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ぜーぜーはーはー、という喘鳴にも似た息が傍から聞こえる。
それもそうだ。息せき切って追手の追跡をかわして逃げてきたのだから。
日常的に身体を鍛えているギルバートにはこれくらいの距離はまったく堪えることもないのだが、
いかんせん、カリナには厳しかったようだ。
いつも傍らで使用している杖に掴まり立っている。まるで、腰の深く折れた老婆のような姿勢である。
「姫、大丈夫ですか…?」
「だ、大丈夫よ…ぜーはー、こ、これくらい田舎にいた頃訳なかったのよ…だ、だから、都会になんて来たくなかったのに。」
ごほっと空咳をする。よっぽど苦しいらしい。ギルバートはますますおろおろするしかない。
「本当に大丈夫ですか!?ここ、狭いですけど、これを敷いた上に腰をおろしてください。じゃないと…」
「あなた、し、心配性ね。これくらい…っ」
大きな咳ひとつした後、ぐらりとカリナの身体が揺れて、杖がバランスを失ってころりと床に音を立てて落ちる。
『このまま、床に倒れたら痛いわよね…』
とカリナが思った時、ぐっと腰に逞しい腕が回された。
「だから無理しないでください!見栄なんて張らなくていいんですよ!」
斜めにつんのめったカリナの腰を掬いあげる様にして抱き留めたギルバートの表情が、本気でくぐもっている。
よっぽどカリナの顔の色は悪いらしい。
観念してカリナは目を閉じた。
「じゃあ、そうさせていただくわ…ごめんなさい、もうちょっと私の身体が自由だったらよかったのに。」
「いえ、そんな、」
あなたにこんな無理をさせるぐらいなら、いっそのこと、嫌がるだろうあなたを担ぎあげてでも逃げ去りたかったのに、
というギルバートの言葉は、プライドの高いカリナを前にしているため、喉元寸前でひっかかってついぞ出ることはなかった。
――二人がなぜこんなことになったかというと。
カリナを巡るどうでもいい男たちの殴り合いの場から逃れるために、ギルバートを今宵の相手に仕立て上げることで
強行突破したのだったが、それがいけなかった。
この国の社交界で男性側でトップに君臨するのがジェイド王子や、過去で言えばカリナの兄であるクラウスであるとすれば
女性側は間違いなくカリナだといえた。
天使のような美貌を誇り、男の庇護欲を掻きたてる上、独身であり、婚約者もいない、
恋人らしい恋人も見られたことがないともなれば、カリナ以上に羨望をかき集める社交界の花は存在しない。
それでも、カリナ自身がそんな男たちの醜い争いに今日の今日まで殆ど巻き込まれなかったのにはいくつか理由がある。
一つは、カリナが普段出仕で忙しいことを盾にして晩餐会やら宴といった類のものにまずもって顔を出さないこと。
二つに、婚約者がいないとされてはいるものの、ジェイド王子との関係の近さから二人の噂は絶えることがないため、
並の人間では手が出せないと思われていること。
そして三つめは、カリナサイドのことではあるが、カリナにはちゃんと相手が存在するということ。
だからこそ、カリナはずっと表舞台では独りでいることも可能だったのだ。
しかし、下級貴族主催の宴に出てしまったことと、うっかり傍にいるギルバートを遠ざけなかったことが敗因となって
5年放置し続けた問題が、ようやっと表面化してしまったのである。
とはいえ、今更後悔しても遅いことは重々カリナにはわかっていた。
「ギルバート。どうすればいいかしら?」
「…部屋らしいところまでいっても、という感じですね。
どころか、そういうところに入ったら多分、見つかります。」
なにせ、殿下のお陰で、さっさと帰る予定だったんですからね、とギルバートは更に小さな声で付け加えた。
二人はなんとか会場から逃げおおせたが、しかし、それが火を付けたようで
多くの男たちが二人の行方を追って探し回っていた。
ある者は、カリナを不届き物から奪わんと、
また、別のある者は、カリナの相手が誰なのか見極めようと、
そしてこれまた別の者は、二人の様子を出歯亀せんと。
『多分、姫のファンクラブ会員も紛れ込んでるんだろうな…』
とギルバートは同僚がいるかもしれない可能性にも惨憺たる気分になっていた。
しかし、軍人のギルバートでも、足の不自由な女性であるカリナを連れて脱出することは難しかった。
正面から堂々と去ることもやればできないことはないが、
そのときにギルバートの素性が暴かれることは間違いない。
まだ、身分が月とすっぽん程違うカリナとの関係を明かすことには躊躇わざるを得なかった。
そういうわけで人目につかずこの場を後にするという方法を選んだつもりだったのだ。
二人は今、会場である別館と本宅の屋敷を繋ぐ渡り廊下近くの庭に潜んでいる。
そこここで男女の蜜言が交わされている、篝火で照らされた広大なメインの庭とは方向が全く違っている上、光と言えば、廊下から零れてくるものと
月明かりぐらいなもので、人目を避けるには都合がよかった。けれども、ここには長時間はいられない。
そのうち、衛兵が不審者チェックで巡回があるはずだ。
それまでに完全に人目からシャットアウトできる場所に逃げて、いくらか時間を稼ぐことさえできればよかった。
しかし、今日は泊まりでここに来ているわけではないため、当然自分たちの部屋なんぞあるわけなく、
だからといって適当な部屋に入れば、他の宿泊客に見つかる虞がある。
「姫、どうします?このまま宿泊棟のほうに行くのは難しいと思うんですが…」
「そうね。いっそのこと誰かを脅しつけて空き室案内させるとか、使用人部屋のカギをこじ開けて紛れ込むとかいけそうじゃない?」
「そ、それはまた強盗まがいな…」
田舎育ちで、深窓の令嬢の真逆を生きるカリナの発想は時々、ぎょっとするものがある。
見てくれが蝶よ花よと育てられた完璧なお嬢様所以だ。
カリナはおそらくそのへんの何かが癇に障ったのか膨れっ面で言った。
「なによ、またなんか言うんでしょ?
