3
田舎で暮らした5年ほどの歳月はいつもありのままでいられた。
暫くは動かない片足をどうにかして動くよう宥めすかせるかで頭を悩ませる日々が続いたが、
自然に囲まれて自分に無理のないペースで生活するうちに、
片足が動かないことが徐々に気にならなくなった。
怪我をする少し前、カリナは首都でずっと社交界デビューに向けて厳しい礼儀作法、社交界の関係図、ダンスのマナーなどをたたきこまれていた。
そのどれもが、嫌いなものばかりだった。
派手な容貌と柔らかな物腰で当時既に社交界で名を轟かせていたクラウスにそっくりな実妹ということもあって、
未だデビューもしていないカリナにはいたるところから熱い視線―つまり、結婚相手としての目線――が向けられていた。
その過分な期待からも、逃げ出したくてたまらなかった。
嫌な要素しかない世界から逃げ出す猶予を、片足の自由を失うと言う大きな犠牲をもって得たが、
それすらも気にならないほど田舎の生活は堪らなく快適だった。
しかし、例え足が悪くても、ハイライドの血筋を引きあのニムレッドを母にもつ以上、いつかは社交界に再び舞い戻らねばならない日がやってくることは覚悟していた。
女で生まれたからには、結婚の道具となって子どもを作ることが貴族としての義務である。
行かず後家でいさせてくれないのは重々わかりきっていた。
だからこそ、いつも願っていた。
このまま、私は誰のところにもお嫁に行くこと無く、この広大な野原の真ん中でただまどろんでいたい、と。
―――だが、その願いは当然叶う訳がなく、カリナは無理矢理ニムレッドによって婿を取らされる羽目になる。
現王家に対して強烈な不信感を抱くニムレッドのことだから、きっと王族にも匹敵する高位の貴族の人間――つまり田舎暮らしなんて毛ほども考えてない男――をあてがってくるものだと信じて疑わなかった。
しかし、婿に収まった男はカリナの田舎で出会った恩人の息子で、実際にカリナが奔放に暮らしている姿すら目撃してしまった。
お陰で、カリナがどういう人間性を持っていて、どういう環境に育ってきたのかも知っている。
あれほどよく知りもしない貴族の男のものになんてなりたくないと願っていたけれども、この夫に対してはその思いは急激に薄らいでいった。
ただ、ようやくわかりあえる夫と巡り合えたというのに、今現在いつ会えるともわからない状態に陥ってしまった。
やはり、ニムレッドの因縁のせいで。
――頭上で交差させるように拘束させられている手の紐をほどこうにも、ひ弱なカリナにはどうしようもない。
そんなカリナを腰かけて見下ろす男は、極めて普通のほほえみを浮かべながら呪詛としか言いようのない言葉を口にしていた。
「前にも言いましたけど、このままいけば政情混乱は必至でしょう。
あなたの兄上であらせられるクラウス様が再び表舞台に復帰になれば、あなたの今の立場はたちまちあってないようなものになる。
そのときにあなたが今と同等の立場を誇示するには…誰かと縁を結んで子を成すしかない。」
「だからって、なんであなたが私をこうも狙うの?
私が子供を産んだからといって、その子が王家の人間になる訳じゃない。」
「あなたは自分の立場をわかっていない。」
聞き分けのない子を諭すように、テレーバーはゆっくりと言い聞かせた。
「このまま王位を簒奪されたとしても、クラウス様は女性を伴侶になさらないことからいって、後継ぎが生まれる可能性が低い。
現在の王子たちにも子どもはいない…
このままいって、次の後継ぎ候補にあがるのはあなたの子どもである可能性が非常に高くなる。
さらに、女性であるあなたは、孕んでしまえばその子がそのまま御自身の子どもとなる。男とは違って。」
「…だから、こんなことをするのね?」
頭上できつく結ばれた両の手を動かす。
さきほどまで床に座らされ柱に結わえつけられていた手の拘束は、テレーバーの登場によって見張り役の男の手でベッドに移されていた。
ようやく体を横たえることができて、体が楽になった…と思うのは大間違いだ。
テレーバーにベッドの端から見下ろされ、見張り役の男も残っている。
このことが何を示すかはいくら色事に疎いカリナでもわかっていた。
「このために、私を誘拐したのね…卑劣極まりない。」
「ですが、あなたのためでもある。」
自分の子どもを王位につけさせるため、という自身の立場を棚上げしながらテレーバーは、着ている上着を脱ぎさり、窮屈に上までボタンで閉まっていたシャツを緩ませる。
そして、にじり寄るようにしてカリナの上に覆いかぶさった。
