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ギルバートが満身創痍で牢から出てきたその頃。
カリナはそのギルバートを探し求めて爆破によって崩壊しかけている本邸に足を踏み入れていた。
大理石が敷き詰められて、頭上高くの青空を見上げることができる吹き抜けの玄関ホールは既に跡形もなく崩れ
がれきの山が出来上がっていた。
カリナは躓いて転んでしまわないように、杖の先をがれきの隙間に差し込むようにして突いて、バランスを保つ。
そして慎重にその間をすり抜けるようにして前へと進んだ。
『この先を行けば食堂に行く廊下はずなんだけど・・・これってもしかしなくてもふさがってる?』
食堂近くにある厨房横の地下へ下りる階段を探しているカリナにとっては
必ず通らなければならない場所だったが、そこはすでにがれきで塞がれて身を滑り込ませる隙間すらない。
しかも、がれきの一つ一つは小さいものでもカリナの頭大はあり、非力な女性の腕はもちろん、
男性でも、もしかしたら普段鍛えているような人間ではない限り持ち運べないような重さだろうと推測できた。
となると、ここは回避して迂回するしか先へゆく道はない。
『こうなったら裏口のある厨房に回るしかないじゃない・・・
ということは庭にもう一回出て屋敷をぐるりと半周はしなくちゃいけない。
更に言えばそこへ行く道のりの途中、客間があるあたりを必ず通るわ。
もしかしたら・・・倒壊しているだろうから、ここ以上にもっと通れなくなっている可能性が高いかもしれない。』
カリナは見通しの暗さにため息をついた。
思った以上に時間がかかる作業になりそうだ。
カリナの場合は普通の人と違って杖をつく必要がある不自由な片足があるから、もたもたすることは必定だろう。
それに、これで爆発が全て終わったとは決して断じることはできない。
他にもいくつか爆弾が仕掛けてあって、今か今かと爆発の時を待っているかもしれない。
そのときに通りかかった場所の運が悪ければ、爆発に巻き込まれて命を落とす危険性もある。
―――自分の命を懸けてまで、『書類上の』夫であるギルバートを助ける必要があるのだろうか?
カリナは自問自答した。
『彼は確かに傷だらけで動くに動けない状態だった。
でも、彼には私にはない体力があって、運動能力があって、鍛錬された危機回避能力がある。
私なんかよりもずっと命懸けの危機を知っているし、ときには経験も伴ったこともあったはず。
彼がダメだと思った時は本当にダメなんだし、彼がやれると思った時は本当にやれるんだろう。
私みたいな戦力にならない足手まといの人間が出しゃばれば出しゃばるだけ、
その彼の判断の精度を鈍らせてしまう。
・・・そもそも私は彼の書類上の妻で、実際には殆ど関係という関係もなくて、
今回ついてきて貰ったのだって私が直接頼んだわけじゃない。
彼が、勝手についてきた・・・だけだもの・・・』
そう、無慈悲な言葉が思わず脳裏に浮かんだ。
けれどもカリナ自身が一番よくわかっていた。
本当はそんなことが言いたいわけじゃない。本当は・・・
『・・・それでも彼は私を守ってくれた。
だからこそ彼はあそこに囚われた・・・全部、私がやろうとしなければ起こらなかったことばかり。
自分が起こした尻拭いも自分でできなくちゃ、どうしてここへ来たのか、全く意味がないじゃない・・・!!』
カリナは両手で両頬をパンパンッと叩いた。
目が覚めるような思いだった。
ここにきて味方してくれる人間はギルバートたった一人だった。
そんな人を、たかだか自分の身を惜しむだけで放っていくなどカリナには赦されない。
今ここに関係性なんて必要ない。
あるのはただ救いたいという気持ちだけ。
『・・・どうなってもいいから、ギルバートだけでも助けたい・・・!!』
――そう、心の中でカリナが思ったことと
実はギルバートも全く同じ気持ちであったとは
このとき二人は知る由もない。
