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「いやぁああああああ!」
鉄格子につかまって叫び声をあげたカリナにすぐさま看守が飛びついてくる。
無言で引き剥がしにかかるが、カリナは必死にしがみついて抵抗した。
「やめてっ!ここから離さないで・・・!10分いいんでしょう!?ならこのままでもいさせてよ・・・!」
そう迫真で訴えるとしぶしぶといった様子で看守は下がっていく。
カリナは横槍を入れられて予期せず正気に戻ったが、目の前に座っているギルバートの様子は凄惨を極めていた。
こんなに外野が五月蠅いのに、未だに彼はうつむいたままである。
壁や天井から取り付けられた鎖から繋がれた手枷足枷が彼の自由を拘束している。
鎖の先に取り付けられている枷を挟んでいる素足からは無数の傷跡が見受けられた。
おそらく、そのずっと上も大蛇が這ったような生々しい傷跡が這っているのだろう。
そしてその傷をつけられた場面は想像するだに恐ろしかった。
「ごめんなさい・・・あなたがこんなことになってしまうのなら・・・此処へは来なければよかった・・・!」
ただ、今さらこんな独白など意味はない。すべては起こってしまったことで、取り返しなどつきようもない。
そして目の前にいるギルバートによって、その現実感をより一層強めていた。
「ごめんなさい・・・ごめんなさ・・・い・・・っ」
何度も何度も懺悔の言葉が涙と共に口をついて出てくる。他の誰に対しても、こんなに謝り続けた記憶はない。
それでも、彼はその頭を垂れたまま。反応は皆無といってもいい。
「・・・ぁあ・・・っ・・・」
それからずっと泣き続けてもう嗚咽も枯れ枯れになっていた。
その間中ずっと看守もこちらを監視するだけで特に何の横入れもなく、ただカリナは鉄格子を握りしめたまま肩を震わせて泣いていた。
それでもギルバートの反応は皆無だ。
薄暗い牢の中、もしかしたら微動でもしたかもしれないが、それはカリナからは決して見えなかった。
そんな調子で約束の時間いっぱいになりかけたその時。ピクリ、と足枷に繋がれた足首のその先にあるつま先が反応した。
「ギル、バート・・・?」
驚きでカリナの声は思わず上擦った。
確かに今、ギルバートの僅かながら足が動いたのではないだろうか・・・?
一縷の望みを掴んだ、藁をも縋る思いでカリナは鉄格子の向こうにいる彼に向って今出せる精一杯の声を上げた。
「ギルバート!!私よ、カリナよ!あなたをそんな目に遭わせてごめんなさい・・・
必ず、必ずあなたをそこから出すから、それまで、どうか、どうか持ち堪えて・・・!!」
さすがに待っていてくださいとか、頑張ってくださいとは言えない。
既に満身創痍のギルバートに耐えられるほどの体力は多分、無い。
それはカリナにですらその目ではっきりとわかるほどに。だからカリナは簡単に彼を救いだせるとは言えなかった。
それに、ギルバートを救うための今のところの唯一の手段といえば
あの、テレーバーの要求を呑むことのみである。それも現時点で彼を救うとは確約していない。
正直言ってこの不利な状況をどう打開すべきかカリナには見当もつかなかった。
そもそも片足が不自由なカリナは普通の人よりもその分非力で、
もう少し状況がマシだったとしても傷を負ったギルバートまで救いだせる方法は思いつけない。
それでも早くここから出なければいけない。
目の前のギルバートの姿はそれだけカリナを奮起させるものだった。決意を新たにしているとき、ギルバートの体が身じろいだ。
そして、渇きでひび割れた様なかすれ声がカリナの耳に届いた。
「カリナ・・・姫。ご無事でしたか・・・」
ほんの数時間会えなかっただけだったのに、ギルバートの声は強烈な郷愁を思わせる響きを持っていた。
徐々に項垂れた様にうつむいていた頭が上がっていく。
こめかみあたりに血が流れた後が見える。パリパリと乾いた鈍い赤色だった。
他に顔にはこれといった傷はなかったものの、その一筋流れた血の色だけで痛々しさが増した。
