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ギルバートより一足先に職場復帰したカリナは急がしい毎日を送っていた。
「大臣、こちらの書類に目を通してください。」
「こちらにサインを。それと決済をお願いします。」
「大臣、会議の時間です。お急ぎください。」
同じような言葉ばかりが次々と投げかけられて頭の中はグルグルとこんがらがり始めている。
しかしそんなことはお首に出すことさえせず、幾多の男たちを骨抜きにさせる笑顔を無理やり貼り付けて微笑んだ。
「わかったわ。ありがとう。」
その微笑みのまなざしを受けた男は頬の瞬時に赤く染めさせて目を逸らしている。
カリナは心の中で―もし表情に出していたらものすごく似合わないことは自身がよく知っていたので―
ハッと嘲った。
『所詮人間って見た目が一番重視するものよね』
カリナは自分の容姿と性格がミスマッチだということは重々承知していた。
田舎育ちの田舎気質で、性格は限りなく短気、それがカリナの‘素’である。
しかしカリナの眩いばかりの豪奢な金髪や、深い紺碧の瞳に、スレンダーな容姿に目を取られると
その‘素’はたちどころに消えていってしまう。
そして、もうひとつ。
カリナにとっては風評以外の何ものでもない噂が一つあった。
それは、男をとっかえひっかえしているというものだ。
最新の噂はとある青年男爵とのパーティーで大変親しげな様子だったというものである。
カリナ自身は全く親しげではなかったと自負している。
むしろ、彼とは険悪な空気ですらあったのだから・・・
『プレストンソン男爵。彼は必ず知ってるはずよ。だって、
出奔する直前の兄と最後に接触したのは彼なんだもの・・・!!』
「・・・ねえ、カリナ嬢、これってオペレッタよ?皆そこかしらでゲラゲラ笑ってる中
あなた一人だけ大変浮かない顔をしてるけれど、何かあって?」
突如話しかけられてカリナははっと顔を上げる。
そこには、相変わらず凄まじい角度で切り取られてあまりにも布の面積のこころもとないドレスを身にまとい、
悪魔の妓女と呼ばれる所以だった長い黒髪をきゅっと頭頂部で結いあげた
現在はフェルディゴール伯爵夫人に収まっているメディフィス夫人がいた。
花の顔が今は心配げに曇っている。
カリナは焦って弁解した。
「あ、いえ、なんでもないわ、夫人。気にしないで。ちょっと考え事をしてただけだから・・・」
「やだわ、カリナ嬢。劇場にまで考え事なんてするの?
ここはあなたの職場じゃないのよ?思いっきり笑って煩雑な日常を忘れるためのストレス解消の場なの。
なのにあなたときたら、ずーっと眉間にしわを寄せて悩み事をしてるような顔ばかり。
見てるこっちもオペレッタを心行くまで楽しめないじゃないの。」
「・・・ごめんなさい、メディフィス夫人。せっかく誘ってくださったのに・・・」
「まあ、カリナ嬢は本当に大変な立場だものね。仕方ないわ。
しっかし、こういうときにうちの息子は何の役に立たないなんて、全く何のための夫よ・・・」
ぶつくさぶつくさとメディフィス夫人が文句を言っている。
要らぬ心配をさせてしまったな、とカリナは気付かれないように嘆息した。
二人は今、オペラ劇場に来ていた。
首都でも1,2を争うほどの規模を誇る巨大建築で、その内装も豪華絢爛の極みである。
玄関ホールには重たい金の装飾が施されたシャンデリアがぶらさがっていて、
その下の絨毯は深紅でふわりと沈むほどの厚みがある。
そしてそれは劇場の2階部分までみっちりとひかれていて、隙間ない。
手すり部分にも細かな細工が施されたらせん階段を上がると、2階部分であり、そこはVIP席になっている。
貴族や商人たちが個室として使うボックスが並んでいて、通常そこへはよほどの人間でない限り立ち入れない。
そのため階段の前には警備の人間が立って、検問をするくらいだ。
そこへカリナとメディフィス夫人はやってきていた。
