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足を踏み入れていいものなのかどうか、暫くギルバートは立ち往生して悩んでいた。
『いい、はずなんだろうけれど…どうしても、迷う。というか、見つかった時が怖い…』
色んな可能性が頭の中でぐるぐると駆け巡る。
一時にこんなことを考えるのは悪い癖だなと、自嘲めいた思いも浮かぶ。しかし、仕様のないことだった。
今、ギルバートがあれやこれやと悩んでいるのは、最早定番となったカリナ絡みのことである。
ようやく退屈な、ただ突っ立っているだけの夜勤警備を終えて、一旦は独身寮に帰ろうと足を向けていた。
時刻は夜半も過ぎた1時すぎ。
ところどころで火の粉を振りまく篝火以外に、自らを照らすものと言えば、猫の爪ほどに痩せた三日月ぐらいか。
そんな日付も変わった頃に、今更カリナの元へ向かっても意味がないと思うと同時に、
それでも、招待状を貰ったからには尋ねる権利があると思う気持ちとでせめぎ合ってしまう。
『さすがに、でもこんな時間帯は困るだろうな…』
手にしたプレゼントはいつでも渡すことができる。なにも、今行かなくてもいいのだ。
けれど、結婚以来一度も互いの誕生日に居合わせたことはない。
ずっと仮面夫婦だったこともあるし、長年ギルバートが所属していた情報部での仕事は全国各地を飛びまわっていることが殆どだったから会うことすらままならなかった。
でも、情報部から本部へ復帰することになった折、たくさんの出来事が幸運にもカリナとの仲を上手くいかせる潤滑油になった。
辛いこともたくさんあった。目の前でカリナを奪われる出来事もあったし、ギルバート自身傷つけられて死線を彷徨った。
それを超えて今あるのは、おそらく、仮面夫婦としての二人に与えられた最後の奇跡、なのかもしれなかった。
『…はっきりいって自己満足だ。わかってる。でも、一目だけでいいから、一つ年を経たあの人に会いたい。』
ギルバートは王宮内の寮から今は夜間のため閉められている門へと走りだす。
期待が羽のように膨らんで、徐々にその速度はあがってゆく。
ギルバートは思うより冷静にカリナの自邸までの時間を計算していることに気づいて、
このくらいの走る速度なら、あと何分でつくか、という期待感がじわりじわりと積もっていくのを肌身に感じていた。
たどりついた高級住宅街の一角にあるカリナの自邸は、夜更けすぎにもかかわらず今なお人気で溢れていた。
ギルバートは、光の漏れる邸を陰からそっと窺う。
『嘘だろ…こんなに人がいるだなんて。』
ここ1年ほどでカリナの人となりを知ったギルバートは、大規模な宴会を催すとはにわかに信じられなかった。
煌びやかなドレスをまとい、脂粉を撒き散らしている女性がそここで徒花のように咲き誇り、
その相手を務める軽快な男達の態度は、まさにカリナが苦手とする者の極地のはずだ。
貴族社会を倦厭するカリナが作り出した宴会はまさに貴族たちの社交場だった。
なんとか、体裁を整えてみようと努力してみたが、13歳以来家の行事にも滅多に参加しなくなったギルバートの正装は軍服以外ほかになかったため、いくら招待状を持っていてもカリナの使用人たちは半信半疑の胡乱な眼で見られてしまった。
他にも、じろじろと他の招待客の女たちにもじろじろと見られたため、こっそり壁のシミのようになって
物陰に隠れながら宴会会場の大きなホールを移動せざるを得なかった。
立食形式で食べ物が置かれているが、大抵の人たちは使用人たちが持ってくる酒ばかりを呑んで世間話に興じている。
知らない世界がそこには広がっていた。
『これが、貴族社会、ってやつか。』
一応、成金貴族家の出身なのでギルバートもその末端に名を連ねていることにはなる。
血筋的にも、父方の祖母がさる公爵家にもつながる家系出身なので、4分の1程度貴族の血を主張できることになる。
けれど、血なんてなんの誇示にもならない。そう思わされる光景だった。
