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『ああもうやだ…帰りたい、自分の家なのに。』
こんな言葉がよもや、この世に又とない宝物と称されるハイライド侯爵その人が心の中で思い浮かべていることだと
この会場にいる人間は思いもよらないだろう。
しかし、カリナは招待客が来るたびにろくに知りもしない男の接吻を手の甲に受け、その男の連れ合いの女に睨まれ、
ちょっとした接触もそこそこに誕生日プレゼントをもらい、大仰に喜んで見せ、
大袈裟なほどの感謝の念を伝え、そのあとは世間話に多少付き合って相槌を打ち、満面の笑みを浮かべ
「ではごゆっくりしていらっしゃいませ」
という作業を何回も何回も、足と手の指全て使っても数えきれないほど繰り返していた。
『わかってるわよ、使用人にとったら、こういう家格を示威するような出来事が必要なことぐらい。
その期待にこたえるのが当主としての役割だって言うのもわかってるわ。
でも、本気で精神的苦痛を感じてるんだから、それを汲んでくれたっていいじゃない…!』
割と顔の表情を隠してしまえるほうのカリナだったが、鉄面皮には程遠いので、古参の使用人には一目で
『ああ…御屋形様は我慢ならないんだろうな。でも、ここは我慢してもらわないと。』
と思われているらしい。それでも甚だ迷惑だったが。
そもそも、カリナには貴族や金持ちの親しい知り合いが殆どいない。
15歳までドがつく田舎な本領で療養生活を送っていたため、うっかり社交界デビューをしそびれ、
そのまま結婚して、大臣職を拝命してしまったことから更にガクッと人と交際する頻度が減ってしまったのだ。
まだ独身で大臣職を戴いていたほうがマシだったかもしれない、と時々カリナは思うことがある。
あまりカリナの望むことではないが、伴侶探しで男性と出会う機会もそこそこにあったはずだからだ。
例え義務として伴侶探しをせねばならなかったとしても、そのおかげで思わぬ人脈が築けることだって考え得る。
しかし、ギルバートとの結婚はその機会すら放棄させてしまうようなものだった。
『お陰で貴族の人たちでさえ、私ってロクな知り合いがいないのよ…
いるとすれば、ギルバートのお父様と、メディフィス夫人と、あとは不本意だけどジェイド王子ぐらいかしら…』
政略結婚だから致し方ない事態だが、それにしたって少なすぎる。
だから、急ごしらえで使用人たちに招待状を出させた者は、大抵顔も知らない人ばかりだったのだ。
それでも、カリナ自ら筆をとって招待状を出した人間も実はいるにはいるが…
「お誕生日おめでとうございます。」
このままつまんないところで、へこへこ頭を下げるばかりでいなくちゃならないんだろうか、と
暗澹たる気持ちでいたカリナに、若い女性の声が降り注ぐ。
思わず、よく見知った人のものだったので、カリナは頭をあげた。
「あ、アンリエッタさん!…ほんとうに、来て下さったの?まさかわざわざ来ていただけるとは思ってなかったのに…!」
それはジェイド王子付きのうら若き女官・アンリエッタだった。
まだ若干16歳で貴族の出身だというのに、酷く落ち着いた所作で、冷静沈着である。
そんなアンリエッタは、堅物な性格とは対照的に甘やかな容貌をしていたりするのだが、
晴れの舞台と言うのに、喪服まではいかないが、深い紺色の首元までぎゅっと締まっり、顔以外の素肌が晒されないドレスを着ていて、相変わらずストイックだ。
カリナですらもうちょっと出してみたら?といいたくなるほどである。
「いえいえ、うちの馬鹿殿下のせいで本当に色々とご迷惑をおかけしてますから
こういう機会じゃないとなかなか御礼もできませんし。
でも、よろしいんですか?私みたいな一女官がじきじきに招待状をいただいてしまっても…」
「そんなこと考えていてくださったんですか。そんな、御謙遜なさらないでください。」
しきりに二人でぺこぺこお辞儀を繰り返す。
カリナにとっては、アンリエッタはこれ以上ない偏屈変態王子の監視者であり調教師で、その存在自体に感謝しなければならないと思うほどだし、
逆にアンリエッタにとってカリナは唯一対等にジェイド王子と渡り合える人物なので一目を置いていた。
王族以外の人間であのジェイドが認める人間を、アンリエッタはカリナ以外に見た覚えがない。
性格的に好ましいというのもあって、アンリエッタは心密かにカリナとお近づきになれる機会を見計らっていたので、実はこの誕生日会の招待状を直々に貰ったのは望外の喜びだったのだ。
「でも、よかったんですか?お仕事の方は大丈夫だったんですか?」
「ええ。ちょうど今日は常勤だったんで、夜まであの馬鹿殿下…ええっと失礼、
ジェイド殿下の御世話をする必要がなかったので、こちらによせていただこうかと思ったんです。
ただ…」
「ただ?」
アンリエッタの含みは時々不安になる。なぜなら、どう考えても、ジェイド王子絡みと考えて差し支えないことが多いからだった。
そしてそのカリナの不安は的中する。
「あのですね…殿下にうっかり言ってしまったんです、御休みのことをお伺い申し立てるときに、
…一生の不覚なんですけれど、ハイライド大臣のお誕生日会にお招きいただいたっていうことを。
そしたら、殿下は何を勘違いしたのか
『連れ合いはいるのか?!婦女子が一人で夜会に行くのはルール違反だってアンも知ってるだろ?