しかし、ゆっくりと見開かれた目は、ただそこだけがいつものギルバートと遜色変わらない視線の強さで、
本当は安堵する場面ではないのにカリナはほっとした。
そしてもっと間近で彼の声が聞きたくて鉄格子に首をねじ込むようにしてカリナは耳を近づけた。
「人の心配ばっかりしないでよ・・・!あなたこそ、大丈夫なの?!」
「見ての通りです・・・ちょっと、相手の数が多すぎて・・・やってしまいました」
ハハ・・・と力なく笑む様は、本当にやるせないといった風だった。
思わずカリナは涙ぐむ。先ほどから涙腺は壊れっぱなしのようにとめどなく涙をあふれさせている。
多分、もうあと2歩ほど進めばギルバートに手を伸ばして触れ合えるほどの距離だ。
しかし、鉄格子がそれを阻んでいる。どの堅牢な城壁よりも、崩しがたい強固さで。
「ごめんなさい・・・私のせいで、あなたを巻き込んで・・・」
「いいんです、俺が・・・付いてきたくて、付いてきた結果です・・・それに・・・なるべくしてなった・・・」
どうやらギルバートもこの一連の出来事は事前に仕組まれたことだと気付いているらしかった。
それでもカリナに怒りをぶつけることなく、己のせいだと責める姿は
傷つけられた風貌と相まって痛々しかった。却って、カリナはますます己の責任を自覚した。
「絶対にあなたを助けるから。どんなことをしても、あなたをこの城から出して、王都に帰すわ。
・・・それまで、耐えられる?」
カリナの『絶対』や『どんなことをしても』という言葉の強さに、ギルバートは一瞬躊躇ったような視線をカリナに向ける。
想像がつくのだろう、あの御曹司と取引をするということの。
カリナはギルバートを安心させるために、笑みを浮かべて言った。
「心配しないで。自分の身が傷つくような危険なことはしないわ。二人ともここから脱出できるようにするもの。」
ただし『一緒に』という言葉は使わなかった。・・・というより使えなかった。
もし、テレーバーの要求を呑めば、きっと二度とギルバートには会えない。
しかし、最終的にそうなってでも、カリナはギルバートを助けたかった。
こんな身になるまで自分を助けようとしてくれた人を決してこれ以上危険な目に晒すわけにはいかなかった。
例え、ギルバートが結婚相手じゃなくて、本当にただの護衛として付いてきた一使用人だったとしても。
そのとき看守がカリナにサッと近付いてきて、腕をつかんだ。
とうとう約束の時間が来たようだった。
「もう少しだけ・・・!」
カリナは離れがたくて必死に鉄格子にしがみ付くが、看守との力の差は歴然だ。
腕をつかまれながら半ば引き摺られるようにして連れて行くカリナを、
ギルバートは鎖が届く精一杯のところまで身を動かして、鉄格子の一歩手前から見る。
鉄枷が足首で擦れ合い、痛みが生じていた。それでもギルバートは構わなかった。
『このくらいの傷、助けられない痛みよりもずっとマシだ・・・!』
そして、かすれ声ながらも口腔で血の味がしみるほど必死に叫んだ。
「・・・姫!二人で一緒に助かるんです・・・!!俺一人のためだけに、犠牲になんて、なっちゃいけない・・・!!!」
「・・・・!!」
最早お見通しのようだった。カリナが選ぶかもしれないその選択肢を。
更に無い体力を振り絞って叫んだギルバートの叫びがカリナの中に火を付けた。
「ギルバート!!!ギルバート!!!いやあああああああああああああ!!!」
夢中で何回も叫んだ。途中で気が狂ったのかとカリナ自身が思うほどだった。
泣いて足腰が立たないカリナを看守がその肩に無造作に担ぎあげる。
そんな不安定な姿勢になっても、カリナは牢や中に響き渡る声を上げ続けた。
カリナが火がついたように泣き喚いて看守に連れて行かれた後。
ギルバートは初めて目の当たりにするカリナの感情の爆発を見て、傷の痛みも忘れて気を抜かれていた。
『まさか姫があんなに激しい人だったとは・・・』
いつもは冷静なカリナである。
感情豊かではあるけれども、取り乱すようなことは絶対にしないし、そして女性がしばしば起こすヒステリーは
家名を背負う自分の身を貶める行為だということをよく知っていた。
