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「奥様…あなたが、わたくしの息子とお嬢様を結婚させた理由が、より王家の濃い血を求めて、ということはわかりましたわ。
でも、お嬢様は言ってらした、あなたが他の貴族の息子に対して、お嬢様に手を出しても良いと許しを与えていたと。
それはいかが御説明なさるおつもりで?」
「ニーゼットには借りがあるからな…向こうが要求してきたことにある程度こたえねばならなかった。
ニーゼットの倅がカリナのことを妻にしたいといっていたのは随分前から聞いていたことだ。
それに、そもそも実質夫婦関係のないカリナとお前の息子の間にニーゼットの倅が入り込んでも、大した影響はないだろう?
だから許したのだ。それ以上もそれ以下もない。」
メディフィス夫人は改めてニムレッドの非常識な考え方に、正直気分が悪くなるほどだった。
カリナに対する対応は、親どころか、人道からも外れているとしかいいようがない。
「…奥様は本当に人として間違った道を生きていらっしゃいますわね。
あなた様の生い立ちとそれからの半生は、確かに悲惨でしたわ。
偶然愛された男性が弟君でいらっしゃったのも、運命のいたずらであって、誰もが責められるべき非があったというわけでもない。
でも…あなた様は決定的に道を踏み誤られた。
御息女を蔑ろにし、ニーゼット公と手を組んで御子息を自分の思うままにだけしようとした。
傲慢にも、ほどがある。」
ニムレッドは、語気を強めたメディフィス夫人に対してくっと鼻で笑った。
「傲慢、だと?お前の方が傲慢ではないのか?
勝手に私の娘と仲よくなるわ、こうやってズカズカと人の家に足を踏み入れて説教を垂れてくるわ。
私に傲慢だと言う前に、自らの所業も顧みるがよい!」
「…あなた様が王位に固執なさる理由は否が応でもよくわかりましたわ。
でも、ニーゼット公と組まれるのはいかがなものかと私は思うのですけれど、奥様はいかがお思いなのです?」
「…なに?」
いきなり話の方向性が変わったことで、ニムレッドは今まで笑みを浮かべていた表情をさっと変えた。
「どういう意味だ、メディフィス。」
「奥様は御存じでらっしゃらないのですか?
ニーゼット公が『和国』と組んでいること、この国に再び戦争と言う名の災禍をもたらそうとしていること、
そして公自身が新たな王家となるべくあなたや御息女であるカリナ嬢を囲い込むことで血の正当性を図ろうとしていること。
それぐらいはおわかりになるでしょう?」
「…なにがいいたい、メディフィス、お前は…」
「ならばもうあとは答えが出るのは簡単なことでしょう?
…20年あまり前、先王陛下御一家が側近の物の刃にお斃れになった際、
首謀の一族の他にも関与したと思われる、いくつかちらほらとした反王家派がいるということは御存じでしたでしょう?
そして…ニーゼット公がそれに該当する、ということは?」
「それが…どうした。」
「そしてなにより…公もまた、先王陛下の近従だった。
そして、あなたという、王族として認められた秘められた異母姉がいる。
この点で、ニーゼット公が他の近従たちよりもより王族に近い位置にいることが窺えましょう。
ならば、先王陛下がお亡くなりになった一因に…公が関与していらっしゃる可能性は、かなり高いと言えるのでは?」
夫人の一言に、ニムレッドは机の上に載っていたものを払い落した。
「なにをばかばかしい!」
がしゃん、ぱりん、べちょっ、と床の上に落下した液体やら食べ物が嫌な音を立てる。
癇癪を起したニムレッドの反応を聞きつけてか、今まで静けさを保っていた使用人たちがドア越しに
「奥様いかがなさいました!?」
と声をかけてくるが、ニムレッドは
「五月蠅いっ!!邪魔をするな!!」
と喚いて一蹴してしまう。そして、震える手で唯一床に落ちても割れなかったワインボトルを拾い上げて、
普段の彼女なら絶対にしない、ボトルから直接口にワインを含んだ。
わずかに口に含み切れなかった赤ワインがニムレッドの頬を濡らす。
血が口元から垂れたように見えて、凄絶なまでの恐ろしさがその表情に加わった。
「…ネイトが殺されたことに関わったとされる者はみな断罪されている。
特に、首謀者一族は、直接的なかかわりがなかった係累までもが国外追放になるほどの重罪を被った。
もしも、ニーゼットが関わっていたのだとすれば、今の今まで全く野放しにされているはずがないだろう!
