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カラリと乾燥した空気に肌がさらされてじわじわとした熱さを持ち始める新緑の季節。
ギルバートは夏用の軍服に着替えて、王宮内の将校用独身寮から【鉄の砦】まで伸びる並木道を歩いていた。
ざわざわと風でゆらめくコナラの葉の陰影が足元の舗道に映し出されている。
本格的な夏がもう一歩手前にまで迫っていることを感じさせていた。
――ようやくギルバートは背面に負った大けがが治癒し、
失血による著しい貧血も食事療法によってほぼ正常レベルにまで回復した。
怪我が治癒した時点でカリナは一足先に首都に戻って職務復帰をしたが、
ギルバートは貧血の回復に時間を要したため、首都の実家で1カ月ほどの安静を強いられた。
そしてようやくギルバートも体調が職務復帰できる程度にまで戻ってきたのでおおよそ2か月ぶりの出勤とあいなったのである。
二ーゼット公爵家で起こった一件については、現在秘匿されているため、
首都にいてもその話題が出ることはまずない。
御曹司については全く動向がつかめないが、公爵本人については今現在もきちんと王宮に出仕している様子だ。
しかし、その腹の中では何がうごめいているかはわからない。
そしてそれに下手に手を出せば、今、具体的な対抗手段を持たないこちら側が痛い目を見るのは目に見えている。
第二王子であるジェイドとも話し合った末、この件については、再び何らかの動きがあるまでは
静観の構えであるべしとの結論に至った。
それに関してはギルバートも異論はなかった。
しかし、何かあった後では全てが後手に回る。そうなったときに、安全を守れるかどうか。
その不安は決して拭い去ることはできなかった――
「全快おめでとうございます主任ーっ!」
「おめでとうございます~!!」
「やりましたねー主任!男の鑑っすよ!」
「いよっ、主任!!」
始業20分前。
自身が主任を務める警備隊の詰め所のドアを開けた瞬間、いきなり筋肉マッチョたちの掛け声が投げかけられた。
思わずギルバートは目をまん丸くする。
「な、なんだ??」
ギルバートが2カ月休んでいたことに関してはジェイド絡みの仕事で負傷したと、
あながち事実とは間違っていない情報が伝えられている。
普通なら、王族が依頼人として絡んでいる仕事を請け負ったとなれば、
政争にも絡む事態ではなかろうかと想像する人間がいても全くおかしくはない。
しかし、何故かジェイドの場合は
『ああ、殿下はまたなにか厄介な我儘をされたのだな。』
という認識でまかり通っている。まったくもって、人徳の薄い王子である。今回の場合もご多分に漏れないようだった。
「主任大変でしたね~。モルギーニ山の氷室に行ってかき氷用の氷をとってこいっていわれて、
崖から滑落したんでしたよね?
第二王子殿下の頼みごともここまでいくとほんとお笑いみたいですよね~」
「え?」
「いや、俺が聞いた話だと、ライラック産の暴れ馬の馬刺しが食べたいから捕まえて来いっていわれて
主任がロデオに挑戦したはいいけれど案の定振り落されたと・・・」
「はぁ?」
「ちがうちがう、主任は、マグロのカマが食べたいからと言われてご自身のご実家の船に乗って海に出たはいいけれど
途中大時化に出くわして難破しかけたって聞きましたよ~」
「ああ?なんだそれは!?」
どれもこれも何故か食べ物がらみと言うところがお笑い過ぎる点である。
仮にも王族の人間がこんなしょうもないことを武官の仕事を休ませてでも行かせるなど普通噂話が出るだけでも
おかしい話である。
しかし、ジェイド王子はそれがまかり通ってしまうのだった。本当に、王族として異端も異端である。
ギルバートは後で王子をシメに行ったる・・・!と心の中では不敬罪に値するようなことを考えつつ
部下たちの前ではそんなこともお首にも出さずに命令した。
「・・・詳しいことについては緘口令が出てるから言えないが、どれもこれも違う。
ジェイド王子殿下自身のトラブルというわけでもなく、ただ殿下に頼まれて地方に調査に行っただけだ。
それで俺自身の判断ミスでうっかり怪我をしたんだ。
王族の方の御不興を被るような無用な噂はこれ以上流れないように、もし耳にしても口にするな。風紀が乱れる。」
引き締まった口調でギルバートが告げると、その場にいた部下たちがみな一斉に敬礼し
「はっ」
と言った。一応軍隊なので、統率がとれるとれないは死活問題である。
ギルバートはミーハーっぷりで他の部隊と比べても群を抜いている自身の隊が時々不安に想うことがあるが
まだ命令系統が生きているのだと実感できたのでひとまずは安堵した。
・・・本当はこんな小さなことで満足してはならないのだが。
一抹の将来の不安を抱えつつギルバートは尋ねた。
「それで、不在の間何か問題はなかったか?
