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「カリナ姫・・・!?」
ギルバートは驚いていた。
目の前にある額の中に入った絵は確かにカリナそのままだった。
やや古ぼけた感じがあるものの、豪奢な金髪、白皙の容貌、ふっくらとした唇、そしてなによりも水底のような紺碧の瞳。
この人物はギルバートの妻であるカリナ以外、他に誰がいるというのだろうか。
――いや、この容貌は何もカリナだけというわけではない。
カリナは、一度だけギルバートも見たことがある彼女の母親にそっくりだった。
紙質の劣化の加減からいっても、この絵が描かれたのは最近ではない。
カリナはまだ19歳で、ちょうど今がこの絵の人物と容貌が重なる。
ならばこれが彼女の母親・ニムレッドの若かりし頃であることはほぼ間違いない。ということは・・・
『ニーゼット侯爵の愛人は、姫の母親であるニムレッド=クレンシア・ハイライドだったということか・・・?』
なんの縁もないはずの他の貴族家の者の絵が飾られるなど、尋常なことではない。
ニムレッドは王族出身の正真正銘の姫だった人物だ。本来、ニーゼット公爵家と特別な縁故は持てない立場だ。
・・・何らかの関係がニーゼット公爵家の者となければ。
『さきほど姫に見せられた絵は公爵の息子だといっていた。
それもおそらく、正妻との間にできたわけではない。
・・・姫には兄が一人いる。しかも、ニムレッド夫人が降嫁してすぐ彼は生まれている。
その当時すでにニーゼット公爵は縁談がまとまっていた頃だ。
二人が関係して、既に子供が夫人に宿っていたとしたら王家はこのスキャンダルを揉み消すために躍起になる。
だから時を同じくして夫人も縁談がまとまった。
そして、子供の父親を偽装するために夫人は前ハイライド侯爵と結婚した。』
辻褄の合うシナリオである。
これならば、カリナの兄であるクラウスの出奔の理由も納得がいく。
なんの血のつながりもないハイライドの家督を継ぐ。
野心があれば、そのまま出生の秘密を胸にしまったまま侯爵として振舞うのも一つの手ではあると思うが、
クラウスは良心の呵責から継承が憚れて出奔に至ったのかもしれない。
下に生まれた妹が本来の正当な血を継いでいるにもかかわらず不遇な目に遭っていることも
クラウスにとっては心痛む出来事だったのかもしれない。
―――とはいっても、この考えはあまりに美談めいている。
本来貴族というのはその特権的思考相まってその地位を守らんとする、いや向上させんとする野心が強い。
カリナ姫のような、自分の地位に固執しない貴族は珍しい部類だ。
ギルバートには見ず知らずのクラウスが、いくらカリナの兄とは言えそんな美徳を持っているとは限らない。
実妹のカリナでさえ長年の養生によって別居していたので素性を知っているとはいえない。
もしかしたら、出奔の理由は我こそがニーゼットの正当なる継承者と主張するために
現在の後継ぎであるテレーバーの転覆を画策せんと潜伏しているのかもしれない。
いくら王家の血が濃いといえどもハイライドは侯爵家だ。公爵家のほうが家格は上。
……こんな風にいくらでもクラウスの出奔の理由は考えられる。
『カリナ姫はそれに気づいて自分の兄の消息を尋ねようとしたんだ。
しかし、なぜそれが第二王子が言うような国家転覆もありうる機密に繋がるんだ?』
ギルバートにはそれ以上のことはどう頭をひねっても考えだせない。
第一今野今まで考えていたクラウス出奔理由だって、ニーゼット公爵の隠し子であることが大前提だ。
クラウスの本当の父親が誰かは、産みの母であるニムレッドにしかわからない。
これは早くカリナ本人に聞かねば・・・とギルバートが考えた時。
ふと後ろの方に人の気配を感じた。
その部屋は本棚と文机とチェストが置かれているだけの書斎で、無人のはずだった。
ということは見つかってしまった、ということだ。
警備が手薄なはずだったが、運が悪い。内心ため息をついた。
書斎は長身のギルバートには隠れようがなく、慌てることなく自分の気配を消すことに専念する。
しかし相手はこの薄闇の中でも夜目が利くらしかった。
「・・・誰だそこにいるのは。」
はっきりとした口調で誰何してくる。侵入者がいるという断定の上での脅しである。
これだけで、侵入者に対する心得がきちんとある手練れであることは想像に難くなかった。
『殺す気で向かわないと・・・逃げられそうにもない。』