『そんなに臆面もなくさらっと悪党みたいなこと言わないでください。周りの人間が言動と容姿のギャップで目を回してしまいますから。』
とかなんとか。」
「…仰るとおりです。」
「やっぱりそう思ってたんだ。…でも、こんな犯罪まがいなことやったら、うちの家の名も堕ちるものね。ただの言葉のあやよ、そうそう。」
「…」
本当にそうなのか?とギルバートは大変怪しくなったがこれ以上追及して臍を曲げられるのも困る。
しかして、今この状況を突破する術はギルバートの脳裏にはない。
植え込みの陰で身を寄せ合いつつ、次はどうしようとギルバートが無い知恵を絞っているさ中。
「誰だ、そこにいるのは!」
「きゃっ!」
突然の大きな誰何にカリナが小さく悲鳴をあげる。しかし、完全にこちらの居所を相手に知られてしまった。ギルバートは思わず頭を抱えたくなった。
さきほどまで強気なことを言っていたのに途端しがみついたカリナをちらりと見やって、ギルバートは言い含める。
「姫、多分あれは巡回の衛兵でしょうが…きっと、俺たちのことを追ってる者も気付いたはずです。
いいですか、強行突破しますよ。いけますか、姫?」
「大丈夫よ、多少の距離なら、まだ大丈夫。」
そんなわけないことはギルバートには知れていた。
カリナの足は先ほどひとっ走りしただけでガクガクと震えが来ている。
片足が杖をついているために筋力が殆どない人が、全力疾走することだなんてどれほど辛いか想像に難くない。
しかし、ギルバートはやはりこの5年、いやここ1年ほど思いがけず近くでカリナの傍にいたため、彼女の人となりはよく知っていた。
男におぶわれたり、抱っこされることは嫌なはずだ。腕を取って支えることすら気に食わないだろう。
足が自由に動かせた頃の趣味が、馬で野駆けすることだった人だ。
自分の力で地面を踏みしめることが、どれほど彼女の中で大切なことなのか痛いほどわかる。
「じゃあ、行きますよ、姫。俺の手を握ってください。出来るだけ、傍に寄って・・・離れないでくださいね?」
「わかってる。ちゃんとついていくわ」
本当の意味をこの人はわかってるのだろうか?ひっそりギルバートは問いかけたくなった。
そして案の定追手の者に見つかって全力疾走する羽目になり、ガクガクと崩れ折れそうになるカリナの膝の様子を気にしながら
なんとか走り切った末、ギルバートが見つけた当分の間誰も来なさそうな部屋。
――それはリネン室だった。
既にベッドメイキングは終えられて、敷布を交換する必要が出てくるのは少なくとも明朝という中、
リネン室に人が出入りする可能性はとんとない。
カリナが息も絶え絶えでこれ以上どこにも向かえない、という中、偶然通りかかったのがリネン室にどうにかこうにか入ったのだ。
中は6畳ほどの狭苦しい面積で、うず高くぐしゃぐしゃになったシーツが床の上に積み上げられている。
備え付けられている棚にも沢山の布団類が入っていて、圧迫感が凄まじい。
しかし、清潔が第一のリネン類のため、黴っぽさは微塵もなく、そこだけが救いである。
薄暗く、灯りすらない部屋だったが、一時しのぎとしてカリナを休ませるには都合のいい部屋といえた。
全力疾走のお陰でフラフラになったカリナが斜めにつんのめったため、ギルバートは彼女を横抱きにしながら
床の上に山になっているところからいくつかシーツを引っ張り出して来て敷き、その上に彼女をそうっと慎重に横たえる。
そしてシーツを折りたたんで枕に丁度いい程度の高さにしたものを頭の下に敷く。
窓から注がれる月明かりでカリナの白い細面が映し出される。
未だに苦しいのか、ぎゅっと眉根を寄せた表情のまま、うっすらと生え際が汗で光っている。
思わず、先ほどから顔隠しにカリナに貸してもらっていたハンカチでぬぐう。
「大丈夫ですか?しんどいんですよね?水か何か、持ってきましょうか?」
「大丈夫…横になってれば、本当に、大丈夫だから。」
やっぱり信用できない。このままカリナを具合が悪いままにしておくよりは、
自分がここから出て行って、むしろ何もかもバレてもいいと思ったギルバートは、立ちあがって外に出て行こうとするが、
