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クリスが住んでいるのは、店とは正反対の、首都の丁度中心部にある記念広場を通り抜けて更に3区画先の
長屋、とのことだった。
ギルバートは日が暮れて、夜の活況に酔いしれる人々の波を掻きわけるようにしてクリスの先導役を務めていた。
「大丈夫ですか、クリスさん。ついてこられますか?」
「ええ、お陰さまで。あなたこそ、大丈夫?」
「鍛えてますから、心配には及びません。」
夜の商いが本格化していく花街方向に大量の男性客が向かっている。
その波に逆らって家路につこうとしている人間は、この流れの中ではごく少数派だ。
おされたり時には踏まれたりというすったもんだがある中、なんとか二人は首都の中心にある記念広場に出た。
「や、やっと出られましたね。」
「ほんと、あそこの通りはこの時間帯人通りが多くて・・・特に今日は週末だから、仕事終わりにガーッと人が行っちゃうみたい。」
しかし通りを抜けた先の広場の人波は一定していなかった。
近場に酒場や食べ物屋に問屋がひしめきあっているせいで、いたるところに渦が生まれているような状態だ。
ここはここで、行く手が阻まれている。
ギルバートはげんなりした。
「・・・ここもすごそうですね。いつもこんなところを一人で通って帰ってるんですか?」
横にいるクリスに問う。クリスは少し眉を曲げて仕方なさそうに言った。
「そうよ。最初はものすごく戸惑ったわ。今まで生きてきてこんなところ、歩いたことが無かったし、
愛人時代は、愛人の足を使わせてもらってたから夜にこういうところを歩かなくてもよかったから
初めてだったの。
今では慣れたけど、それでも、一人で歩くのはちょっと怖いわね。」
そういってちらっと後ろを振り返った。
――そう、ギルバートがなぜクリスを自宅まで送っているかというと、それはクリス自身に護衛を頼まれたからだった。
何に対する護衛かと言うと、クリスのストーカーに対するものだった。
ギルバートがクリスの店にいるときからじっと、カウンターを挟んで話をする二人を見るだけのために
閉店する間際まで粘り続けているという、典型的粘着系ストーカーである。
そのときは容姿が判然としなかったため、ギルバートはさぞや欲にくらんだ醜い男だろうと想像していた。
しかし、支払いの時に一瞬間だけ目に見えて現れたストーカーは、全く想像もしなかった容姿だった。
花街のほど近くに構えて、内装は限りなく暗く、場末の酒場の方がまだ雰囲気はマシともいえるような
クリスの店の中にあって、その男は清潔感にあふれていた。
鼠色の冴えない色合いをしたサマーコートを羽織ってはいたものの、身なりはこざっぱりとしていて、
いっそ清々しい好青年に映った。
背もギルバートより幾分か高く、ちらりと覗いた表情は柔和で優しげだったので、
ストーカーという単語から対極に位置するような人種に見えた。
おかげで、なぜこいつがストーカー?とギルバートは思った。そしてどうしてクリスはこいつをストーカー認定しているのか、さっぱりわからない。
種々の懐疑を持ちながらも、一度頼まれたことを無碍にすることはギルバートにはできなかったし、
何よりクリスの今までの身の上がてんで想像もつかないものだということも興味を抱かされたので
浮気と言われればそれまでだが、彼女とお近づきになる一環として彼女の護衛を請け負ったのだった。
そして、店を出て暫くするまで、ストーカーという話は殆ど信じていなかったのだが。
「・・・ついてきてますね、彼。」
「でしょう?私の言ったこと、嘘じゃないってわかった?」
「わかりました、重々。」
ギルバートは頷きながらちらっと振り向く。
視線を一瞬だけ結んだ先にいたのは、人込みの中をするすると影のように移動しながらも、
清潔すぎて周りから確実に浮いている様相の例のストーカーがこちらの後をつけている様子がありありとわかった。
ギルバートは今の部署に移ってくる前は情報部に所属していたので、諜報活動には手だれている。
こちらをつけてくる動きは、ギルバートの目からすると素人同然だ。
振り向かなくてもこちらを窺うものがいることぐらいはわかるものだ。
すると突如クリスがキャッと声を上げてふらついた。
