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生きて帰れただけ良かった、と思うのはあくまで救出された直後だけで、
日常の中に放りこまれたらあとは『生きてるだけ』では済まなくなる。
御多分にもれずカリナもそうなるはずだった。
まず、ギルバートにおぶわれて自邸に帰り、涙で咽び泣く使用人たちに出迎えられて、丁重に身体を拭われたり、清潔な衣服をつけさせてくれたり、滋養のある食事を取らせてくれた。
その夜はぐっすりとこの1週間ほどで一番よく眠れたのだった。
そして次の日から、おそらく色んな雑事にまみれるのだろう、と思っていた矢先のことだった。
なぜか、使用人がよそよそしい。
その態度は、確かに今まで監禁という劣悪な環境から生還した人間を出迎えるのには当たり前なのかもしれなかったが、
カリナは、どこか彼らの態度が『腫れものに触る』ように感じて仕方なかった。
『なんかよそよそしい…確かに私は監禁されてたし、色々と無体な目にも遭いかけた。
遠慮をしてくれているかもしれない、という気持ちはわかるわ。
でも、ちょっとぐらい衰弱してたとはいっても、身体の方はピンピンしてるし、心の傷を負う前に助けてもらったからいうほど弱ってない。
でも…なぜだか、彼らは、かける言葉がない、っていう感じがする…』
お帰りなさってほんとうにようございました、とか
お館さまがご無事で我々はどれほど救われた思いでいることか、とか、そういう言葉なら聞き飽きるほど聞かされた。
ただ、その次の言葉が彼らから出てこないのだ。
まだ助かったばかりで、動けないと見られているのかもしれないけれど、カリナはこの家の『主』だ。
いくら身体が動かないとしても、頭は動く。耳に入れることは十分に可能だ。
自分が不在だったときはどうだったのか、さて、これから自分はどうしようか、ということを彼らはかたくなに考えさせたくないような節が見られる。
まるで、カリナの知らないところで、さもなにかが起こったかのように。
『誰かとっ捕まえて吐かせてやろうじゃないの。』
カリナはそう決意して、自室のベルを鳴らす。
小間使いの部屋から
「どうなされましたか?」
と古参の使用人がカウチに座っているカリナに向かって質問してきた。
「ねえ、なにか私に隠していることあるんじゃなくって?」
「…どういうことでございましょう、お館様。」
途端、ぴきっと顔面が引き攣れたように使用人が固まる。やはり予想は当たっていたらしい。
「私が帰ってくるまでの間に、なにかあったんでしょう?でも私には誰もいってくれない。
ねえ、誰か教えてくれないかしら?
それとも、私は直接王宮に参内すれば、知れることなのかしら?」
「お、お館様…!王宮にはまだ…!」
「殿下にお手紙を差し上げてもよろしいかしら?
『私がいない間に何かあったようですけれども、殿下は御存じでいらっしゃいますか?』
っていう具合に。早く便箋と封筒を用意して頂戴。今すぐ書くから。」
「お館様…!!!」
最早悲壮と言っていいぐらい顔が青ざめた使用人は、これ以上は隠し通せないと思ったのか、苦しげな表情を浮かべていった。
「お昼すぎに…昨日お館様をおぶってここまで連れてきて下さった殿方がまたいらっしゃるそうなので、その御方からお聞きくださればいいかと存じます。
おそらく…あの方から聞いた方が、お館様の知りたい情報の仔細なことがおわかりになられるかと…」
ギルバートから聞けと?
