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時を遡ること4年前。まだ、この夫婦が結婚して1年経つか経つまいかという頃のことだった――
情報員として各地を飛び回っていたギルバートはその日、ようやく地方での軍事衝突の処理を終えて
3か月ぶりの帰京したところだった。
報告書を軍に提出して、そのままくたくたになった身体を休めるために寮に戻ってくると、
管理室にいた寮監がギルバートの姿に気付いて小窓から顔を出してきた。
「えーっと、フェルディゴール少尉ですね。長期任務お疲れさまでした。
ご実家からお手紙を預かってるのでどうぞこれを持って行ってください。」
「ありがとう。」
一言返事をするだけでも面倒だというのに、この上実家から手紙が送られてきただと?
今はただひたすらベッドに突っ伏して安眠を貪りたいギルバートにはほんの些細な動きでさえも
億劫で仕方がなかった。
疲れによって悲鳴を上げている身体に鞭を打ちながら、ギシギシときしみを立てる廊下を進んで、
ようやく最奥にある自室に辿りつく。
が、いきなりバーンと勢いよく隣室の扉が空いた。
「おう、ギルバート。久しぶりだな、任務御苦労さま。しっかし、かなり疲れ気味って感じだな。」
「ああ・・・アドルフはいつも元気で羨ましいよ。」
ギルバートの入隊当時からお隣にいるアドルフが自室から顔を出した。
彼は、一般採用では奇跡的ともいえる近衛隊の配属であることからもわかるように、見目は非常に整っている。
しかし、内実は下世話なことが好きな、どこにでもいる青年である。
「ギルバート、手に持ってんのはなんだ?」
「ただの手紙だよ。寮監が預かってくれてたみたいなんだ。」
「ふ~ん、それって恋文?」
「はぁ?何くだらないこと考えてんだよお前。こっちは疲れてるんだから、くだらない話はやめてくれ。」
心底、むかついている、という表情を浮かべるとさすがのアドルフも汲み取ったのか、
普通の質問をしてきた。
「恋文じゃないなら、だれから来たんだ?」
「実家だよ実家。多分、うちの母さんからだな・・・」
ギルバートの母は先年、ようやく25年にも渡ってほぼ内縁状態だった父と結婚した。
お陰でギルバートも結婚をするという、どう考えても割の合わない羽目に陥ったのだが・・・
「ふーん、そうか。んじゃ、もう今日は身体を休めろよ。」
恋文ではありえないとわかったからか、とたんアドルフの興味は冷めたようだ。ものすごく素っ気ない言い方である。
相変わらずすぎる態度に、ギルバートは思わず苦笑しながら
「ああ、わかったよ。おやすみ。」
と言って自分の部屋に入った。
何カ月も空けていた部屋だったが、定期的に掃除をしていてくれていたらしく、カビやほこりっぽい臭いはしない。
しかし、窓を開けてくれるところまではしてくれなかったようで、部屋の空気はどことなく淀んでいた。
せめて寝る前までは、と思って、ベッド際の窓を開ける。
既に夕日が沈んで暗くなった空には、星がきらきらと散りばめられている。
それを背にしてギルバートはベッドに腰をかけた。そして脇のサイドボードに置いていたランプに
マッチで火をともすと、ベッド回りだけがぼうっと浮き上がるように明るくなった。
その柔らかな光の中、早速送られて来た手紙にナイフを入れる。
すると、出てきた便箋は、今までギルバートが見たことのない筆跡だった。
『もしかして・・・母さんじゃない?』
急に眠気が覚めて、ギルバートは釘づけになるように便箋を読み始めた。
【ギルバート氏へ
権利関係の問題で、あなたの承諾とその署名が必要になりました。
つきましては、あなたの指定される時間で構わないので、
都合がつきましたらこちらへいらっしゃる日付をご連絡をください。
カリナ=フェイト・ハイライド】
流麗な筆致の、用件のみが書かれた簡潔な文章だった。
実家であるフェルディゴール経由で送られて来たのは、おそらく結婚をひた隠しにするギルバートへの配慮だろう。
細やかなカリナの気遣いを感じるとともに、
文章に書かれた『権利関係の問題』という謎めいた言葉が頭の中をぐるぐると回り始めた。
『権利関係の問題・・・わからない。俺は直接経営とかそういう問題には手を出せないから
さっぱりそういうことには門外漢なんだけれど・・・』
しかし、署名がいる、ということは、なんらかの契約に関する問題であることには間違いないだろう。
そして現時点でギルバートがハイライドとかわしている契約で、すぐに思いつくものと言えば。
『婚姻、しかないよな・・・?』
貴族家の息子とは言え、後継ぎから外されている、一武官でしかないギルバートと、
大貴族の家督を継いで、更には大臣職も拝命しているカリナとは、天と地ほどの差がある。
そんな彼女と、結婚してからというものの一度も一つ屋根の下で生活したことがないこの状態では、
いつか時期が来れば離婚の二文字も浮かび上がってくることだろう。
もしかしたら、それが今なのかもしれない、とギルバートは疑っていた。
地方回りをする情報員は、長期スパンで仕事をこなすことが多い。
