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突然夫側から離縁を突き付けられて、カリナはもっと他に動揺するべきことがいくらでもあったのに、
それにもまして随分と動揺してしまった。
そもそもが実態なんてありもしない結婚で、どこででも終止符を打つことができた。
ただずるずると5年もの間、どちらも言いだせないままいただけで。
『それなのに、どうしてこんなに私は驚いているんだろう…いつか、くるはずだったことなのに。』
結婚した当初から離縁の二文字はついてまわっていた。
お互い、婚姻実態を保つ気はさらさらなくて、でも政略だからといって簡単離縁するわけにもいかないと思われて。
それでも、このまま子どもも生まれないのなら、両家が期待することもなくなってしまい、そのうちお互い分かたれた道を歩むことになるだろうと思っていたのだ。
でも、5年もの間ほぼ没交渉だったのに、誰のせいだか徐々に二人の間は縮まっていった。
カリナのためにギルバートは何度も身を挺してくれた。カリナもなんとかそれに応えようと自分なりに頑張った。
…しかし、悲しいかな、またギルバートはカリナのため、ハイライドのため、といって身を引こうとしている。
それを、二人にずっとついて回っていた離縁を使って。
『彼のことはまだ何とかできる。軍法会議が開かれる前にやれることはまだある。
それまでに、彼を思いとどまらせることができればいいんだもの。
今はとにかく、兄様とメディフィス夫人のことをどうにかしないと…!』
…そのときはまだ、カリナはギルバートと自身のことがどうにかなるものだと思っていた。
そんな心の揺らぎに蓋するように踏ん切りをつけて、カリナは一路王宮へ向かった。
身支度はそこここに、正式に参内するわけではなく、王宮内の軍本部で王位継承権者殺害の重要参考人として留め置かれている兄・クラウスとメディフィス夫人に接見するためだ。
ふつうは大逆のような重大犯罪を犯した容疑者に裁判確定前に接見することは許されない。
いくら出仕しているからといっても、カリナは所詮身内である。
だから、きっとダメだろうと思ったのだが、なんと接見が許可されたのである。
どうもジェイドが裏から手を回したようだということはわかるが、
例外的措置をとってもよい、という事態には少なからず不安が増した。
いつも出仕のために見慣れた街並を同じように馬車で駆け抜ける。
不安と相まって、まるで自分が虜囚として身を差し出さんとするような悲愴な思いだ。
暗く沈んでいく気持ちをどうにもすることができないまま、門をくぐり、いつも仕事に向かう道とは違う道を通って物々しい雰囲気を外部からも感じ取れる軍の堅牢な作りの施設前のポーチで馬車から下りる。
そのまま施設に入って受付を済ませて、係の者に施設の中を案内される。
普段女性が軍にいること自体滅多にあることではないらしく、さらには貴族の子女であるカリナが一人伴も連れずに歩いている姿は相当奇異だったらしく、
色んなところから視線を感じたが、カリナは考え事一心の状態だった。
留め置かれているのだから、相応の場所に放りこまれているのは予想されたが、カリナは随分と歩かされたあと、ようやくついた場所はまさに
『牢屋』にふさわしい場所だった。
「ここに、兄がいるんですか…?」
入り口の時点ですでに物々しい鉄格子の扉が挟まっている。
監禁された場所も牢屋だったというのに、救い出された後も牢屋に入れられてる兄のことを思うとカリナは心が痛くて堪らなくなった。
案内役の男は沈痛な面持ちになったカリナの様子を見てとったらしく、重々しく口を開いた。
「現時点では、容疑者ですからこの措置は妥当と言うべきです。
ただ、クラウスさんは、今救出された直後で不安定な状態であるということも考慮していますので、
他の者とは違ってそのまま牢屋に入っていただいているわけではありません。」
いくら中をどうにかしていようが、牢屋と言う時点で考慮もなにもないだろう!、とカリナは怒鳴りつけたくなったが、どうにもならないのはわかりきっていた。
兄は、間違いなく容疑者なのだ。それも、母の死に直接かかわっている。
「なら、早く中を見せてください。兄に、会わせてください。」
せっかちな女だな、とでも思ったのか男は少し表情をゆがめたが、そのまま何も言うことなく再びカリナを先導した。
がっしりとした石造りで、なるほど脱獄するには人間をだまくらかす以外に物理的な方法はとれないだろうと思わせるような堅牢ぶりだ。