いつの間にギルバートがうちの家の公認になったのかしら、とそのときまでカリナは悠長なことを考えていた。
年に1,2回訪れるだけのハイライド邸にやってきたギルバートは見るからに『お客人』だった。
応接室に通されて、ソファに縮こまったように座って茶を飲む姿は、どこからどうみてもハイライドの人間と言うよりかは、その使用人と言ったほうがまだマシといった風情だ。
カリナは、昨日とは違って陽の下でみるギルバートが、ほんのすこし記憶よりも頬の肉が削げて精悍さが増しているように感じられた。
それもこれも、おそらく自分のせいなのだと思うと、カリナ自身酷い目に遭っているというのに申し訳ない思いでいっぱいになった。
「カリナ姫…昨日の今日でもう動けるようになったんですか?!」
思いがけず目が合った。その拍子にギルバートが腰を浮かす。
そもそも、ノックもせず、扉を開けてじっとギルバートを観察してしまっていたカリナは、その様子をばっちり見られていていいところの子女がやるような行為ではないことに気づいて、
てれ隠しで居直った。
「そうよ、動けるわよ。というか、もともと杖つきの人間だから、多少足が不自由なのと、大分足が不自由なのとでは大差ないのよ。」
「そう、なんですか。でもお元気そうで良かった。ほんとうに…」
すこし陰りを帯びた表情だが、本当に安心したのか、ほっとした風情でギルバートは再び腰を下ろした。
カリナも対面の椅子に腰を据えて、人払いをしてあって二人のほか誰もいないために目の前に用意されてあったティーカップに自分の手で紅茶を注ぐ。
「昨日逮捕されたテレーバーとアドルフは今尋問にかかっているようです。
今のところなにをしゃべっているのかはわからないんですが、どちらも素直に応じているようだと聞いています。」
「そう…」
特にテレーバーに関してはカリナは色々とやりこめられてきた経緯がある。
なんとか罰してくれないと気が済まないと言う思いでいっぱいだ。だから、さっさと話すこと話してほしい。
一方でアドルフに対してはカリナは複雑な気持ちだ。実行犯とは言え、直接的にカリナに妨害を及ぼしたことは無いし、なによりギルバートの同僚だと言う。
どこか、彼に関しては突き放した気持ちになれなかった。
心中なんとも言えない思いの中、カリナは本題について切り出した。
「ねえ、ギルバート。彼らのことはわかったわ。それで…
…今何が起こってるのか聞かせてもらえないかしら?たぶん、あなたに聞くのが一番いいのだと思ってるのだけど。」
単刀直入にカリナは自分の疑問を投げかけた。
そしてそれを予想していたのか、ギルバートは驚くこともなく、一瞬だけカリナの目を見て、視線を俯けた。
「あなたのことだから…早々に聞きたがると思っていました。
まだ、他の人からはお聞きになってないんですか?」
「ええ…昨日の夜遅くに帰ってきてまだ私がここにいることを知ってる人は家の者以外にはあなたぐらいしかいないし、家の者も誰も教えてくれないもの。
だから、あなたから聞くしかないの。」
ここまで懇願すれば聞きいれてくれるだろう、と強く言う。
そしてギルバートはしばらく沈黙したのち、ぽつり、と話しだした。
「姫…あなたが囚われの身となった後、あなたの実兄であるクラウスさんもまた拐されました。
ただ、あなたと違って、クラウスさんのことを拘束したのは、ニムレッド夫人でした。」
「そう…母が。」
カリナはそこに関してはさしたる衝撃は無かった。
いつか、母は兄のことをその手で雁字搦めにすることはわかっていた。それほどの狂気がはた目からもわかっていた。
きっと遅かれ早かれこういう事態が起こることは予期されたのだ。
ただし、母から逃れた兄がなぜむざむざと掴まってしまったのかについては疑問ではあったけれど。
「それで…今、兄はどうしているの?あなたがここで平静としているから…何らかの決着はついているのでしょう?」
「ええ…ニムレッド夫人が亡くなられたときに、一緒に見つけ出された、と伝わっています。」
「…母が亡くなった、の…?ほんとうに…?」
「…はい。」
まさか、どうしてこんなことを誰も教えてくれなかったのか…!