そのため、一つの仕事が終わると長めの休暇を取得して、それから次の仕事に向かっていた。
ギルバートもその一人だったので、折しも2週間のまとまった休暇を貰っていた。
帰京してから死んだように丸二日ほど眠り続けたのち、ようやく起き上がって、
今、ギルバートが歩いている場所は、一般人が寄り付くこともないだろう高級住宅街と呼ばれる地帯の一角だった。
殆どの貴族たちが所領に本邸を持っているため、どれだけ本邸よりもお金をかけていたとしても
首都にある家は全て別邸と呼称される。
ハイライドもまた、他の貴族たちの家に比べても抜きん出て規模が大きく、重厚なたたずまいをした家を
首都に所有していても、それはただの別邸でしかない。
ギルバートは首が痛くなるほどに見上げる。そうでもしないと全景が視界に入らない。
「・・・すごいな・・・」
おのぼりさんのような状態でハイライド邸を眺めていると、正門に配置されていた門兵が不審な顔をしてギルバートに近づいてきた。
「ハイライド家に何用か?」
「こちらの御館様にお会いするためにやってきました。」
素直に事実を伝えるものの、なんでお前みたいな、付きの者もいないようなやつが?という目で門兵がせせら笑ってきた。
カチンときたのでギルバートは懐から手紙を取り出して見せつけた。
「正真正銘、カリナ=フェイト・ハイライド様からの呼び出し状です。これを見てもまだ疑いを?」
手紙にはカリナのサインが入っている。取次の仕事をしているのだから、この家の主の筆跡は門兵も見たことがあるはずだ。
予想通り、急に顔を青くさせている。
「し、失礼いたしました。どうぞ中へ。」
そういって慌てて通行者用の門を開けた。ていねいに手入れされ、折々の花が咲いている庭を抜けて、
外壁がクリーム色の洋館に向かう。
吹き抜けになっている玄関には、すでにひっつめ髪の若い女性使用人が一人待ち構えていた。
深くお辞儀をするのでギルバートもぎこちない所作でそれにこたえる。
「お連れいたします。」
いったい、カリナとどういう関係なのかということを聞いてくることもない。
ただ、陽光の差し込む廊下を先導してくれるだけである。
もしかしたら知らされているかもしれないし、知らされていないかもしれない。どちらかはわからない。
ただ、カリナが選んだけあると思うのは、余計なことは一切喋らないし聞きもしない。
有能な人なんだろうなとギルバートは感じた。
導かれるままについていったギルバートは、いつの間にか館の3階部分の最奥に到達していた。
「こちらです。」
手で示される部屋にギルバートは恐る恐る入って行った。
その部屋は木目調で統一されていた。いつか見た、ハイライドの本邸と似た雰囲気を持っている。
ところどころに白いレースがかけられていて、それが女性が主の部屋なのだとわからされる。
そして一番目につくのは、壁一面にぐるりと配置されている本の数々。
おそらくここは書斎なのだろうが、普通、貴族の婦人はこうした部屋を持つことはない。
しかし、ここの場合――
「お久しぶりです。結婚式以来、じゃないかしら?」
採光を重視した、大きなガラスの嵌めこまれた窓を背に一人の女性が座っていた。
大きな机の向こう側からこちらを見ている。
ギルバートは、多分、その後光の差し込む姿を見たこともあったのだろうが、天使のように見えた。
「つい先ごろまで仕事で地方に行ってたそうね。情報員も大変ね。」
「いえ・・・俺は専任の情報員だからまだ楽なほうです。兼任の人に比べると・・・」
「兼任の場合は表の所属があるものね。それにあちらのほうは、仕事がいわば身内探り。
精神的な負担も人一倍ってところよね。」
適当に仕事の話をしながらも、ギルバートはカリナに視線を注いでいた。
陽光に光る金髪は、相変わらずどんな手入れをしているのかと不思議に思うほど艶やかで豊かだ。
紺碧の瞳も、まるで本物の宝石がはめ込まれているように輝いているし、唇の色づき加減も絶妙としか言いようがない。
そしてなにより、この1年で彼女は随分と大人びた。
大人社会に放り込まれたせいもあって、表面的な幼さが薄れている。
これでますます大人としての色香でも磨かれでもしたら、周りの男たちは放っておかないだろう。
そう思わせる容貌だった。
そしてカリナは容貌を誇示しない。
自分の魅力がわかっているのか、わかっていないのかどうかはギルバートにはあずかり知らないが、
常に着るものは質素で、アクセサリーも必要最低限のものしかつけない。
よっぽどの場合―たとえば結婚式のような―でない限りは、おそらくカリナは着飾ることをしないだろう。
勿論、着飾らなくとも、生来の美貌が既にその代わりとなっているという部分も大きいに違いない。
そんなカリナがすたすたとギルバートの下に近付いてきて、
男女二人の逢瀬には実に無粋な、権利書と書かれた紙をつきつけた。
「今日あなたを呼び出したのは『リガーズ』の年間会計のことについてよ。
あなたも覚えていらっしゃると思うけど、『リガーズ』の経営者名はあなたになっているでしょう?
