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「カリナ姫…!」
「ギルバート…!?」
確かに家の中から聞こえてきた。カリナは、入口を塞ぐように立っている二人を無理やり押し退けて家の中に入る。
二人掛けのソファと机、小さなダイニングテーブルに暖炉、クローゼットが一竿にベッドが奥の方に置いてあるだけの質素な部屋だった。
「ギルバート、どこ!?どこなの!?」
狭い家の中心にいながら、それでも姿は見えない。声を張り上げて名前を呼ぶ。すると
「カリナ姫、下です、下!あなたの足元を覗いてください…!」
と、下の方から声がしたので、杖を床に一旦置いてカリナはしゃがんだ。ギルバートは、ベッドと床の間に挟まるようにして転がっていた。
「ギルバート!!!」
カリナは急いでギルバートの身体を引き寄せる。コロコロと転がってでてきたギルバートは、身体が拘束されてはいるものの、
顔色はそれほど悪くなく、目立った外傷も見当たらなかった。カリナはほっと安堵した。
束の間の安堵のあと、カリナは手と足とを堅く縛る縄をほどこうとしたが、なかなか言うことを聞かない。
「ギルバート…どうしよう、ほどけない…!」
「俺の服の内側にナイフがありますから、それで切ってください。」
言われた通り、カリナはギルバートの服に手を差し入れる。内ポケットの中に、小ぶりの護身用ナイフが入っていた。
鞘を外して、まずは足の縄の結び目に押し当てる。ギチギチと辛抱強く動かすと、ハラリとほどけた。
次に、ギルバートは上体を起こしてカリナに両手首を差し出した。カリナは、すぐさまナイフを押し当てて、それもほどいた。
ようやく両手足が自由になったギルバートは、何も言葉を発することなく、カリナの腕を引っ張った。
『抱きしめてくれるのかしら…?』
甘い期待にカリナは胸を疼かせるが、それは幻想だということがすぐに判明する。
ギルバートはカリナを背後に押しやって、ずっと二人の様子を観察するだけで一切手も口も出してこなかった二人をギロリとねめつけた。
「…あなた方二人は一体何者ですか…?そちらの男性はプレストンソン男爵、だそうですが、
何の縁があって俺を、眠り薬を飲ませてまで拘束なんてしたんですか」
薬を飲ませて、のくだりで、背後のカリナが息を呑んだのがわかる。カリナは、ギルバートが薬を盛られていたと初めて知ったのだ。
ギルバートは今さらながらカリナをこんな危ないところに来させるような自分の不謹慎な行動を、心から深く後悔していた。
しかし、ギルバートの質問にプレストンソン男爵は答えず、代わりに、ずいとクリスが前に出てきた。
そして、中腰で身を寄せ合う二人を見下ろして告げた。
「そこのお嬢さん…どうか、フードをとってくださらない?」
「…なんでそんなことが必要なんだ…?」
「あなたには聞いてないわ。ねえ、お嬢さん、早くして。そうじゃないと、わたしたち、あなたたち二人に何するか、わからないわよ。」
ギルバートはその言葉にぎくりとした。実際二人に何をされるか、到底見当がつかなかったのもあるが、
ギルバート側は二人とも丸腰に近い。唯一武器になるものといえば、ギルバートとカリナも持っているはずの護身用ナイフと、
彼自身の肉体ぐらいだった。
プレストンソン男爵は、ギルバートよりも身長が高い。現役武官と貴族がやり合った場合どう考えても武官のほうが強いに決まっているが、
それでも万が一の場合、体格差で負けることも想定できる。
ギルバートは形勢不利な状態に心の中で舌打ちしながら、カリナに頼むしかなかった。
「姫…申し訳ありませんが、フードをとってくれませんか?」
「わ、わかったわ…」
おずおずと、カリナはフードをとって、ギルバートの手を握りながら前に顔を出した。
はらりと、フードの中で覆い隠されていた純金の髪が、風に舞うように零れ落ちた。
ギルバートはそのとき、注意深く、その瞬間のクリスを見ていた。
クリスは目を細めて、今までの態度をぐっと軟化させた、非常に柔らかな口調で言った。
「…ほんとうに、本物の、カリナだ…」
「どういう意味?」
カリナが眉をひそめてクリスに疑問を投げかける。こんな女性と出会ったことなど一度もない。
クリスはそれにこたえることなく、傍らにあった水差しから少量の水を布に含ませて、それで顔をごしごしと拭いてから
髪の毛に手をやった。