そうしてカリナは再び元来た道を戻って、今度は庭を迂回して裏口のある厨房に向かうことにした。
しかし、瓦礫の落ちた庭は、ここへ到着した当初、春の陽光を受けてあれほど咲き乱れていた花や植木は
無機質な岩に押しつぶされて無残なことになっていた。
『今まであったものが呆気なく壊れるなんて・・・』
堅牢な城が一瞬にして廃墟となる様子をカリナは垣間見しまった。
ただ、廃墟と違うのはぱちぱちと炎の爆ぜる音が聞こえることと、今にも
新たな倒壊が始まりかねない危険性を秘めているところだった。
『またいつ爆発が起こるかわからない。時間が空かずに起こるのか、それとももう二度と起こらないのか。
どっちにしても、早くギルバートを助けだしてここから逃げ出さないと
きっと彼の体力のほうが持たなくなってきているはず・・・!』
客間部分にさしかかったあたり、カリナはそこで立ち止った。
カリナも当初客人としてここに到着した際に通されてはいたその部屋の姿は一変していた。
舞踏会も開けるようにと設えられた客間の広さは100畳ほどあり、
壁は鏡張り、天井は絵画の意匠が凝らされ、重たいシャンデリアがぶらさがっていた。
それは堅牢で剛健なイメージを抱かせる城の中で唯一華美と派手さが前面に出ていた、一種、異質な部屋だった。
それが、今や根底から叩き潰された。
外から中が覗けるほどの大きな穴が外壁に空き、モウモウと外に向かって煙が噴き出し続けている。
一見炎が出ているようには見えなかったので、奥のほうで火がくすぶっているのだろう。
もしかしたらそれが火事に繋がるかもしれないと予見できた。
さらにはガラガラと何かが崩れるような音も小さいながら断続的に続いている。
・・・この城の軸から瓦解するまでのカウントダウンを刻むかのように。
『急がないと・・・!!このままだと何が起こっても不思議じゃない・・・!』
カリナは歩く速度を速める。とはいっても杖をついているのでそれにも限界はある。
一歩一歩確実に前を歩むことが今できるカリナの精一杯だった。
――そのとき、それは起こった。
一瞬カリナにはそれが何なのか分からなかった。
ガラガラと相変わらず鳴り続けていた瓦礫の崩れる細かな音に潜むように、
始めはかすかな振動を伴ってカリナの体に伝わってきた。
「な、何っ!?」
思わず声に出たころにはもう遅かった。
ガクガクと足の裏から揺さぶるような地響きが伝わってきたとき、先ほど辿ってきた本邸の玄関部分から
いくつもの火の玉が飛び出るような爆発が目に写りこんできた。
「あ・・・」
あまりの衝撃にカリナは声が出なかった。
ドオオオオン、という耳をつんざくような爆発音が聞こえたと思ったら
次の瞬間にはその爆発音を上回るような瓦礫の倒壊の音が辺りを席巻し始めた。
ガラガラという生易しい音ではない。
何かと何かがぶつかるすさまじい衝撃が音となり波となり身に響き渡る。
まるで地震のような規模の大きさにカリナは立っていられず、がくりと膝を地面につけた。
這うようにしてそれをやり過ごそうとするも、なかなかその揺れは収まらない。
どころか、感じる揺れは酷さを増す一方だ。
『う、嘘でしょう・・・?何が起こってるの・・・!?』
見上げようにも揺れの大きさで体を動かすことすら厳しい。
相当な負荷が揺れという圧倒的な脅威によって生み出されて状況はますます悪化の一途をたどっている。
『どうしよう・・・!!動けない!!』
ガラガラと今にも頭上で落ちてきそうな崩壊の音が頭の中で乱反射している。
このままここから動けなければ、落ちてきた瓦礫で、死ぬかもしれない。
そんな想像がカリナの脳裏を駆け巡ったとき。
なにかがサッと目の前で動いたような気がした。
影のような、黒いものが地をかすめて、カリナには日の光が見せた一瞬の幻のように見えた。
『なんだろう・・・?』
窮地に陥っていて、あまり思考の回転が速くないカリナにはその物体の正体がなんなのかがわからなかった。
