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最近持ち込みが許された鉤針を使って、毛糸で編む。
もうすぐ、カリナがお産をするのだという。
ギルバートの赴任先・極寒のエーリフで、実家に帰ることなく現地で過ごしているのだという。
もしも自分がここから出てゆけるのなら、すぐにでもかけつけたかった。
しかし、そんなことはまったくできない身の上なので、せめてもの思いを込めて防寒用の小さな毛糸の靴下と帽子とを編み続けているのだった。
「謁見者が来たわ。準備して。」
見張りの看守が告げる。日の差すことのない地下牢獄で、時間を知る手段は、この看守の言うことだけだ。
『起きなさい』で朝の6時に始まり、『寝なさい』で夜の9時だとわかる。
そして最近、この謁見を知らせる言葉は、だいたい夕方の4時頃を指す。
ほんのわずかに許された時間を、毎日訪ねてくるのはただ一人。
メディフィス夫人は、あともう少しで折り返し地点、という編みかけの小さな帽子を置いて立ち上がった。
「今参ります。」
メディフィス夫人が収監されて2年近くになる。
ニムレッドが首を絞められて殺された事件で、夫人が自供したためだった。
しかし、ニムレッドの実の息子であるクラウスが監禁されると言う異常事態下の事件だったので、普通ならば、
元、とはいえ王族を殺した罪は死罪、よくても終身刑というところが、
多くの者、特に被害者遺族であるクラウスからの強い嘆願により、刑期は15年ですんだ。
しかし、人生もとうの昔に半ばを過ぎたメディフィスからすれば、おそらくこのまま刑に服したままで一生を終えるような気がしてならない。
ただ、それほど悲観はしていなかった。
監獄は劣悪だ、というが、メディフィス夫人が収容されたところは、政治犯専用の独房で、しかも女性用ということもあって
他に収容されている囚人がいなかった。
ひとりだということは確かに寂しいが、衛生環境は非常にいいし、他の刑務所なら他の囚人たちの喚き声などで耳に堪えなかったりするそうだが、
そういうことも一切ない。
看守が時々見回りに来てくれるから、ひとりが寂しいと言っても、完全な孤独でもない。
そして、こうして毎日謁見に来てくれる奇特な人間もいた。
「…ねえ、あなたこういうところに来てるって暇人だと思われてないのかしら?」
「まあ、実際暇人かなあ。君がここに来てから、経営権は譲ってしまって、隠居の身だから。」
ニコニコと、檻を挟んだ向こう側で、監獄に似つかわしくない笑顔を浮かべるのは、夫人の夫であるリチャードだった。
10代の前半に、娼婦だったメディフィス夫人に惚れこんだ2つ下の貴族のボンボンだったリチャードは、
それからことあるごとに結婚を申し込み、事実上の内縁状態で4人の子どもをこさえるまでになったが、
なかなか結婚してもらえなかった報われない人だった。
それが、二人の間の末の息子・ギルバートが結婚したのを機に晴れて二人も結婚した。
が、結婚してわずか5年で夫人が収監されると言う事態に陥ったのである。
「若い隠居ね。でも、あなたまだ若いじゃない?しみったれた牢獄にいる私につき合うなんて趣味が悪いわよ。
離縁して、うんと年下の後妻さんでも貰いなさいっていってるじゃない。」
「何度も言うけど、コンスタンス、君とおなじで僕も孫がいるんだ。
今度カリナさんがお産をすれば、4人も孫がいるおじいちゃんだ!
今更こんな人間と結婚しようなんていってくれる人なんていないさ。」
「あら、あなたわたくしと結婚するまでは色々とモテてたそうじゃないの。
あなた今見てもそんなに老けてるように見えないから、大丈夫よ」
メディフィス夫人と結婚するまでは、一応『孤高の伯爵』だとか『氷の貴公子』だとかいわれて持て囃されていたのがリチャードである。
しかしそれはあくまで、夫人とは似ても似つかない女性たちにすげない対応をしていたからであって、実際は夫人に対しては常時頬が緩みっぱなしのデレデレ貴公子だった。
リチャードは不本意さをあらわにし、頬を膨らませて怒った。
「だから、僕は君と離縁する気はないといってるだろう!