確かに、ニーゼットの者どもは、私という血縁が思いがけなく生まれたことで、より一層王位簒奪を考えるようになったことは否めぬ。
だが、その私の血縁はネイトがいたからこそ、だ。
ネイトがいなければ、いくら先々王に実子だと認めていられようが、私は何人もいる側室のうちの一人とのあいだにできた中でも最年少の娘、という地位でしかなかった。
あの者を殺してしまったことは、その地位に戻ったと言うことになる。
そうなっては元も子もないだろう!!」
「…現王家がニーゼットを泳がしていると言うことはお考えにならないのですか?」
その言葉で、さっとニムレッドの表情から血の気が引いたのを夫人は感じた。
「先王陛下に関する処分は、現王家が主導したことは間違いありません。
彼らがあえてしなかったことは、つまり、彼らにはそうしたほうが得策だという考えがあるからでしょう?
果たしてそれが何かはわかりませんが…ひとついえることは、ニーゼットの『和国』との太いパイプでしょう。
現王家は『和国』の血を引いた第一王子と言う火種を抱えていますわ。
しかし、『和国』は敵国であり、現在国交は殆ど断絶に近い形で途切れている、と…
とすれば、現王家が第一王子という火種のために、何らかの形で『和国』との接触を図ろうとしても、
現時点で公にそれをすることはかなわない。
そのときに、ニーゼットが築いているパイプラインが左右してくるとしたら…
ニーゼットを何らかの処分を行うことで没落させてしまっては、そのパイプをも途切れさせてしまうことになる。
そうなれば、現王家にとって痛い損失になる。
だから、ニーゼットが反逆の罪を背負っていてもあえて処分を行わなかった、という可能性は十分にあると言えるのですが…
奥様はお認めにはなりませんわよね。」
「そんな…そんなわけはない…!ネイトが、ネイトがそんな…!!!」
突然、ニムレッドが半狂乱になったかのように単語を口走り始めた。
「奥様…?」
そのまま、ニムレッドは、今までとはがらりと様子を変えて、ふらりと立ちあがった。
「ネイトが、ニーゼットに…そんなわけ、そんなわけはない!!!」
ぼそぼそと何かを口走るようにして、ふらりふらりとニムレッドは歩き始めた。
それまでも、どこかニムレッドは様子がおかしかった。
いつもなら、身なりに気を使わず自堕落に過ごすことも、コロコロと顔の表情を変えることもない。
なのに今日に限ってはそういうことが頻繁に起こっていた。
そして、さらに自身の実弟に関することになれば、今までそれなりにニムレッドの人となりを知っていた夫人ですら見たことのない表情を浮かべていた。
そして、逃れようのない現実を突き付けられたニムレッドは、今ここで更なる奇行に及ぼうとしていた。
「奥様…、何をなさっているの!?」
ふらりふらりと一見あてどなく部屋をうろついていたニムレッドだったが、今度は、何もない壁に向かってぺたりと座りこんで、
カリカリと爪でそれを引っ掻いている。
明らかにおかしい。
「奥様、何をいまなさってるのです!?」
夫人は思わず傍に駆け寄ろうとした時、思いがけずその壁がゴゴゴと地鳴りのような音をあげて文字通り開いた。
人がしゃがんで一人通れるくらいの小さな穴で、その先は見果たせないほど暗い。
しかし、ニムレッドはほうほう体で、明かりも持たずにその中に入って行った。
「あの穴…隠し扉だったのかしら?」
いきなりの出来事ばかりで、夫人はまさしく何が何だか分からない状態だ。
しかし、半狂乱で何をしてもおかしくは無い状態のニムレッドを、ただ一人でどこかに行かせるには不安が付きまとった。
この隠し扉の先がどこに繋がっているかは、夫人にはさっぱりわからないが、自分もついて行ってニムレッドが誤った行動をしないことを見守るしかないと思った。
それが、ニムレッドを追い詰めた夫人の最低限の行動だと思ったからだった。
夫人は急いで部屋に置かれていた燭台を手にとり、明かりを灯す。
そして、意を決して、身の丈半分ほどしかない隠し扉をくぐった。
扉の先は階段だった。それも、入り口の穴と同サイズで、中腰のままその階段は下りなければならなかった。
さらには四方は石壁に囲まれていて、高いピンヒールを履いていた夫人はしょっちゅうバランスを崩して石壁に体を打ちつけていたので、途中からは諦めてピンヒールを脱ぎ捨てて素足で歩いている。
『どこまで続くのかしら、これ…』
中腰で歩くことなどそうないことなので、歩みは遅い。その上、一度も足を踏み入れたことのない場所なので、余計に時間がかかる。
しかし、おそらくこの場を行き来しているらしいニムレッドの姿は歩けど見えてこない。
