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長年の隠遁生活を挟んできたため、あまり貴族社会に慣れ親しんでいないカリナにとって親交のある貴族の男といえば、
一人目は実兄のクラウス、二人目は貴族ではなく王族のジェイド王子、そして三人目が秘密裏の契約結婚で
図らずも伴侶となってしまったギルバートぐらいだった。
特に、クラウスとジェイドは『存在が奇跡』とも言われる程の美貌を誇るおとぎ話の王子様のような人たちだったため、
カリナはおそらく全世界の女性がうらやむような位置にいるといっても過言ではない。
とはいっても、ジェイドは天が二物も与えてくれなかったのか性格が酷すぎるし、
実兄のクラウスに至っては、実妹のカリナが大変な目に遭うことがわかっていながら遁走をしてしまうという
大事件を引き起こしている。
というわけでカリナにとっては、世間の評価とは全然ベクトルが違うだろうけれど、
この3人の中で一番平凡な(とはいっても事件への巻き込まれ具合っぷりでいうと常人の比ではないと思う)
ギルバートが一番理想的な男性だと思えた。
そして今、目の前にいる第4の貴族の男であるハーヴィー・プレストンソン男爵は
この3人と比べてどうなのか、カリナには悩みどころだった。
『肝が据わってるし、物怖じしてないし、それでいて見た目はとても善良そう・・・
腹に一物抱えてるかもしれないっていうタイプかしら?』
見た目だけでカリナは性格診断に及んでいたが、そんな心中いざ知らず、プレストンソン男爵は口を開いた。
「周りが騒いでいます。私なんかと一緒にいたら、とんでもない噂が飛び交いかねない。
早く離れたほうがよろしいのではないですか?」
言われて初めて、ようやくカリナは周りを見やった。
男爵の言う通り、いつの間にかカリナと男爵を中心とした人の輪が出来上がっていて、
二人の一挙一動に関心が注がれている。
このままの状態だと身動きとれないし、ぺちゃくちゃと喋りまくられるしで、これからカリナが言おうとしている
クラウスの話題なんてとてもではないが出せやしない。
カリナは、さてどうすればいいものかと考えていると、男爵は控えめに進言した。
「あなたの御不興を買うつもりはないのですが、それほどまでに私と話がされたいというのなら
一曲どうでしょうか?」
「一曲って・・・踊るということ?私の足で?」
「そうです。」
真剣な顔をして男爵は肯定した。カリナは怪訝そうな目で向ける。
「言っておくけれど、この状態になってしまってから私は一度も踊ったことなんてないのよ?
一応怪我をするまでは礼儀作法で習ってはいたけれど、それも10年近く前のことだし、
習い始めてすぐ怪我をしたものだから、習っていた期間だってものすごく短いもの。
ここでそんなことをしたら恥を塗りに塗りまくる羽目になるわよ。」
「あなたの挙動に対して嫌な噂を流すものはいませんよ。どんなに踊りが下手でも、誰も批判なんかできやしない。」
「・・・私の株をあげてくれなくても結構よ。」
「目上の方を褒めておくにこしたことはありませんからね。」
なんて嫌味なやつ、とカリナは思ったが至って男爵は皮肉った表情ではなくて、心からそういったらしい。
『天然の嫌味なやつね・・・これはタチが悪い。』
丁度そのとき、楽の音が代わって三拍子調の曲が流れてくる。
短調の静かな音調で、ゆったりと踊るにはちょうどいいテンポだ。
「いきましょう、侯爵閣下。今が一番いいでしょう。」
男爵は手を差し伸べてきた。手袋に包まれた手は、外からも厚みがあるのがわかり、指も節くれ立っていて
至極男性的だった。
『お兄様の手とは全然違う・・・お兄様はもっと指が長くて細かった。
その手をこの男爵は・・・取ったのかもしれない。』
もう何年も前に見たっきりのクラウスの細部を思い出して、一瞬動作が遅れたが、
カリナはそれをまるで感傷のように振り切って男爵の手を取った。
盛り上がっては、潮が引くように小さくなる、そんな緩急を繰り返す曲調が隅の方から聞こえてくる。
至極ワルツらしい曲なのだが、いかんせん周りの騒音のせいでその良さはかき消されている。
二人はホールの真ん中でまさに躍り出るようにして身を寄り添っていた。
金の髪に、それに一見そぐわないような深海の瞳が珍しいカリナは、もともと衆人の環視を集めやすかったが、
男を傍に寄せていて、更には一緒に踊っているものだから、こんな滅多にないことに周りの関心は通常の比ではない。
未だ浮いた噂ひとつないカリナと、男やもめの男爵二人の接点を見いだせるものは皆無である。