君とは、しわしわのよぼよぼのおじいちゃんとおばあちゃんになるまで、一緒にいると誓ったんだ。
今更それを反故になんてしないさ!」
「でも、わたくしがよぼよぼのおばあちゃんになる頃にここを出られるとは思えないのよ。
あなた、一生ここにでも通う気?
全然『一緒にいる』なんてことにはならないと思うんだけれど。」
「君はいくつになっても本当にへ理屈が好きだね。そこは変わらないな。」
リチャードにしては珍しい反論だった。
いつもメディフィス夫人に対して異を唱えることは少なかったのに。
「へ理屈?わたくしがいつ言ったの?
あなたのことを思って言ってるんだから、むしろありがたみを感じて欲しいくらいだわ!」
「そうやって、君はいつもいつも人を自分から遠ざけようとする。自分の本心を隠して。
よくない癖だ。
孤独に自分からはまっていくのを、見ていられると思うか?」
「…それって、わたくしが望んで今のような状態になったとでも思うの?
心外よ。なるようにしてなったの。だから、それにあなたを付き合わせようだなんて、さらさ…」
ドンっ、と大きな音がする。
思わずメディフィス夫人はびくり、と身をすくませた。
夫人が最後まで言いきることができなかったのは、普段は温厚で、滅多に夫人に反抗的な態度を見せたことがないリチャードが、
接見用に置かれていた机を振り落とした拳で大きな音を立てて叩いたからだった。
「…コンスタンス、君がここにいる、それ自体が僕には甚だ理解不能なんだ。
なぜ、君が接点と言えばカリナさんを通してしかないはずの、ニムレッド・ハイライド夫人の邸宅になんか行ったのか。
なぜ、地下に監禁されていた、彼女の息子であるクラウスさんの元に辿りついたのか。
なぜ、君はそんな異様な状況の中で、ニムレッド夫人の首を絞めるにいたったのか…!!!
だが、君はこの謎全てにまともな答えを言うことなく、甘んじて刑を受け入れている。
死人に口なしというが、クラウスさんが当時の記憶をなくしている中、あの時のことを語れるのは今や君だけだ。
どうして、みんなが納得する答えを言ってくれない?どうして、ひとりで背負いこもうとする…?」
懇願するような響きだった。
メディフィス夫人は、ため息をついた。
「もう、結審してるし、わたくしはすでに刑に服してるの。
今更どう抗弁しようが、どうにもならない。あなたが、どう御託を並べようが、ね。」
そういって、夫人は接見を切り辞めて、接見用の部屋を出て行こうとする素振りを見せる。
リチャードはその様子に確信を強めて言った。
「あの状況は不可解だった。
君が、ニムレッド夫人の首を絞めたとしたら、どうして首に残った手形が前から掴んだ形になる?
そもそも、君と夫人は仲が決していいわけではなかった。いや、犬猿の仲だ。
普通、そういう相手に正面から首を絞められそうになって、抵抗しないわけがないだろう?
なのに、君の手には夫人が抵抗してかきむしったような痕もなかった。」
ぴくり、とメディフィス夫人は反応して歩みを止める。
そして、振り返って告げた。
「あのときのニムレッド夫人は錯乱状態だった。
自分がどういう状態に陥っているか認識できなかったのよ。
わたくしはその混乱に乗じただけ。」
「なら、錯乱状態だった夫人はなにをしていた?どうして監獄に行ったのか?
息子であるクラウスさんの元に行くためだ。
だったら、夫人は檻のほうを向いていた。そして、君になど意識もいってなかったんじゃないか?
だったら、君は背後から迫って後ろから首を絞めるなりなんなりした方が有利だった。
なのに、前からの痕しかない。
どういう意味だ?」
「…なんとしても、クラウスさんに罪を着せたいわけなのね?あなたは。」
「ちがう。本当に罪を背負うべき人が、罪を認めるべきだ。
きみは、本当に、罪を負った人なのか?」
真に迫った声に、メディフィス夫人は動じることなく、むしろ余裕があるのかくすりと微笑んで、その表情とは相反する言葉をつぶやいた。
「わたくしはね、罪を負って生きてきたわ。
たとえ、この件がなくても、わたくしは、誰かを貶める人生を送ってきたことに違いないもの。
そして、クラウスさんは…確かに、彼もなにかしらの罪を犯して今まで生きてきた人かもしれない。
だから、彼も彼なりに代償を払う必要があるのかもしれないわ…
でも、わたくしがそれを代わりに負えるわけがない。
だって、彼の罪がなにかをわたくしは知らない。どうやったら償えるのかも、わからない。
ね?どう背負えというのかしら?」
「なら、きみの罪はなんだ?自分の罪なら、なにか、わかるんだろう?」
意表を突いた質問だったらしい。メディフィス夫人は目を少し見開いて、驚いた表情を見せて呟いた。
「そう、ね…なんといったらいいかしら。
生まれた時から、無知だった、罪、かしら?