――この、本来は関わりさえ持てないはずの、元妓女と生粋の大貴族のカリナとのかかわりは、
もう10年近く前、カリナが本領で大けがをした際に助けてくれたのがメディフィス夫人だった、というところから始まる。
既にその当時、花街からは殆ど縁を切って隠棲生活を送っていた夫人と、
怪我がもとで長期療養を強いられたカリナは、長らく個人的な付き合いを続けていた。
そんなときに急に降ってわいたのが、
夫人とその内縁の夫・フェルディゴール伯爵との間に生まれた次男坊とカリナの縁談だった。
当初、どうしてこんな結婚が決まったのかとさんざん回避のために抵抗をしたのだが、
カリナの主張は通らず、そのまま秘密裏な政略結婚は成立してしまった。
そしてずるずるとその関係を引きずったまま今に至っている。
相変わらずギルバートとの関係は周囲には伏せたままだったが、
二人の関係性は5年という年月が経ったこともあって幾分か変質していた。カリナ自身も肌身で感じていた。
けれどもまだそれが『何』なのかは、言葉にできない範疇にある。
このままそんな不定形なまどろみの中にあればいいとカリナは願う。
知らない世界へ飛び出して、要らぬ傷を増やしたくない。
それはきっと、特に結婚の隠匿にこだわるギルバートも同感だろう。
しかし、確実にこの関係に一定の区切りをつけなければいけないときは来る。それも、遠からずに。
カリナはそのときが怖かった。
―そんなカリナの煩悶には気付かない様子のメディフィス夫人は明るく声をかけてきた。
「ねえ、カリナ嬢。今日のオペレッタはあれよ。
間抜け子爵がふらふら女の子の尻をおっかけまわしてるうちに奥さんに逃げられるって話。
それじゃ陳腐で使い古された感じだけど、これは結構工夫されてるから面白いわね~。
奥さんが男にすり寄っていくのが子爵はたまらなく嫌だから、そこに突撃して行っては返り討ちにあってるわ。
それに、自分も女の子の尻をおっかけまわしてるけどなかなか相手が振り向いてくれなかったり。
それでも笑えるっておかしいわよね。」
「・・・夫人、こんな風に浮気するってどう思います?」
「あら、珍しい質問ねカリナ嬢。」
メディフィス夫人は目をまん丸くさせてカリナを見た。そしてみるみるうちに目元を険しくさせる。
「もしかして・・・ギリーが浮気でもしたの!?やだ、あの子ったら!なんてこと!」
今にも叫びだしそうなぐらいに夫人は頭を抱えている。カリナは慌ててフォローした。
「違います、大丈夫です、息子さんは今のところなんともないですから。」
「じゃ、じゃあ何?何かあったんでしょう?わたくしには何でも話して頂戴?
世間的には嫁姑関係になるけど、わたくしとあなたはそれ以上の繋がりがあるとわたくし自負してるのよ?
こんなところで遠慮なんてしないでね。」
メディフィス夫人の真摯な態度にはカリナはいつも助けられている。
それに、少女時代から親身になってくれていて自身の母親よりもずっと母親のような態度で接してくれている。
そして高級娼婦だった過去からいっても、貴族社会についても精通した人物だ。
カリナの相談には十分すぎるほど不足のない相手だった。
意を決して口を開いた。
「・・・あのね、夫人。つい最近、私がパーティーで出会ったとある貴族の男性の方と
交際してるんじゃないかっていう噂が出てるの・・・それも、婚約も間近とかって大々的にふれこみ回られてて。」
「あら、まあ。それはそれは。」
夫人は口元に蝶の細やかな模様のレース入りの扇を口元に充てて驚嘆した。
「私はまったくそんなつもりなんてないのよ・・・神に誓って。
でも、私の意図しないところでこんな話が出てるから・・・多分、息子さんに誤解されてるかもしれない・・・」
「そう、そうだったのね。」
夫人は納得した様子で頷いた。そして予期せぬことを言った。
「そんな程度のことだったのね、よかったわ。」
「そんな程度って!」
「だって、うちの息子のだらしなさはカリナ嬢も知ってるでしょう?