そして、先ごろにギルバートが捕えられたところによく似ていた。
牢屋には嫌な思い出しかない。カリナは苦い思い出いっぱいになった。
悔しい気持ちで歩いていると、ひときわ明るく蝋燭で照らされた一室の前で案内の男は立ち止った。
鉄格子のドアの奥に、木のドアが控えている。
たぶん、鉄格子さえなければ、地下のちょっとしたワイン蔵に繋がっていそうな趣だ。
そして、ドアの両側には屈強な見張り番と思われる兵が二人も立っている。厳重な監視だ。
案内役の男から何かを言われたらしく、見張り番が自らの懐を探って何重にもなった鍵束から器用に二本の鍵を選び出し、
鉄格子を開き、さらにその奥の木製の扉を開いて見せた。
――はたして、その中は思っていたよりずっと監獄らしくなかった。
たしかに寒々しいまでのむき出しの岩壁に、窓のない光景は獄中という以外にふさわしい言葉は見つからないが、
床には絨毯とまではいかないが、硬くて寒い床では苦しかろう、といった配慮から敷物が敷かれている。
そして特筆していうべきはベッドだ。
ふつうは今にも壊れそうで、動くだけ軋みを上げるものが獄中の定番だ。上に乗っかっている敷布もぺらぺらで、寒さをしのぐには足らない、ただ、体に巻きつけるだけの用しかないものが想像されるというのに、
なぜかここにある布団類はどれもしっかりと綿が入れられていて見るからにふかふかだ。
日が差さず、外気温に比べてかなり温度の低い環境下でここまで優遇されているとは想像だにしていなかった。
そして、唖然とする要因はもうひとつあった。
「お兄様…?」
そのふかふかのベッドの上におとなしく神妙な面持ちで座っている実兄のクラウスを見つけたのだった。
確か、ギルバート曰く、『会話ができる精神状態ではない』という話ではなかったか。
だから、カリナは、最悪クラウスが自身のことが誰だかわからない錯乱状態であることも覚悟していたのだ。
それか、完全な茫然自失状態である、か。
なのに、今目の前にいるクラウスはあまりにも自然体だ。
数日監禁されていたというから、かなり頬がこけて、カリナと同様のプラチナブランドも汚れて幾分かくすんで見えるが、ふかふかのベッドで寝かせてもらっている様子からさほど疲れた表情は見とれない。
しかし、獄中にいるという環境から自然と表情が暗くなるらしく、いつも溌剌としていた面影が薄くなっている。
だが、それのどこが『まともな精神状態ではない』に当たるのだろうか。
『まさか、ギルバートが嘘をついたっていうこと…!?でも、嘘をついても彼には何のメリットもないわ。
だって、もしまともな精神状態じゃないってことだったら、ますますメディフィス夫人の発言が重要視されることになるもの!
そうなれば彼にとっては不利になる。
なら、彼が教えられていた情報が嘘だったの?』
そんな想像していたことと現実との思わぬ違いに面食らっているカリナを見て誤解したのか、クラウスは沈痛な面持ちで口を開いた。
「ごめん…こんなところに来させてしまって。カリナも大変な目に遭っていたのに…」
「いえ、気にしないで。お兄様の方がよっぽど私より…こんなところにまで入れさせられて。
こんなときに何もできなくて。
でも、よかったわ。お兄様がしっかりとしてらっしゃって。」
「…しっかり、かな?わりとこれでも体はボロボロなもんだよ。
頑張って力を入れてみようにも余力が無いらしくて。
でも、これでも何日か前までずっと寝てばっかりだったけどこうして身を起こせるようになったもんだよ。」
幾分かかげっていた表情がすこし皮肉げに歪む。
場面に応じた感情もちゃんと発露出来ていると言うことは、安定した精神状態であるといって差し支えない。
カリナはほっと一安心した。
「だって、ギルバートが言ってたのよ、お兄様がまともに人と話ができる精神状態じゃない、って。
お兄様のこの様子のどこがまともな精神状態じゃないって言ったのかしら。
ねぇ、不思議だわ。」
「…そうか、ギルバート君がそんなことを…」
そういってクラウスはいっそう深刻な表情になって俯いてしまった。
それを見て、カリナは何か自分がまずいことを言ったのではないかという思いが生じる。
「どうされたの、お兄様?」
「…いや、ギルバート君がそういったのはあながち間違いじゃない、と思っただけだよ。
カリナが感じている分には俺は多分普通のまともな精神状態でいるんだろうな。」
「だ、だって、今こうやって普通に会話のやり取りができますもの!
