断章 決意の日
その日クラウスは、ぽっかりと何時間ほどか用事がなく、自室で一休みでもしようかと思っていたとき、
突然、父で現ハイライド侯爵であるチャールズから呼び出しを受けた。
チャールズはかれこれ半年以上過労で伏せっていて、公務は愚か自力で歩くことも難しい状況だ。
ただ、別荘で療養していたら徐々に回復して言ったので、これならと思って数日前から本邸に戻っている。
とはいえ、完全に回復するには時間がかかるため、既にクラウスが殆どの業務を引き継いでいる。
よってチャールズはこの体力では爵位の務めを果たせないと考え、隠遁を決めたらしくクラウスに爵位を譲ると明言した。
あとは、女王陛下から爵位を下賜される儀式を執り行えば、正式に譲渡される。
儀式は一朝一夕では準備できるものではないらしく、予定ではあと1ヵ月後に迫っている。
だからといってクラウスの心構えが代わるわけではないし、その日のために今まで研鑽を積んできたともいえるのだ。
――だが、一抹の不安は拭えなかった。
クラウスは、自分が女性に対して恐怖があった。
実妹のカリナに対してですら、安易に触れることができないほど。
貴族の務めの第一には子孫繁栄が挙げられる。クラウスは、その一番重要な資質を欠損してしまっているといっていい。
きっと爵位を継げば、それなりの相手を妻としてあてがわれ他にも何人か側室をつけることにもなる。
父チャールズは、正妻であるニムレッドが降嫁した正真正銘の王族で、彼女に遠慮して側室は持たなかった。
けれども、このままだとクラウスは自分より身分が上の女性を妻に迎えることは恐らくない。
だから、きっと何人もの女性を周りに従える必要性が出てくる。
無理だ、と思った。
女性を抱けない自分に、子どもを作ることはできそうにもない。
後継ぎを望む人たちの声には答えられない。そうなれば、爵位を継いだ意味すら問われてしまう。
『…良い機会だ。父上に相談しよう。』
クラウスが爵位を継がないとなれば、数年前に左足が不自由になった実妹のカリナに御鉢が回る。
カリナは、生まれた時から貴族になじめない子供だった。
自然が何より好きで、今現在、療養とは名ばかりのド田舎生活を満喫しているらしい。
そんなカリナが爵位を継いだら、きっと貴族社会の汚さと、都市の冷たさでカリナの良さは完全に損なわれる。
だから、自分が爵位を継がないわけにはいかない。
複雑な現状に、クラウスは頭を悩ませながらチャールズの私室に向かった。
侯爵位にあるチャールズの私室は、その身分不相応に狭い。
自身があんまり広い部屋だと落ち着かないと言って、自分専用の部屋は小さめがいいと主張したため、
10帖ほどの、小さなベッドと簡素な文机と幾ばくかの本が詰まった本棚があるだけの部屋を私室にしていた。
普段仕事をするときは、比較にならないほど広い執務室を利用しているため、この私室を訪れる人間は、よほどチャールズに親しい人間だけだ。
クラウスも、チャールズが元気だったころは殆ど私室に招かれたことはない。
カリナも恐らく、物ごころついた頃からあそこには入らないように自分でわかっていたのか近づいていなかったはずだ。
例外で言えば、妻であるニムレッドはそんな狭い部屋を好むなんて、使用人と変わらないじゃないと軽蔑して
自分から近づかなかった。
カリナともども、クラウスはそんなニムレッドが苦手だった。
家族を平気で蔑ろにできる女性が自分の母親だということすら認めたくないほど。
しかし、チャールズはそんなニムレッドに長年付き合ってきた。
ただ、家同士が定めた相手だというのに。
クラウスは忍耐力のあるチャールズを見ると頭が下がる。同じようなことが自分に求められた時できる気がしない。
今回の過労も、恐らくニムレッドが遠因になっている。ハイライド家は既に彼女の牙城だ。
『父上が今回呼びだしたのは、そのことについてだろうか、もしかして。』
けれどもそれはひとつの予測であって、他にも思い当たる節はある。
一生左足を満足に動かすことができないと言われているカリナのことをどうするか、とか、爵位を継いだ後のハイライド家の運営だとか、話し合うべきことは山積している。
一体何を目的に呼び出されたのだろうか、それに明確な予想が見いだせないまま、父親の私室の前にまでやってきていた。
「父上、クラウスです。参りました。」
「入ってくれ。」
返事があったので、扉を開ける。貴族らしくないその狭い部屋は、十分な採光がありながら、物がないためか酷く質素で古ぼけた気配を持っていた。
久しぶりに見たチャールズは、部屋でたった一人、部屋の壁に据え付けられたベッドに上半身を起こして座っていた。
