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上司の愚痴ほど嫌なものはない。
そんな、世の格言のようなものがうっかり脳裏に浮かび、ギルバートは思わずため息をついた。
「殿下、くだばっかまかないで、ちゃんと仕事してください。私は今日早く帰りたいんですよ!」
「カリナか?カリナと会うのか?!俺がこんな目に遭ってるっていうのにほんっといい気味だよ、けっ。」
「って、自分の妻と会うのがそんなに悪い事なんですか?自分が片思いの相手に殆ど振られたも同然だからって
ケチつけないでくださいよ…」
「ギルバート、開き直った上に、そんなこと言っていいのか?」
「ひっ。」
ぬっと鼻先が触れ合いそうなほどのどアップで王子が顔を近づけてくる。
ギルバートは、カリナだったら大歓迎だったが、いくら奇跡みたいな美貌を誇るジェイドの
不満たらたらで文句を言いたそうに眉根を寄せている顔は遠慮願いたかった。
「ちょ、で、殿下…!」
「アンリエッタってなんも俺のこと見てないのか??????
なにが一目見たら5年は寿命が伸びるんだよ!?」
「殿下、こ、壊れちゃダメですよ!大丈夫です、殿下大丈夫ですよ。
女性だけじゃなく、うっかり男性にも持て囃されるような美貌ですよ!!」
「嬉しくないや、男になんかモテたって…」
しくしくと泣き真似をしつつようやくジェイド王子は離れて行った。ギルバートはほっと息をついた。
それから一時中断していた、王子が決裁した書類を提出先ごとに小分けしながら、
しょんぼりしつつ自分の執務机に戻って言った王子に向かっていった。
「でも、アンリエッタさんが好き好んでお見合いの話を受けたわけじゃないんでしょう?
なら、まだ殿下にも望みがありますよ!」
「そんなに上手くいくわけないじゃない、ギルバート。」
突然背後から涼やかな女性の声が聞こえる。聞きなれたもので、ギルバートはすぐに顔を後ろに向けた。
「カリナ、姫…」
「甘いわよ、ギルバート。一回見合いを承諾したらあとはなし崩しね。
決まった相手が別にいるとか、絶対見合いを断るっていう決意がなかったら、
お見合いって簡単に成立しちゃうのものなのよ。
特に、御家族が設定したものだったら、余計断りづらいはずだもの。」
ゆるく結われた豪奢な金髪が彼女が歩くたびにゆらゆら揺れる。
男性側で奇跡のような美貌と揶揄されるのがジェイドならば、女性側はまさしくカリナである。
出仕している恰好は全く肌の露出がないというのに、どこからか危うい色香が漂ってくるような気品を漂わせている。
片足が不自由なため、ゆったりと時間をかけて、しかし時間がかかったとは思わせないような歩みをもって
すとんと、ギルバートが一人で決裁印ごとに仕分けの作業していた机の向かい側に椅子を持って腰を下ろした。
その動作さえ目を見張るほど妖艶だった。
「ほんと、殿下は嫌なやつよね。武官のあなたにこんな作業を強いて。
だから、アンリエッタさんにフラれて私はいい気味よ。」
「いい気味って、カリナ!!!」
怒気を含ませてすたすたと再び王子がやってくる。
ああ、なんでこの二人は顔を合わせるたびけんか腰になるんだ!!
とギルバートが内心嘆いている最中でも、着々と二人の言い争いはエスカレートしていた。
「俺はまだフラれてないぞ!誤った発言はやめてくれないか!?」
「でも、あれだけあけすけな態度をとっても、アンリエッタさんが見向きもしてくれてないんでしょう?
完璧な恋愛対象外じゃない。決まったも同然よ。」
「それはアンリエッタが鈍感で、俺のことを上司としか見えてないからであって…!」
「ってことは、あなたのことを恋人にはまったく思えないってことじゃない。
もう認めたらどうなの、殿下。」
「はっ、政略結婚したカリナには言われたくないね!君たちだって嫌々結婚した仲じゃないか。
そんな君たちに指南されても…」
「でも少なくとも私達はこの結婚に後悔はしてないわ。
アンリエッタさんだって、お見合いで結婚して、案外上手くいくかもしれないじゃない。
その可能性をた だ の 上司でしかないあなたが否定していいのかしら?」
「くっ…」
言い負かされた王子が悔しそうに唇を食む。カリナの正論はいちいち正しい。
正直ギルバートは王子の立場に立って同じことをカリナに言われたらもうどうしようもなくなると思えた。
しかし、めげずに王子は反論した。
「でもまだ、アンは16歳で…」
「殿下、私は15で結婚したわ。ギルバートは確か17歳だったと思うけど。
御家族の方だったら、結婚適齢で恋人も婚約者もいない女の子をこのまま王城で使用人仕事に埋没させたくないでしょう?