一応療養期間の1カ月は首都にいたから情報収集に努めたつもりだったんだが・・・限界もあってな。」
近くにいた円らな瞳のマッチョ部下がすいっと一人進み出て敬礼しながら言った。
「はい、主任。警備部自体では特に大きな問題はありませんでした。
主任が抜けた分のローテーションも他部隊との連携もあって、特に差し支えなく業務を行えた次第であります。」
「そうか。けれども、隊の皆には仕事を増やしてしまったのには変わりない。本当に助かった。」
「いえ、御心配なく。しかし・・・主任、問題は特になかったのはなかったのですが・・・」
そう円らな瞳のマッチョが目をしばだたせながら、他の隊員を促した。
すいっとでてきたのは、例の熱心なファンクラブ会員のコゼットだった。
「今週の週報を見てください。・・・これは相当に信憑性が高いと言われてます。」
またあの週報かとギルバートは少々呆けながらそれを手にした。
今まで無理やりに入会させられたカリナを信奉するファンクラブの週報は出鱈目なゴシップが大半を占めていた。
特に、カリナの色恋沙汰関係がそれだった。
ギルバートがらみのことで何回かジェイド王子の私室を訪れるだけで婚約者扱い、
そのあと国王陛下の私室に訪れただけで婚姻の了承が済んだなどなど、
根も葉もないことがよくもまあこんなにツラツラと、という具合に書かれていた。
しかし、一応、とはいえどもカリナの夫であり、ジェイド王子のすぐそばで働いているギルバートは真実を知っていても
その他大半に対してカリナは独身で婚約者はおろか恋人すらいないという認識で通っている。
そしてそのゴシップが誤解である根拠を示すことも、仮面夫婦のギルバートには難しいため
声高にこの週報が嘘っぱちでデマだらけだと叫ぶことはできない。
ただ、心の中で自分はカリナの夫だからと優越を味わうことぐらいがせいぜいだった。
そういった経験もあったので、ギルバートは特に心構えすることなく週報を手に取って見た。
―が。
「なんじゃこりゃああああ!?」
突如普段のクールな主任面が剥がれおちたギルバートの叫びに部下たちが目を剥いた。
「え、ちょっ、主任!?どうしたんですか!?!?」
「お、落ち付いてください主任、我々も同感ですから!!」
コゼットが脇から慰めてくるが、ギルバートはそれに耳を傾ける気すら生まれていなかった。
なぜなら
「『カリナ侯爵に新しいお相手登場!ハーヴィー・プレストンソン男爵(27)
コブつきの男やもめ!我々の宿敵としては好都合の成金だ!!』って誰だ?!」
「この男に関しては現在鋭意調査中です主任。お気持ちはよーくわかります。よーくわかりますが・・・」
「『先日行われた某貴族主催のパーティーに出席したカリナ侯爵。
パーティーと言った宴会には殆ど顔を出さないカリナ侯爵も、
この日は某貴族主催ということもあって出席なさった模様。
そして、いつもパーティーに出席する場合は同伴していらっしゃる貴婦人方と最後まで一緒におられることが多いが
このときは早々に同伴の方と別行動をおとりになり、このプレストンソン男爵のもとに行かれた。
二人は終始談笑され、いつもは足の調子を気にしてダンスは御控えになる侯爵も、
男爵に誘われ暫くゆったりとしたリズムでワルツを踊りなさったとの目撃情報がある。
カリナ侯爵も来週で20歳の誕生日をお迎えになる。御自身主催の誕生パーティーを催される模様だ。
そしてこの男爵がカリナ侯爵のそのときのお相手となる可能性も、著しく高いであろう。』
この某貴族主催のパーティーとやらはいつのことだ?」
「しゅ、主任ちょっと落ち付いてください。お気持ちはわかりますが・・・」
「・・・俺がいないあいだに、どうしてこんなことになってるんだ・・・?どうして・・・」
ぶつぶつとギルバートは呟きをもらしている。
『姫・・・俺が安静を強いられて動けなかったときにこんなことをしていたのですか・・・?
あなたに付き合いがあるのはわかってるけれど、ついこのあいだ男に無体をはたらかされかけたばかりなのに
どうしてこんなことができるのですか・・・?
もしかしてもしかしなくても、この男爵があなたの【本命】なのですか・・・?