で、誰かいるのか?連れがいたりするのか!?』
ってしつこく言ってくるものですから
『それはまだ決めかねているのですけど、姉を連れて行こうか…』
と私が言い終わらないうちに、殿下が
『君の姉上をわざわざ呼びつけるような手間をさせては、姉上に迷惑がかかるだろう。
なに、私が行こう。』
と、どっかの角で頭をぶつけたようなことをのたまいまして…」
「ま、まさか…」
「その、まさかです…」
とほほ、と額に手を当ててショックで言葉も出ないアンリエッタのすぐ後ろにそのぬぼっとした女の格好の馬鹿殿下は突っ立っていた。
「…殿下。相変わらず女装の趣味がおありなようで、大変よろしゅうございますわね。」
「ふむ、カリナもたまには褒めてくれるのだな」
「誰が今褒め言葉をいいましたか!?耳の中をよーーーくかっぽじってお聞きなさいませ!」
「アン、カリナがものすごくらしくない言葉を使っているぞ。あれは、貴族としての面目にかかわると思わないか?」
「…殿下の方がよほど王族としての品格に問われることをなさってると思われますわ。」
「くっ…いうな、カリナ…」
「だって、ここは私の牙城ですもの。
身分を偽っていらっしゃた方なんて、本当のところ私の権限で爪弾きにしてもよろしいんですよ?
それをしない分、感謝されこそすれ睨まれる必要はないですもの。」
ことごとくカリナに丸めこまれて女装王子はぐうの音も出ないようだ。
アンリエッタはその滅多にない光景を見て感嘆の表情を浮かべている。
「す…すごいですハイライド大臣…!私、感動しました…!」
「いえいえ、アンリエッタさん、そんなに大それたことじゃないですよ。
どちらかといえば、アンリエッタさんのほうが毎日毎日顔突っつき合わせてる分、
よほど殿下のあしらい方が御上手だわ。
私が今殿下にしたことなんて、足元にも及びませんもの。」
「そんな!私、本当に大臣に弟子入りして、是非殿下の取扱いについてご教授願いたいですわ!」
「アン!取扱いってなんだ取扱いって!第一、カリナみたいな俺を虫けらみたいに扱うやつに
弟子入りなんてしたらダメだぞ!」
「殿下は黙っててください!」
「ぐっ…」
アンリエッタにまで見放されたジェイド王子は、今度こそ二の句が継げなくなったようだった。
その様子を見て、よっぽどジェイドはアンリエッタの尻に敷かれていて、尚且つそうとわかっていても
抜けだしたくないと思っているのがありありとわかった。
どうにもこの二人のでこぼこぶりは改善の兆しが無さそうだった。
「…本当に、ハイライド大臣、申し訳ないです…こんな騒動の種を連れてきてしまって…」
「アン!騒動の種って言い草はなんだ!」
「殿下うるさい!…ほんと、子供みたいな駄々こねで、大事なお誕生日ですのに…」
「アンさんが気に病むのは間違ってるわ、ほんとよ。
殿下が来たのは確かに目の前が暗くなるほど惨憺たる気持ちにさせられたけれど、
アンリエッタさんが来てくれたっていう喜びがそれを覆って余りあるわ。
来てくれた分、殿下が来ることぐらい我慢しろって言う御達しかもしれないわ。」
「ハイライド大臣…、なんてお優しい…!」
アンリエッタはうっとりとカリナを見上げる。最早ジェイド王子は視界に入らないようだ。
傍から殆ど爪弾きにされながら二人のやり取りを見ていたジェイドは、ふんっと鼻息を荒くした。
「いくぞ、アン。カリナが用意した立食用の食べ物、食い荒らすぞ!