宝石や、つやつやとした光沢を放つ煌びやかな服に身を纏ったものたちが、他愛もない雑談に興じている。
そこに、壁のシミのギルバートが入り込む余地は全くない。
カリナがここの住人である以上は、ギルバートとも相容れない存在だと言うことが身にしみた。
『…やっぱり、間違っていたんだ。なにもかも。』
結婚したことすら、どんどん後悔として波のように押し寄せる。
カリナはこのハイライド家の当主で、ギルバートは招かれた。
この、貴族ばかりの巣窟へ足を踏み入れよと、思ってもいなくてもカリナはそう示したのだ。
直面した現実は、あまりにも自分の今の地位からかけ離れていた。
「ああ、ギルバートさん、お久しぶりです。私のことを覚えてくださっていますか?」
打ちのめされているギルバートに、男が声をかけて来た。
この会場で見知っている顔はほぼ皆無だぞ、と思いつつ顔をあげると…
「あ…プレストンソン男爵…!」
「こんばんは。カリナさんが、いらっしゃるかどうかわからないと仰ってたんですが、どうやら来れたのですね。それはよかった。」
にこにこと好青年らしい微笑をたたえている。身なりも脂ぎった連中と違ってこざっぱりとしていて爽やかだ。
貴族なのにも関わらず清明に見える人間は、ギルバートが出会った中でもごくごく少数の部類だった。
たとえば、ギルバートが男爵と会ってきた中で、ものすごく不満な顔や不機嫌な顔は見たことがない。
いつも、微笑をたたえていたり、優しげな表情を浮かべていて、女性に受けがいい理想の男性像そのままだ。
きっと、貴族社会ではその人当たりの良さを生かして、スイスイと成金のハンデをしのいできたものと思われた。
「あなたこそ、ここにいるとは到底思いもよらず…」
「ですよね。ただでさえ、カリナさんの恋人候補のやり玉にあげられている男が、誕生日の夜会にわざわざやってくるなんて、
噂好きな連中にネタを振りまいているも同然。
夫君であるあなたからすれば、憤慨されるのも仕方ありません。」
「いや…!そういうことがいいたいんじゃなくて、ただ純粋によく来て下さったなと。
男爵の方こそ、身に覚えのない噂話ばかりに振り回されるのは嫌だと思って…」
「私を心配して下さるなんて、有り難いことこの上ないですね。
どうせなら、御令室を心配する方がずっといいと思いますよ。女性ですから。
…確かに、そういった危険性は念頭にありましたが、どうしてもあの人からカリナさんにプレゼントを持っていくよう押し切られまして。
あの人は、カリナさんと長年接触したくてもできない状態にあったから、
今こうして私を介してでもカリナさんの様子を知りたがってるようなんです。
だから寄せてもらったんですよ。」
そう訥々と理由を語る男爵の表情は、ギルバートの目から見てもゲロゲロに甘かった。
どうも、この男爵は、万人向けの優男な性格は、あくまでその他諸々に対してのみであって、
自身の恋人である、カリナの兄に対してはひどく豊かな表情を見せることがうかがえた。
きっと、ギルバートやカリナのしらない不機嫌で不満な顔は彼に対しては見せているのだろう。
少し羨ましく思ったギルバートは、心の中でいじけつつやることはやるために質問をした。
「姫の今日の様子は…いかがでしたか?」
「そうですね…かなり機嫌を損ねてらっしゃるようにお見受けしましたよ。
なにしろこういう夜会は苦手だそうでして、私のようなこのあいだちょっと顔見知りになっただけの人間に対しても
知り合いが来てくれて良かったと仰るぐらいで。
どうも、お疲れになったみたいで、『主催者といえどもさすがにもう休んでいいわよね』と言い残して
ここから既に退かれたようですよ。」
「え…!?そうなんですか!?」
思いもよらなかった。
てっきり、これだけの客が残っているということはつまりカリナもまだこのだだっぴろい会場から退けてないと考えていたからだ。
「明日もいくらか業務があるらしいですし、体調を崩さないために早めに退かれるとの説明でしたけど
多分本音は一刻も早くここから逃げたかったんでしょうね。