今まで本を読んでいたのか、薄い眼鏡をかけている。サイドボードには分厚い本が置かれていた。
そして、クラウスを見止めた途端、相好を崩した。
「よく来てくれた。すまんが、そこの文机の椅子を出して座ってもらえないかい?」
「わかりました。」
扉を閉めてチャールズが寝ているベッドのすぐ脇に椅子を持って座る。そして改めて、間近からチャールズの容貌を見た。
――悲しいほどに、痩せこけていた。
「父上…御加減、いかがでしょうか?」
「可もなく不可もなく、というところか。けれど、療養に行く前よりは体調はまだマシになったと思う。」
「そうですか…」
そうはいっても、この1年ほどの間に急に増えた白髪や、痩せこけた頬に細くあらわになった首筋、そして布団からはみ出ている
骨が浮き出た手首は、頑健で立派な体躯を誇った若い頃に比べると異様そのものだ。
これが老年期の特に最晩年だとしたら、まだ納得がいったかもしれない。
しかし、チャールズはまだ44歳だ。中年としてようやく世間からも認められるようになった、脂の乗った時期である。
それがどうしてこうなったのかと、思わずにはいられなかった。
微妙な面持になったクラウスの心情に察しがついたのか、チャールズは気遣うように言った。
「気にしなくてもいい。いずれ人はこうなるんだ。それがたまたま、私の場合は44だった、それだけだ。
クラウス、お前にもいずれやせ細り、弱る日が来る。遅かれ早かれな。」
「ですが!」
「それに、私はお前と言う息子に恵まれた。私の代わりによくやってくれていると方々から聞くぞ。
それだけでも私の人生には意味があり、誉高いものになる。十分、私はこれでよかったと思っているよ。」
「そんな!どうしてそんなことを仰るんですか?!まるで、今生の別れみたいなことを…!」
「まるで、じゃなくて、事実だ。もう目の前にまで、私の死期は迫っている。
今日はまだ体調が良いんだが…いつ、また発作がくるかわからない。
医者によれば、次に大きい発作が来た時が山場だと言った。
その山場は1年や半年どころじゃなく、今後何カ月かの間にくるものらしい。」
淡々とした口ぶりからまるで他人事のように感じる。しかし、クラウスはあまりの衝撃に口が利けなくなりそうだった。
「うそじゃないんですか…?」
「嘘ではないよ。主治医からきちんとこの耳で聞いたことだ。
別荘での療養の間に多少は回復はしたんだけれども、やはり、心臓が一番やられてしまっていたらしい。
他の臓器に比べて心臓は一度大きくやられてしまうと、なかなか元には戻りにくいそうだ。
だから今度発作でも起きたら次はないらしい。これはもうどうにもならんだろう、とな。」
「どうしてですか?!あんなに御元気だったのに…どうしてこんな短期間の間で、ここまで、どうして!!」
「それは私にも不思議でならないんだよ。」
本当に、不思議でたまらないといった様子でリチャードは柔らかな目をしながら取り乱しかけているクラウスを見つめた。
「どうしてここまでやられっぱなしになってしまったのか。私が何をしたのだろうかと、長い間床についているときは
絶えず考えたのだけれどね…結局答えはでなかった。
ただ、ひとつ言えることは、私はきっと邪魔だったのだろうな、ということぐらいだな。」
「どういう、意味ですか?」
リチャードが発したことには不穏な言葉が混じっていた。やられっぱなしになった、邪魔だった…
つまり、誰かに貶められたということではないだろうか。急に寒気がする様な恐怖にクラウスは襲われた。
「どういう意味かって?そうだね…私は彼女の中で要らない存在になってしまったのだろう。
20年以上も連れ添ったのにね。」
「まさか…母上、のことですか?」
「そうだね。ニムリーのことだと、私は思っているよ。」
誰もがニムレッド夫人と呼ぶ中、唯一愛称で彼女の名を呼べるリチャードは、酷く愛しげにそれを口にした。
まったく、この場の空気と、会話にそぐわないのに。
「母上が、父上に手をかけたのですか…!?」
「多分ね。とはいっても、彼女自身が手をかけるわけはない。ニムリーは用意周到で自分の手を汚すことは極端に嫌う。
だから、彼女はうちの使用人たちを抱き込んだんだろうね…
私がそうと気づいた時にはもう遅かったよ。
毒見係には何の異変もなかったし、いつものようにニムリーと食事をとる生活を続けていたのに、
いつの間にか、毒味後の給仕の間に、使用人に毒を入れられていただなんてね。
しかもごく少量だったから私は気付けなかった。
それから、徐々に舌が慣れて気付かないように量を増やされて、最終的には、部屋の壁にも塗りたくられて
皮膚からも毒を吸っていたらしい…完全に、私の身体は参ってしまったよ。
それをお前が別荘にやってくれて、一時はなんとかなったんだ。
