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そのあと、
『あなたも今日はお疲れになったことでしょう。話なら明日、ノートニア湖に行った時にしませんか?』
と、世間一般ではデートと呼ばれるものに誘われた。
しかしカリナは全く嬉しくない。どころか、心の中にどす黒い何かがとぐろを巻くように現れた。
どうしてこんなやつに気遣われているのだろう。
どうしてこんなやつと外出しなくちゃいけないのだ。
どうしてこんなやつの誘いに乗らなくてはならない自分がいるのだ。
――どうしてギルバートをこんな目に遭わせてしまったんだ。
食堂から一人きりの自室にひきかえり、ドレスを脱ぎ棄てて、皺になるのもかまわずソファに放り投げ、
自身はベッドの上にダイブした。
むしゃくしゃしていた。何かに八つ当たりしても収まらないくらいに。
・・・それでも、たわんだスプリングの揺れが小幅になる頃、ぽろぽろと涙が止まらなくなっていた。
ゆりかごで揺られるような柔らかい振動の中、この孤独が恐ろしくなった。
ギルバートがいない。
ついさきほどまでいたのに。自分一人だけという、後にも先にもひけない状態。
彼に言ったではなかっただろうか。
あなたの不安の種にならない程度に振る舞う、と。
結局、カリナがやったことは今の時点ですべて裏目に出ている。
唯一の頼りであるギルバートは敵の手に堕ち、
傷だらけで、瀕死といっても言い過ぎではないような状態に陥っているのが現状だ。
そしてこの城は高い城壁と、その周囲をぐるりと巡る深い堀で囲まれ、可動式の吊り橋が唯一の通行手段だが
それらは全て敵の支配下だ。
ここにいる限りは外との連絡の望みも断たれた状態だ。
それらを考えると、御曹司と外出する機会が恐らく数少ないチャンスだ。
きっと、彼の目はカリナの監視に光る。だが、それでもカリナにはやらなければいけないことがあった。
――そのまま寝入っていたようで次に目を覚ました時には部屋の窓から朝陽が降り注いでいた。
眩しさに目を細めつつ起き上がる。
既に使用人のいずれかが洗面台のところに湯が張られた桶を持ってきてくれていたようだ。
それで顔を洗ってからもう一度室内に戻る。
客室にはあまり物が無く、必要最低限の家具しか置かれていない。
そのうえ、カリナが持参した荷物も必要最低限だったので殺風景だった。
部屋を突っ切って、寝室にあるクローゼットでギルバートが仕舞いこんでくれたドレスを探る。
未亡人という設定だったからか黒基調のドレスやグレーっぽいドレスばかりで、極端に露出を控える傾向が強い。
たいがいカリナ世代の女性が着るドレスといえばデコルテの強調されたもので、
物によったら胸がこぼれ落ちんばかりに開かれたものさえある。
しかし、カリナにはこれで十分だった。むしろ、御曹司を拒絶するのに格好がついて願ったりかなったりである。
それを手に取り、一人で着替えを済ましてから鏡台で髪を整えている最中に、何の前触れもなくドアがノックされた。
一瞬御曹司自ら尋ねて来たのかと身構えるが、貴人が朝っぱらから一人で行動することはそうないことなので
使用人だろうとあたりをつけてカリナはドアに向かった。
「はい。」
カリナ一人しかいないので応対も自分でしなければならない。
脇に置いてあった杖を手にとってスムーズにドアに向かい、開けずに尋ねた。
「どちら様かしら?」
「ハイライド公爵様でしょうか?家令の者ですが、お支度はいかがなさっておられましょうか?」
「結構、間に合っております。支度ももう終わりますので気にかけていただく必要はございませんわ。」
思いっきり撥ねつけるように言い放った。
相手の顔が見えないドア越しなので、苦笑されているかもしれないし、狭量にも怒っているかもしれないが
カリナにはあずかり知らぬことだった。
しばらく間があって、家令は言葉を発した。
「お支度がお済みでしたら、そろそろ階下にいらして御朝食をお食べになってくださいませ。」
「・・・それも結構よ。あんな光景見たら、食欲なんて一気に失せたわ。あなただってわかるでしょう?」
ギルバートのあの生々しい傷跡はカリナの食欲さえも委縮させてしまった。
光景の恐ろしさも原因の一つだが、
カリナが敵から温情を与えられていて―ひとえに侯爵という地位にあるからに決まっているが―傷つけられることもなく
安穏と食事をするなんて、あまりにおこがましすぎた。
もしかすると、彼は食事すら与えられていないかもしれない。
残酷な処遇にずきずきと胸の奥が痛んだ。
「私の食事に頓着するぐらいならギルバートに食事をあげて。私の分から賄ってくれてもいいわ。