夫人がいつまでこの道は続くのか、と疑問に思っていた頃、ようやく階段は終わり、人が立てるほどの高さがあるスペースに降り立つ。
相変わらず人一人分通れる程度の幅しかない場所だったが、中腰で動き回るよりは格段に体に負担が少ない。
夫人は、燭台を持ちながら、相変わらず先の見えない道を歩きながらきょろきょろと歩き回る。
「どこにいるのかしら、奥様…まったく姿も見えないなんて、おかしい。」
そのとき、ああっ、ああ…という誰かがむせび泣くような声が聞こえてきた。
女性の声だ、と瞬時に夫人は悟る。
そしてそれが、ニムレッドである可能性が高い、ということも。
「奥様、なにかなさったの…!!」
慌てて夫人は声のする方に向かって走る。
石でできた床の上は裸足で走るには痛かったが、夫人は構わなかった。
それよりも、最悪の予想が脳裏によぎった。
…果たして、今まで真っ暗だったのに、そこはかなり広いスペースが広がっており、尚且つ光があった。
いくつかの蝋燭が灯されていて、ぼんやりと果てが見渡せる。
そして、何より今まで夫人が通ってきた場所と違って部屋がいくつも入りそうなぐらいに広い。
ただ、普通の部屋と違うのは、石壁に囲まれていることと、窓が無いこと、
そして間仕切りが鉄の棒だというところぐらいか。
―――そこは、檻、だった。
そして檻の外で、鉄の棒にしがみついて嗚咽しているニムレッドの姿が見えた。
「奥様、どう、した、の…?」
あまりにもらしくない姿を見て、夫人は一瞬、何が起こっているのか全く分からなかった。
小さく丸まったニムレッドの背中が震えている。なにがそんなに、耐えきれなかったのか…
暫く目の前の光景に茫然としていた夫人は、ようやく、檻の中に誰かがいることに気付いた。
薄暗い檻の向こう、石壁に背をもたれる形で座っている人―――短い金髪と、母親譲りの底なしの紺碧の瞳が、じっと、嗚咽するニムレッドを眺めていた。
ぼろぼろになった衣服はところどころが、黒く煤けたように汚れている上、おそらくプラチナブロンドであるはずのその人の髪はぼさぼさで精彩を欠き、
さらにはこめかみから顎につたって、赤い血の流れた痕までが見受けられる。
ここで何が起こったのか、わかりかけて夫人が息を呑んだとき、
今まで身じろぎもせず無機物に対するような目線でニムレッドを見ていたその人は、夫人を見ることなく口を開いた。
「この女は…未だに自分の愛する‘ネイト’が死んだことを受け入れてないんです。
もう、20年以上も昔に死んだ奴を、よりにもよって息子に同化している…」
ネイト、の単語一つが聞こえた時、今まで肩を震わせて泣いていたニムレッドの背が大きく撓み、一層泣き声が大きくなった。
ネイトネイトネイトネイトネイト……まるで呪詛のような言葉も続いてゆく。
夫人は、思わず、檻の向こうの人物に声をかけた。
「あなたは…カリナ嬢のお兄様のクラウスさん、よね…?」
「…ええ、メディフィス夫人…よくぞここまでいらっしゃった。
あなたにこんな場面を見られるとは、この女もくるところまで来てしまったといってもよいでしょう。」
クラウスは、侮蔑をこめたような言葉をニムレッドに含ませながら、夫人に言葉を返した。
さすがに、夫人もこの異常事態にはいちいちそれで揚げ足を取るようなことは言えなかった。
というよりも、おそらく、クラウスがその侮蔑をこめてニムレッドを見るのは、それ相応のことがあったからだということは想像に難くなかった。
「クラウスさん…私の知っている情報では、だけど、しばらくここ数日行方不明になっていたと聞いていたけれど…
その間はずっとここに閉じ込められていたのかしら?」
「そうですね。…白昼堂々、この女の子飼いの者に弱みを握られてちらつかされたお陰で誘拐されて
即ここに監禁でした。
ここは元々、罪人を捕えるための牢屋でしてね…大抵の貴族の家にはあるでしょう、こういう場が。
だけども、この女は自分の居室をこの牢屋に繋がる部屋にわざわざ構えた。
普通は貴族の人間が直接に罪人と相対するはずもないのにね。
理由は簡単…俺を、ネイトを捕えるため、自分の下に留め置くためでした。」
「そう、だった、の…」
「この人はもう狂ってるんです…自分が腹を痛めて産んだ子どものことなんて、何も考えちゃいない。
いつもいつも、ついて出てくることは、ネイト。その3文字だけ。
ネイトが死んでいることは理解しているらしい。
でも、この女曰く、ネイトにそっくりらしい俺が一度目の前に現れるだけで…何もかもが霞んでしまうらしい。
…メディフィス夫人。あなたにもおそらくこの女はたくさん迷惑をかけましたよね?
