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カリナにとって兄クラウスは目の前にあって手の届かない存在だった。
生まれながらの貴公子然としたクラウスは、沢山の人間に囲まれ、その頂点に立つことこそが華だと言えた。
下手をすればそれは独裁者にも思えるかもしれないが、クラウスの場合は
いつも最善の方法を求める性質だったので常に周りとの協力は惜しみなかった。
多少自分が犠牲になってでも、『最善』を目指すためには厭わなかった。
勿論、カリナに対してもクラウスはとびきりの兄だった。
離れて暮らすまでは、いつもクラウスが話し相手になってくれていた。
仕事で忙しく家を空けることが多かった父と、高慢でカリナに対して特別冷たかった母とは
カリナは殆ど会話をすることがなかった。
そんなときに、後継ぎとして忙しかっただろうクラウスが暇を見つけてはカリナに会いに来てくれた。
その姿はカリナに家族という形を忘れないようにという願いがこもっていたのかもしれない。
そんな風に、家族との関係や、周りとの協調性を大事にするクラウスは、
一見すれば仲間に囲まれた順風満帆な対人関係を築けていたように見えただろう。
しかし、カリナにはわかっていた。
いつもクラウスの心の中は孤独だったことを。
よく、為政者たるものは孤高の人でなくてはならぬ、という考えがある。
クラウスも多分それに当てはまっていたのだろうとは思う。
けれど、それだけじゃないことも、うっすらとカリナにはわかっていた。
クラウスは、人の中に入っていける人間ではないということを。
とはいっても、外面は人好のする協調性のある人間だと見せかけて内面では奢り高ぶっているというパターンとは少し違う。
言うなれば――クラウスは、本当の自分を見せるのが、最大の恐怖だった。
現実にはあまりにもちっぽけな自分を晒すことが、とうとうできなかった。
それゆえに装ったのが『貴公子』である自分、だったのだ。
プレストンソン男爵が、とある貴族のパーティーに出席するという情報をカリナは事前に掴んでいた。
その主催者側の貴族はカリナにとって特に恩義のある者というわけではなかったけれど、
仕事だと理由をつけて殆ど社交界に出てこないのもなかなかに面倒なことになりかねない。
たまに出たほうがいい、というのに、まあ丁度いいぐらいのタイミングだろうな、という頃合いだったので、
カリナはそれも兼ねて出席することにした。
しかして、カリナはそういう場に赴くことは、同年代の子女たちに比べて明らかに少なく、
年ごろに大けがをして田舎に引っ込んでいたため、場数も殆ど踏んでいない。
一応、貴族の子女たるものは一人で勝手にずかずか行動することはマナー違反だったりするので、
パートナーがいる場合はそのパートナーを、いない場合などについては同性の貴婦人を連れていくことになっている。
カリナはパーティー慣れしていて、貴族界での身のこなし方を十分心得ている、旧知のテアミス伯爵夫人をお供につけることにした。
ハイライドの別邸から二人で馬車に乗ってがたごとと揺られてその会場に向かっている最中である。
時間ではだいたい10分ほどで着くそうだ。それまでの間、この夫人とカリナは二人密室で過ごす羽目になっていた。
因みにテアミス夫人は、年齢はカリナの母と同じくらいなのだが、既にかなりの量の白髪が混じっている、かなり恰幅のいい貴婦人である。
「閣下、こういう場は慣れていらっしゃらないでしょう?どうして行かれるのかしら?」
「ちょっと、行ってみようかっていう気になった、じゃ理由にならないの?」
夫人はカリナが10歳頃から怪我を負って田舎にひっこむ羽目になるまでの間、礼儀作法の家庭教師としてついてくれていた人物だ。
怪我さえなければカリナはこの夫人の教えに沿ってもうちょっと貴婦人らしくなれたはずだろうが、
いかんせんド田舎にカリナの素行を正してくれるような人はいなかった。
だから、夫人は自分が果たせなかったがゆえにカリナが貴婦人らしくならなかったと思っているらしく、
どこか色々と首をつっこみがちだった。
「閣下は常々おっしゃってるじゃありませんか、『私は殿方なんかにかまってる暇なんてない』って。
閣下のような未婚の子女がああいうところに行かれると、周りは皆、あなた様がお相手を探してらっしゃるんだ、
という目で見てくるものですよ。よろしいのですか?」
「よろしいもなにも、もうそこに向かってるんだもの。今さらよ。」
「・・・はぁ。」
夫人はこれみよがしにため息をついた。明らかに小言を言ってくる前兆である。カリナは咄嗟に身構えた。
「閣下、お小さい時はそれはそれはお可愛らしゅうございました。
私と初めてお会いされた時、『はじめまして、私、カリナっていうのよ。よろしくね、テアミス夫人』と仰った、
あの無邪気な金髪の少女を生涯忘れませんわ・・・
それが、今では人の言うことに屁理屈こねて皮肉で返してくるような御方になってしまわれるとは・・・」
