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カリナには血を分けた兄が一人いた。
名前はクラウス。年はカリナより5つ上。クラウスもまた、母によく似た容貌をしていた。
男なのに猫っ毛のような柔らかな金髪に、深海のような紺碧の瞳。
細面に華奢な体格で、貴族男子の中でも、
いや、それどころかあの第二王子とも肩を並べあうほどの人気を誇っていた。
協調性と機知に富み、養生で長年田舎に引っ込んでいたカリナとは正反対に
社交界にも積極的に参加し、交友関係は多岐にわたっていた。
そうした華やかな生活の裏側では、誰よりも真面目に経営学や帝王学を学び
趣味で栽培していた植物に関する知識も専門家に負けず劣らずのものだった。
肩書きもハイライド家の長男として、十分王族としての品格を備えており
将来彼が侯爵位を継ぐことはだれの目にも疑いようのない事実だった。
しかしその事情が一変する事態が起こった。
44歳で二人の父に当たる先代侯爵が亡くなったことから、その事件は端を発する。
約1カ月に渡る喪が明けて、粛々とクラウスが侯爵になるための準備が進められていたある日のこと。
突然クラウスは姿を消した。
身の回りのものはほとんどが置かれたままで、
なくなっていたものは、いくつかの貴金属類と、持ち運べる衣類程度だった。
特権階級志向の強いカリナたちの母・ニムレッドさえ絶大の信頼を置いていた
貴族として優等生中の優等生だったクラウスの出奔はハイライド家に大きな波紋を呼んだ。
ハイライド家はこの醜聞が漏れないように緘口令を敷き、クラウスの不在は
『突然の病気で養生の必要がなり本領に戻っている』
という無理矢理な理由で説明がなされたが、それを信じる者はまずもっていない。
その後、直系男子がいない場合のみに限り、直系女子にも爵位継承が可能になるので
クラウスの後釜としては何とかカリナが収まることになったのだが
それでもこの出奔については内外問わず噂を呼ぶことになった・・・
ギルバートはこっそりと部屋を出て抜き足差し足、と泥棒同然に気配を消して屋敷内を疾走していた。
この屋敷は3階建てで、ニーゼット家が私室として使用しているのはそのうち3階と2階の一部。
観光客に公開しているのは1階部分と2階部分なので、
おそらく一番この家の機密が詰まっているのは3階の部屋である。
ギルバートは早速3階へと歩を進める。
吹き抜けの階段を登り切ると、見張りの者もいないがらんどうの廊下が広がっていた。
『これは・・・警備がこんなに甘くていいんだろうか?』
警備のプロであるギルバートが見ても、いや、ド素人でもこの人気のなさは異常だと感じるだろう。
普通これだけの屋敷の規模なら使用人の数は今の倍、いや、3,4倍はいるはずだ。
中の使用人が少ない分、この屋敷の場合は外の警備を重点的に厚くしているようだが
内部犯行に関しては全くと言っていいほどに無防備である。
まさにギルバートにたいして無断侵入歓迎御礼といってもいい。
『・・・こんな好都合なことがあっていいのか?』
普段ならもっとギルバートは慎重になっていたことだろう。
けれどこのときギルバートは軽い過ちを犯していた。
そのことが後々自らの足を引っ張ることになろうとも知らないで・・・
カリナはシャンデリアに照らされながら、ひたすらに手を動かして料理を食べていた。
その間、相手はずっとべらべらとしゃべり続けたままだったが。
「夫人は亡き御主人と仲がよろしかったんですね。
いやね、うちの両親も政略結婚でしたが、恋愛結婚かと思うぐらいに仲が良いんですよ。
私の従兄弟のところの両親なんかを見てるとすごいものですよ。
初めて会ったのが結婚式の二日前で、しかも初夜は同衾だけはしたものの
実のところベッドの端と端で寝てただけだというし、
従兄弟が生まれてからは完全別居で、あとはどちらかの葬式で顔を合わせるのが最後でしょうねって
いってるぐらいだそうですよ。
それを考えたらうちの両親は今も同じ部屋で寝てるし本当に仲が良い。
私もそういった結婚をしたいと考えてるんですよ。」
「子爵様も難しいお立場ですものね。御結婚に関しては特に。」
「そうなんですよ。見合いやら婚約の話は今まで何度も降ってわいたんですがね
これといって私の好みに合う女性はいないんですよ。
確かに私にそんな選択権はないとおっしゃるかもしれませんが、
せめてものところ、より好みぐらいはさせてほしいものじゃありませんか。
愛人を持つのも手かもしれませんが、できる限り、自分の奥さんには愛情を注いでやりたいものですからね。
愛情を注ぐに堪えない人をもらっては私もその奥さんとなる人にも不幸ですからね。」
どこまでも自分本位な考え方だ。
己の不自由を限りなく排除する方向でしかものを考えられず、
