全くの善人で、この人だけには付いていこうと思った人が、美辞麗句を並べただけの詐欺師に見える。今まで熱中していたものが、虚しく価値のないものに見える。
それは、今まで信じていた世界に裏切られるのと等しい。
でも、それでも、一歩を踏み出さないといけない。
迷う雫に、私は頷いて後押しする。
後はただ、待つだけ。
目を閉じて、心を静めて、唇の用意を。
ついに雫は意を決したように、私の頭に触れた。
身体中の感覚を顔に集中させる。 そして、待つ。
高鳴っている心臓を押さえつける。
―――――――来ない?
目を開けると、雫が笑顔で屈み込み、糸屑のようなものを差し出して言った。
「ゴミ、ついてたよ」
ちっくしょおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!
何なんだよ本当に!呪われてんのか私は!?
せっかくいい雰囲気になってきて、やっと……やっとキスしてもらえると思ったのに……!
「廻ちゃん、大丈夫? なんかすごい顔してるよ?」
「こっこここれは何でもないからっ! 決して雫からキ……っ、いや、何でもな
いっ!」
雫は改めてベンチに座り直す。おかげで私も一息つけた。
でも、心の中で後悔が渦を巻く。私が臆病だからいけないんだ。こっちからキスすればよかったのに……と。
そして暫しの間、訪れる静寂。
空を見上げると、月が目に飛び込んできた。
十五夜を三日後に控えた月は、満月より少し欠けている程度だった。
それにしても、今日は月がよく見える。月に叢雲花に風とはよく言ったもので、昨日は月に雲がかかって見ることすらできなかった。それが今は煌々と私達を見下ろしている。
その月に照らされて、私たちが暮らす街並みが眼下に広がる。さらにその向こうには、夜の大海。
月の麓、夜の瀬戸内海は、異様なほどに静まり返っている。
海をずっと見ていると、その黒に飲み込まれそうで怖い。底が見えないほど深くて、どこまでも落ちていきそうな感覚。後ろを向いて引きずりこまれて、暗い水底に沈む。足掻いても足掻いても抜け出す事はできない。そんな想像が頭を過った。だから私は街並みに目を戻す。私達の街は、広島の中でも都会の方らしい。夜景も綺麗に見える。街灯、信号、ビルの明かり、イルミネーション。それらの光の粒が集まって、街というキャンパスに絵を描く。手を伸ばせば届きそうに思えるほどに魅力的な光は地上からは見えない。
先程の二人組も、不良も、この景色は見えないだろう。こんな地上の星を私達二人が独占していると考えると誇らしくなる。
「廻ちゃん。あれ、何?」
雫が指差したのは、光の塔。市街地の中心部にそびえ立つ現代の城。周りのビルも50m、60mはあるけれど、そのビルは次元が違う。周りのビルの三倍以上は高かった。
「確か……"斎間グランドタワー228"だと思う」
「へー。去年にオープンしたものだったっけ?」
「そう。全高228m、総工費315億の大プロジェクト。建設予定地で大騒ぎして、結局人工島を作ってその上に建てたって」
私は軽くため息を吐いた。
「最近はどこもかしこも地価が上がってるからね。厳密に言うと人工島じゃなくてメガフロートって言うらしいけど。合成素材の浮きをたくさん浮かべて土台にして、その上にビルを建てるってやり方。56階建てで屋上にはプールもあるし、贅沢だよね」
雫は手をくるり、と一回転させた。
「しかも、地下って言うか……海面下には水族館と漁場もあるし」
「それに変な形だしね」
斎間グランドタワー228の最大の特徴は、その形状にある。最下層の1~8階は巨大な円柱で、それから上の階は八角形を4つ、縦に二つ横に二つ組み合わせた形をしていて、だんだんと角か緩くなって最上階では円になる。
そんな変則的な形だからこそ、瀬戸内海最大規模の観光名所にもなっていて、ここ一年で私たちが住む斎間市の人口が8000人近く増えたらしい。
まさに街の中心にそびえ立つ夜景のシンボル。今までは機会が無かったけど、今なら言える。「今度、一緒に買い物に行こう?」って。
でも、それを遮るように、
「廻ちゃん」
雫が有無を言わせないほどの強い力で私の肩を引っ張った。自然に私は雫と向き合う体制になる。足を組んでベンチに腰かけている雫の姿は何処か艶やかで、普段の無邪気な雫とは全くの別人に見えた。外見はいつもと大して変わっていないけど、纏っている空気そのものが違うように感じる。
でも、それだけじゃなかった。
色が見える。
どこまでも深く、どこまでも重い。全てを飲み込んでしまいそうな藍色が見える。
一切の淀みを感じない、ただ単に、ただひたすらに純粋な浅葱色が見える。
元は水色だったのだろう。"黒"が混ざって緑がかかっている、夏虫色が。
小学生のごとく、無邪気さを、純真さを内包した萌黄色…………は最早見えない。
そんな色はもうとっくの昔に枯れ果てて、朽葉色と化している。
濡れている。赤が月光を反射して妖しく光っている。でも、その赤は血の赤ではない。黒みがかかった赤でもないし、鮮やかな赤でもない。どちらかといえば緑がかかった赤。赤は「死」、「血」、「不浄」、「復讐」を表し、緑―――――――常盤色は「永久不変」、「永遠」を表す。つまり、その"赤常盤色"が表すことは。
その奥には、鬱金色。鬱金色の対極に位置する色は、群青色。
群青色が意味するのは、「信頼」、「広大」。その対極に位置するということは……。
どうしても思考が乱れてしまう。雫が纏っている空気の色を読むということは、雫を見ることとイコールで結ばれる。
要するに、どうしても目がいってしまう。餅のようにしっとりとした唇に、桜色のリップを塗った……そんな、雫の唇に。
開き直った私が一心不乱に唇を凝視していると、雫が少し微笑んだ。そんな気がした。
瞬きをする一瞬で、雫が目の前に現れた。
そうやって私は、一瞬で、ほんの一瞬で、いとも容易く、軽々と、赤子の手を捻るように、唇を奪われた。