ずるり、と濃い茶の長髪がとれる。いきなりの思いがけない行動にギルバートとカリナは面を食らった。
そして、その濃い色合いの鬘がとれてから現れた短めの地毛は、カリナと同じ、不純物のない、金の髪色だった。
カリナは、化粧がとれて、昔の記憶と遜色ない容貌を見て、息をのんだ。
「う…そ…お兄様…?」
「ちょっとくらい変装してても、兄妹だからカリナにはすぐに見破られると思ったのに、どうしてわからなかった?」
「だって…あのお兄様が変装は変装でも、女装してるだなんて思いもよらないじゃない…!」
「まあ確かにそうかも。」
5年ぶりとなる再会を果たした二人は、感動で涙を流してしばらくの間無言で抱き合っていた。
そしてようやく落ち着いたところでクリスが
『お茶を出すから二人とも、こちらの話を聞いていってくれないか?』
と完全な男言葉で言った。どうしてこんなことになったのか聞いておかねばならなかったので二人はにべもなく賛同した。
ちょっと着替えさせてくれ、というクリス―否クラウスの要望で、しばらく待っていると、奥でカーテンカーテンを引いて
しばらくして再びそれが引かれた時、完全に男の姿に変わったクラウスが出てきた。
巷で第二王子と肩を並べる美男子と言われていたクラウスの容貌が全くそのとおりだった。
王子と同じく、母親の美貌を譲り受けているが、クラウスとカリナの母であるニムレッドのキツい表情とは
打って変って、優しげな雰囲気がよく出ている。
ただ、以前カリナに見せられた、鋭い一瞥を見た者に与える似顔絵はやはり忠実なものだった。
おそらく、この優しげな雰囲気とは真逆の感情を帯びた時、一層凄絶な美しさがその顔を覆うことは容易に想像できる。
他に、女装の時にも思ったが、ほっそりとした体格で武骨さが感じられない。
ただ、女性の身体特有のまろみがあるわけではないので、店の照明が暗く、営業時間も陽が落ちたころだったのは、
そういった男の特徴を視覚的に隠す目的があったことを感じさせられた。
ダイニングテーブルにプレストンソン男爵を含めて4人で座り、
クラウスの手ずから煎れられたお茶を飲み、人心地ついてからカリナがはじめに切りだした。
「まず、最初に聞くけれど…どうしてお兄様がこんなところにいるの?5年もずっと行方をくらまして消えてたくせに…!
私ずっとずっと探してたのよ!?」
「知ってるよ。カリナが家を出た僕の代わりに爵位を継いで、この首都にやってきて、貴族連中と渡り合いながら
ずっと探してくれていることは。ハーヴィーにも接触したんだってね。よくやるなって、思ったよ。」
「ハーヴィー?…ってプレストンソン男爵のこと?」
ちらっとプレストンソン男爵をみやる。男爵は、無言で頷いた。
クラウスは男爵のほうを見ながら言った。
「彼はこの5年間、行方をくらます手助けをずっとしてくれていたんだ。
カリナが的を絞って近づいてきた時は本当にびっくりしたよ。5年間誰にも尻尾をつかませなかったのに、
長い間田舎暮らしをしていた自分の妹に見つけられてしまうだなんて、全く思わなかったもんだから。」
ギルバートはそれを聞いておもむろに口をはさんだ。
「…じゃあ、さっき言ってた、2年間やってた愛人関係って、プレストンソン男爵相手じゃないってことですか?」
「いいところ突いてくるね、君。」
「正直、今もあなたみたいな人が誰かの愛人になってただなんて信じられないんです…
カリナ姫の兄上なら、なおさら。」
「でも、自分の餓えた体を満たすために、誰かの慰みになるのも生きる知恵の一つだ。」
そう、クラウスは口にした。カリナはそこまでやっていたのかと、衝撃で大きな目を見開いて面を食らっている。
「お兄様が愛人を…?嘘…?!」
「嘘じゃない。出奔したときに持ち出せたものはほんの僅かだった。
金目のものも換金のために持ち出したけど、あんまり高額すぎたり、稀少価値の高いものだとそこから足がつく恐れもあったから
大して稼げなかった。
だから、僕は身一つで誰かの庇護に入らなくちゃいけなかった。」
「…君は、あのとき、ずっと自分のことを愛人だと思ってたのか?」
初めてプレストンソン男爵が口をひらいた。カリナとギルバートは何が起こるのかとお互い顔を見合わせた。
そんな二人を見やりつつ、クラウスは苦笑いした。
「だってそうじゃないのか?僕はあんたの別宅に2年間匿われていた。生活する道具も、費用も何もかも援助を受けてた。
…夜のお供もしただろう?