あいにくギルバートは帯剣しておらず、いくつかの小型ナイフをほんのお守り代わりに所持している程度だった。
どうしてこういうときに武装をしてこなかったのかと悔やんでも今更遅い。
潜入捜査だからと高をくくって身軽さに重きを置いた自分の明らかなミスだ。
ギルバートは観念するように両手を頭上に挙げて降参のポーズをとった。
相手はそれに気づいたのか、こちらに向かってくる。手には縄らしき拘束用の道具を持っている。
腰か腕かに巻きつけてそのまま連行するつもりだろう。
公爵家の脈々と受け継がれてきただろう、この広大な屋敷のどこかに昔から秘密裏にある、牢屋や拷問部屋か。
嫌な想像が駆け巡り相手がすぐ傍まで来た瞬間、ギルバートは掌の中に隠し持っていたナイフを相手の首筋に差し向けた。
敵の皮一枚で切断を免れた動脈が、青白く浮かび上がっているのが見えた。
「少しでも動いた瞬間、血が噴き出すと思え。」
脅し文句を投げかける。いや、脅しではなく本気でこの死地を脱するには必要なことだった。
が、相手は全く意に介していないらしくさらには
「・・・そう言っていられるのも今のうちだ。」
と応酬してきた。普通窮地にいる者がそんな風に言葉を返してくるのはおかしい。
やはり手練れだ。それも相当の場数を踏んでいるであろう。
「嘗めたことを・・・!!」
手に力を込めてナイフで相手を切り裂く。しかしすんでのところでかわされる。
相手は腰に佩いていた剣を引き抜いてきた。
刃の部分が大ぶりで力の勢いで相対する敵を傷つけるため、相当な力がないと扱えない業物である。
対して、刃渡りの極端に短いナイフでは圧倒的に不利である。
しかし、これぐらいの形勢逆転でそのまま済し崩しに負けるほどギルバートは弱くはなかった。
闇を力任せに切り裂いてくる相手をギルバートは身軽にかわしていく。
そして間合いがとれる度に相手に向かって足技や正拳を突き出していく。
夜目が利くので十分に相手の急所は見えていた。
力任せに剣を振り回すせいか、その次の態勢に入るときに身体のどこかに必ず隙がうまれる。
そこへ次々と体術が決まっていくので、相手の動きが目に見えて鈍っていく。
そこをすかさず見逃さず、ギルバートはナイフで細かく皮膚を切り裂いていく。
確実な致命傷には至らなくてもじわじわと相手の息の根をとめていく方法である。
情報員時代、そうやって不利な状態からでも相手を圧倒してきた。
相手もようやくギルバートの力量を目の当たりにしたのか戦意を喪失し始めている。
「これで終わりだ。」
へろへろになった相手の襟足を捉えて手刀を加える。見るも無残なボロボロ状態で敵は床に昏倒した。
これだけ動いても特にギルバートは息が上がることもなかった。体力は有り余っている。
しかしこれで状況が良くなったわけではない。
むしろ、ギルバートが実力を示したお陰で、相手方の警戒が一層強化されることによって事態は更に悪化の一途を辿るだろう。
早くここからカリナと共に抜け出してしまわなければ手遅れになってしまう。
その焦燥感から急いで書斎を抜け出そうとドアを開けたとき。
ギルバートは目も開けられないくらいの光に照らされた。
思わず腕で顔を隠してそれを避けようとするが、一瞬の隙を突かれて
わらわらと身辺に寄って来た何人かに拘束され、たちまち腕をひねりあげられる。
手首には鉄製のがっしり手錠がかけられた。
あっという間の出来事で、ギルバートにはあまりにも出来すぎているとしか思えなかった。
幾人かの武装した男を背後に従えて、ギルバートの目の前をカンテラで照らす男が文書を棒読みするかのような声音で告げた。
「ギルバート・フェルディゴール。お前を無断侵入の容疑で拘束する。」
「・・・もう名前までバレてるってわけか・・・」
最早何もかもが手遅れだったのをようやくギルバートは理解した。
――ギルバートより一足先にこのカラクリに気づいていたカリナは彼が拘束された一件を知ってテレーバーに面会を申し出た。
「彼に会わせて、早く。」
「いいんですか?変わり果てた姿だったとしてもあなたはどうすることもできませんよ?」
暗に拷問を認めた発言だった。カリナは眦を上げてテレーバーをキツく睨み上げた。
「あなたが言ったように彼は第二王子殿下が直々に目をかけてる人物よ。
それに情報部に所属していたことからわかるように第一王子殿下とも面通り叶っている。
・・・王家の方々から信頼を得ている彼に手を出して、あなた無事で済まないわよ!?」