だが、見た目に見目の麗しい男女が睦まじくしている光景に、大した理由付けはいらない。
ただ、その光景がそぐうかそぐわないか。それだけである。
そんな外の連中の心中いざしらず、二人はゆったりとゆるやかに身体を動かす程度で踊っていた。
とはいっても、仲睦まじく、というわけではない。
カリナは多少不機嫌な声で腰に手をまわして支えてくれている男爵に言った。
「・・・ここまでしてくれなくてもいいのに。」
「でも、あなたは足がお悪いでしょう?私も男ですから、なんとかしてあげたいと思ってはいけないのですか?」
「周りから見たら、ものすごく密着してるように見えるじゃない・・・いいの?噂なんか立っても。」
「それはこちらのセリフです。」
カリナの片足は年々悪くなっている。外面的な怪我は一応完治したのだが、
神経系が傷ついていたらしく、年を経るごとにその機能は衰える一方だ。
最初は痺れから始まり、それが徐々に足全体に広がって、今では麻痺に近づきつつある。
杖なしでは一人で行動もできなくなりつつあった。
そんな状態でいくらゆっくりとしたワルツといえども、ステップを踏むなんて難しい。
だからこそ今までこんな舞踏も兼ねた宴なんて避けていたのだ。
それを強引ともいえる理屈をこねて誘い出したのは、今カリナが全力で疑いを傾けているプレストンソン男爵だった。
服で着やせして見えるが、実際は逞しく太い腕で腰を掻き抱くようにして支えてくれている。
そして、カリナが動く方の片足に力を入れやすいように、肩を傾けてそこに手を回させてくれた。
しかし・・・ここまで密着すると、おそらく周りからはよほど親密なのだろうと思われてもまったく過言ではない。
カリナは不本意だったが、二人きりにならず密談をするにはこれ以外にはないというのは同感だったので
仕方なく受け入れたのだった。
おかげで糖分が相当数足りない会話をカリナは切り出した。
「私のゴシップはいつもいつも絶えないからもうそれはあきらめてるわ。それよりも。
あなたは、私の兄が失踪する直前まで接触してた貴重な人よ。
兄の言動の端々に、失踪について仄めかす様なこと、なかったかしら?」
「侯爵閣下、何度も言いますが、私のような新興貴族があなた方のような王族の系譜、それも直系に程近い
血筋の方たちと知り合いになれるだなんて、夢幻もいいところ。
あなたの想像しているような関係はありませんでした。
ただ、あいさつ程度に会話をしたことがある、それだけです。」
「いいえ、そんなことはないわ。うちの兄は変わってるから、身分がどうのだなんて全く問題にしなかった。
人付き合いでは、自分の好みを優先する人だった。
あなたは兄の感覚で言えば、十分に好ましい人だった。妹の私が言うのだから、間違いないもの。」
「・・・どうあっても、あなたはクラウス閣下と私の接触を事実にしたいらしいですね。
根拠といったら、私の想像ですが、5年ほど前にクラウス閣下が出奔なさる直前にお互い出席した宴のことでしょう?
確かにあのとき私は閣下とお会いしましたし、話もしました。
けれど、社交辞令から逸脱した会話ではなかったことは確信をもって言えます。
なんなら、証人も用意しましょうか?先ほど会話していた男たちの中に、当時から私とつるんでいる奴がいます。
彼なら、私とクラウス閣下にそれほど密な親交はなかったと言ってくれるでしょう。
それ以前に、私よりもクラウス閣下と親しい関係にあった人など他にもごまんといたでしょう?
私なんかに的を絞らず、他の者から調べたほうがよっぽど合理的だ。」
「私は公然とした親交の証拠が欲しいわけじゃないから、そんなことしてくれても無駄よ。
公然とした親交ならいくらでも兄は築いていたわ。
でも、私が言ってるのは、私的な関係性よ。兄と、実生活でも会ってったっていう、その証拠が欲しいの。」
ワルツが主題を終えて流れるようなテンポの早いリズムに変わる。
周りで踊る者たちもそれに合わせて動きを速めるが、カリナたちは相変わらず頬をくっつけあうようにしてゆらゆらと身体を動かす程度。
最初から見た目のせいで浮いているというのに、更に周りに溶け合うことなくなってきた。
二人の思惑をよそに周りの者たちの中には、あまりの親密さにヒソヒソ話をするものまでいるぐらいだ。
そんなことを知らぬ二人は、あくまでクラウスについて話を進め続けていた。
「・・・あなたは、一体何をお聞きになりたい?
クラウス閣下は爵位継承からお逃げになった。そしてあなたが今は爵位を継いでいる。
彼が戻ってきて一番困るのはあなたでしょう?なのに、クラウス閣下の行方を知りたがる。
そんなことをしても、あなたには益があるんですか?