これのどこが、まともな精神状態じゃないって…!!」
「忘れたんだよ、全部。」
突然、カリナの言質を遮る様にクラウスは一言呟いた。
カリナも勢いを削がれて、そしてその言葉の意味を飲み込むことで、ようやくギルバートの表現した意図に気がつきはじめた。
「全部忘れた…って、まさか、お母様が亡くなっていたことを、ですか…?」
「うん、それだけじゃなくってなんであの地下牢で監禁されていたのかもまったく覚えてない。
母上の間者に家の近くで気を失わされてから、ここのベッドで目を開けるまでのことを全て忘れたんだ。
だから、何を問われようが、何があったかを説明させようが
俺にはなにもわからないし答えられないんだ…」
堂々巡りとはこのことを言うのか、とひそかにギルバートは嘆息していた。
「だから、なんであなたはあの現場にいたのか、と言うことを聞いているんだ!
問われたことにこたえないと、あなたが一方的に不利になって行くだけなのがわからないのか!」
「答えたくないから答えないって何度もさっきから言ってるじゃありませんこと?
そうカッカされると、血圧が上がってお倒れになられますわよ?」
「だれがカッカさせてると思ってるんだ!!」
目も当てられない光景だった。
ここはメディフィス夫人の取り調べの様子だった。
クラウスが拘禁されている棟とはまったく別の棟に配置されている牢獄で、メディフィス夫人はやはり高度な政治犯などが捕えられる独居房に入れられていた。
普通は身内が王族殺しのような重大犯罪を犯したのであれば、その取り調べの様子を見ることはおろか、接見すら許されないことであるが、
なかなかメディフィス夫人が口を割りたがらないため、3人も事件現場にいたにもかかわらず当時の様子が全く分からないままであることに危惧した捜査班が
せめて身内が説得すれば喋るんじゃないかと言う一縷の期待をかけたのと、
ギルバートが軍関係者と言う気安さもあって鉄格子で囲まれた部屋の外からその様子を眺めさせてもらっていたが、
まったくもっての堂々巡りだ。進展の気配すらない。
むしろ、メディフィス夫人が自分よりもいくつも若い尋問相手をおちょくる始末である。
しまいに何人も尋問相手は交代して、そろそろ年配の上司たちが頑として話をしない様子に疲れ果てていた。
だが、今回の尋問でなんとかしたいという思いが強かったのか、その年配の尋問者がメディフィス夫人に諭した。
「なぁ、フェルディゴール夫人さんよ、あなたの息子、そこにいるだろ?
ここだけの話だけど…あなたの息子、うちの軍法会議にかけられてる状態だ。
たぶん、このままいけばよくて左遷、打ち所が悪ければ自主退職の道だな。
言わずもがな、その原因はわかるよな?」
「わたくしの…逮捕、ですか?」
「そのとおりだ。」
ようやく自分が話さないことで起こっている周りの状況が分かってきたか、といわんばかりに尋問者は鷹揚に頷いた。
夫人は、初めて知った事実に目を丸くさせながら夫人は鉄格子の外から慎重な面持ちで立っているギルバートをちらりと眺めた。
その顔は、ギルバートが初めて見た、不安げなものだった。
『どうしたんだ、母さん…?一体、なにを…』
今まで人をおちょくる様に尋問に答えていた夫人はそっと目を伏せて、それこそ今にも世を儚みそうな風体でそっと言い放った。
「クラウスさんがなにを仰っているかはわかりませんが…すくなくとも、
ニムレッド夫人の首を絞めて、そのあとずっと彼女の亡き骸を抱いていたのはこの、わたくしですわ。」
――その言葉一つで周囲が一気に色めき立った。
ようやくの、重要事件容疑者の自白である。
息子であるギルバートの立場をよそに、他の者達は、次に出てくる言葉を今か今かと待っている。
だが、はっきりと、首を絞めた、という言葉が聞こえた時に、ギルバートは頭が真っ白になっていた。