私なんかにもわざわざ申し訳ないといいに来て下さったんですよ。
本当にここの御兄妹はよく似ていらっしゃるものだ。」
ギルバートは最後の一言で、そういえばカリナの兄が貴族の中の貴族と言われるほどの社交界の華であったにもかかわらず
結局は貴族であることに嫌気が差して出奔したことを思い出した。
世界はハイライド兄妹を欲しているのに、その二人は悲しいかな、アレルギー反応をしめす。
「なんか…勿体ない話もないような気がしますね。」
「でもあの人と違って、カリナさんは嫌といいながらも逃げずに留まっていらっしゃる。
そこは十分褒めるに値すると思います。あの人は結果逃げて犠牲をカリナさんに払わせたんですから…
…まあ与太話はこの辺にして。
カリナさんからの御伝言ですが、もしギルバートさんをお見かけしたら自分の元へきてもいいと言ってくれないかと頼まれまして、それを伝えにここへ来たのです。」
それはギルバートにとって、まったくもって青天の霹靂だった。
「…姫のところに行ってもいい、と、本当に彼女自身がそう言ったんですか?本当に?」
「本当ですよ、事実です。心配しなくてもこの耳でちゃんと聞きましたよ。」
目を向いているギルバートを見て、男爵は思わず噴き出しそうになっている。というか、最早噴き出しているも同然の状態だ。
「お二人って面白いですね。いや、笑えるというほうじゃなくて、見ていてこちらが楽しくなるというか。
大丈夫ですよ、自信を持って下さい。私がいうのもなんですが…きっと待っていらっしゃいますよ。」
「…そんなに、自信がないように見えますか?」
「無理もないと思いますけど、そうですね。でも、気の持ちようはいくらでも変えられる。私はそう信じてますよ。」
なかなかに経験者の弁は説得力があった。
想像するに、男爵とカリナの兄との間にあった壁はおそらくギルバートとカリナのそれと比べるべくもないほど分厚く、顔を仰いでも先が見えないほど高く聳えたっていたはずだ。
それを乗り越えて今がある人からの言葉はずしりときた。
「…男爵、本当にありがとうございます。早速、行ってきます。では。」
そういってギルバートは会場を後にした。向かうべき場所は、もうきまっていた。
見送った男爵は
『きっと…これからが、二人の始まりになる…どんなに、険しくても。』
混沌とする二人の未来に想いを馳せていた。
人が集中している別館会場とは違って、本館は薄暗く人の気配もなく静まり返っている。
使用人も殆どいないのか、廊下を軍服を着たギルバートが歩いていても特段不都合がないほどだ。
『いくら外の警備を強化してても、今日は部外者が大量に出入りしているから、
こんな危ない状態のままでいたらダメだろう…!』
そう思いながらも、きっとこういう状態じゃなければ入りこめなかったのも事実である。
あとでカリナに会ったら進言しようと心に秘めつつ、
年に一度、ギルバートがハイライド家と交わした契約の1年ごとの見直しにだけ訪れる
カリナの部屋を探していた。
敵に侵入されないように、たいがい彼らの部屋は奥まったところの、さほど高くない階層に位置している。
カリナも御多分にもれず、2階の渡り廊下を渡った先の最奥にある部屋を寝室兼執務室として使っていた。
本館をずんずんと人気のないルートを選んで歩いていたギルバートだったが、
ついに渡り廊下に踏み入れようかと言うところで、ようやっとカリナを警護する人間に出くわした。
姿を見られて尋ねられたらなんとも答えようがないのでささっと物陰に隠れる。
『やっぱりいた…さて、どうやってこの先へ行くか。』
ギルバートの願いを汲んだカリナは、自らの使用人にすら婚姻の事実は晒していない。
そして、男を連れ込んだことがないはずのカリナの元をこそこそ忍んで尋ねるような男を、侵入者として使用人がみなさないわけがない。
このまま彼らの前に出たら、たぶん、一巻の終わりだ。
『このまま順当に向かうのは無理…なら。』
ある方法がギルバートの中で浮かんでいた。