そういいながら目元をハンカチで押さえている。素晴らしい演技力だ。貴婦人にはこんな技術もいるのかとある意味カリナは感心した。
「夫人、何か勘違いしてるんじゃないの?私は、ただの貴族の家の娘じゃないの。爵位を継いだのよ。
他とは訳が違うんだから、これくらいのこと言わなきゃどんどん周りにやられっぱなしになるのよ。」
「それならば、立派なお婿さんをお迎えになられたら、そんなことにもならなかったはずじゃありませんこと?」
「うちの家を他人に任せるって言うのね?私もしたいけどね、そこまで私は他人に寛容じゃないのよ、夫人。」
「・・・はあ。クラウス様がいらっしゃったら、なんとおっしゃったことでしょうね・・・」
カリナはその一言にビクリとした。
今まさに、この馬車の行きつく先が『クラウス』だったから、だ。
当然夫人はそんなこと、微塵も知らないはずだ。けれど、時々ある、こんな偶然の符合にドキリとさせられる。
「お、お兄様がいらっしゃったら、お兄様が継いでいらっしゃったんだから、
私なんかに文句なんておっしゃる必要性もないじゃない。」
「例えばの話ですよ、閣下。クラウス様は、私から見ても大変素晴らしいお方でしたよ。
それはもう、他の皆もそう思ってらっしゃったに違いありませんわ。
そんなあの方ならば、今の閣下をご覧になったらなにか仰るに違いないはずでございましょう?」
「じゃあ、例えば?」
「例えば・・・そうですね、いつまで一人身でいらっしゃる気、とか、
淑女たるもの、粛々として我ばかりを出していてはならない、とかだと思いますわ。」
「それって、夫人が私に対して思ってることでしょう?お兄様の弁を借りてまで言わなくても結構よ。」
ズブリとカリナは夫人に対して切り込んだ。夫人は図星だったのか押し黙ってしまった。
おしゃべりな夫人が黙ったことで一気に馬車の中は静まり返る。
カリナは、小窓のほうを見上げた。過ぎ去っていく建物の陰が視界の中で線を描くように流れていく。
『お兄様はそんなこと言うはずがないわ・・・だって、
お兄様の方こそ、爵位なんて継ぎたくなかったんだもの・・・』
そうこうしている間に馬車は目的の貴族の邸宅に着いていた。
広い玄関ポーチに横付けされた馬車から下りる際、待ち構えていた相手方の使用人がカリナの手を取って下ろしてくれる。
カリナは杖を突きながらしっかりとした足踏みで降りて行った。
そのまま夫人と二人、招待状を見せた案内係に先導されながら大きく開いたドアの前にまで連れて行かれる。
そこはカリナが暫く療養で留まっていた自邸のフォンディーヌ城と同じくらいの規模で、
これだけのものを首都に築ける財力にまず唸らされる。
そして踏み入れた建物の中も絢爛豪華という四文字にふさわしいものだった。
「すごいわね、夫人」
「ええ・・・確かにお金持ちの方だとは聞き及んでいましたが・・・」
上から垂らされるシャンデリアの重たげな様子や、まばゆいまでに輝く調度品に、美術品、
置かれている家具も一級品で飴色をして艶めいている。
カリナは母のニムレッドですら一瞬の間をおいてしまうと思われるような華美さだ。
二人ともそれに圧倒されながら階上の中に足を踏み入れる。
そこは人いきれがするほどの熱気に包まれていた。カリナは慣れないからか来て早々脱力感を味わった。
そしてその脱力感と共に感じるのが―人の視線だ。
勿論傍にいるテアミス夫人も感じているらしく、感嘆を込めて呟いた。
「閣下、こちらのほうに視線が集まっていますわ・・・。
皆、閣下がこんなところに来られるだなんて思いもしていなかったんでしょう、すごいですわね。」
「すごいけれど、こうまで無遠慮だと堪らないわね・・・」
普段着飾らず、今ですら、首元まで締まった色味の薄いドレスを着こんだカリナとは正反対の、
脂粉の匂いをまき散らす女性たちの匂いがますますカリナには気持ち悪く感じる。
この中を進んでいくのはカリナには気が進まなかったが、目当ての人物は今のところ視界のなかにはいない。
「テアミス夫人、ちょっと知り合いを探してくるから、好きにしていいわよ。」
と、言外についてこないでというと、他の意にとったのか、満面の笑みを浮かべた夫人は
「承知しました。」
と言って離れて言った。どうやら、カリナが目当ての男性を見つけたと思ったらしい。
『こっちは夫がいるんだから、そんなわけないじゃないの!』
心の中で言いながら、カリナは声をかけてくる他の出席者たちの誘いを無言の笑みで交わしながら、人込みの中を進んでいった。
そして、目当ての男はいた。
――その男は、見るからに人好きのする柔和な笑みを浮かべて、数人の知り合いと思しき男たちと談笑をしていた。
傍目からみても、それになんの違和感も感じられない。
身につけている衣服は清潔で、一つ一つのさりげない装飾品はどれも見るものが見れば一品だとわかるもので
この男が決して地位にしがみついているだけの者ではないことを感じさせられる。
つまりは、見た目には、きな臭さが全くない、成金として伸し上がった新興貴族にしては
貴族らしすぎるといってもいい雰囲気を身に纏っていると言えた。
