誰が為の幸せ
主のいないらしい屋敷の傍で、かじかんだ手をこすり合わせた。
ふうっとそこに息を吹きかける。
吐き出した息は白く、夜のひんやりした空気に一瞬間立ち昇る。
しかし、束の間の温かさはたちまちに霧散して、しんしんとした夜気がまた身を苛み始めた。
この日はギルバートにとって久しぶりの休暇だった。
大抵情報部員というものに休み勤務日の区別はおろか、公私の区別も曖昧で、
自身でさえ一体がいつ働いていつ休んでいるのかという認識がない。
そんなときに、たまたま二人一組で組んでいた相手が負傷して、捜査が打ち切りになり、
別の仕事が入るまでに実質勤務がなくなってしまったのだった。
しかし、こんなときに限って、奥様はいらっしゃらない。
『まったく、カリナ姫は何処に・・・』
結婚3年目。
新婚気分を過ぎたあたりの、クールダウンの時期のように思われるが
そもそもギルバートたちにとっての『新婚』という甘い2文字が訪れた事はない。
情報部所属のギルバートと、大臣職を担うカリナとではそもそも生活時間が重ならないし、
第一に生活拠点をお互いに分けているのだ。会える機会はそれで格段に減ってしまった。
ようやく時間ができたと思えば、すれ違い。
かといってすぐそこにいるはずなのに、
気軽に会おうと思っても色んな思いが邪魔をして、結局会えない。
二人は一応婚姻に縛られているのだが、なんとも言い難い関係だった。
すると、突然カンテラの明かりがギルバートを照らした。
「そこで何をしているのです?・・・我が当主は不在です。
施しを期待しても無駄ですよ。こんな寒い日にそこにいては困ります。早くお帰りなさい。」
期待していたものとは違う、年季の入った女性の声だった。
どうやら、門の辺りからこちらを見て言っている様だが、
薄暗く雪の降っていると視界が不明瞭で相手の顔はわからない。
ギルバートは、カリナが首都に出てきてから雇った侍女長だな、と思い当たるが
女性はつゆもそんなことに気付かず乞食と誤解しているようで
諦めてまた門の中に入っていったようだった。
ギルバートは固いレンガの積み上げられた高い門を背にして月の隠れた夜空を見上げた。
「もうそろそろ帰ろうか・・・
やっぱり会えない運命、ってやつなんだろうな・・・」
そう、弱気に一人呟いた時。
パカッパカッと馬の蹄が快活に地をける音が響いた。
雪の中でもそれは真っ直ぐとこちらへ向かっているとわかるほどに。
「もしや・・・」
ギルバートがそう思うや否や、一台の貴族所有のものとすぐわかる馬車が走ってきた。
徽章は、ハイライド家のものを描いている。
ギルバートは期待を持った目でそれを追った。
馬車はするりと吸い込まれるようにして門へと近付いてゆく。
相変わらず速度は一定のままで、ギルバートの存在に気付く事もないようにすら思える。
そしてギルバートの目前にまでやって来たその一瞬間、
馬車の小窓の中が見えた。
美しい金髪の少女が、その美貌の白面をすっと、こちらに向けていた。
驚きに見張った表情だった。
何か、信じがたいものを見たかのように。
それは有り難い幸福のようで、ギルバートは誰彼に感謝したい心地になった。
馬車はすうっと門の中に消えていった。鉄のさび付いた音が、門の閉鎖を知らせる。
ギルバートは、ほんの瞬間の逢瀬ともいえない顔合わせだったけれど、
それに満足してその場を去ろうとした。
その時、予想もしなかった事に後方から声が聞こえた。
ずっと待っていた、若い、少女の声だった。
「ギルバートでしょう?!ずっと寒いのに待っていたの?中に入ればよかったのに・・・!!」
心底堪らないといった声音だった。
ギルバートは、一瞬躊躇ったものの、結局振り返って、
努めて冷静な声を出した。
「いいんです。俺にはこれぐらいが。
それよりも、風邪をひかないうちに早く中にお入りください。」
雪が視界を占めるぐらいの悪天候になっていたのだが、
少女の姿は、自ら発光しているかのように、眩かった。
にしても賛美のしすぎか?と考えながらギルバートは少女の姿を振り切ってまた歩み出した。
雪を踏みしめるたびに、声が遠くなっていく。未だに何事かを少女は叫んだままだ。
しかし、ギルバートには振り返るつもりがなかった。
このまま雪が自分の姿をかき消してくれればいいのにと、願わずにはおれなかった