どうやら、どんちゃん騒ぎをしている酔客につきとばされたようだ。
「大丈夫ですか!?」
そういって慌てて支えるためにクリスの肩を抱く。手に伝わってきた感触は思ったよりも骨ばっていて細かった。
カリナに対してしたことがないことを別の女性にやってしまった、と図らずともギルバートが考えていると
クリスが
「あ、ありがとう。」
といって、ギルバートの片腕にしだれかかるようにして抱きついてきた。
ほっそりとした腕が、ギルバートの腕に絡む。こんなに女性と密着したのはものすごく久しぶりだ。
いや・・・
『そういえば、姫とこのあいだ密着したと言えばしたような・・・』
それは例の公爵家爆破事件が起こった時に、カリナと手と手を取り合うようにして逃れたときに、確かに密着はした。
とはいっても、満身創痍のギルバートをカリナが不自由な足にもめげず渾身で支えてくれただけであって
こんな美味しいシチュエーションとはかけ離れていたが。
そしてそのあと、長い眠りから目を覚ます直前までカリナは堅く手を握ってくれていたらしいが、
看病では直接触れてくれることは殆どなかった。
というわけで、結婚以来女っ気がどんどん乏しくなっていたギルバートにとってこれは殆ど願ってもない好機である。
のはず、なのだが。
『なんとも、思わない・・・』
愕然とするほど、なんとも思えないのだ。
花街出身の母親の影響で、入り浸る癖がついてからそんな場所で女をとっかえひっかえし、
軍に入隊してからも、暇を見つければとっかえひっかえ。上官からも目をつけられるほど女癖がひどかった。
なのに、結婚してからぱたりとそれは止んだ。
カリナのバックが強力すぎるのが、おそらく自分のだらしなさを引きしめになっている。
けれど、それだけじゃないこともどこかでうすうす勘付いている。ただ、それを言葉にする段にまではまだできていないけれど。
そんなことを胸に抱きつつ、二人は寄り添うようにして、広場の人込みを抜けていった。
――丁度その時、二人のすぐそばを一台の馬車が通り過ぎて行ったことをまだこのときギルバートは知る由もない。
人込みのはけた薄暗がりの路地裏を二人は歩いていた。何故かクリスはギルバートにくっついたまま、離れようとしない。
今の時間帯は広場方面に向かって人が雪崩れ込んでいるらしく、家がひしめき合うこちら側には目立って人はいない。
とはいっても・・・
「やっぱりついてきますね・・・あのストーカー」
「うちの家も知ってるんだから仕方ないもの。家の中に入れば鍵があるし、
他の住人の目もあるから勝ったもんだけど、そこまでがやっぱり、ね。」
そういって口をつぐんだ。今まで、家路につく途中で何かがあったらしいことがうかがえる。
ギルバートは余計なことを言って思い出させないように、黙ることにした。
それから二人は広場からこっち、舗装が途切れた細い道を歩く。
薄雲のベールの向うからちらりと覗く、膨らみかかったぼんやりとした月の明かりが頭上にある。
進むごとに暗がりが広がっていくような路地の、おそらく最後の一角と思われるところを曲った時、
急にクリスが歩をとめた。不審に思って、
「どうしたんですか?何か気になることでもありましたか?」
ギルバートは尋ねた。すると、クリスは、今まで寄り添っていたギルバートの腕から離れて、
細面をきゅっと引き締めて、真面目な表情で告げた。
「気になること、といえば、気になること、だけど。」
「・・・どうしたんですか?」
そういうや否や、パッとギルバートの目の前に手の平がかざされた。視界が急に黒くなる。
「あなた、何の目的で私を見つけたの?」
「・・・え?」
唐突な質問だ。あまりにも意味が分からないのでギルバートは何も返せない。それを知ってか知らずか、クリスは続けた。
「知っているんでしょう、私のこと。そうでなかったら、あんなところに、あなたみたいな
貴族の息がかかった人間がくるわけがない。」
語調は厳しかった。まるで、尋問しているような声音だ。ギルバートは本当に訳が分からなかったので言い返そうとした。
けれど、それは喉から出ることが無かった。
「あっ・・・・はっ・・・」
「苦しいでしょう?今効いてきたのね・・・いいや、まどろっこしいからこの口調はもうやめよう。