でも、一度やられたからだが元に戻るのは大層難しかったらしくて、もうこの身体は治りようがないようなんだ。
だから、せめて最後だけは、クラウスとも話ができるようにと思って、こっちへ帰ってきたんだ。」
酷く淡々としている。まるで他人事のようだ。けれども、クラウスには思い当たる節がある。
この家の使用人はニムレッドに掌握されている。実質彼女が動かしているようなものだ。
その使用人たちを使ってリチャードをどうにかしようとすることは、赤子の手首をひねるよりも簡単だったことだろう。
別荘は、元々ハイライド家に遣えていた人間が管理をしているので新たに使用人を雇うこともなく、
都からも距離があるので幸いにもニムレッドの支配が及ばなかったようだ。
だから、その地で毒を盛られることがなかったため、小康状態を保てたのだろう。
しかし、なぜそんなところからわざわざ敵地のど真ん中に戻ってくることにしたのか、それがわからなかった。
「父上、早くここから出て行かねばならないのに、どうしてそんなに安穏としていられるんですか!?」
「だから、私はもう死期が近いといっただろう。そのわずかな間に、クラウスとカリナのためにここに戻ってきた。
ニムリーは自分の子どもも自身の手駒だと考える向きがあるから、君たちにはそうなってほしくなかった。
それを伝えるために私はここにもう一度来たんだ。もう、身体はよくなりようもないからね。」
「母上が相当な人物だということは僕もカリナもわかってます。
だから、わざわざそんな危ないことをしなくてもよかったのに…!」
「かもしれないね。でも、最後のちっぽけな親心だと思って受け止めてはくれないのかい?」
「…僕は、あなたの子どもじゃないんでしょう?」
はっきりと口に出して言うのは怖かった。前からチャールズの特徴を受け継いでいないことは自覚していた。
強烈な母親似で生まれたから、父の特徴があまり表に出なかったのかもしれない、と初めは思っていた。実妹のカリナも若いころと瓜二つと言われるほど母親似だ。
でも、決定的に違うとわかったのは、ニムレッドとリチャードの結婚が、自分の妊娠後だったという極秘の情報を聞いてからだった。
「王族ともなれば、異性関係は厳しい監視下に置かれます。
婚前交渉は、特に王族の品位と継承に関わることだから厳しい制限を受けることになる。
けれど、僕は、父上と母上が結婚する前にできた子どもです。つまり、婚前交渉があったということになる。
しかし、なぜか王家はそれを揉み消した。――もしあなたがた二人の間の子だったら、例え結婚前の段階で子供ができても極秘にはならないでしょう。
多少の問題行動だったとしても、結婚することでその問題は消え去る。
でも、もし僕が父上の子ではなくて…他の男性との婚前交渉で母上が妊娠した子だったら。
王族は揉み消すことに躍起になる。そして、その男性との結婚が適わないなら、他の男を急いであてがう必要がある。
なぜなら王族の女性に未婚のまま子どもを産ませたらスキャンダルもいいところになる。だから父上と結婚した。
――違いますか?」
「クラウスはやっぱり、頭がいいね。王族の血を引いているからだろうか?」
本当に喜ばしいと言った風にチャールズは微笑んだ。そんな表情をしている場合じゃないというのに。
険しい表情を作ったままのクラウスに向かって、チャールズは言った。
「そうだね。事実そのとおりだ。ニムリーは結婚できない男性との間に子どもを作ってしまった。
その子どもが、クラウス、お前だったんだ。
王家の人はスキャンダルを恐れた。決して世間には公表できないことだったからね。
厳重に緘口令を敷いて私との結婚を強引に進めた。君が生まれてくる前にどうしてもそうしなくてはならなかった。
だから彼女は無理矢理に降嫁することになった過去を強く恨んでいて、今、強く王族への復帰を望んでいるんだ。」
「もしかして、それは、僕の血縁上の父親とかかわりがあるんですか?」
「そうだね。少なくとも、彼女はクラウスの父系の血にこだわり続けているのは確かだ。
だから私に薬を盛って寿命を縮めようとする暴挙にでざるを得なかった。
お前を早く位につけて、足場を固めることが彼女にとっては急務のようだったから。」
「どうして、そんな目に遭っても、恨まないのですか…?」
「結局ニムリーも私も、運命に翻弄されたんだ。誰もが加害者であり犠牲者だ。
確かにニムリーがやったことは許されることではない。私も、許すつもりはない。
でも、私一人が犠牲になれば少なくとも救える命はある。だから、このことは甘受するつもりだ。」
「…では、僕はどうすればいいんですか?このままいけば、僕は母上の体のいい傀儡になるのでしょう?