それとも何ですか、家族としての愛情ゆえだと、いいたいのですか?」
「そうよ、兄のことを家族として愛しているから、戻ってきてほしいのよ。
私はできれば爵位なんて継ぎたくない。今だって降りたいぐらい。療養で暫く過ごした田舎にでも引っ込みたくてたまらない。
それもあるけれど、やっぱりもう5年も兄が行方知れずだもの。
皆、タブーだとでも思ってるのか、兄のことについては誰も触れてくれない。
私が後釜に収まったから今さら蒸し返してもって思ってくれてるのだろうけれど。
でも私にはそれがさびしい。あんなにも、華があって、誰よりも熱い羨望をかき集めていた人が、誰の口の端にも乗らなくなった・・・
それが私には悔しくてたまらないのよ。」
「でも、彼は望んで出奔した。5年も帰ってこないところからいっても、彼は帰りたくないと思ってるはずでしょう。
あなたがどれほど帰ってきてほしいと思っても、クラウス閣下の想いを踏みにじることにしかならない、でしょう?」
「・・・どうしてあなたは、兄が帰りたくないと思ってると知っているの?」
「え?」
怪訝そうな声音で男爵は答えた。喉元に唇を当てるように顔を隠しながら、カリナは鋭い声音で尋ねた。
「もしかしたら兄の出奔は自分の意志じゃなかったのかもしれない。政争に巻き込まれたからかもしれないし、
誰かに唆された結果かもしれないし、監禁・軟禁状態かもしれない。最悪、殺されている可能性だってある。
でもなぜ、あなたは兄が帰りたくないと知っているの?」
「それは・・・」
「知っているんでしょう?うちの兄が出奔した理由を。私もようやくその一端を掴んだわ。
兄は間違いなく、自分の意志で出奔したわ。でも、肝心な詳しい動機はわからない。
家族である私にさえ言ってくれなかった。
ただ、あなたは知っている。これって・・・あなたが兄と親交があった証拠になるわよね?」
「それは・・・」
男爵は言い淀む。どうあっても言いたくないらしい。
カリナも男爵の心のデリケートな部分に入り込むようで胸が痛かったが、今言うべきことを言わないと
確実にクラウスの行方がかすむ気がしていた。覚悟を決めて口を開く。
「兄は・・・爵位を継ぐのに相応しくない部分があったわ。周りの者からはそう見えなかったと思うけれども。
あれだけ見た目にも華やかで、社交的で、誰とも仲良くできた兄に、どうして私が親交のある人が少ないと思っているか
あなたはきっと見当つくでしょう?
・・・兄は、女性恐怖症だった。握手程度なら大丈夫だったけれど、抱き合ったりすることは論外だった。
妹の私にはそこまでひどくなかったけれど、それでも私が徐々に成長していくにつれて
兄が触ってくれることが少なくなっていったのは身をもってわかったわ。
それのせいか、兄には女性の友人とか恋人ができなかった。兄はあれで、ものすごく孤独な人だったわ。」
「でも、それが私と何の関係が・・・」
「大いにあるわ。兄は女性恐怖症がその要因になったのかどうかは私にはわからないけれど、
男の人が恋愛対象だった。
だから、兄にとって真の男性の友人っていうものは、多分なかった。だから本当の友人といえるような存在がいなかった。」
その一言に男爵は息を呑んだ。何も言葉が出ないらしい。カリナは続けた。
「あなたはその点において、とても兄にとって理想のタイプだと思うわ。
年上で、柔和で、自分よりも少し背が高くて、でもそんなに大柄な体格じゃなくて。
長年離れてたとは言え、兄の好きなタイプぐらい私もわかるもんよ。結構うちの兄ってミーハーなの。
・・・だからきっと、あなたに兄は惹かれたんだと思ったわ。今日あなたを一目見て、そう思った。」
「・・・そんなことを、私に打ち明けて、いいんですか・・・?」
震えるような声音だった。カリナは踊っている最中だったが、身体を話して笑みを浮かべながら男爵に言った。
「そうね。うちの兄は、本命にはなかなか告白できるような性格じゃなかったから、
多分兄からしたら私とっても余計なお世話をしたんだと思う。
でも、あなたなら大丈夫だと思ったの。
妹である私にでさえ、周りの目から守ってくれるように気を配ったり足に気をつけて踊ってくれるような人だもの、
兄を受け入れられるって。
・・・でも、迷惑だったら本当に申し訳なかったわ。」
そう告げてカリナはそのままその場に背を向けるようにして会場から出て行った。
いつの間にかホールのど真ん中に躍り出て、周りがこの二人をよく観察できるように開いた空間で、
男爵は一人茫然と立ち尽くしていた。
周囲の者は目まぐるしい展開に、もしや男爵は振られたのかと思ったのだが、
突如カリナを追いかけるようにして走り去った男爵を見て
『ハイライド侯爵閣下を男爵が追いかけてよりを戻そうとしている!』
と好意的に見てその場は収まってしまっていた。