関心を持たなかったととで、関心を求め続けた人を無視して追い詰めた。
…途方もなく、取り返しのつかないこと、よ。」
そういって、とうとう夫人はその部屋から立ち去った。
あとに残されたのは、おおよそ言われたことの意味を理解できないでいるリチャードただひとりだった。
のちに、メディフィス夫人は模範囚ということで刑期を短縮され、10年後に出所することになる。
変わらずに接見で日参していた伴侶であるリチャードは勿論健在で、再び二人は今生を分かつまで仲睦まじく過ごしたと言う。
しかし、結局死ぬまで夫人は誰にもいうことはなかった。
自身が、ニムレッド夫人を本当に殺したのか、どうかを。
「ああ、かわいい、かわいいね。ああ、カリナにもこういう時代があったんだよ…?」
「…なにがいいたいの、兄様?今は愛きょうのかけらもくそもないとでも?」
「か、カリナさん、わざわざデイルの前で喧嘩しなくてもね?ね??」
「…ふんっ、そうね。」
はぁっ、とため息をついてカリナは椅子にふんぞり返る様にして座る。
ギルバートはその様子を見て、女の人は例外なく母親になると肝っ玉がはちきれんばかりに太くなるのを実感した。
一方で、ゆりかごの赤ん坊の前で、妹に暴言をはかれてもニコニコと笑っているクラウスは、相変わらず楽しそうな声音でいった。
「やっぱり赤ん坊は可愛いね。いつ見ても心が洗われるような気持になれる。
カリナが結婚しないって言った時は、もうこんな光景見れないと思ってたんだ。
ギルバート君、うちの不肖の妹と結婚してくれて、ほんとうにありがとう。」
「いや、不肖だなんて…そんな」
「ギルバート、そこは完全否定するものよ!」
椅子に座ってため息をついているカリナが勢いづいて反論してくる。
昔からカリナには絶対服従なギルバートはつい従って否定する。
「そ、そうですね。カリナさんはとっても素晴らしい女性ですから、むしろ俺の方が結婚していただいてありがたいくらいで…」
カリナ賛美をし始めるとどんどんクラウスの視線が
『可哀相な尻敷かれ夫だ…』
になってきて、ギルバートは少し心が痛くなった。
しかし、これには理由がある。
カリナはつい1ヶ月ほど前に出産をした。
十月十日腹の中ですくすく育った赤ん坊は男の子で、名前はデイルと名付けられた。
容貌はカリナそっくりの藍色の瞳に、柔らかそうなギルバート譲りの栗色の髪で、親のよく目ながら将来きっと美形に育つだろうと思わせる赤ん坊だった。
しかし、生まれた子どもは無事だったが、初産のカリナは大変な目にあった。
丸1日陣痛に苦しみ続け、ロクに食事も取れず意識朦朧の中、もうすぐ母体が危ない、という際のところで出産をしたのだ。
それから、しばらく昏睡状態が続き、目を覚ましても1週間床からあがることができなかったのだ。
そしてようやく産後の肥立ちもよくなり、起き上がれるようになって、初めての子育てに戸惑いながら
ギルバートと夫婦水入らずで過ごしているところに。
予定では『カリナと赤ん坊が落ち着いてから行くよ』と言っていたカリナの実兄・クラウスが
夫婦2人を突撃したのだった。
カリナとしては、ようやく身の周りができるようになった頃合いなのに、
実兄と言えど子育てなんて経験のないお邪魔虫な客人がくるのは激しく億劫だったらしい。
さらに身内と言う気安さもあってイライラを隠していないから、挟み撃ちに遭っているギルバートはハラハラするばかりだ。
「兄様、わたしこう見えてまだ産後1ヵ月とかなんです。
遠路はるばる来ていただいたのは有り難いんですけど、いくら兄様が侯爵だからといってわたしにはもてなす余裕はありませんから。」
「ずばっというね、カリナ。まぁもともとか弱い女性からは程遠かったけど。」
「…兄様、おっしゃってくれますわね…」
ぴきぴき、と音を立てて何かが割れそうなカリナの苛立ちを感じたのか、デイルが突然火を噴いたように泣き始めた。
「ああああ、デイルごめんごめん…!」
慌ててカリナが立ち上がってあやそうとしたとき、さっと掬うようにデイルを掻き抱いて
「あーよしよしよし、大人しくしててね、君のお母さんはちょっと癇癪持ちになってるみたいだから」
といって見事に機嫌を取っているのは、子育て経験皆無なはずの、クラウスだった。
「兄様…もしかしなくても、子育てされたことおありなの?