でも、このまま逃げたらカリナにまで及んでしまう…」
「そうだな。私は、クラウスのやりたいとおりにすればいいと思っているんだが、どうかい?
そのままニムリーの傀儡になるもよし、傀儡のふりをしてニムリーをのしてもよし、
このまま逃げてカリナに爵位を押しつけてもよし、なんでもありだと思っている。
決断するのは私でなく、クラウス、お前自身だ。私はもうすぐ死ぬ。お前たちはもう、自分の足で立たねばならない。」
「わかっていますが…」
そのとき、今まで、酷く難しいことを話題にしていながらも緩やかな表情を続けていたチャールズが一変して
険しい表情になった。クラウスは息を呑んだ。
「ただ、問題なのは、反王家派の連中だ。ニムリーの動きに乗じて、お前を狙っている。
ニムリーはただ、お前を自分の望みに足る存在にしようとしているだけだ。
ある意味、他意がなく、それ以外に対しての興味がない分救いがある。
だが、連中は色んな政治的な意図を介入させてニムリーをおだてている節がある。
単に王族を倒すことだけが目的ではない。【和国】とも手を組んで、この国に惨禍を招こうとしている。
やつらの動きだけは注視しなければならない。
どこまで、反王家派の組織が肥大しているか私ではもう読み切れないが、おそらく相当数いるはずだ。
だから、ニムリーへの対処だけではもうどうにもならなくなっている。
そのうえで、お前は決断をすることになるだろう。
難しいことだとは思うが、やはり、決めるのはお前自身しかいない。」
「…はい。」
クラウスはぎゅっと膝の上で拳を握り締めた。もう誰も助けてはくれないという緊張で頭がいっぱいになっていた。
そのとき、扉の方から使用人が
『クラウス様、お客様が御見えになっています。どうされますか?』
と伝えてきたので
「ああ、すぐ行く。」
と返事をした。椅子を元の位置に戻して無言で一礼して去ろうとしているクラウスを見て、
チャールズは、小さな声音で、しかしはっきりとした口調で告げた。
「私は、お前もカリナも大事な子どもだ。だから、どうか二人ともが幸せで健やかでいられることを願っている。
だから、私が亡くなった時は、どうか、カリナのことをよろしく頼む。」
「…父上。」
「それと、お前の血縁上の父親は…多分、お前の想像している通りだ。
けれど、決してニムリーだけの不貞ではない。あの二人は、昔から、独特の絆をもっていた。
あの方はニムリーよりも先に結婚したが、その絆が変わることはなかった。
あの方が亡くなって久しいが、今もまだニムリーはあの方に捉われ続けている。
だから、ニムリーはあの方の血を引くお前から執着心が捨てられない。それが、今の暗い情熱に繋がっているんだと思う。
けれど、失望してはならないよ、クラウス。
お前が受けた傷は確かに大きい。だが、あの方が亡くなったことは、ニムリーにとっては死ぬことよりも、辛かったんだ。
だから、あの方に似ているお前がいることは彼女にとって何より大切だったんだ。その気持ちだけは、確かだ。」
「父上、御存じだったのですか…」
「ああ、ニムリーが自分で言ったんだ。そのときは酷く衝撃を受けたがね。
しかし、それでお前は自分に欠陥があると思っているんだろう?心配することはない。
カリナに子供が生まれたらその子を引き取って育てることもできるだろうし、
何も自分で生みだした者だけが自分の子どもではない。お前と私のようにね。」
チャールズはクラウスの女性恐怖症とその原因を知っているようだった。
今になって自分の父親の偉大さをクラウスは痛感していた。
「すまなかったね、こんなにも足止めをさせて。話ができて良かった。」
「いえ、僕の方こそ。父上がわかってくれていたとは思いもしなかった…」
「そうかい?まだまだ、私は未熟だよ。もう少し一緒にいれたら、よかったんだがな…」
そう言ってチャールズは目をつぶって何かを反芻するように、すうっと息を吸った。
そのまま、静かになったので、改めてクラウスは無言で深く一礼をして部屋を出た。
それが、生前のチャールズとの最期の会話になった。