愛のない結婚だというのはわかってます、わかってますが・・・』
そんなふうに呟き以外にもグルグルグルグルと頭の中で考え込みまくっていた。
そのため、今までにないギルバートのカリナに対する感情の露呈っぷりに対して、部下たちに
『この人、本気でファンクラブでも指折りの信奉者だ・・・・!』
と思われていたことには全く気付くことはなかった・・・
そんなこんなで精神的疲労の色を濃くしたままギルバートは家路についた。
経費節減で照明が落とされている薄暗い廊下をとぼとぼと自室に向かって歩いていると、
またしてもタイミング良く隣室の扉がバーンと開いた。
「よっ、ギルバートおかえり。快気祝いしないか?」
「・・・ドルフか。相変わらずだな、お前。」
ちらりと鬱屈した視線でギルバートがみやると、今日も見目麗しい近衛隊のアドルフは、きちんと折り目正しく着こなすことが
規則となっている近衛隊の制服をだらしなく肌蹴させて、片手には酒瓶をぎゅっとつかんでいる。
これが近衛隊の人間に知られたら即刻処分が待ち構えてそうな立ち居ふるまいである。
「んあー?湿気てんなお前。復帰早々なんかあったか?」
「なんかあったとかいうわけじゃないけど・・・」
ギルバートはもごもごと口ごもる。さきほど聞いたカリナの話が今も胸の中で渦巻いているのは自身が重々承知していた。
ギルバートの心中を感じとったのか、アドルフはギルバートの肩に手をぽんと置いて珍しく殊勝な顔をして言った。
「俺とお前の仲だろ?今日はぱーっと酒飲んでうっぷん晴らしたらどうだ?
長いこと怪我のせいでベッドから動けなかったらしいじゃないか。
それで今日いきなり世間の目まぐるしさってやつにガクーってきたんだろ?」
「・・・だいたい会ってはいるけど・・・」
「な?今日くらい酒をちょーっと飲んだっていいだろ?愚痴も聞いてやるからさ。な?」
普段はギルバートが酒の付き合い悪い。外の酒場にだって、ここ数年最低限の付き合いでしか出かけなくなった。
入隊当初からギルバートと知り合いであるアドルフは、昔ギルバートがどれほど遊んでいたのかつぶさに知っている。
だからこうなってから一番割を食ってるのは寮で最も仲がいいアドルフだった。
そうなると、ギルバートもこうまで言ってくれているのでさすがに断る理由も見つからなかった。
「・・・明日の勤務にさし障らない程度なら、いい。」
「そうこなくっちゃな。」
そのままギルバートは自室に戻ることなくアドルフの私室に招かれた。
脱ぎっぱなしの服や、カバンの中身がぶちまけられているが、足の踏み場がないほどまで荒れていないところが
アドルフの半端加減さをうまいこと表しているような部屋だった。
そして部屋の真ん中に置かれているテーブルに酒瓶がいくつか乗っけてある。
蒸留酒やワインなどのこってりとした液体の色合いが薄暗い照明に生えて艶めかしい。
怪我をしてからひたすら清貧に努めてきたギルバートにとって久々に欲が出る光景だった。
「そこに座れよ。大したつまみもないけど。」
そう勧められてギルバートは席に着いた。反対側の椅子にはアドルフが着く。
――それから二人は適当なことを話ながらちびちびと酒を飲みはじめた。
ワインの二本目を開けるか開けまいかというとうとうアドルフは本題に切り込んできた。
「・・・で、さっき妙に暗そうな顔色だったけど、なんかあったのか?
復帰早々身体がキツかったってわけじゃねえだろ?」
「・・・ああ。・・・身体のことじゃない。」
「じゃあ、なんだよ?お前がそんなに沈んでるって今まで見たことないぞ。」
真剣なまなざしでアドルフが見つめてくる。この男にしては珍しい心配のしようだった。
そんなに酷い表情だったかなとギルバートは自嘲気味に口元を歪ませた。
「今日・・・気になってる人に男がいるかもしれないって噂を聞いたんだ。ただそれだけだよ。」
「へぇ。お前、いつの間に恋する男になったんだ?あんだけさんざん遊んでたくせに?」
「昔のことなんて今掘り返すな。」
そういってぐいっとコップに残った分を全部煽る。胃に溜まったと感じたその一瞬、視界がふにゃりと崩れる。
久々の酒に身体が慣れていないらしい反応に戸惑いを覚えるが、すぐにそれも収まって次へと手が伸びた。
「つったって、お前の遊びっぷりは俺でも尊敬するぐらいだったんだぜ?
入隊して僅かって言うのに、夜な夜な歓楽街まで遊びに行くやつってお前ぐらいだったもんよ。
よく上司に見咎められなかったもんだと皆思ってたんだ。
それが何年か経っていくうちにどんどんその回数も減って、今じゃ仲間と行くっていうだけでも躊躇ってんだろ?