ほんとうに、申し訳ありません。詫びてもどうにかなるようなたぐいのことではないでしょう…」
「そんな…あなたが謝るようなことでは…!」
夫人がそういうと、クラウスは、相変わらずめそめそと泣いているニムレッドを見て侮蔑をこめた微笑みを見せた。
「確かにそうですね…謝るだけではどうにもならないでしょう。
後には当然戻れないし、前にも進めるような事態でもない。
なにせ、こんなことを引き起こす原因になったネイトは死んでもう20年にもなる…
ネイトがいない現実を見ないまま、過去にしがみついている限り、この女のせいで、なにもかもがおかしくなる…!」
そういって、今までぐったりと石壁に背をつけて座っていたはずのクラウスがすくっと立ちあがって、檻の前でしゃがみこんでいるニムレッドの前にやってきた。
若かりし頃の実弟にそっくりだというクラウスを目の前にして、今までめそめそ泣いていたニムレッドの表情に一瞬、笑顔が戻った。
夫人はとてつもなく悪い予感を覚えた。
なにがおこるのかわからないような、そんな恐怖が。
「…クラウスさん、いったい、何を…!!」
「なあ…母さん、あんたはもう人様に迷惑をかけて生きるのはやめないといけない。
このままじゃ、あの世のネイトが悲しむ。こんなことになるなんてきっと思ってなかっただろうからな。」
「ネイト…!嬉しい、私のネイトが帰って来た、わ…!!」
少女のような顔にほころぶような笑顔を浮かべていたニムレッドの前にしゃがみこんだクラウスの表情に、
一瞬慈悲のような笑みが浮かんだかと思ったその瞬間だった。
檻の中から伸ばされた腕が、細いニムレッドの首に絡みついて、ぎゅっと締め始めたのだった。
「や…だ……ぐ…ぐ、る…し…ネ、イ、………ト」
「もうあんたはネイトの元に逝くのが一番いい……!そうすれば、みんななかったことになるんだ……!!」
今まで表情を変えることのなかったクラウスが叫ぶようにして力を込めた。
ニムレッドも、なんとかそれから逃れるようにしてクラウスの首にかかっている手をかきむしる。
しかし、その圧力は弱まることなくニムレッドの首を絞めつけて行った。
「ああ…あ……ぐっっ」
なにかで喉を詰まらせたかのような音が聞こえて来た時、クラウスは締めていた手を離した。
そして、そのままどさりと石の上にニムレッドが倒れ落ちた。
今まで何が起こったのか分からなくて茫然としていた夫人だったが、
石畳の上でコロリとも動かないニムレッドを見て慌ててかけよった。
「奥様、奥様しっかりなさって…!奥様…!!!」
急いで抱き起こすが、完全に力の抜けた身体の重みや紙のように白くなった皮膚からどんどんと生気が失われて行っているような気がしてならない思いに駆られる。
「ク、クラウスさん…!」
思わず救いを求める気持ちでクラウスのほうを見やるが、この凶行を起こした当事者は、
さきほどの冷めた眼つきに戻って、壁にもたれかかって座って一人騒いでいるニムレッドを眺め続けていた。
―――それから長いこと、おそらく、何か危険なことが起こっているかもしれないという気配に気づいたらしい使用人たちが、
ニムレッドの私室を開け、地下へと続く道を伝い降りて、惨状を目の当たりにするまで、夫人はずっとニムレッドの亡きがらを揺さぶり続けていた。