だからあなたのサインがないと、監査報告が出せないのよ。」
ああ、とギルバートはようやく合点がいった。
『リガーズ』とは、ギルバートの母であるコンスタンス・メディフィスがその母から受け継いだ
国内随一の高級娼館の名前である。
コンスタンスもまた妓女の一人として歓楽街の頂点に上り詰めるなど、『リガーズ』の評価は名高い。
なぜ、息子であるギルバートが娼館を受け継ぐことになったかと言うと、
この結婚の持参金に娼館の経営権が含まれていたからだった。
持参金は、普通は花嫁の実家が嫁ぎ先に支払うものである。
しかし、この結婚の場合、ギルバートが婿入りをしたのでフェルディゴール側がその持参金を払う役目を負った。
普通は、大金と、貴金属、他には絵画や高価な食器類、そんなものが持参金と言われる。
しかし、ハイライド側はそれらは要らないという代わりに一つの要求を出した。それは
『フェルディゴール家が持つ、貴金属、芸術作品、土地、屋敷その他諸々全て含めた中で
一番評価価値が高いと思われるものを、一つ、持参金に含めること。』
といったものだった。
その、的を得ない要求にフェルディゴールは困り果てた。
評価価値、ということは金銭的価値と等価ではないということだ。
しかし、ものによったら金銭的価値よりもフェルディゴール家では価値の高いものだってある。
例えば、フェルディゴールが経営している、最近うなぎ上りに業績があがってきた海産業の経営権利だとか、
はてまて、昔から所有している、その昔の王侯貴族が所有していたといわれる曰くつきの大粒のブラックダイヤモンドなど、
評価価値を優先すればするほど、簡単に譲渡できるようなものは見つからなかった。
そんなあるとき、ギルバートと共に結婚を果たしたコンスタンスは夫に相談した。
「ねえ、リチャード、私が持ってるわよ。その、評価価値が高いっていうものの権利。」
それが、コンスタンスが母から受け継いだ『リガーズ』の経営権だった。
コンスタンスの母が築いた高級娼館は、おもに貴族や富豪たちが莫大な金を使って一夜を遊び過ごすところだった。
コンスタンスの母の時代には、時の王も訪れるほどの盛況だったといい、
今は、女王の御代ということもあって、王族が訪れることはなくなったが
それでも多くの金持ちたちがお金を落としていく場所であることに変わりなかった。
もしかするとこの国にいくつかある歓楽街の中でも一番と言われる程の、客層の富裕さと、妓女たちの美しさ、
そして莫大な利益。
『夜の産業』という点で絞れば、『リガーズ』に勝る評価価値を誇るものはおそらくない。
そういってコンスタンスがギルバートに経営権を譲渡する形で持参金に含めたのである。
言わずもがなハイライドはその対応に苦慮した。
貴族が歓楽街を利用するのだから、経営者名をごまかして娼館を持つことぐらいはよくある話である。
しかし、『リガーズ』を持つということは、話は変わってくる。
財政界の重鎮御用達の店の経営が何ものかに譲渡されたとなると、恐らく多くの人物がその譲渡先を探すのは明明白白。
勿論、己の今後の利用に関わってくるのだから把握するにこしたことないのだろう。
しかし、それがハイライドに渡ったと知られた時に、どう釈明するか。
それが一番のネックになったのだ。
ハイライド家は、思わぬ荷物の大きさの前に、なんとか一つの答えをひねり出した。
――それが、ギルバートの名前を経営者名に出すことで、ハイライドとの繋がりをもみ消すことだった。
お陰でギルバートは、軍法に定められている
『武官は副業を持つこと勿れ』
という規定に抵触して軍法会議にかけられ、危うく何らかの処罰を受けかけたが
ハイライドの根回しもあったお陰か、なんとか家業の認定を受けることで免れるという羽目に陥った。
因みにギルバートはそのお陰で他の武官たちにある意味で羨望のまなざしで見られることになる。
そんなこんなであまりギルバートには思い出したくないお荷物だったのだが。
「監査報告、ですか。」
「そう。1年の経営状態を書類で出してきてるから、あなたが了解のサインをしないと官庁に報告できないのよ。
仕方ないでしょ?」
「確かに、仕方ないですね・・・」
できることならハイライドですべてその辺も処理してほしいものだったがどうにもならないこともあるらしい。
ギルバートは渋々了承した。
しかしそれだけでは飽き足らなかったのか、カリナはあっと驚く仰天な言葉を口にした。
「じゃあ、今から行きましょ、『リガーズ』へ。」
「そうです・・・って、い、今なんて!?」
「え?なんで聞き逃すのよ。『リガーズ』に行きましょう、って言ってるのよ。
もう馬車を出してもらってるからすぐに出発できるわよ。」
なんでもない風にカリナは誘ってくる。
しかし、行先は紛れもなく、歓楽街、だ。
普通、夫婦、いや、どころか女性が行くような場所ではない。
「こ、こんなことって普通あるか!?」
ギルバートの叫びは当然のごとく、誰にも受け止められることはなかった。