この機会を意趣返しってことにしなさいな?あなた、そんなに思いつめることなんてないのよ。」
「でも・・・」
「あの子に灸を饐えるいい機会だと思って振り回してやりなさい。わたくしだったらそうするわ。
とはいっても、わたくしのところの場合、リチャードが浮いた話を持ってくる確率は格段に低いから
こんなことには絶対ならないけどね。」
そういって夫人はため息をついた。
夫人の夫でありギルバートの実父であるリチャード氏は『氷の貴公子』とあだ名され、
爵位継承者でありながら25年以上も独身生活を続けた猛者である。
浮ついた噂など出るはずもない人である。
そして、夫人は昔から妓女という仕事柄、常に身辺には複数の男性の影が付きまとっていた。
むしろこの夫婦は夫人が浮気する逆パターンだといえた。
「でも、あなたが男性に時分から近づいていくって珍しいことね。今までにないことじゃないかしら?」
さっきまで面白いわよと勧めていたオペレッタを既に夫人は見ようともしていない。
それじゃここに来た意味はないじゃない、とカリナは思いながらも口を開いた。
「・・・うちの、兄に関係する人よ。その人は。」
「まあ・・・!」
これこそ本当にびっくりした表情を夫人は見せた。
かれこれ5年前に出奔したっきり、社交界ではすでに暗黙の了解となっている
ハイライド家の長男の話題が、突然その実妹の口から出たのだから当然と言えば当然である。
カリナは話すべきかどうか迷ったが、出奔当時、ガタガタになったハイライド家の様子をつぶさに知る
メディフィス夫人になら知られてもかまわないと判断して続けた。
「こっちに来てからずっと調べてたことで・・・
うちの兄は絶対に何か理由があって、出奔をしたにきまってる。そんなに簡単に責務から逃げてしまう人ではなかった。
どころか、兄以上に貴族らしい人を、私は侯爵になってから見たことがないわ。。
だから、ずっと私は探してた・・・兄に本当にこの位を継いでほしかったから。
それで、最近兄が何か、よくないことが自身が侯爵位を継承することで起きてしまうことを察知して、
そのために出奔したという情報を掴んで・・・
『よくないこと』がなんなのかは、まだわからないけれど、つい最近もうひとつ掴んだことがあったの。
兄が、出奔する前にある貴族が主催のパーティーに出ていて、そこで話を交わした人間がいたこと。
そしてその人間とどうもパーティー以外でも接触があったようだってことがわかったのよ。
・・・その人物が最近私が出たパーティーにいた。だから近づいてったのだけど・・・」
「大した情報は得られなかった、と。」
「ええ。」
既にクラウス問題で解雇されていた元使用人を探し出して聞き出した5年前の、
とうに色あせた情報をようやく掴みあげたカリナは、その一縷の望みにかけたのだった。
クラウスと出奔する3か月ほど前に他のパーティーで知り合い、出奔直前のパーティーで
再び会い、それからプライベートでも何度か交流があった人物。
それがハーヴィー・プレストンソン男爵その人だった。
しかし、交友関係の広かったクラウスには、他にもそんな人間が大勢いた。
その中でカリナが目をつけた理由は一つあった。
クラウス出奔後、彼はハイライド家への接触はない。
クラウスに接触していた人間は、クラウスの人間性にひかれたというのもあるだろうが、
多分に『ハイライド』という看板に目が眩んだという要因のほうが強いはずだろう。
そのためか、クラウス出奔後は例え建前上とはいえども病気療養を理由にしていたから
クラウス宛ての見舞いが殺到した。
その中に、プレストンソン男爵はいなかった。
つまり、ハイライドを忌避する何かを彼は持っているに違いない。
考えすぎだというのはカリナの中にもあった。