そういや、ギルバートは来てないみたいだな、カリナ。
せっかくヤツと初めて過ごせるだろう誕生日だったのに、残念だったな!」
「殿下…?!」
「ちょ、ちょっと、なんてことおっしゃるの…で、殿下、お待ちくださいませ!」
ぐいっとジェイドがアンリエッタの腕を引っ張って行く。まだ留まりたそうだったアンリエッタは困惑気だ。
「ほんとうに、ごめんなさい、ハイライド大臣~!」
「いいのよ、気にしないで。」
ジェイドがくだらない独占欲でアンリエッタを連れて行ったことは明白だった。
最後のジェイドの捨て台詞なんて、カリナを凹まそうと取っておいた切り札に違いない。
しかし、わかっているのだ、今日ギルバートがこないことぐらい。
そう、カリナは自分を慰めた。
『でも、すごくつまらなかった誕生日だけど、アンリエッタさんの顔見れたのと、馬鹿王子を罵ったので
ちょっとだけよかったかもしれない。』
とはいえ、まだまだ夜は長かった。
しばらくして、さらに夜も更けて来たころである。
割と、貴族の中でも上級クラスと言われる人たちに限って招待状を出しているため、
まったくもってカリナの誕生日の夜会は騒動と言う騒動も起こっておらず、
主催であるカリナは相変わらずホスト役としてうふふあはははとあいさつ回りを繰り返していた。
使用人曰く、貴族界の重鎮だからしいが、カリナにとってはまったく話を交わしたこともない初老の男性と
当たり障りのない時事で言葉を交わしているときのことだった。
ざわざわと会場の入り口が騒がしくなった。お上品な会場の空気が一気に好奇に満ち溢れる。
「おや、なにやら騒がしくなってきましたね。何があったのかな。」
「わかりませんわ…ちょっと様子をうかがってきます。御話の途中ですが申し訳ありません。では。」
そういって杖を使って足早にその場を離れる。
初老とはいえ、若いカリナの姿を見て鼻の下を伸ばしているような男だったので、体よく逃れられるのはよかった。
しかし、騒動の火種のもとに向かって更なる火種に晒されるのも御免こうむりたかったのだが。
『殿下だったらどうしよう…でも、アンリエッタさんがいるから滅多な事にはならないわよね?』
今やジェイド王子に関してはアンリエッタだけが頼りであるが、
しかし彼女は最強の監視者なのでそうそう騒動が起こるとも思えない。
となると別のこと、か。
『まさか、ギルバートが制服のまま来たとか…?』
ギルバートが夜勤だと言うことはアンリエッタから数日前に聞いて知っていたが、それでも招待状を出した。それに後悔はない。
しかし、夜勤があろうとなかろうと、彼が姿を現すとはカリナには思えなかった。
貴族や大富豪ばかりが集まる夜会に、例え格好がまともでも軍人の空気を纏った人間や、その世界に縁が薄い者が来て、さらにはカリナと親しげとなれば、たちまち衆目の人となってしまう。
だから、もしやと思ったのだったが…
ざっと人垣が割れるようにして、その間から一人の男が歩いてくるのが見えた。
ちょうどカリナはその中心にいたので、まっすぐその男はカリナのもとに向かっている。
もしや、と思ったその人物は、確かに、カリナが直々に筆をとって招待状を書いた客だった。
「プレストンソン男爵…来て下さったの?」
「ええ。お誕生日おめでとうございます。
私のような成金を、このような場にお招きくださり至極恐縮です。」
「いえ、そんなこと…本当に、来て下さるとは思ってなかったわ。ありがとう。」
「そういってくださると、助かります。」
プレストンソン男爵は少し増え始めたしわを細めるように笑った。
プレストンソン男爵は、今のところカリナの恋人候補レースの筆頭にあがっている人物である。
カリナの非公式ファンクラブで発行されている週報でのゴシップで、
ここ最近最もよく取り上げられている人物としてその界隈では名前を響かせている。
それは、カリナが突然男爵と近づきになったのが最大の要因である。
しかし二人に艶めいた関係性は一切なかった。
お互いに独身者であるような装いはしているものの、実質はちゃんとした相手がいる。