ただ、普通の女の愛人と違うのは、正妻の座を狙うこともなかったし、
外に出て愛人の地位を誇示するように連れ出してもらうこともなかったし身を着飾るものも一切いらなかった。
劣等生だったかもしれないけれど、世間の常識では、これを愛人っていうんだよ。」
「…でも、それは…」
「ハーヴィー、あんたが否定してくれるのは嬉しいよ。思ってくれてるのはわかる。
でも、あれは健全な付き合いじゃなかった。ま、今もそうだけどさ。
僕にとってはこれくらい汚点でもなんでもないよ。あんまり気にしないで。」
クラウスは男爵の目をしっかりと見て言いきった。まだ男爵も何か言いたそうだったが、これ以上は無駄だと悟ったのか口をつぐんだ。
カリナとギルバートはこっそりと
『…ど、どうしようかしら、私たちもしかしてお邪魔?』
『お、俺もそんな気がします…』
と小声で言い合っていたがクラウスが話に決着をつけてそんな二人を見据えてきたので中断せざるを得なかった。
「…で、僕らのことはいいとして。
そこの彼が、僕らを貶める側の人間じゃないのは、カリナの態度から見てわかったけれど、
君たち二人の、その関係はなんなんだ?カリナ、まさかとは思うけど、その男性と…愛人関係なのか?」
変なお鉢が回ってきた!!!と二人は顔を見合わせた。カリナはあわてて弁明した。
「え、いや…そうじゃないわよ!愛人じゃなくて…あの…その…」
「彼、見た感じは貴族っぽいとは思うけど、身体の鍛え方とか、手のタコからして、武官、だろ?
ただ、カリナの相手として釣り合うぐらいの身分っていったら幹部クラスの武官だろうけれど、
でもそういう人間が供もつけずに夜中を出歩くのはおかしいし、
第一幹部クラスなんて金持ちだからうちの店に来るぐらいなら花街に行って色を買うはずだ。
万一そういう役目の人間がカリナの内偵役を買って出てたとしても、幹部だったら自分で動きはしない。
たぶん…君は貴族は貴族でも跡目相続から外れて軍に入隊した中堅幹部候補クラス、ってとこだろう?
そんな人と母上が交際を許すわけがないし、それゆえに公然とした恋人づきあいはおそらくない。
…つまり、あるとすればカリナの内偵であり愛人、ってとこか?」
なんて推理力、と二人は舌を巻いたが、あくまで誤解は誤解である。
ギルバートは意を決して言った。
「俺は、ギルバート・フェルディゴールといいます。
俺達二人は…結婚してます。愛人じゃありません、正真正銘の夫婦です。」
「ふ、夫婦!?嘘だろ!?」
クラウスは美しい容貌に似合わず、唾を飛ばすぐらいの勢いで言い放った。プレストンソン男爵も驚きで目を瞠っている。
「私が爵位を継ぐ時に、政略結婚したの。…お母様と、彼のご家族とで私たち二人ともが知らないうちに
しかもものすごく短期間のあいだに話がまとまっていたわ…
彼の御実家は伯爵家だから、家格の釣り合いがどうのってことはないだろうけど、
確かに彼自身は跡目から外れた次男だし、爵位のほうも先代に下賜されたばかりで…
正直言って、どうしてこんな結婚が可能になったのか、私たちもわからない。」
「しかし、侯爵閣下、あなたが結婚しているどころか、決まったお相手がいることすら、
一度も、噂たりとも聞いたことがありません。
しかも相手が私と同じ成金上がりのフェルディゴールだなんて…ますます信じられない。」
プレストンソン男爵が固まってしまったクラウスに代わって聞いてくる。
「侯爵閣下だなんて、こんな私的なところで敬称つけなくてもいいわ。カリナと呼んでくださって結構よ。」
「あ…えと、はい。」
「それは…彼、ギルバートが、これだけ格差がある結婚で、もし公表したら、
武官としてやっていけないかもしれない、っていうから、隠したのよ。誰にもわからないように。」
「あとは、自分たちの意に沿わない結婚だから、二人とも身動きがとりやすいように、隠したほうがいいのかと思って
俺が提案しました。」
「それはつまり、婚姻はあっても、二人が違う人間を相手にしてもいいように、という意味で?」
「そうよ。」
カリナとギルバートは、ずいぶん前に取り決めた二人の間の約束を初めて他人に告げたが、
どことなく舌の上にいつまでも残るような苦味が伴っていた。
そのとき、それまで沈黙を守っていたクラウスがにやにやと人の悪い笑みを浮かべながら二人を見据えた。
「でも、仮面夫婦とかいいつつ、君たち二人は5年も保ってるんだろう?普通そろそろお互いに破綻してもいい頃合じゃないか。
それにさっきのカリナがギルバート君を助けに来た時に剣幕といったら、到底お互い別の相手がいるとは思えないんだけどなあ。」
「そ、それは…私たちまだ、こ、子どもがいないから、離婚しようにもできないもの、ね?ギルバート。」
「あ、は、はい、子どもができることが絶対条件の契約結婚ですもん、ね。」
カリナとギルバートは二人どぎまぎしながら、確認し合う。
しかし、ここでカリナは自分たちのことを話しに来ではないし、このままこの話が続くのは避けたくて話を変えた。
「そ、そうだわ、お兄様、私のことなんてどうでもいいんです。
聞かせてください…どうして5年前、出奔なんてしたんですか?」
「それなら、色々調べ上げているカリナならわかるだろ?