「いいの。本当に、大丈夫だから…それより、傍にいてくれるほうが、私には有難いから…」
と遮られる。こうまで言われるなら、それに従うしかない。
ギルバートはカリナのすぐ横に腰をおろして、上からそっと彼女の顔を見る。
彼女は、額に手を翳して頭痛を押し殺して無理やり目を瞑っているように見えた。
「なんであなたはそんなに意地っ張りなんですか?具合が悪い時ならおぶさってくれとでもいってくれたらよかったんですよ」
「意地なんて張ってないわ。ただ、おぶわれたり、担がれたりして、あなたに世話をかける人間になりたくなかったのよ。」
やっぱり見抜かれているな、とギルバートは思った。
カリナは、いざとなったらギルバートに担がれることも危惧していたらしい。
なんて、強情で、世間の女と全然違うんだろう。
ギルバートは、この甘え下手の彼女に対して、つい微笑が零れ落ちた。
しかし、どうもそれを勘違いしたらしいカリナが相変わらずの短気さでキレた。
「何が面白いの?私がこうやってぶっ倒れてることでしょ?わかってるわよ、身の程も知らない強情な馬鹿女だってことくらい。」
「そんなことは思ってませんよ。」
「じゃあ何なのよ?そうやってひっそり笑ったつもりでしょうけど、全然ひっそりじゃなかったもの。」
「そうですね…あなたって、本当に可愛らしいなあと。」
「…え…?」
予想外の答えだったらしく、カリナの表情が見る間に固まったのが見て取れた。
ギルバートは、剣で一本とれたような快感を覚えつつカリナの金を引き延ばしたような金髪に恐る恐る手を伸ばして触れる。
いつの間にかひとまとめにされていたはずなのに、走っているうちに髪止めがどこかで落ちたらしく、
下ろされた髪が淑やかな雰囲気とは別種の、大胆な艶やかな色香を感じさせる。
しっとりと汗で湿っていたが、嫌な感じはまったくしない。むしろ、触れるごとに何かが募ってゆく。
カリナも嫌には感じていないらしく、されるがまま大人しくしている。
さて、どんな反論が来るだろうかとギルバートは怖いもの見たさで楽しんで待っていると、
予想外にカリナは何かをあきらめたようなため息をついた。
「こんな女が可愛く見えるなんてあなたの目も節穴ね…」
「俺が言ったことはそんなに、がっかりするようなことでしたか?」
「そうね…少なくとも、私は自分のことが可愛くないもの。
どれだけ頑張っても、かわいらしい仮面なんて被りきれない…
あなたが見てるのって、すぐ短気でキレちゃうお子様な自分ばかりね。」
「でもそれが可愛いって言ったら…どうなんですか?」
カリナ相手に殆ど初めてかもしれない、告白めいたセリフがギルバートの口を突いて出る。
自分たちは、ただの紙切れだけの関係じゃない。
今までは政略結婚を前にして臆するところがあったが、何故だかこの日は大胆にもそんな自信が湧いて出ていた。
カリナも今までにないギルバートの態度を感じとったのか、しばらく考え込むように沈黙していたが、
やがて今まで瞑っていた目を徐々に開けていく。
月明かりだけが差しこむ薄闇の中で、それ自体が光る星のように、ともすれば徐々に綻ぶ天界の幻の花のように
碧い二つの瞳がぎゅっとギルバートの心の奥底を鮮烈に焼き切るように貫いた。
「嬉しいわ。あなたが言ってくれる言葉は、全然嫌じゃない…」
あっ、と思った時にはギルバートはもうすでに行動に移っていた。
横になるカリナを覗き込むように顔を近づける。
花の顔が視界いっぱいに広がってため息を覚えるほどうっとりする。
紅をつけなくても南天の実のように赤くてふっくらした唇が眼前に迫る。
堪らず、そこに自分の唇を押しつけようとしたそのとき。
「すー…すー…」
「え?寝落ち…?」
聞こえてくるのはカリナの規則正しい寝息。いつの間にやら瞳は閉じられている。というか、どうも、
さきほどの言葉は寝ごとだった…?
「嘘だろ、おい…」
ギルバートは体勢を元の位置に戻して頭を抱える。よもや、こんな笑い草にもならないようなことがあるのだろうか?
たった二人だけの密室で、ギルバートはさてこのあとどうしよう、と自分の中途半端に熱せられた身を持て余しつつ
思案に暮れていた。