薄暗闇の中でも、それほど悪くないテレーバーの容貌がカリナの目に映った。
やや下がり気味の眦と、柔和そうな口元をみる限りでは、この男の気質を勘違いしそうだ。
しかし紛れもなくテレーバーはカリナの女としての尊厳を暴力的な手段で今まさに踏みにじろうとしているところだった。
カリナの身を包んでいるドレスの上衣に手をかけながら、事務的な声音でテレーバーは尋ねた。
「あなたの傍には、今もあの男がいると聞きましたが…こういう関係にまで至っていたのですか?」
「…!下衆な…!」
今この場でギルバートを思い出させることは、一番言われたくなかった。
あくまで、淡々と『これは仕方のないことだ』と思いこむには、余計すぎる一言だ。
カリナは眉根をギュッと寄せて反論した。
「今それとこれとは関係ない…彼のことを話に出さない…っ!」
「…囚われの身になっている人が、身勝手な言動をおこなうことは本来許されないことですよ?」
言いながら、少しも表情を変えることなくテレーバーはきゅっとカリナの細い首に手をかけた。
少しでも力を加えられたらたちまち窒息しかねないような、微妙な圧力で。
「あなたは、私の手の中にいる。私に逆らっていいことは何もないはず。そうでしょう?」
「……」
キッと睨みつけてやりたくなったが、それこそ相手の思うつぼだ。
カリナは無言でテレーバーの視線を受け止めるだけに留めておいた。
それを良しとしたのかどうかはうかがい知れなかったが、テレーバーはすぐに喉から手をのかして、
再びカリナの纏っている衣装を剥ぐ作業に戻った。
「あなたはきっと、こうでもしない限り自身が『何者』であるのかきちんと知ろうとはしなかったでしょう。
いつも、貴族としての責務を後回しにして、その他のことにばかり没頭し続けていた。
一番はそう…あの男と結婚したことだ。
あなたの相手は、貴族とはいえ、1代前に伯爵位が下賜されたばかりの成金。
しかも、次期当主でもない軍人の二男だ。
普通、あなたのような家柄の方なら、セシリア家の方とでも結婚できる地位だ。
なのにそれほどまでの機会を棒に振るだなんて…あんまりすぎる…!」
「それは、私が決めたことじゃないわ…!お母様が、勝手になさった縁談で…!」
「なら、何故離縁しない?あなたほどの地位にあれば、女性であっても離縁を言い渡すのは簡単なことでしょう?
ならばどうして、あの男にいつまでもいつまでも執着し続ける?あの者との子どもを産みたいのですか?
成金伯爵家の血を引いたこの国の王位に就ける子どもを産み落としてどうするのですか…!?」
言いながら、どんどんテレーバーはカリナの服を剥いでいく。
ドレスの構造は複雑で、ドレスの下にもペチコートを重ね着していたり、きつく固定したビスチェを着つけていたりする。
しかし、テレーバーはおそらく自身が何度もそういう人を相手にしてきたのか、手際良くそれらを脱がしていく。
時間を稼ぐことも到底無理な状態だった。
獰猛な光を宿したテレーバーの手が、露わになりつつある白くたわわな胸に伸びる。
「あなたを一目見た男は皆、自分の手の中に収めて閉じ込めたいと願う。
…今まであなたが安穏としていられたことのほうが、私には不思議でたまらない。」
カリナは、怯えるように目を逸らし、部屋の隅のほうに視線を向けた。
助けを求めたつもりでも何でもなかった。ただ、様子をうかがいたかっただけだった。
そして、その通り…じっと、注意深く見守るように監視役の男は二人の様子を眺めていた。
「それが奥様の王位に執着なさる理由なのですね…」
思いもかけない【花園】の影響はメディフィス夫人にとってはおおよそ驚きでしかなかった。
まるで魔法のような存在なのに、確かな圧力を持って人に干渉してくる。
もし【花園】がなければ、ニムレッドはきちんと先々王に認められた王位継承権者だっただろうに。
ニムレッドは、さきほどの食ってかかるような雰囲気を失くした自嘲気味な表情で語り始めた。
「私の母は…先々王の側室となる前は、元々公爵家の令嬢で既に婚約者もある身だった。
先々王は、長らく正室との関係が冷え切っていた上、側室とのあいだでも生まれるのは姫ばかりだった。
確か、私の弟が生まれるまでに男児は一人か二人生まれたそうだが、死産かもしくは間もなく夭逝したと聞く。
なかなか男児に恵まれず高齢になった先々王陛下は、最後の機会と思って、多産で安産の家系出身だった私の母を側室に迎えることにした。
側室と言えど男児さえ産めば国母になる。母の実家の面々は皆降って湧いた話に飛び付いたそうだ。