カリナは一瞬間のうちに目の前が真っ赤になるような怒りを覚えた。
「どうして、どうして誰もそのことを教えてくれなかったの!?どうしてもっと早くに…!」
「姫を助けに行った時点で、既に夫人がなくなっておられました。…あなたが混乱しているさなかに、もっと混乱させるようなことは…言えなかった。」
「でも、なんで帰ってきてからもうちの者たちも言わないの?!おかしいじゃない、どういうことなのよ…!!」
「それは、あなたの兄であるクラウスさんが重要参考人だからです。…はっきりいってしまえば、今、クラウスさんは、親殺しの容疑がかかっています。」
「どういうこと…兄が、母を手にかけたの…?うそでしょ、うそでしょう…!?」
カリナは喉がひりつくような焦りを覚えた。なにがおこっているのか。どうしてそんなことが起こってるのか。どうしてわからないのか。
そんなカリナの必死の想いと現実のままならなさとの間で、ギルバートは残念そうな面持ちでカリナを見た。
「それはまだわからないんです…クラウスさんは、今まともに人と話せる精神状態にないそうです。
だから誰が殺めたのかわかっていない。
まだはっきりとした当時の状況が分かっていなくて、酷く茫洋としているようです。」
「でも、誰が殺めたかわかっていないって、うちの兄を偏愛していた母のことだろうから、一対一だったのでしょう?
なら、兄しかないじゃない!
うちの母が自殺したとでもいうのなら話は別でしょうけれど、
明らかに殺されているといえるのなら、それ以外に選択肢はないわ!そうでしょう!?」
「それが…なぜかいたんですよ、うちの母が、その現場に。
しかも、夫人の亡き骸を抱えてたんです…現場の様子がおかしいと駆けつけてきた者に発見されるまでの間、ずっと。」
「どういう、こと…?どうして、メディフィス夫人がここで出てくるの?」
突然虚をつかれたように、カリナは勢いをなくしてギルバートに尋ねた。
よもやここでメディフィス夫人が関わってくるなんて、だれが予想できただろうか…
ギルバートも最早自分の理解の範疇を越えていると言った体で苦笑した。
「それがですね、あの母は今取り調べのために軍本部で留置されてるんですが、なにも事件については語ろうとしないんです。
どうしてそこにいたのか、そもそもニムレッド夫人とどういう縁があったのかも、一切。
他のどうでもいいことにはちゃんと答えるみたいなんですけど…事件の核心については、頑として証言を拒否しています。
何度かうちの父も接見に行って説得を試みようとしているんですが、現時点では空振りに終わっています。
…こんなところで昔の女王気質を思い出してもらっても、周囲は困るばっかりなのに、何を考えてるのか…」
「なら…このままだと…夫人は、どうなるの…?」
正直メディフィスについて心配するのが意外だったらしく、ギルバートは少し目を丸くして、そうですね、と一瞬思案顔になった。
「今のところ、うちの母とクラウスさんの双方に容疑がかかっています。
ただ、母とニムレッド夫人との関係性が未だに掴めてないですから、動機がはっきり見えません。
だから、どちらかというと、動機の点でいえば、あなたの兄のクラウスさんのほうがよほど、ということができると思います。
でも、クラウスさんは牢に監禁されていて、自由に身動きが取れなかった。
それに対して、母はニムレッド夫人の亡き骸を抱えていた…
おそらく、実行性でいえば、母のほうが分が悪いといえると思います。」
「そんな…!」
なにもかも、受け止め難い衝撃を持ってカリナにぶつかってくる。
「どうすればいいの…!二人とも、どうすれば救えるの…!
