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「お父様がお母様に…?そんなことって…」
蚊が泣くようなか細い声でカリナが問う。表情は血の気が引いて青白く、小刻みに震えている。
手を握りしめるギルバートはそれを感じとって、一層力を込めて握り返した。
「普通じゃ確かに想像したくない線だ…カリナにとっては、血のつながった両親が殺人の犯人と被害者だなんて
たまったもんじゃない。
でも、母上はそれぐらい訳もなくやれる人だ。それは、間違いない。」
「…なら、ニムレッド夫人は、そうまでして何をしようとしているんですか?」
茫然自失といった体のカリナに変わってギルバートが尋ねる。クラウスは強い視線でギルバートを眺めてから
口火を切った。
「これも既にカリナなら知っているはずだけれど…母上は王位に並々ならない執着を持っている。
現王家は、ヘレナ女王を筆頭とした一族が支配をしていることに母上は我慢がならないんだ。
女王も母上も先々王の子どもだが、女王は正室出で、母上は筆頭側室出だ。
普通なら女王が王位を継いでいるは正統性に適っているから、文句もいいようがない。
けれど、先々王には姫ばかり生まれた。それが母上がずっとこだわっている点だ。
…結局先々王の子どものうちで生まれた王子は3人で、そのうち一人は死産、もう一人は早世して、
たった一人だけしか生き残れなかった。
それが母上と同母弟だった、先王陛下だった。」
そのことはこの国で生まれ育ってきたギルバートも勿論知っている。けれど、先王がその位に就いた時には既にニムレッドは降嫁していたはずだ。
その時点でニムレッドが王位云々に直接関われる立場にはなかったのに、なぜ、今さらこだわっているのか不思議だった。
そうギルバートが考えているのを見抜いたのか、クラウスは続けて言った。
「母上は先王陛下が即位された時には降嫁して僕を身籠っていた。
王位に直接かかわれる立場ではなかったのは、確かだ。
でも、そのとき母上と同じく直接的には関われない立場に追いやられていた人がもう一人いた。
それが現王陛下だった。」
「女王陛下もそのとき、『和国』に嫁いでいらっしゃったのね…」
「そういうこと。ヘレナ女王も王族間の婚姻だったとはいえ、実質的には降嫁となんら変わらない立場だった。
陛下と母上はどちらも同じような身の上だったんだ。
普通、王族レベルの人間が結婚したら、簡単には離婚できない。
政略で雁字搦めだから、例え二人の間が冷え切っていても許されるものじゃない。
特に王族女性の場合は他の男性と結婚する際には厳しい戒律がある。
どんな相手の子供でも、王族の女性が孕めば否が応でも王位継承権が付与されてしまう。
男性王族の場合は認知するかしまいかだから、政治的意図が介入しやすい。
女性は決まった相手がちゃんと存在するということが自身の地位の安定にも絶対不可欠だ。
だから、母上も陛下も一端降嫁したら先王陛下一家が全滅でもしない限り王位を得る可能性はなかったんだ。
二人の立場はほとんど同じものになっていたんだ。
…けれど、起きないはずだった悲劇が起こってしまった。」
それが、20年ほど前に起こった先王一家暗殺事件である。
隣の大国『和国』の暗殺者が先王を筆頭に王妃や王太子や幼い姫たち、そして王妃がその当時身籠っていた子まで
根絶やしにしてしまう残酷なものだった。
王太子の侍従長一族が暗殺者を手引きしたことが明るみになって、我が国は『和国』と戦争に陥った。
そして事実上空席になった王族の席を埋めるために、次に王位継承順位が高かったヘレナ女王が呼び戻されることになった。
当然、敵国となった『和国』の王と離縁をして。
「ヘレナ女王は戦時下で緊急だったから例外中の例外で離縁ができた。結果、それが停戦のきっかけにもなった。
ただ、それがうちの母上には我慢ならなかったんだ。
今まで敵国の元首の妻に収まってた人間がのうのうと戦争だからと言って離縁して帰ってきて
あまつさえ自分が王位に簡単に収まったのが。
加えて、あのセシリア家の当主を自身の配下に収めたことも許せなかった。
きっとこういうのが積もり積もって母上は王位簒奪を狙うことを考えさせたんだろう…」
セシリア家はこの国では王家よりも古くから脈々と続く公爵家である。
血族結婚を繰り返したツケで一族の数は極端に少ないが、その数少ない一族と婚姻できた貴族家は
当分の安寧が約束されると揶揄されるほど、濃い血の在り処を保証することができる。
言わずもがな、王族と婚姻した場合はより王族の権威が増すことに繋がる。
昨今セシリア家の人間が王族と婚姻を結ぶことはなくなっていたが、つい20年ほど前に、
セシリアの若き当主との間にヘレナ女王は一粒種をもうけた。
女王のもう一人の息子の存在もあって二人は内縁関係を続けているが、セシリアの血を濃くついでいる
第二王子の存在――つまりあのジェイド王子のことなのだが――によって二人の関係は保証されている。