しかも、良縁が転がってたら勧めてくるのが普通よね。」
「………俺をけちょんけちょんにするなんてカリナは最低だ…」
小さく小さく捨て台詞を吐いたジェイドは、肩を酷く落としてとぼとぼと執務机に戻って行った。
そして天を仰ぐように椅子に座ったままはぁとため息をついて、完全に意気消沈したようにギルバートには見えた。
正直、この様子では今日は使い物になりそうにない。
ギルバートはあとで第二王子付き政務官たちに文句タラタラ言われる自身の姿を想像してかなり悲しくなった。
「姫、できることならもうちょっと優しく殿下をいさめていただければよかったんですが…」
「あの我儘大魔王相手に温い手でいったら私がものすごく後悔する羽目になるもの。
まああなたには悪かったわ。ただでさえ大変なのに御守の面倒を増やしてしまって。」
本当に申し訳なさそうな顔で謝られた。
しかし、なぜ目の前にカリナがいるのは何故か。根本的な疑問がギルバートに浮かんだ。
「それで、姫はここに何しに来たんですか?今日は殿下と面会の予定はなかったんじゃないんですか?」
「そうだったんだけど、この我儘王子に呼び出されたのよ。
多分、アンさんの説得に私もつきあわせたかったんだろうけど、アンさんいないわね、どこに行ってるの?」
「今日はお家の事情で半休をとってるそうで、しかもそれすら殿下は知らなかったそうですよ。
諸々が自分に知らされなかったのもあって、余計気が落ち込んだみたいで…」
「そうなの。お馬鹿ね、殿下…」
ふぅとカリナは息をついた。
その、何気ない動作すらギルバートの目には毒のように染み込んでは広がっていく。
ああ、なんでこんな綺麗な人が俺なんかの伴侶で収まっていられるんだろう。
とてもじゃないが、こんな運命の采配は普通ではありえなかったように思えた。
若干父母が特殊な関係だという以外には、裕福な家に生まれた後継ぎには関係のない次男でしかない。
実家が莫大な資産を持っているとはいえ、家業に関するものは長男である後継ぎの兄に引き継がれる予定で、
もし遺産としてギルバートに転がってくるものといえば、田舎の方の土地や家屋ぐらいだ。
それでも何も遺産が残されない普通の後継ぎではない男子にしては恵まれているのかもしれないが、
配属先が変わればコロコロ居住地を代える軍人として、これからやっていく分にはおおよそ活用できないものである。
唯一、母から受け継いだ娼館の権利だけは、この世の男たちから称賛の眼差しで見られるものといえるが
大っぴらにそれを自慢するつもりもないし、名義だけでハイライド家に運用されている資産だから全然受け継いだ気がしていない。
資産以外にギルバートがあと持っているものと言えば軍人としての素質ぐらいだが、
カリナの前にはちっぽけすぎて雀の涙にもならないほどだ。
打って変わってカリナといえば何十万石もある所領を持ち、大臣職を代々拝命している家系の後継ぎの姫だ。
美貌は言うまでもなく、教養もあり、機転が利く。
王家とも血のつながりが濃く、昔はジェイド王子と婚約者同然の関係だった時期もあるというほどだ。
よっぽど、ジェイド王子と結婚した方が彼女にふさわしかったのではないだろうかと今でも思う。
現実に、周囲にもそう思っている人間が多い。
そう、ゴシップ紙をいつも賑わすほど…
ギルバートは、そこではた迷惑な事実に気付いた。
「ひ、姫、こんなところにきたら、殿下とまた噂が立つんじゃないでしょうか…?」
おずおずとカリナに進言してみるとはっきりと彼女の目の色が変わった。
「私ったら殿下の口車に乗せられてのこのこ来たけど…!
殿下、私、ここに来るたびあなたと噂を立てられてるのよ、どうにかしてよ!」
「いいじゃないか、カリナ。どうせ君は、ギルバートと仲良くよろしくやってんだからさっ。けっ。」
「やさぐれてんじゃないわよ!こっちは死活問題なんだから!