ただでさえ女性が爵位を継ぐというハンデを背負っているのだ。男性の倍以上の努力を常に彼女は怠っていなかった。
彼女はそういう点でのマインドコントロールが非常に上手かった。
そんな人がここまで我を失う。
ということは・・・
『少しは、彼女が俺のことを対等な関係だと思ってくれていると自惚れてもいいんだろうかなあ。』
牢で考えるにはやや不埒すぎることではある。
しかし、ギルバートはこんな風にあれやこれやと考えていないと傷の痛みに負けてしまいそうになっていた。
――あの書斎で見つかった時、ギルバートは手錠をかけられ腰縄をつけられてすぐさまこの地下牢に連行された。
「ヨタヨタ歩くんじゃねえ!」
と、若干歩くスピードを緩めただけで――カリナがいるかもしれない食堂の近くを通った時のことだった――
後ろから棍棒で体中をたたかれた。容赦のない叩きっぷりでこめかみあたりをたたかれた時は血が垂れてくるほどに。
日ごろ軍で鍛錬をしているギルバートですら呻くいてしまった。
そして厨房脇の階段を下りて、鉄格子の扉を抜けて二角曲ったところにある、
一目見て『ああ尋問とか拷問に使う部屋だな』とわかる一室に通された。
ジメジメとした地下牢にふさわしく岩壁は薄黒かった。
しかし、どこかそれが古からここに連れてこられた人々の怨恨が染み渡ったものにすら見えてくるものだから
拷問部屋とは恐ろしいものだなと思った。
そしてようやく連行してきた代表格と思われる男が口を開いた。
「その壁に向かって立て!」
軍人のような勇ましい口調だった。思わず研修期間に軍人の基礎をたたきこんでくれた鬼軍曹のどなり声を思い出した。
「今から言う質問に答えられなければ鞭を振るう。口応えは一切してはならない!」
はっきりと自白させるための拷問だと言えばいいのに・・・とギルバートは心の中でやるせなく思った。
体格のいい男が二人後ろに控えているようだった。
振り向けば即鞭が振り下ろされるだろうと思われたので首は動かせなかったが。
「第一!貴様はギルバート・フェルディゴール、国軍警備部隊警備部所属の中尉、相違ないか!」
「ああ。」
しかしそう答えた瞬間にビシッッ!と鞭が振り下ろされた。脹脛にしなった鞭の先が当たったようでジンジンとそこが熱を持っている。
「受け答えがなっとらん!」
なんで拷問なのに教官に対するような受け答えをしなくちゃいけないんだよと心の中で毒づくが、
鞭が確実に体力を奪っている事実は避けようもない。ここはおとなしく従うしかなかった。
「第二!貴様はフェルディゴール公爵邸3階書斎に無断侵入した、相違ないか!」
「はい。」
今度こそちゃんと答えたはずなのにピシッィ!と鞭が撓った。ギルバートは思わず声をあげそうになったが
あげればあげるほど相手の思うつぼであるのは明白だった。
『・・・こいつらは是非を問うてるわけじゃない・・・刑務係にはありがちな、サディストか・・・』
大抵の人間は、例え軍人であろうとも人を好んで殺戮するわけがない。
それまでに培ってきた人間的な良心や倫理観があるから躊躇いを覚える。その非人道的行為に。
しかし、稀に暴力を与えることに快感を覚える人種がいる。
歪んだ倫理観を身の内に宿した、サディストである。
そういった人間を刑務官に据える者は少なくない。
誰しも、苦痛を覚える作業に長時間就業できるほど心が強いわけではない。
それならば、元から痛みを覚えない人間のほうが長期的な雇用が可能になるので都合がいいに決まっている。
おそらく、あの御曹司もそれを知った上で雇用したのかもしれない。
・・・戦場のスペシャリストである傭兵といい、サディストの刑務官といい、つくづく相場をよく知っているらしい。
『姫・・・これは分が悪そうです・・・』
情報部員時代でも、あやうく拷問という事態に直面したことが実はあった。
しかし、ここまで用意周到な罠にはめられた経験は生憎ギルバートにはなかった・・・
――それから否認しようが是認しようが鞭が何度も体を這った。
なんとか悲鳴が漏れないようにそれまで踏ん張ったが、とうとう声を上げるまでになっていた。