・・・彼は何も関係ない。ただ、私に選ばれて来ただけ。お願いよ・・・!!」
ドア越しだとわかっていてもカリナは懇願した。握りしめた拳に爪が食いこんで痛みが走るほど力が入っていた。
せめてこの家令だけにでも伝えないと気がすまなかった。例え、御曹司の配下であったとしても。
すると、勝手にドアが開いた。
思わずカリナは飛び上るようにして後ずさる。
現れた家令は、相変わらず白髪交じりの髪を丁寧に撫でつけ、皺のないスーツを身にまとい、
モノクルを嵌めた目は柔和な笑みをたたえている。
カリナは一瞬空恐ろしく感じたが、
「それについては御心配に及びません。使用人が彼の元に朝食を届けております。
監視の目は厳しいとは言っても、彼を殺すわけには参りません。その点はご安心くださいませ。」
微笑みながら告げられた言葉に少しだけ安心した。
しかし、殺されるギリギリのラインでギルバートが踏みとどまっているのもその言葉から伝わってきた。
生かすも殺すもやはりこの家の人間が握っているのだと考えなおすと
背筋が凍るように寒くなった。
思わず見知らぬ人間の前だというのに弱音が出ていた。
「・・・彼を殺さないで。お願い。彼がいなくなったら・・・私はどうすればいいのか・・・」
「それは私に頼むことではありませんね。私にはそんな権限はございません。
若旦那様にあなた様が直接申し上げることです。」
きっぱりとした断りの文句だった。
これ以上ないほど潔い敬遠の仕方で、彼がカリナを救う気持ちがこれっぽちもないことがよくよくわかった。
つまりこの家令も―いや、最初からもちろんそうだろうけれど―カリナを哀れに思う気持ちのさっぱりない
御曹司側の人間だということがわかった。
そんな人間に弱音を吐いた自分がカリナは情けなかった。
それと同時にそこまで追い詰められている自分の姿がちっぽけでみすぼらしく思えた。
―そして、カリナの孤独は決定的になった。
「今日はあなたは何も口になさっていませんでしたね・・・ただ紅茶を飲むばかり。大丈夫ですか?」
「心配は無用ですわ。あなたにされた仕打ちで食欲が減ったのですから
あなたに心配されればされるほど私は更に食べられなくなるでしょうね。」
「それはそれは・・・可憐なあなたの口から、痛烈な皮肉が紡がれるとは。
私もあなたによく嫌われたものですね。」
「・・・よくもそんな軽口が叩けますわね。
ご自分のなさったことを胸に手を置いて反芻なさったらいかが?
いえ、あなたがギルバートの受けた痛みを受けてみなさったらどうかしら?
体中に鞭の這った痕がつくほどの拷問を受けて、薄ら寒い牢屋に薄着で放り込まれて手足を拘束されてみなさいな。
それであなたの食欲が減らなかったら、あなたは心に痛みを感じない本物の悪魔よ。」
そう言い切ってカリナはテレーバーを睨み付けた。
まるで今生を懸けた敵、もしくは親の仇と相まみえたかのように。
徹底的なカリナの態度に、テレーバーは苦笑ともただの微笑ともとれるように曖昧に表情を緩めた。
「・・・そこまで言いますか?どうやら、相当私は恨まれているようですね。」
「それだけのことをしたのだから当然よ。そんな自覚もなかったの?」
カリナは勢いづけて首を反らした。テレーバーからは離れられない空間に押し込められていたから仕方がなかったのだ。
――カリナは支度を終えた後、家令に連れられて食堂に向かった。
そこで何食わぬ顔で食事をしているテレーバーとまたしても向かい合わせで座らされることになる。
そうなるのが事前からわかっていたのもあって一層食欲が減退してとうとうカリナは紅茶2杯で朝食を終えることになる。
もし自宅だったら、
ちゃんと炭水化物をとって、デザートに新鮮な果物を丸ごと食べて、そして牛乳を飲んでいたところであるが。
そしてさっさと食堂を後にしたいくらいの気分だったがそれを見越して丁度立ち上がりかけた時に
テレーバーは釘を刺した。
『あなたにお話ししましょう、われわれが成し得ようとしていることを。
それも、あなたにだって十分かかわりのある話です・・・特に、あなたの兄上のことについて。』
最後に付け加えられた者の名は、カリナの心臓の鼓動を早めるのに大いに作用した。
カリナの兄――それは5年前、前ハイライド侯爵でありカリナの父であるサミュエルが心不全で亡くなった直後
突如出奔したハイライド家の継嗣、クラウス=エルダ・ハイライドに他ならない。
貴族の男子として十分な教養と品格を持ち、容姿は類稀なる美貌と評されるジェイド王子とも
比肩するほどだった。
もし、彼が侯爵となっていたら、きっと貴族界で最も栄える華と言われていた。