殿下みたいな人と私が付き合ってるとか思われたら本当堪らないんだから!ああ寒気がする!」
といってカリナはまるでおぞましい虫が身体を這っているかのように身を抱えた。
王族相手に姫はすごすぎる…とギルバートは思うが二人の言い争いに口を出すと火の粉はこちらに降りかかる。
なるべく二人から距離を開けようと、壁伝いに気配を殺して使用人室に逃げ込もうとするも…
「どこにいくのよ、ギルバート。」
「そうだ、こっから出て行く時間じゃないはずだろう?上司命令だ。」
美貌の二人がぎろりとねめつけた。ものすごい眼光だ。どうやら言い争いながらもばっちり見られていたらしい。
どうあっても逃げられないとわかって、ギルバートは仕方なしに再び椅子を下ろして、景気の悪いため息をついた。
そんな中でも相変わらず二人の舌戦は止まらない。
「寒気がするって、そこまで言うことないだろう!
俺の横に並ぶ姿を想像してもらえるだけで僥倖じゃないのか!?」
「はぁ?!…思い上がりもほどほどになさってくださいませ、殿下!
殿下と噂されるぐらいなら陛下と禁断の関係だと言われたほうが随分マシよ!」
「そんなことになったらうちの父上の立つ瀬がないじゃないか!」
「あら、宰相閣下と3人で仲良く家族ぐるみの付き合いをした上で、陛下と関係を築く自信、私にはあるわ。
殿下みたいに、女性を口説いて振り向かせるだけの幼稚な恋愛、するはずもないわ。」
「お、俺は、口説いて振り向かせる以外にも誠心誠意相手に尽くすぞ!?
初めて一緒にベッドを共にするときは、彼女を風呂に入れてあげてすみず…」
「はいはい、殿下とカリナ姫、そこで言い争いは終了してください。」
さすがに逃げも隠れもできない状態でこのあんまりにも論点がずれて行っていた舌戦を回避するには
自分がでるしかなかったので、ギルバートは二人の間に割り込んでストップをかけた。
「殿下、アンリエッタさんのお見合い話がどうのこうのっていうのは、どこにいったんですか?
姫も、アンリエッタさん支持にまわるんじゃなかったんですか?
もう、二人ともちゃんとしてください。」
「はい」
「はい」
しゅんと二人がうなだれる。ギルバートにいさめられた自分たちが情けないらしい。
しかし、しばらくして先に立ち直ったらしいカリナが口を開いた。
「…私はやっぱりアンリエッタさんはお見合いをしてそのまま結婚した方がいいと思うわ。
政治的に複雑な立場にあられる方と、伯爵家出身とはいえ跡目相続とも関係がないただの傍付き女官が、
本人たちの意志だけで――この場合は殿下の独断で――将来を決めてしまっては、ダメだと思う。
殿下も、御自分でよくわかってるでしょう?
自分の周りがどんなにドロドロして汚い世界か。
その渦中にアンリエッタさんを呼びこむことが、彼女の幸せを損なうとは思わないの?」
正論にやはりぐぅの音も出ないらしい王子がうなだれている。
カリナはそれを見やって、少し寂しげな笑顔を浮かべた。
「でも、殿下の気持ちはわかるわ。
市井にいたらきっと悩まなかったはずのことに、身が苛まれる程苦悩しなくちゃならないんだもの…
ただ今回の場合はアンリエッタさんの気持ちが、殿下に向いているかどうかがさっぱりわからないから、
あまり、突っ走らないほうが私は賢明だと思うわ。
一度、二人で話し合ってはどうかしら?
私個人としてはさっきもいったけれど、アンリエッタさんがお見合いを受けたほうがいいと思うけれど、
殿下は、アンリエッタさんがいないと生活できないものね。
殿下が必死になって追いすがる姿は、珍しくて良いわ。」
言うだけ言うと、カリナはくるりと背を向けてドアに向かって行った。
あんまり早い展開に慌ててギルバートはカリナの後を追うが、今は一応雇用主的には就業時間だ。
ドアを出て先を行くカリナについていくかどうか決めかねていると、突っ立ったままの王子がギルバートに向かって言った。
「今日カリナをどうやって呼んだと思う?」
「どういう意味ですか?」
意味深な表情で王子は問う。本気で分かっていなさそうなギルバートに対して、王子はやるせなさそうに言った。
「ギルバートがカリナに会いたがってるから、暇だったらおいでよ、ってね。
カリナは素直だね、君に対して。俺とアンとは大違いだ。
いいよ、このままカリナの後を追っても。」
「あ、ありがとうございます、殿下!」
そう言ってギルバートは駆け出して行った。さながら、本当の恋人たちのようだ。
がらんどうになった私室でただ一人になったジェイドは、同じく政治的な思惑で様々な制約を強いられているはずの二人の姿が
とても自然で無理がないように見えた。
そして、自分と比べた時のその落差は、途方もなく大きかった。