その、プレストンソン男爵の伴侶がカリナと関係のある人物だったため、
急速に仲が深まったと言うだけの話なのだが、世間に公表できる類のものではなかったので
仕方なくゴシップは流されたままと言う状態になっているのが事実だった。
「あなたがこんなことをするとは思ってなかったと、あの人はいっていたのですよ。
どうして宴会をなさったんです?」
「仕方なかったのよ。使用人たちがさすがにやってくれないと自分たちの腕の見せどころがないって言ってね。」
ぶつぶつ不満を言いながらカリナは使用人から手渡してもらったグラスを男爵に勧める。
ギルバートよりもさらに背の高い男爵は、目線をカリナに合わせるため、腰を折って
「ありがとうございます」
と礼を言った。
「お兄様もこういうことは苦手な方だったわ。
でも、これが仕事だから仕方ないと言って夜ごと招きに応じてた。ほんと、よくおやりになったと思うわ…」
「確かに、私があの人と出会ったとき、丁度あなた方の御父上が体調を崩された頃で、
一層そういった場に出て後継者としてのアピールをしなければならなかったから、
精神的に辛かったと、いつか私にいったことがありました。
お陰で今は、こう言うところに行かなくてせいせいしてる、って余計な一言も付け加えて。」
「うわ、想像できるわ…」
「あの頃のあの人を知ってる人で、人付き合い嫌いの一面を知ってるといったら、カリナさんぐらいですよ。」
「でしょうね、美貌の貴公子っていって持て囃されるくらい猫かぶってたもの、お兄様ったら。」
あんまりにもなあだ名っぷりに、顔を見合わせて二人は噴き出した。
プレストンソン男爵の今の伴侶は、まぎれもないカリナの実兄のクラウスだった。
爵位継承直前に謎の出奔をし、今なお貴族界で様々な憶測を呼んでいるが、
実のところはこの商家出身の所謂成金貴族であるプレストンソン男爵と懇意になり、
匿われているということを知っているのは、実の妹のカリナとギルバートぐらいだった。
その縁もあって、プレストンソン男爵をカリナは招待したのだった。
さすがに、クラウスが出てくることは出来なかったが、
男爵が単身で来てくれたことは親しい貴族の知り合いがいないカリナにとって非常にありがたかった。
「そうそう、あの人からカリナさんに贈り物を預かってきてるんですよ。
使用人に私のものと一緒に渡しておきましたから、また宴もたけなわになった頃に開けてあげてください。」
「まあ、嬉しい。わざわざありがとうございます。
お兄様のことだからまた自分の趣味につっこんだものをくれるんでしょうけれど、
あなたがくださるものは、きっといいものに違いないわ。本当に嬉しいわ。」
「まだ見てもないのに、そんなに褒めてくださるなんて、もし開けてがっかりさせたら申し訳ない。」
「いえ、がっかりなんてするわけないもの。ほんとに、ありがとう。」
プレストンソン男爵の目利きがいいことは、彼の格好を見てもわかった。
背丈に合ったあまり華美でないスーツを颯爽と着こなしているが、よくよくその生地を眺めたら
相当な高級品を使っていることがうかがえる。
成金と俗悪な言葉で言われる立場の人間なのに、他の貴族にも負けない品の良さがそこからは立ち上っていた。
そんな、地位もすばらしい性格も金も持っている完璧な、唯一の欠点と言えば隠遁生活を送らねばならない男の伴侶がいるというプレストンソン男爵は、そういえば、と思いついたように言った。
「そういえば、御夫君はいらっしゃってないんですか?」
「…あの人は、夜勤よ。軍人だもの。」
急に不機嫌になったカリナを見て、男爵は柔らかく微笑んだ。
「それは残念。国防を担う重大なお仕事だから仕方がないですね。
しかし、彼ではなく私のような者が傍にいてはいい御迷惑でしょう。さきほどから噂をする者が絶ちませんし。
ですから、私は私で楽しんできますからどうぞご自由になさっててください。」
「え、そんなことないわ、男爵…!」
引き留めようとしたが既にプレストンソン男爵はカリナの傍から離れた後だった。
あとに残されたのは、主催だけれどもやっぱりどこか楽しくなさそうなカリナだけだった。