何の目的できたのか、はっきりした答えを言うまで、あなたを拘束させてもらう。
いいな?」
有無を言わせない鋭い命令だった。そして、身体の言うことが徐々に効かなくなってきた今、有無どころか言葉ひとつも言えない。
身体の一つ一つに本来の重みが圧し掛かってがくりと膝を突く。下の地面が舗装されていないことに感謝した。
ずぶずぶと身体のコントロールを失うギルバートだったが、何故か最後まで意識と聴覚だけははっきりしていた。
目の前で崩れ倒れるギルバートを前にして、クリスは侮蔑するような視線で声を投げかけていた。
「死にはしない・・・でも、あなたがこれから喋ることによってはそれ相応の対応をさせてもらう。
せっかく居場所を見つけてきたが、そうそう上手くはいかないさ・・・」
なぜ、クリスが男言葉を発しているのか。
どうして自分がまるで水中で溺れもがく様に喘いでいるのか。全く何も読めない。
ただひとつだけわかることがある。
――嵌められた。
「お願い、降ろして!」
「だめです、御館様。こんな夜更けに一人で行動なんてなさったらどんなことになるか!!!」
「私が主人なんだから、命令聞きなさいよ!」
「・・・うぐっ・・・」
さっきからカリナはそんな問答を繰り返していた。
メディフィス夫人とのオペラ観劇を終えて、家へ帰る道すがら、カリナは決定的な場面を目撃してしまった。それは、
夫の浮気現場だった。
プロポーション抜群の女性をすぐ傍に歩かせていた。それも、親密な雰囲気で。
カリナたちを乗せた馬車はすぐその場から離れたが、カリナは気になってしょうがなかった。
しかし、メディフィス夫人をフェルディゴールの屋敷に送り届けた時に
『わたくしの経験則から言わせていただくけれど、浮気現場で修羅場を展開しちゃうとなかなか大変なことになるわよ。
カリナ嬢、ギルバートをあんな目の前でみすみす取り逃すのが悔しいのはよくわかるわ。
でもこういうのはちゃんと、話し合いの場を設けてやらないと、ダメよ。
間を持ってからじゃないと人間冷静になれないもの。ね、だから追いかけちゃダメよ?』
といって釘を刺てきた。どうやら、リチャード氏あたりとこういうことを経験したらしい。
ただし、大方浮気をしたのは夫人側だと思われるが。
夫人の言うことはわかる。その場に乗り込んで冷静に対応できるかと言われると多分難しい。
後日話し合いするなり、代理人を立てて要求を突きつけるなりするほうがよっぽど円滑に事は進む。
それに、今は夜も更けている。夫人との私的な観劇だったので、他に連れ合いもいないし、
カリナ側の使用人は御者しか連れてきていなかった。
だから、二人を追いかけるとなったら、カリナ一人で行くしかない。
それを御者が赦さないのも道理だ。
しかし・・・
「どうしても行かせて!今行かないと私本当にあなた恨むから!憎むから!!!後生だからお願い!!」
憎むに恨む。雇い主にここまで言われたら、御者も顔を青ざめるしかない。
「わ、わかりました・・・ただし、早くお戻りくださいよ!御館様に何かあったら私はどうすればいいんですか!」
「大丈夫、どうもしなくてもいいから。今から私が行くところには知り合いがいるから、大丈夫だもの。」
「本当ですか?」
御者が胡散臭くなるのはわかる。降ろしてと懇願している場所は、高級住宅街から遠く離れた、長屋の連なる一角だ。
治安もそれほどいいとは言えないだろう。しかし、カリナは念押しした。
「大丈夫よ、本当に。」
しかしこれだけ言っても御者は心配顔だったので(当たり前だが)カリナは、目的地のすぐ傍で降ろしてもらい、
馬車をそこに待機させておくことで妥協した。
そして2時間たってもカリナが帰ってこなかったら迎えにきてもらうことも約束した。
カリナはなんとか約束を取り付けられたので、身を目立たないコートでくるんで、髪もフードで覆って完全に人相がわからない風体にした。
それで杖なんか突いているものだから、不審者なのはむしろカリナのほうだ。
こういうときに杖って便利かも、と思いつつ、馬車を降り立った時、
見知った男が一人、路地裏に向かって歩いているのが見えた。
丁度、ギルバートたちが広場を突っ切って向かっていた方向と合致している。
カリナは思わず呟いた。
「なんでここにプレストンソン男爵がいるの・・・?」