結婚によってどれだけの問題が生まれるか、自分の家に対してどういった責任が発生するのかもまるで想像できていない言い方だった。
カリナはますますこの男と話すのが億劫になってきたが、
それとは逆に子爵のほうはほどよくアルコールが回ってきたのか
くるくるとワインの入ったグラスを回しながら、首筋あたりをピンク色に染まらせて饒舌にさらに磨きをかけていた。
「夫人は再婚など考えておられないのですか?あ、いや、不躾な質問でしたね。
とはいっても、これだけ美しいお方なら信奉者など数多いらっしゃることでしょう。
ぜひ私もその中に入れていただきたいくらいですよ。」
「こんな未亡人でよろしいの?」
「あなたのことを未亡人と呼ぶ方なんていらっしゃいませんよ。
ただ、あなたがそうやって亡き御主人を偲んで喪服に身を包んでいらっしゃる
そのことがあなたを未亡人と呼ばせるだけでしょう。
白磁のように滑らかな肌で、若々しい上に深いその瞳に見つめられたら最後
私など石のように固まるほかない。他の男もみなそうです、そうに違いない。」
故人を冒涜するものいいだ。
自分の半身たる配偶者を亡くしたら、1年喪服に身につける者は多い。
長い人だと一生そのままで居続ける人もいるぐらいである。その喪服にケチをつけたのだ。
普通の感覚の持ち主なら亡き配偶者を偲ぶ者に対して労わりの言葉を続けるものである。
しかし今回カリナはあくまで嘘をついて相手を懐柔しようとしているだけなので
そのことに苦言も呈することなくニコニコと言葉を返した。
「そうかしら?私男の方とお話しする機会ってそうないものだからわからないんですよ。」
「・・・今回あなたに付き従っている男の従者とも、ですか?」
いつか突いてくるだろうと思っていた点だったが、なかなか話題に上らなかった。
それがコース料理の終盤、デザートが出てくる手前でようやく、だった。カリナは冗談で返した。
「どうして彼が私の姿を見たら固まるんです?そんな調子だったら私、即刻職務怠慢で解雇しますわ。」
「ということは彼とは相当打ちとけあっていらっしゃるようですね。いやはや羨ましいことだ。
私も混ぜていただきたいぐらいですよ。」
ねっとりした視線がカリナを見つめてくる。
アルコールで頬が上気している子爵の顔はカリナにしてみると
気持ち悪いもの以外のなにものでもなかった。
「打ち解けあうも何も彼とはただの主従関係にあるのみです。
今回私は彼以外の従者を連れてきませんでしたが、世間体を考えればあらぬ誤解を招くのは必至。
そこに考えが至らなかったわけではないのですが、
私のほうは・・・言いにくいことですが、あまり新しい者を雇う余裕がない。
だから気心の知れている彼を一人だけ連れてきたわけです。
邪推の余地もございませんでしょう?」
「しかし、うちの使用人の話ではあなたの使用人が喋ったそうですよ
・・・あなたと自分は想い合う仲だと。
ここへはあなたと最後の思い出作りにやってきた、とね。これでもまだ、あなたは否定なさるんですか?」
カリナは思いもかけなかった話が出てきて思わず仰け反りそうになった。
『い、いつの間にギルバートは私の許可なくそんな話をねつ造して・・・!?』
せっかく上手い調子に話が進みそうだったのに
ギルバートの余計な茶々でペースが乱されて腸が煮えくり返った。
『あとで・・・シメてやるわ・・・!』
貴族の子女らしからぬ物騒な言葉を脳裏で呟きながら、あくまでそれを表面上に出さず
冷静にカリナは子爵に向かって言った。
「・・・彼とのことは・・・全てを否定はしませんわ。
でもあなたの想像なさっているような関係ではありません。それだけは言えます。
これでなにか御不満があって?」
挑発的な物言いで言う。すると案の定それにのっかかるようにして
すくっと子爵が立ち上がり、長い食卓の反対側に座っているカリナの傍までやってきた。
立ち上がってカリナを見下ろす子爵は、ギルバートよりも身長が低くて、
おまけに余計な脂肪がところどころついているのが服の上からでも十分わかった。
高価なものに身を包むことによってなんとか体裁を整えているようだが
カリナにとっては、今回、町の古着屋で買ってきたような少し解れの目立つ服を
着て、着飾っている要素のほとんどないギルバートのほうがよっぽど清潔感があるし
見栄えもしているように思えた。
カリナは子爵を目の前にして眉をひそめた。
「・・・どうされたのです?私が御気に触るようなことを申し上げたのなら謝りますわ。」
「・・・」
子爵は無言でカリナの手首をつかみあげた。痛いほどの力がこもっている。
握っていたナイフが床に落ちる。カリナは突然のことで息を呑んで相手を見上げた。
・・・暫くして子爵は口を開いた。
「・・・あなたに彼は相応しくない。あなたは私の妻となったほうがいい。
・・・いや、妻になりなさい。今、すぐに。」
あまりの突然の出来事にカリナは頭が真っ白になった。