しかし、頭が割れそうな破壊音が辺りに響き渡り始めたとほぼ同時ぐらいに、その影はカリナの身を包みこんだ。
温かいそれはカリナの背中の上に被さり、荒廃した外界との接触を遮断するように守ってくれていた。
まるで、献身的な守護者のような強さを感じるほどに。
カリナはこの状況下にも関わらず不思議な安心感を持っていた。
おそらく、二ーゼット領に着いてから殆ど初めてと言っていい安息の瞬間だった。
正体はわからなくてもいい。なのに、身を任せられる。
そんな、異常ともいえるような心地にあったとき、突然耳元をくすぐるように囁かれた。
「姫・・・お怪我はありませんか?」
・・・何度も何度も聞きなれたギルバートその人の声だった。
「ギル・・・バート・・・?」
上手く声が出ている自身がカリナにはなかった。
今から助けに行こうとしているはずの相手が、窮地の自分をどこからともなく助けに来たのだ。
そして今この身を温かに包んでくれている。
あまりの予期せぬ出来事がカリナはただ茫然とするしかなかった。
今も尚、瓦礫の崩れるような音が響き渡る中、自分のいる所だけが不思議と別世界のような空気を持っていた。
「なんでしょうか、姫?」
「ほんとに・・・ほんとうに、ギルバート?」
上に覆いかぶさっていて顔が見えないため、しつこくカリナは尋ねる。
すると笑ったような体の振動が背中に伝わってきたと思った次の瞬間には、温かな声で答えが用意されていた。
「ほんとうに、俺はギルバートですよ。あなたを助けに牢屋から這いずり出てきました。」
カリナは、優しい声音で言われた言葉だというのに、急に涙が出てきた。
簡単に牢屋から出てきたというものの、どれだけの艱難辛苦を乗り越えてきたか、それは計り知れない。
それも、カリナのためだけだという。
ここまで献身的に思われて、カリナは平気な顔はしていられなかった。
いきなりカリナが黙りこくったのを感じたのか、ギルバートは打って変わって焦り始めた。
「ど、どうしました?!どこか痛いところでも・・・?」
「違うわ・・・嬉しくって泣いてるだけよ。あんまり気にしないで。」
「な、泣いてるって・・・」
いつもと違う調子のカリナにギルバートは驚いているようで更に動揺を招いてしまったようだ。
カリナは動揺しているらしきギルバートの表情を勝手に想像して微笑んだ。
「もうダメだって何度も思ったけど・・・奇跡みたいにあなたが助けに来てくれた。
ほんとは私が助けに行くつもりだったのに・・・自分がふがいないのも泣けてくるけど、
それよりもずっと、あなたが私の目の前にいてくれるっていうことのほうが嬉しい。
だからこれは嬉し涙。」
そう、感情のままに伝えたつもりだったのだが意外にもギルバートは堅そうな声音で返事した。
「でも・・・まだ俺達は助かってませんよ。ここは、未だに敵の手の中です。」
現実は、まったく好転していない。
むしろ、ここからどうするかが後々の運命を分けると言ってもいいくらいである。
カリナは今まで浮かれていた自分を恥じた。
「・・・そうよね、ほんとに喜んでいいのはここを出てからよね。ごめんなさい、一人で浮かれちゃって・・・」
「いえ、謝られることなんかじゃ・・・二人で助かったらいくらでもうれし涙を流してください。
そのときのために今は早くここから出ることが先決です。」
そういってギルバートはカリナの上からどいて立ち上がった。
いつの間にか爆音はやんでいたようだった。
あたりは一瞬間だけ無音になったような静寂な空間になった。
焦げ臭いにおいも、今はなぜか気にならなかった。
ただ、目の前にある人の陰だけがカリナが今いる場所の全ての閉じられた世界だった。
カリナは頭上から差し伸べられた、この上なく頼りになるその手にすがるようにつかまり、立ち上がった。
二人はそのままお互いを支え合うような姿勢で炎が迫りくる中をただひたすら歩いた。
目指すは高い塀に囲まれたこの敷地内で唯一の入口である、可動式の橋を目指して。