うちの母は…あの人は、普通じゃなかった。
この世の中で、最低の部類に入るようなことを平気でやってのけるあくどい人だった。
そんな人のために、どうして二人が犠牲になるようなことを…!」
「けれど、夫人は、この国でも指折りの高位の王位継承権者です。
王宮も、普通の貴族が亡くなったのとはまったく訳が違うと考えて対応していると思います。
…こればっかりは、殿下でも、どうしようもないと仰ってました。」
そして出奔して5年間行方不明だったクラウスが、監禁後母親殺しの罪の容疑をかぶった形で世間に再び姿を現した。
その上、夜の街の女王で、今は成金貴族の妻に収まっているメディフィス夫人が、おそらく一生縁がなかったはずであろう、元王族のニムレッド殺しの現場に居合わせたのだ。
これほど複雑怪奇に人の憶測を呼ぶようなことはない。
カリナは目眩がするような心地になった。
「とりあえず、早々に準備が整えば、まずは兄の元に向かうわ。
それで、なんとか正気を取り戻してもらう。
あとは、あなたのお母様であるメディフィス夫人に真実を話してもらう。
それが、私や兄、そして母の不利益になるようなことでも、メディフィス夫人の罪であっても、
白黒つけるわ。
…ギルバート、なんとか連れて行ってくれないかしら?」
このなんともしがたい事態に巻き込まれているのは、ギルバートも同じだ。
早く解決しないと、このまま噂は尾ひれはひれであらぬことまで創造しかねない。
だから、もちろんギルバートも協力してくれることだろうと思った。
だが、ギルバートの口から放たれた言葉は予想外のものだった。
「…姫、さっき王宮がニムレッド夫人の件を重く見ている、と言いましたよね?
王宮が見ている、ということはそのまま軍にも当てはまります。
今、俺は元王族で高位の王位継承権者殺しの容疑者の息子です。
遅かれ早かれ俺は軍法会議にかけられて、素性調査が行われ、
おそらく、俺とあなたのことは早晩暴かれることになります。
そうなれば、俺はあなたと繋がっていた、だから、あなたと俺が繋がっていたお陰で
うちの母がニムレッド夫人を殺したと言う根拠のない話が出来あがってしまいます。
しかも、今の時点ではあなたが監禁されていたことは王子殿下の力によって伏せられていました。
でも、この素性調査によって軍部が当時の状況を暴き始めれば、
このことは会議の俎上にのぼって一気に広まります。
…そうなれば、あなたまでもがこの複雑怪奇な出来事の更なる犠牲になりかねない。
だから、今日俺がここにきたのは、あなたと離縁させていただきたいと思って来ました。」
「どういう、意味…?」
今日一番の衝撃がカリナの身を包んだ。
離縁、その言葉一つが、何故か頭の中でうまく呑み込めない。
ショックで顔面蒼白になっているカリナをいたわる様に、けれど確実な距離感をもって、ギルバートは微笑んだ。
「もし、うちの母がニムレッド夫人を真実殺していたとして…
あなたはあなた自身の母親を殺した者の子どもと長らく結婚していたといわれることになる。
あなたと俺の結婚が、ニムレッド夫人殺害の誘因になった、とまでいわれる可能性があるんです。
今、ハイライドの家はニムレッド夫人と言う支柱を失った上、
クラウスさんが汚名と共に表舞台に知られてしまうという爆弾によって屋根までもがボロボロなんです。
ここで、あなたまでもがスキャンダルの渦中にいれば、大黒柱までもが傾いでしまって、
ハイライドの再建は遠のくばかりになります。
いち侯爵家の存亡と、俺一人の存在なんて、比べるべくもないでしょう?
だから、離縁して、初めから何もなかったことにすれば、今なら軍法会議までに間に合います。
…もともとあなたと俺には婚姻実態がなかった。紙切れだけの結婚だ。
だから、紙切れさえなくなれば結婚していた証拠はすべてなくなります。
どうか…どうか、英断をお願いします。」
話すだけ話して、反応を待たずしてギルバートは足早に部屋から出て行った。
呆然とするしかないカリナの目の前には、
いつか見た結婚証明書と対をなす婚姻無効証明書にギルバートのサインが既に書き加えられていた。