一時『和国』帰りの女王は『和国』の傀儡と囁かれたこともあったが、ジェイド王子の誕生によってそれらは
表立っては一蹴されている。それほど、セシリアの血の権威は強い。
「そして僕の存在だ。母上もきっと僕がいなければこんな大それたこと望みもしなかった。
…父上から本当の血縁上の父親を聞かされて、そう思った。
僕さえいなければ、母上の望みは叶えられない。
母上に追従する反王家派も、存在としての力は強力だが、鍵になる人間がいない。
ジェイド王子に匹敵するような人間、つまり僕ぐらいの血の人間じゃない限り、動けない。
だから、逃げたんだ。
僕さえいなければ、どうにもならない。そう読んで僕はハーヴィーにかくまってもらうことにした。」
言いきったクラウスは手元にあったすっかり冷めきった茶をひとしきり啜った。
思わぬ話を聞かされてカリナとギルバートは今まで蠢いていた問題の大きさに衝撃を受けていた。
「お兄様の血縁上のお父上って…」
「それは言えない。想像がつくのならその人だと思ってもらっていてもいいけれど口に出さないで。
そうじゃないと余計なことに巻き込まれる。
…僕はこれ以上自分の問題でカリナを振り回したくない…」
痛切な訴えだった。カリナは押し黙る。クラウスも悲痛そうな表情になっている。
「カリナは今までにも、十分被害を受けてる。
僕が出奔したせいで爵位を継がなきゃいけなくなったし、大臣職も拝命しなくちゃならなかった。
その上、母上が強引に決めた結婚まで…カリナの人生をもうこれ以上僕は奪いたくない。
カリナがカリナらしくいられなくなるようなことだけは、絶対にしたくないんだ。」
「…お兄様…でも、私はこの職を得たことも、結婚したことも結果的に良かったと思ってる。
そんなに自分を責めないで。気に病み過ぎちゃいけないわ。」
カリナは励ますようにクラウスの目を見つめた。本当に、迷惑には思っていないということを証明するように。
クラウスも認めざるを得なかったので、こくんと頷いた。
すると横からハーヴィーが話に割って入った。
「けれど、カリナさんとギルバートさんの結婚はどういう意味があるのか益々わからない。
二人の母親であるニムレッド夫人は、並々ならない権力志向の人物にもかかわらず、
言っては悪いが格下伯爵家の、それも相続とは関係のない次男を結婚相手に据えるだなんて…
カリナさんなら、王族の方々、例えばジェイド王子と婚約の話が出ていても全く不思議ではないのに
どうしてそんなことが…」
「あたりよ。
ジェイド王子とはお互い生まれた時から殆ど婚約していると言っても過言じゃない関係だったわ。
もうずいぶん昔のことだけれど。」
突然のカリナの告白にギルバートは驚きに目を見張る。それを知ってか、カリナは
「今はみての通り、ジェイド王子とはただの腐れ縁よ。」
と付け加えてから話し始めた。
「二人の王子殿下は色々と微妙な情勢下にあるから、表立って誰と婚約するかは言えなかったけれど、
お二人それぞれに婚約者候補はいるのよ。多分、今もお二人ともそういう御方がいらっしゃるわ。
ジェイド王子の場合それは私だった、というだけ。
お互い生まれた年も近かったし、家格のつり合いも丁度良かったわ。
でも、その話が全部消えちゃったのは…この足のせいね。」
そういってカリナはギルバートに対して不自由な左足を示した。横には杖がある。
約10年前、カリナは馬車の横転に巻き込まれて瀕死の重傷を負い、今もなおその後遺症に悩まされている。
「婚約者の女に求められるのは、丈夫な赤ちゃんを産める身体よ。あとは器量とか教養とかがくっついてくるけど。
私は中でも一番重要な健康体を失ったの。それで私の婚約は取り消されたの。」
「でも、今は足が不自由な以外は全然…!」
「怪我をした当初は本当に危なかったの。だからその時点で私は見放されたのよ。
その上怪我が治癒したあとも、療養のために5年もドがつく田舎に引っ込んだわ。
…その間に私と同年代の貴族のお嬢様たちは、次々と社交界に出て行ってたの。
貴族の女の子の価値はね、10代のほんの短い時期に基礎が全て出来上がるの。
私はその時期の大部分をふいにしてしまったから、
お母様からすれば、これくらいの婚姻が私には丁度いいと思ったのかもしれないわ。」
ギルバートはようやく、一度だけ会ったニムレッドがカリナに対して口にした『王族とも縁を持てぬ子』
という侮蔑のこもった言葉は、そういう意味だったのかと初めて知る。
それらのことはクラウス出奔前にあったことだったから当然知っているものだとギルバートは思っていたが
クラウスはなぜか眉間のしわを寄せるように考え込んでいた。
「それにしたって、カリナ、君は女子とはいえども爵位の継承者だ。
普通の、どこかへ嫁ぎ先が必要な貴族の婦女子とはまったく立場が違う。
…どう考えても母上はカリナに何らかの意図を持ってギルバート君をあてがってるはずだ。」
「でもねお兄様、二ーゼットに行った時にそこの若様に私なんて言われたと思う?