ただ、いくつかの爆発のうちの中に、もしかしたらこの橋も爆発で破壊されている可能性があった。
そうなれば、救援を待つ前に同じくこの敷地内に閉じ込められた兵士たちに見つけられて、
ギルバートだけでなくカリナまでもが何らかの危険にさらされる可能性は十分に高かった。
それは、御曹司ですら未だ閉じ込められたままだという意味合いも示している。
最後の最後に敵陣のど真ん中に二人してつっこんでいかねばならないかもしれないとは
つくづく運が悪いなとカリナは考えた。
ギルバートは肩を借りながらそのカリナの言を聞いて軽く笑った。
「確かに俺たちは運が悪いですね。でも、逆に考えてみませんか?」
「どういうこと?」
「二人で最期まで一緒にいられそうだ、って。」
「・・・それって・・・」
最悪の事態を想定している、という意味合いだった。カリナは消極的な考えを振り払うように頭をぶんぶんと振った。
「死になんかしないわよ!二人で助かるんでしょう?そんな、そんな悪い考え・・・」
「俺はずっと牢屋にいるときは、ああ、このまま一人で生き埋めになって死ぬ、
それか閉じ込められて飢餓状態になって死ぬんだ、ってばっかり考えてました。
でも、今は、一人じゃないんだと思うと、敵の手のど真ん中に突っ込むのもいいかもしれない、って思えるんです。」
「・・・やめて、死ぬなんて言わないでよ・・・」
「もしかしたら姫だけ御曹司にさらわれて俺だけ暴行されて死ぬってのも十分あり得ますけど
それでもいいかなって・・・最期に姫が生きてるのを見れるだけでもめっけもんですよ。」
「あなたバカじゃない!?死ぬことを嬉しがるみたいなこと言わないでよ・・・」
否定する材料がどんどんなくなってきてカリナは涙が止まらなくなってきた。それでもなおギルバートは続ける。
「今まで、結婚のありがたみって全然わからなかった。
高嶺の花のあなたなんて手を伸ばしても全然届かないし、自分が惨めで仕方なかった。
でも今日、やっとあなたと初めて結婚してよかったと思います。ほんとうに。」
「こんなときに、思わないでよ・・・」
歩んでいくうちに視界の中に人の黒山の人だかりが見え始めてきた。予想通り橋に人が詰めかけているようだ。
こうなれば最悪の事態は覚悟しなければならない。カリナは膝の力が抜けそうな恐さを感じていた。
それを知ってか知らずか、ギルバートは突然立ち止ってカリナの目の前に立った。
そしてカリナの両肩に手をかけて瞳を覗きこんだ。
「・・・二人で一緒に死のう、なんて嘘ですよ。怖がるあなたを連れていけるわけないじゃないですか。
俺一人で十分です。
最後にあなたに想われて泣かれるなんておいしい思いをさせてもらえましたしね。」
「どうして、どうして置いていくの・・・?あなたがわざわざ行く必要なんて・・・」
「今回のこのクーデターを起こした人物から聞いたことなんですが、どうやら外に救援は呼んだようなんですよ。
ただそれがこの中に入ってくるには、少々あの兵たちをバラまいとかないといけないようで・・・
ちょっと応援に行ってきます。
あなたはそこの茂みに隠れて沈静化するのを待ってください。それまで決して顔を見せてはいけませんよ?」
「わざわざ行かなくてもいいじゃない・・・!!!やめて、やめてよ・・・!!」
ギルバートは駄々をこねる子どもを宥めるように、カリナの涙の流れた頬をさらりと撫でた。
心底、優しい笑顔だった。
「どうせ、この身体は首都に戻るまでにはもたない。
ならば、せめてあなたのために散らせてください。」
そう言ってくるりとギルバートは身を翻して足早に去って行った。
カリナは呆然として声も出すことができず、ただ見送ることしかできなかった。
懐から出した武器などを携えている。
しかしそれよりもカリナの目を引いたのは、背中の色、だった。
元は白だったはずの囚人服の背面は、
茜で染め上げたような、深紅一色だった。