反王家派で僕を担ぎあげようとした連中がいたから、逃げたんだ。このままいったら、望んでもいないのに
僕がこの国の崩壊の中心になってしまいかねなかったんだ。」
「でも、お兄様一人が逃げる必要あったのですか?私が残っても…あのお母様の娘という点では…」
「それももう知ってるはずだろう?カリナ、僕は君とは父親が違う。
反王家派の連中が重要視したのは、母上の血以上に、僕に流れているもうひとつの血だった。
カリナにはその血が流れていない。だから、連中は僕一人に的を絞ったんだ。」
「お兄様、あなたの血液上のお父様って、一体…」
カリナがそれを口にしたとたん、クラウスは酷く苦しげな表情になった。それこそ針千本飲み込んだような。
「言えない。もちろん、ハーヴィーにもこのことは言ってないよ
少なくとも…時期が来るまで言えない。できれば、誰にも言うことなく、墓場まで持っていきたいぐらいだ。」
これ以上は聞けない。一気にそんな雰囲気になってしまった。重い沈黙が一同に駆け巡る。
しかし、ギルバートが口火を切った。
「…今、話を聞いていて思ったんですが…クラウスさんが出奔されたのは20歳前後でしたよね?」
「ああ、そうだけど。」
「なぜそのときになるまで、逃げようとは思わなかったんですか?
わざわざ、自分が爵位を継ぐ直前に逃げるだなんて…要らない噂まで飛び交う危険性ぐらい、
あなたならわかっていたはずです。なのに、敢えてその時期を選んだのは、何故なんですか?」
「さっきから、ギルバート君は鋭いね。カリナ、いいお婿さんをもらったな。」
そう、軽口を叩いてから、クラウスはすぐに真剣な表情になった。
「爵位を継ぐ直前に逃げた、か。確かに周囲の人間にはそう見えただろうな。
でも、僕はそういう認識じゃなかった。父上が亡くなったから、逃げたんだ。」
「どうして…?」
「父上は知ってたんだよ。僕の父親が誰かということを。
それと僕を担ぎあげようとしている連中がいること、母上が企んでいることも、何もかも病床で話してくれた。
信じ難かったけれど、はっきりと、何かが起きていることがそのときに一つわかった。
僕は恐怖を感じたよ…これ以上ここにいたら危険だ、と。」
「それって…何…?」
「父上は若かった。44歳だ。それまで病気と言う病気もしてなかったのに、呆気なく亡くなった。
当時田舎に引っ込んでたカリナは直接見てないだろうから、何か突発的な病気にでもなったんだろうなと思ってただろう。
違ったんだよ。
父上は、日ごとにみるみる体調を悪くしていったんだ。忙しそうにしていたから最初は過労かと思っていた。けれど、一向に回復しない。
さすがに僕もこのままだと危ないと思って、父上を本宅から別荘に行くよう促したんだ。療養のために。
そしたら、少し体調はマシになった。」
「それって、普通のことよね…?」
「確かにね。でも、本宅に戻ったらまた悪化したんだよ…もうその頃は殆ど僕が仕事を引き継いで
父上は日がなベッドにいたのに。僕は薄々感じてたよ。…誰かが父上に薬を盛ってるって。」
「嘘…!」
カリナは思わず叫んだ。急に不安を覚えてすぐ横のギルバートの手を探って握りしめる。ギルバートも心得たように握り返してくれた。
「嘘だと思いたかったけどね。僕もそう思ってた。
父上にはちゃんと毒味係がいるし、父上が体調を崩した後も、毒味係には特に異常がなかった。
毒味のあとに父上のもとに食事が運ばれるあいだに、何かを混入する機会もなかった。
…僕は見落としていた。毒味のあとに、父上の食事に毒を混ぜられる人間がいたことを。」
「それって…」
「ああ、我らが母上、ニムレッド=クレンシア・ハイライドだ。父上の普段から食事時に同席できる人間なんて…彼女一人しかいない。
父上は、母上に殺されたんだ。」