『ニムレッド様からあなたを手に入れてもいいという御許しをいただいてる』、って言ったのよ!
ギルバートとの結婚を自分で決めておいてそんなことを言うのよ!?
お母様はなんにも私のことを考えちゃいないわ…わかるでしょう?」
「それでも、母上はカリナにギルバート君と別れろと指示したことはないんだろう?
他の男とくっつくにしても、母上はギルバート君と別れさせることまではさせる気はない。
確かに重婚は禁止されているけれど、結婚証明書は結婚式を挙げた教会と出生証明書がある教会にしかない。
カリナはハイライドの教会にどちらも証明書を置いているだろう?
そこからわざわざ証明を取り寄せない限り、カリナとギルバート君の婚姻は周囲に明らかにならない。
ギルバート君との結婚を隠して、他の男との関係を作るのは十分に可能だ。
多分、そういうことを母上は言ったんだろうと思う。ただ、伝えてなかったから二ーゼットのその若は
結婚してもいいものと早合点しただけなんじゃないか?」
「…ということは、ギルバートと結婚したことには十分政治的な意味がある、っていうこと?」
「そういうことになると思う。特に、君たちの『子ども』が母上が望んでいるものだと思う。
他の男がカリナに近づいて行くのを放任していたのは、ギルバート君との結婚が継続している前提があるからだろう。
…他の男の子どもを身籠りながらうちの父上と結婚した母上らしいことだよ。」
クラウスは皮肉気に唇を歪めた。なんとも、カリナの凄絶な笑みに似ている。
それに加えて、ギルバートはついこのあいだみた、クラウスの肖像画にそっくりな表情だと思った。
「話は変わるが、ギルバート君、君の御家族で王族と縁故のある方とかがいらっしゃったりするのか?」
「いえ…亡くなった父方の祖母が名家の出身だったぐらいがせいぜいで…
その祖母も、直接的に王家の血を引いてる人ではなかったし。
その上俺の母は元娼婦です。きっと、ニムレッド夫人が一番嫌う人間だと思います。」
「そうか…」
やはりカリナとギルバートの結婚を推し進めたニムレッドの意図はクラウスにも思い当たらないようだった。
「こんな時間まで引きとめてしまって悪かったね。それとギルバート君、襲って申し訳なかった。」
クラウスは腰を深く折って帰り支度を整えたギルバートとカリナに向けて謝った。
ギルバートはぎょっとして手を振ってその場を収めようとした。
「いや、気を悪くしないでください。たまたま、俺が尋ねて行ったのが悪かったんです。
クラウスさんは狙われている身の上なんですから、俺みたいなやつを警戒するのは当たり前でしょう。」
「それでも、ハーヴィーと共謀して暴力行為に及んだことには間違いないんだ。
本当に、本当に申し訳なかった。」
夜もどっぷり更けてカリナが従者に指示した2時間にもう少しで達しそうになっていたので、
ギルバートと共々クラウスの部屋を出ることにした。
戸口まで見送ってくれるクラウスが平謝りしている。
ギルバートから、ただ友人が勧めてくれて店には行っただけだと聞いて心底申し訳なさそうだった。
「それより、首都に留まっていてクラウスさんのほうこそ大丈夫ですか?狙われたりしないんですか…?」
「今のところ、敵のほうは僕みたいな根っからの貴族育ちの人間が花街で店を開いてるなんて発想
全くないらしいね。女装もしてるから余計そうなんだろう。
田舎に逃げたら逆に僕は目立つし、首都を隠れ蓑にするのは敵を欺くには案外有効だよ。」
しかし、カリナには不安のほうが勝るらしい。すっぽりフードをかぶりなおした今、不安な視線を投げかけた。
「それでも、お兄様、大丈夫なの…?」
「ハーヴィーがいるから、いざとなったときは、頼るよ。な?」
そういってクラウスはすぐ後ろに控えていた男爵に視線を向ける。
男爵は変わらず椅子に座ったままだったが、無言で手をあげてそれに応えた。