徐々に鞭の当てられる部位が上に上がっていき、背中を幾度となく嬲られた。
「イヒヒヒヒヒヒヒ、あはははははははは」
「これ、いいよフフフフハハハハ」
と気持ちの悪い拷問担当の笑い声まで響く。やっぱり予想通りのサディストが鞭を撓らせていたようだ。
何度も何度も当てられた背中の皮は既に裂けていた。じわじわと血が染み出てシャツを濡らしている。
長時間立ちっ放しで、傷口が熱を持ち始め、意識までもが朦朧としてきた。
へたりこもうかとすれば冷たい水を頭の上から桶でかけられる。
冬の峠は過ぎ、春めいているとはいっても、陽の当たらない地下はひんやりしている。
そんな中で冷水をかけられると、氷で責められているような錯覚すら催した。
お陰でなんとか意識は取り戻せたがそれからも苦行は繰り返し行われた。
「・・・そろそろ牢屋に連れていく頃合か。おい、今から牢屋に連れていくから
濡れた服をこれに着替えさせろ。」
鞭を持っていた二人が息も絶え絶えで今にも床に座り込みそうになっているギルバートの手錠を一旦外し、
白い上下の薄い囚人服を着せた。ゴワゴワとした素材で、綿製品ではなさそうだった。
この機会に逃走もできようかと思ったのだが、生憎もうギルバートにそんな力は残っていなかった。
『・・・どうか、姫、あなただけでも・・・』
二度と逃げられない予感がしていた。
「おかえりなさい。彼の様子はいかがでした?」
カリナが再び家令に連れられて食堂に戻ってくると、優雅に紅茶を飲むテレーバーがそこにいた。
傷一つなく、しみ一つない服を着込み、清潔なこの部屋で、紅茶を飲む。
その光景がカリナを激しく怒らせた。
カリナは無言で傍に近寄り、手近においてあった用意周到にもカリナ用の紅茶が入っていると思しき
ソーサーを手に取り、それを逆さにしてテレーバーの頭からぶっかけた。
その思いがけない行動に、壁際に控えていた使用人たちが一斉にカリナを捕らえに向かおうとしたが、
すぐさま胸ポケットからハンカチーフを出してぽたぽたと髪から落ちる滴を拭き取りながら
「そのままにしてくれ。彼女の怒りは最もだ。」
といってその場を収めた。
カリナはこの男の、人を使うという力の誤りが、ますます怒りを助長させた。
「私の怒りがもっともですって!?ふざけたことをぬかぬかと言ってるんじゃないわよ・・・!」
「でも、彼は勝手に我が家の内情を探ろうとした・・・住居不法侵入は罪でしょう?」
「だからといって・・・あんな目に彼一人を遭わせるだなんて・・・不当すぎるわ!」
「じゃあ、あなたが代われるというのですか?」
ギルバートの痛々しい傷をすべて引き受けろ、と見せかけて彼との関係性も一緒に図っているのだろう。
惨状をいざ目の当たりにして、カリナは一瞬その返答に怯んだが、小さく嘆息してから言った。
「・・・代わるわ。彼を無事に王都に帰してくれるなら。」
「麗しき愛情ですね。」
なんとも皮肉たっぷりな笑みを目元にたたえながらテレーバーは言い放ち、椅子から立ち上がった。
そして、紅茶で色の変わった上着を脱いで椅子にかけて若干低い位置にあるカリナの目を覗きこむように
腰を屈ませた。
「しかし、女性であり、爵位継承者であるあなたに対してさすがにそんな無体なことはできません・・・
譲歩という形のようであなたにはご不満かもしれませんが、
なに、ひとつ私と婚約していただければ即時彼を解放します。
・・・どうです?あなたにとって、これほどメリットの大きな契約はないかと存じますが。」
カリナには、ここで、もう一度同じことを言われることは最初からわかっていたかもしれない。
そして、それが初めに言われた言葉とは違う意味を自分の中で持つことも。
「・・・あなたともう少し話をさせてください。その上で・・・・考えさせていただきます。」
言いたくなかった言葉を口から出す、という行為はカリナにとって痛恨の痛みを加えた。
胃が捻じれる様な悔恨が、二度ともう立ち直れないような絶望をもたらす。
そんなカリナを知ってか知らずか、テレーバーは満足そうな笑みを浮かべた。
「いい返事です。一歩前進、ですね。」