だが…うちの母親はそれを苦に思っていた。
なぜなら、さきも言った通り、母には婚約者がいた。
母は政略結婚が当たり前の風潮の中、珍しくその婚約者とは意中の仲で、今か今かと結婚を待ち望んでいるところだったと聞く。
それが、自身の父親と同じくらいの、20歳以上も年上の王に、しかも側室として召し上げられることになった。
しかも、当時、先々王はメディフィス、お前の母と懇意の仲だった。
娼婦を耽溺している王のもとに若いみそらの娘が側室として嫁ぐ…これほど屈辱的なことはなかったろう。」
夫人が生まれた頃にはもう王が夫人の母のもとへと通う、なんてことはなかったが、それまでに王がもたらしたものはリガーズの評判を上げることに多大なる寄与をしたのは明白だった。
夫人の母は、決して王と関係したことを周囲に話したことはなかったが、1年に一度、夫人の誕生日の頃になると決まって実の父親からのプレゼントだといって高価な宝石類や美術品を幼いメディフィス夫人に手渡していた。
今ならそれらの品々は国王の職権を持って手に入れたものだとはっきりいえる価値のあるものばかりだ。
そんなことも、大きな棘となってニムレッドの人生に大きな影響を与えていたのかもしれないと思うと、夫人は心が痛んだ。
「それでも私の母は、心の拠り所として元婚約者だった貴族の男…私の血縁上の父親との関係を続けた。
その男は先々王の近従として出仕していたから、側室だった私の母ともなんとか接触できたらしかった。
そして…私の母は先々王と関係を持つ前に私を妊娠した。」
「そう、だったのですか…」
「世継ぎとなる男児がなかなか生まれず、正室のみならず側室とまで仲が険悪だという実態を晒さないため、先々王は私を自身の子どもとしてお認めになった。
本当は、私の父親は…自身の近従である、当時のニーゼット公爵だったというのに。」
「そうだったのですか…だから、あなたは当代ニーゼット公爵とあれほど昵懇だと。」
「そうだ。あれは、私の異母兄にあたる。あくまで血筋の上だが…
しかし私の血筋上の父親はなにかと私に便宜を図り、あれも現当主として私に何かと構う。
そして少なくとも助けられてきた私はそれを振り切ることはできないでいる。そういう仲だ。」
しかし、現在ニムレッドとニーゼット公との関係性は別のものとして捉えられている向きが強い。
夫人も勿論その噂は知っていた。
「うちの息子とあなたの娘さんがニーゼット領に行ったのは、あなたと公爵との関係が愛人関係だとにらんでのものだったそうですけど、実際はそうではなかった。
なのにあなたは弁明も何もなさらない。なぜ?」
「今更あれが私の兄ということになれば、先々王が私を実子とお認めになった恩を仇で返すことになる。
愛人関係と言われても、それ以上に型に嵌まる関係性を主張しようがなかった上、それを隠れ蓑にしていた方が都合のいいことがあったから敢えて弁明は避けた。」
「隠れ蓑にした方が都合のいいこと…あなたの御長男の実の父親の件のことでしょうか?
つまりは、クラウスさんの実の父親は先の侯爵閣下でもなく、異母兄である当代ニーゼット公でも勿論ない。そういうことでよろしいのですわよね?」
「…つまりは、な。ならばメディフィス、そこまで知っているならば、クラウスの父親が誰かも容易にわかることだろう。
誰か言い当ててみよ。」
薄暗闇の中、ニムレッドが問うてきた。いよいよ物語の核心に迫ってきたというのに、あっさりとそれを他人の口に委ねるのはらしくないことのように夫人には思えた。
しかし、それだけニムレッドにとって特殊性を持ったことであり、ニムレッドにしても口に出して気がすっきりする類のものではないのはわかっていた。
――そして、それがここまでにいたる混沌を生み出していると言うことも。
「…あなたは、降嫁するまで、先王であらせられた弟君と関係を持っていた…
だから、クラウスさんは生まれ、あなたは禁忌を冒したことを知られぬよう、急きょハイライド侯のもとに降嫁せざるを得なかった。
それが、奥様の周囲がひた隠しにしていた事実でしょう…?」
「私はひた隠しになどしていない。周りが勝手に大事に思っただけだ。
でも、確かに…私にとってあの子と、そしてクラウスは、何からも『違う』存在であることには変わりない。」
今まで、烈火のごとく怒ったり、途端自嘲気味、皮肉気味になっていたニムレッドの表情が、二人のことを口の端に載せた途端、急に目に見えるほど甘やかなものに変わったのに夫人は気付いた。
初めて見る、ニムレッドの姿だった。