「それより…二人とも、僕のことは他言無用でお願いできるか…?」
「もちろんよ。ね、ギルバート?」
「はい。…今日のこと自体、全部墓場まで持っていく覚悟です。」
「そこまでしてくれなくても大丈夫だよ。」
クラウスはそういって和ませる。それでもギルバートの発言が心強かったようだ。嬉しそうな表情をしている。
しかし急に表情を引き締めて強い口調で言った。
「さあ、二人とも、遅いからもう帰った方がいい。…ギルバート君、カリナを頼むよ?」
「…はい。命に代えてでも。」
ギルバートはカリナの肩を抱いて決意した。
「ギルバート君は、白だね…完璧にカリナと同じ、巻き込まれた側の人間だ。不幸なことに…
母上はどこまで人を自分の望みに巻き込めば気が済むんだろう…」
「自分から望んで巻き込まれた人間も、中に入るんじゃないか?」
「…ハーヴィー、それ、自分のことだろ?」
二人を帰した今、クラウスは机の上のカップやらを片づけていた。男爵は、部屋の奥にあるベッドに腰をかけて
その様子を眺めている。
物に乏しいクラウスの部屋は今にでも夜逃げができそうなぐらい質素である。
クラウスはいつも覚悟していた。自分はいつ何時も狙われていて、在り処がバレるのも時間の問題だと。
「ギルバート君をあそこに仕向けた人間がいるはずだ…あの店は殆ど知られてない。
看板も出してないし、宣伝もしていない。
たまに酔客がやってくる程度の店だ。…それを、ギルバート君が軍の人間から聞くのは、信じられない。」
「君は人のにおいをかぎわけるのが得意だからな、軍の人間がきたら一発でわかるんだろう?」
「ああ…彼らは鋭い。いつも緊張感を見に纏っている。
下っ端はそんなこともないだろうけれど…ギルバート君と日常会話ができる人間なら同じ将校クラスだろ?
将校で、いつ何どき権力闘争に巻き込まれるかわからない立場のやつが、あの店にふらっと立ち寄って
…ギルバート君ですら、一瞬でわかったんだ。
他にそんなやつがうちの店に来た覚えは僕にはない。よっぽど上手く隠し通してたんだとしても、
そうまでしてうちの店を調べに来る理由は…僕を探しているに他ならない。」
「ということは、…ここもバレてるだろうな。」
「恐らくね。カリナはここに来るまでにきっと尾行されてただろう…今も偵察で表から伺ってるだろうし。
さて、ハーヴィー…次に僕はどこへ行こうか?」
クラウスはとぼとぼとベッドに座っている男爵の目の前にまで歩み寄った。
いつもは身長差からクラウスは見下ろされる側だが、このときは自身が見下ろす立場になっていた。
男爵は特に言葉を発することなく、手を伸ばす。クラウスの腕に手をかけて引き寄せる。
クラウスは従順に逆らうことなく男爵の成すがままに身を任せていると、彼の膝の上にまたがる形になった。
至近距離から男爵を覗きこむ。クラウスはいつ見ても、自身の底なしで冷たい紺碧色より、
彼の柔らかい茶色の瞳が好きだった。
「…一緒に暮らそう。そうしたら、俺は無用に君を心配する必要もなくなる。」
「ハーヴィー…それが嫌だから僕はあんたの庇護下から出たんだ。それは、無理だよ。」
ぽろぽろと男爵の頬に滴が落ちてくる。クラウスは泣いていた。
彼の涙は実妹のカリナですら殆どみたことが無かった。それが、男爵の前でだけは素直に感情を吐露できた。
「どうして泣くんだ…妹さんが来たのが堪えたのか?」
「それも、ある…正直、僕はどうすればいいかわからない。もう誰にも迷惑をかけたくない。
ハーヴィー、あんたにだってもうこれ以上甘えてたくない…迷惑はかけられない。
なら、僕は、消えるしかないのか…?」
悲壮な一言がクラウスの口からぽろりと零れた瞬間、男爵はきつくクラウスを抱きしめた。
関節がぎゅうぎゅうと音を立てそうなほどに力を込める。
クラウスは痛いと非難することもせず、ただ、さめざめと泣いていた。