実妹のカリナでさえ、クラウスにはハイライド家を継ぐのに支障がある要素などひとつも見つけられなかった。
あの、王族出身ということに並々ならぬ執着を見せ特権を振りかざす母・ニムレッドですら
クラウスが侯爵位を継承する日を指折り数えるほど期待していた。
それが、一枚の書置きすら残さず継承の儀まであと数日という日に消息を絶った。
どれほどハイライド家がこの失態をもみ消すのに苦心したか、それは遠方にいたカリナですら知れるほどだった。
それでも口さがない噂好きな貴族達はこの件に関する様々なゴシップを流しまくった。
――『母親に嫌気が差したのよ・・・このままだと何もかも彼女の言いなりになるしかないもの』
――『意中の恋人がいて、彼女との交際を反対されたから出奔したとも聞いたわ。もう子どももいるのかもしれないわ』
――『それか、彼は頭がいいから家を出るときにいくらか持って出たはずの実家のお金で何かする気かもよ・・・
案外商売人になっていたりするんじゃないかしら?』
どれもこれも、カリナからすると根も葉もない噂以外の何ものでもなかった。
ただ一つ
『彼はニムレッド様の昔の恋人の間にできた子どもなのよ・・・ハイライド侯爵の血をひいていない』
というものを除いて。
カリナは予期せぬ爵位継承を終えて首都に住まいを移し、王宮に出仕するようになってから、
公私混同とはいえども、自らの出来うる限りの権限を使ってクラウスの出奔の原因と消息を追い続けた。
そして、遂に見つけたのは実母の過去の闇だった。
実弟が王位について暫くして母・ニムレッドの降嫁は決定された。
ニムレッドの実弟である先王の侍従長だったのは現二ーゼット公爵その人だった。
当時、まだ公爵位を継いでおらず、フォンダレン伯爵と名乗っていたその人は
男性の中で婚前のニムレッドに一番近い位置にあったといっても過言ではなかった。
王族女子は後宮のほど近くに居住するのが慣例である。そして厳密にいえば王族が住まう場所は後宮ではないが
ほとんど男性が近づける位置にないので混同される場合が殆どだ。
第一に、この国では生娘であることが未婚女子の絶対条件ともいえるので、
特に王族の姫君であったニムレッドに男性はおいそれと近づくことができなかったはずである。
ただ、王宮の中で唯一後宮へ向かう王に入口近くまでついていける男性がいる。
それが王の侍従だった。
その任についていたフォンダレン伯爵がニムレッドに近づくことは恐らく容易かったはずである。
そこから導き出される答えは・・・実に容易だった。
それから実家にも内偵を派遣していくつか探ったところ、現在もニムレッドが公爵と連絡を取り合っていた。
しかし、その内容は厳重に秘されており、カリナは暴き尽すことができなかった。
だからこそ決定した査察だった。
・・・しかし、それも今ではもう失敗に終わり、敵の手に堕ちかけている状態だった。
更に本当はギルバートと行くはずだったノートニア湖にはテレーバーと行くことになってしまった。
――まずい紅茶を飲み終えて食堂を出てすぐカリナはテレーバーに先導されて玄関ポーチに出て馬車に乗らされた。
専用の御者がいないらしく、家令が馬の手綱を握っている。
そのまま狭い密室の中で非常にいらつく会話を交わした後しばらくして目的地についた。
真っ青に澄み切った青空の下、景勝地ノートニア湖は、きらきらと湖面が輝き渡っていた。
山々に囲まれた窪地というからに小さい湖だと思っていたが、
かつて一度だけ見た海にも似た水平線の眺められるほどの広さを誇っていた。
馬車の切り取られた窓からの眺めでもその雄大さははっきりと伝わってくる。
大海原のずっとその先に広がる未知の大陸に心憧れた少女時代のあどけない夢まどもが胸の奥のほうから湧き上がって
カリナは束の間の安息を覚えた。
それから馬車は二ーゼット家所有の湖畔にある別荘に到着する。
恭しくカリナの手をとってテレーバーは馬車から下ろそうとしてくれたがカリナは手を撥ねつけた。
「そのような気遣いは御無用と、いいませんでした?」
「これぐらいはいいでしょう?世間一般で言うレディファーストの精神に則ったものですから。」
「その精神を語るに足る人物に対してだったらこんなことを私が言うわけないでしょう。」
「・・・そこまで強情を張るつもりですか。いい加減うちとけてくださったほうが身のためじゃありませんか?」
テレーバーは不穏なセリフとともに意味ありげな視線をカリナに向けた。
暗に、カリナがテレーバーを拒絶し続ければギルバートを害することもやむなしと言っているようなものだった。
それだけはなんとしてでも避けなければならない。
意を決してカリナは渋面を浮かべながらも差しだされた手を取った。