思わずカリナは嘆息した。
もっと、悪だくみをするような、人とは違う鋭い眼光や、その内面を端々にうかがわせるようなタイプの人間だと
想像していたのが、裏切られた形になったのだ。
もしそういう人間だったら、カリナは自分の出る幕はないと思っていた。
交渉は他の人間に任せて金銭なり、それなりの対価を差し出して聞き出すことができたはずだったからだ。
ただ、クラウスが個人的に接触した人間がそんなタイプの人間である確率の方が少なかったのだが。
そもそもカリナは、めったに貴族が主催する大規模な宴会には顔を出さなかった。
口実として、仕事が忙しいだの、なんだの理由をくっつけはするものの、
こういうところに出れば、恋人もしくは婚約者希望の男たちに行くとこなすことに付け回されるに決まっているので
できる限り避けたいのが本音だった。
しかし今回は、そんな有り余るデメリットさえも敢えて受け入れてこんな華やかな場に出てきたのには理由があった。
それは最近方々に潜らせているカリナの内偵から、
かれこれ5年前にもなるクラウスの行動について、ある一つの情報が入ったことに端を発する。
クラウスの交友関係は多岐にわたっていても、それはカリナから見てもビジネスライクな底の浅い付き合い方で
生涯を賭けるほどの真剣な間合いを保っている友人や恋人というものをおおよそ持っていなかった。
それはカリナ自身にも言えたのだけれど、カリナにはまだメディフィス夫人など、
自分の本音を言える相手がいた。
けれど、クラウスは自分のやりたいこと一つ言えない生活を送っていた。
時々に会う、殆ど世俗を離れたような生活を送っていたカリナに対してだけは、ほんの少しだけ漏らすことはあったけれど
心配をかけまいと思う心と、核心までを言いきれない立場があったからか、
全てを覗くことは仲のいい妹だったカリナにですらできなかった。
そんなクラウスが失踪の直前にできたという私的な時間でも会う場を設けるほどの友人。
――それが、ハーヴィー・プレストンソン男爵だった。
内偵によると、5年前のとある貴族家主催の小さなパーティーの出席簿が、
その貴族家の破産による蔵出しによってこのほど手に入り、その二人はご丁寧にも名を連ねていた。
特に接点のなかったはずの二人が、である。
カリナはそんな小さな出来事ですら疑いにかかった。
何しろ5年たった今何ひとつ消息がわからないから藁にもすがる思いだった。
その結果を受けてカリナは男爵の身辺も内偵させていた。
内偵によると、プレストンソン男爵家は先代に爵位を下賜されたばかりの、新興貴族の部類に入る。
鉄鋼業の躍進による億万長者だったようだ。つまりは金で買った爵位、というわけである。
とはいっても男爵自身は堅実そのもので、適度に貴族界にも商工業界にも顔を出し、自社も人任せにせず
きちんと業務をこなしている。
派手な浪費癖や、女癖もなく、新興貴族というネックさえなければ、どんな貴婦人でも靡いてしまう人格者だという。
ただ、彼には結婚歴があった。
丁度5年前、クラウスと出会った前後の頃に、彼は前妻と離婚している。
そのときに彼は二人の子どもを引き取っている。上は男の子、下は女の子らしい。
そのため、彼と結婚する場合にはもれなくコブつきだというわけで、なかなか再婚相手も決まらない側面があるようだ。
調べた範囲内では男爵には現在恋人も婚約者もいないようで、気ままな独身生活を送っているらしい。
その気まま男爵は、特にパートナーと思しき女性を周りにつきまとわせていることもなく、談笑をしているようだったので
カリナは、周りの『あのハイライド侯爵が男に近付いている』どよめきを気にすることなくその輪の中に入っていく。
徐々に、男爵の周りにいる男たちが、カリナの存在に気付いて一気に表情をなくしている。
対してカリナは笑みを浮かべながら、迷うことなく男爵の目の前に立ちはだかった。
「歓談中失礼しますわ、プレストン男爵。うちの兄が、あなたにお世話になったと聞いたので、一言お話したかったの。」
突然目の前にやってきたカリナに一瞬表情を固まらせた男爵だったが、
すぐにそれを先ほどの柔和な笑みに戻した。
「私なんかが・・・あなた様にお礼を言われるようなことをやった覚えはありませんよ。
それにあなたのお兄上様も、私がそう簡単に話をできるような御身分ではなかった上、
もう5年以上も前に少し話を交わした程度です。なんの繋がりも、ありませんよ。」
貴族界には暗黙の了解というやつで、少しでも身分が上と思われる人物に対して声をかけてはならないことになっている。
声をかけられて初めて会話ができるのだ。
それが王族ともなれば目線を合わせることすら適わない。
カリナを含むハイライド家は、王位継承順位の高さから王族と同列に扱われることが多いため、
そうした扱いもまま受けることがある。
しかし、この男爵の場合、まっすぐとカリナを見つめて、更にはカリナの発言を否定した。
『・・・思ったより、しぶといかもしれない。』
カリナはそうはっきりと心の中で思った。