「あなたがそう言うとは心外ですね。
特権を嫌って、根っからの大貴族でありながら貴族派に与しないといわれるあなたが、
王家の信頼一つに固執するとは・・・それほどまでに、彼を失いたくないと。そういうことですね?」
「どうとっていただいても結構よ。
ただあなたが今行った行動はすべて悪い方向にだけ向いている。それは事実よ。」
テレーバーは憎しみのたっぷりこもったカリナの発言を聞いて悦に入ったようだった。
ますますカリナはテレーバーの奇怪さに、恐ろしささえ感じてしまう。
「あなたは・・・そういえば第二王子と縁談が持ち上がっていると聞きましたが・・・
それでもあのフェルディゴールの者を選んだのですか?」
いきなりの話題の転換だった。相変わらずカリナの結婚に固執しているようだ。
「それは根も葉もない噂です。第二王子殿下とはなんのお話も持ち上がっていません。
そしてギルバートともあなたが想像しているような関係ではありません。
何をうちの母に吹き込まれたかは知りませんが、再三要求をしてきたって私はあなたと結婚する気は全くない。あり得ない。」
「・・・そうもいってられなくなりますよ。」
最後に意味深に呟かれたセリフにカリナは再び背筋が凍るような思いになった。
やはり、ギルバートをカリナが結婚を拒否した場合には殺すかもしれない。
その不安は現実のものになりつつある。
テレーバーは何も返せなくなったカリナに向かってほほ笑んでから傍にいた家令を呼んだ。
「彼女を地下牢にお連れしてくれ。捕らえられてるいる者への面会を許可した。ただし10分でここに戻るように。」
「かしこまりました。」
初老の家令は若い御曹司に向かって礼儀正しくお辞儀をし、カリナのほうを向いた。
「お連れいたしましょう。どうぞ、こちらへ。」
地下牢への入り口は厨房の脇にあり、普段なら訪れもしないような目立たないところだった。
地下へと延びる石階段を下りると蝋燭を持たないと足もとが全く見えないほどに暗く、
終始カリナは足元を見ながらではないとすぐにこけてしまいそうだった。
家令はカリナの足の調子を承知しているようでカリナに合わせてゆっくりと歩いてくれる。
こんなところで敵方に気遣いされてしまうことにまたカリナは苛立ちを募らされずにはいられなかった。
階段を下り終えてしばらく低い天井の廊下を歩いたところで突き当たりの鉄格子の扉が見えた。
人一人分がようやっと通れるほどの小さなもので、逃走経路が阻まれていることを推測させられた。
家令はそこで一旦立ち止まり、カリナに向かって特にこれといった表情も浮かべることなく告げる。
「ここからさきは看守に従ってください。私はここにいますので。」
といって彼女だけが鉄格子のなかに入れた。
中には屈強そうな看守が立っていた。勿論、腰には剣や棍棒を佩いていてカリナなど赤子のように簡単に殺してしまえるだろう。
看守は既に事情を聴いているようで無言でカリナに付き従うように目で指図してくる。
カリナは緊張した面持ちで彼についていった。
今、地下牢はギルバート以外には誰も収監していないらしく
(貴族家とはいえ個人宅が罪人を裁判に掛けることを目的でなく牢屋に収容することは基本的にあってはならないこととされている)
明かりの蝋燭も殆ど点っておらず、看守が手にしている手燭だけが道筋を示すただひとつの光だった。
そのまま二人だけで先を進む。
ごつごつとした石壁は地下に染み出した雨水かなにかで湿って苔むして緑色の岩肌の様相だ。
夏は適度に涼しくていいかもしれないが、これが冬だったならかなり気温が下がるはずだ。
今が冬を遠くすぎた時期であることにカリナは感謝した。
そうして幾度か曲がり角を曲がった、その最奥に、彼はいた。
ぼんやりと鉄格子に阻まれたその向こうに人がいるのがカリナには見えた。
やがて、目の前の光景を受け入れることを脳が拒否するかのように、途端涙が溢れて視界がぼやける。
「ギルバート・・・?」
声が震える。近づくにつれて、鉄錆のような臭気が辺りを漂い始めて来た。
思わずカリナは駈け出していた。看守の制止も振り切って。
鉄格子にしがみついて思わず膝が崩れた。
「いやぁあああああああ!!!」
ギルバートは鉄格子の向こう側で、
両手足に重しをつけた枷をつけられて、壁を背にして座っていた。支えられないのか力なく頭を垂れている。
そして・・・囚人用の服と思われる白いシャツには無数の血の跡が這っていた