なんかあんだろーなと思ってたけど、・・・へぇ。お前にも惚れた女ができたら一途になるもんなんだな。
意外だ意外。」
そういって酒をすすっている。せせこましくちびちびいく感じなので、多分こちらを酔わせて潰して
何もかも吐かせる魂胆なのが見えた。それに乗るまいかとピッチを調節するようにグラスを揺らしてみる。
「・・・意外じゃないさ。人生こうなることもあるってことだ。」
「へぇ。で、その人に男がいるかもっていうが、まずその人ってどんな人?俺の知ってる人?」
「・・・手の届かない人だ。ずっと遠いところで、俺なんか、何年かかっても辿りつけない高見にいるよ。
高嶺の花とか傾城の美女って言葉を今まで真に受けたことなんてなかったけど・・・
初めて彼女にはその言葉しか似合わないって思った。それくらい、美人だし、度量がある。」
「ほぅ。お前がそんな人と出会うだなんてなあ・・・誰なんだろな。」
心底うらやましいといった表情で酒を傾けている。
本当はカリナのことならアドルフみたいな近衛隊の人間ならよく知っているはずだ。
そして、そんな人とギルバートに縁なんてとてもではないけど思いつかないのもよく知っているがゆえなんだろう。
言わない限りは気付かれないもんだなと少し寂しくギルバートは思った。
「誰なのかは・・・秘密にさせてくれ。彼女に対して俺がどう思ってるかなんて彼女自身は全然知らないんだ。
できることならこのままずっと胸の内に隠す気でいるつもりだ。」
「かぁー、あんだけ女を手玉にとってたやつがこんな殊勝なこと言うとはなあ。俺も年食うもんだぜ。」
アドルフはやってられねーといった具合にパタパタと手でほてった顔を煽っている。
確かに独り身の人間にこんなことを話すのは惚気話をしているのも同然である。
でも、酔っているせいか言葉は止まらなかった。
「もうすぐ彼女の誕生日で・・・何をあげるべきか迷ってるんだ。
彼女は特定の男と付き合ってないはずなんだが・・・もしかしたら噂通り男ができたかもしれない。
彼女は綺麗だから、噂は本当に絶えるってことがないんだ。
その男も本当に単なる噂なのかもしれない。でも、確証はないんだ。
なあ、俺はどうしたらいい?何をあげて引きつければいい?」
「そこまで必死なのか、お前。」
「・・・ああ。多分。」
酒の酔いだと誤魔化したい。
けれどたぶん、これが酔いが引きだした本音だということはギルバート自身、痛いほどよくわかっていた。
「んで、その彼女は何が好きなんだ?」
「何がって・・・好きなものはともかく、貴金属類とか、とにかく金目のものは全然興味がない。
むしろ彼女自身俺の何倍も高給とりだからそれくらい自分で買いそろえるって人だ。
それでなくても、彼女の誕生日は色んな男からそんなプレゼントが一気にくるんだ、飽きて当然だと思う。」
「へえ、結構よく目のないお嬢さんだな。」
「ああ。それで、育ちのせいか、自然が好きな人なんだ。
こっちに来てからはそういう世界から切り離されてしまってしまったからか、
故郷の野原とか飼ってた動物とかの話になると、花が綻んだような笑顔を見せてくれる。
多分そういうものをあげればいいんだろうけど・・・俺にはさっぱりわからん。」
「ふーん。」
一言頷いてアドルフは一杯ウイスキーを嘗めた。いつの間にかワインボトルが空になって次の銘酒に変えている。
そして、何やら瞑目して思案していたようだったが、思いついたことがあったのか、
ゆっくりと伏せていた目を上げてギルバートにいった。
「お前のその恋い焦がれてるって言う女性・・・もしかして。」
「えっ?」
ま、まさか今の話だけでカリナだとわかったのか・・・!?とギルバートは焦る。
早鐘のように心臓がどくどく言う奇妙な沈黙が暫くの間続いたのち、アドルフは告げた。
「『リガーズ』あたりの高級娼婦か?」
「は?!」
ズサッと椅子から転げ落ちそうになった。よ、よりにもよってカリナと対極にある女性像ではなかろうか・・・?
「違うのか?だって男から信奉集めてさ、貴金属類は飽きるほど貰ってる、金は持ってるわ、超美人だわつったら
このご時世高級娼婦くらいしかいねえだろ?」
「ま、そ、そうだけど・・・」
もっとなにか他に思いつかなかったのか?と言いたくなったが余計な情報を与えてカリナに辿りつかれても困るので
言い留まっていると、ぽんっと、アドルフが肩を叩いてきた。
「お前、苦労してんな。わざわざ自分の父親と同じ轍を踏まなくてもいいんじゃねえの?」
いやいや、勘違いだよ勘違い・・・と思いつつも訂正することはかなわず、
誤解がとかれることはなくその夜は更けていった・・・