見舞いをくれてないのは、爵位継承者が出奔したことを隠蔽しようとするハイライド家への痛烈な皮肉だととれなくもない。
けれど、カリナには引っかかるものがあった。
だからこそカマをかけてみただけだったのだが・・・
「なんとかして、彼から何か聞き出さないと・・・息子さんには申し訳ないけれど、噂を立てられてもいいから
彼には接触したいの・・・」
「カリナ嬢・・・」
夫人は同情するような目でカリナを見て言った。夫人の言葉は重かった。
「いいわ。あなたはいつもまっすぐで強い力で何かをやり遂げようとするもの。私がやめろといってもやめないものね。
ただ、あまり根詰めないでね。あなたを、大事に想う人間もちゃんといるのだから・・・」
―その言葉に込められていた想いが望外に重いものだったということをカリナが知るのは
それからしばらく後のことになる――
大してオペレッタを見ることもなく公演は終了して二人はそそくさと会場を後にして馬車に乗り込んだ。
貴人用の出入り口から出てきたので、騒がれることなく出発することができた。
カリナは芸術に関してそれほど興味の持てない人間だったので、オペラ劇場の有用性は密談に最適だということ
ぐらいしか思いつけなかった。
この日二人が乗っていた馬車はフェルディゴール所有のもので、夫人に送り届けてもらうことになっていた。
陽も暮れきった時間帯だったが、繁華街をすり抜ける馬車の脇の商店は賑やかである。
カリナは窓からその喧騒を覗きながらため息をついた。
「私はどちらかっていうと、オペラ観劇より商店街を出歩いた方が性に合うんだけれど・・・」
「カリナ嬢は昔からそっちのほうが好きだったものね。」
少女時代をよく知る夫人がにべもなく同意してくれた。
カリナは商う人々の活況のただ中で暮らせればどれだけいいかと思いながら、
バーの前で酔い潰れた人が互いに肩を組み合いながら歌を歌っている様子や、
広場の真ん中で自作らしい曲をマンドリンで奏でている人を見ていた。
―そのとき、ちらっと見かけたものは、一瞬幻かと思った。
「あ・・・」
開いた口がふさがらないというのはこういうことかと、頭の隅のまだ冷静だった部分が呟く。
パレードや記念式典などに使われる円形の広場は、舗装が施されて、
太陽神を模した真ん中のモニュメントが猛々しく立っている。
円形に沿うようにして街灯が立っていたが、人々の顔をはっきり峻別できるほどの明るさではなかった。
しかし、そんな夜の活況を示して混雑するその広場の中にあって、その二人は目立っていた。
一方は見慣れた人物だった。
この国の男性の平均身長より高めで、頭一つ分抜き出た彼はそこを歩いていた。
この暗さの中にあって彼の髪色は闇色に染まっている。彼の母親のように。
何事かを喋る声はきっとこの喧騒の中にあってもよく通るものだろう。
かなり距離のあるこの馬車にもその声が聞こえないだろうかと期待してしまうほどに。
・・・そしてもう一方の人物もまた、割合身長の高い人物だった。
しかし、腰まで棚引く長髪と、キュッくびれた腰がちらちらと人込みの中から垣間見える。
最初男の方を注視したため、彼女に注視した頃には馬車の位置は既に彼らの後ろ姿しか見えないところに移動していた。
それでも、彼女の細いカモシカのような足を含めた抜群のプロポーションは目に焼き付いて離れない。
「うそ、でしょ・・・?」
「どうしたのカリナ嬢?」
いきなり様子が豹変したカリナを見てメディフィス夫人も身を乗り出す。
カリナが震える指先で示した人物は見紛うことなく――
メディフィス夫人の次男坊であり、カリナの正真正銘の夫である
ギルバート・フェルディゴールその人の後ろ姿だった。
そしてその横にいるのは―身長の高い後ろ姿にも美しい、女性だった。