…兄様がどこかで隠し子を作ってるとは一切思えないし、産後すぐの女性と付き合ってたなんて想像もできないんだけど…」
「ああ…うん、ハーヴィーの子どもをあやしてたことがあって、そのときに少し。」
「プレストンソン男爵のお子さんと暮らしてた時期があったの?意外ね…」
思いがけないところで地雷を踏んだカリナは、今までの威勢はどこへやら、早く話題を変えないと、という気になっているところで、
一気に神妙になったクラウスが、首の座らないデイルを丁寧にあやしつけながら、いった。
「彼は、奥さんに逃げられた直後でね。
デイルほどじゃなかったけど、まだ1歳になるかならないかの子どもがいて、でも彼自身は庶民出身で乳母で育てらた経験がないし、
いきなり自分の子どもをそういうふうに育てるっていうことに抵抗があってね。
乳母に頼らざるを得なくても、なるべく自分の手元で育てようとしてたんだ。
でも、それ以外にも、彼自身、親御さんから爵位を継いだばかりで色々と大変な時期だったから、両立は難しかった。
だから、なんとかハーヴィーのためになれば、と思って彼の子どもの面倒をみるときがあった。
なんだかもう10年20年も前みたいに懐かしい思い出だ。」
「兄様…」
「ああ、すまないね、なんだか暗い空気になってしまったね。
あーよちよち、デイルくーん、君は将来でっかくて懐のおっきな男になって、
おじちゃんのことを助けてくれよ~」
わーばぶばぶばぶー、と機嫌良くクラウスがあやしつづけている。
それを横目にカリナはギルバートのそばに近寄って呟いた。
「やっぱり、兄様は子どもが好きなのね。
なのに、どうして…世の中はうまくいかないのかしら…」
「でも、俺は感謝してます。
クラウスさんが、結婚しなくて、子どももいなかったから、あなたが責任を感じてここまでひとりできてくれたこと。
一度は、逃げ出した男を、こんな地の果てまで追いかけてきてくれた。
これが天の采配だというなら、俺は、感謝します。」
「ギルバート……」
二人はいつのまにか見つめ合って手を取り合っている。
それを今度はクラウスたちが尻目に見ていた。
「あれーなになにー?二人何みつめあっちゃってるのー?
暖炉に薪をくべてるのに、あそこだけ室温あつあつだねー、デイルくーん。ねーーー?」
「ばぶーーー」
「もしかしたらすぐに君に弟か妹ができるかもしれないねー。
ふふふ、僕は、自分の直系の親や子には恵まれなかったけど、
妹のカリナとその一家にはほんとうに幸せにしてもらってる。ありがたいばっかりだ。」
二人の兄妹が今まで得られなかった団らんを、このときになってようやく手にした瞬間だった。
――それから、ハイライド家は、変わらず天性の美貌を保ち続けたクラウスを筆頭に、侯爵位たる地位を保ち続けた。
クラウスは結局生涯妻帯することはなく、後継ぎは実妹であるカリナの長男・デイルを指名する。
そして、カリナがデイルの次に産んだ娘・ローラは、両親譲りの美貌と、伯父・クラウスから叩きこまれた洗練された振る舞いによって、社交界の華となり、
亡き先代ハイライド侯爵夫人で実母であるニムレッドの悲願である、
王太子妃として嫁ぎ、国の栄華に寄与することになる――のは後の話である。




