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壁に片手をついて立っているギルバートの頬に伸びている手は、ひんやりと冷たい。
その手の持ち主であるカリナは、ほんの少し困った顔で言った。
「今にも、泣きそう。」
「・・・泣きそう、ですか。」
反復してゆっくりとまるでなぞる様にギルバートは言った。
「でも、あなたは強いから泣きなんてしないもの・・・あなた、罪悪感でも感じてるんでしょ?
だからそんな顔になったのね。」
カリナはそう、ギルバートの表情を事も無げに分析した。
けれどそこにほんの少し含まれている優しさを感じて、ギルバートは無意識に
頬に伸ばされたカリナの手に自らの手を重ねた。
「俺は、姫に刃を向けました。全身全霊掛けて守るといった相手によりにもよってです。
例え間違いだったとしても。」
「あなたってば、ネチネチ悩むタイプなのね。もういいじゃない私は無事なんだから。
これぐらい、忘れちゃいなさい。私も忘れてあげるから。」
むすっとした口調でカリナは言った。
カリナはこんなことを根に持たないで欲しいから、軽口を叩くように言っていた。
ギルバートはそこにもまたほのかな温かい優しさを感じてつい口をついて言葉が出ていた。
「・・・はい。」
それを聞いて満足したカリナはすっとベッドから立ち上がった。
杖はないが、ゆっくりとした確実な歩みで部屋の中央の方へ移動する。
ギルバートは壁から手を離して立ちながらカリナの方を見ていた。
夕暮れで、全身が朱に染まるカリナはやはり、比類なく美しかった。
うっすら青い柔らかいシフォンのようなドレスまでもがその朱に映えている。
ただ、朱がまじわってもそれを相殺してしまう意志の強い紺碧の瞳だけが
同じくそこにあるのみだった。カリナはギルバートの方を一瞬見て、口を開けた。
「殿下からの依頼受けるつもりなの?
「はい。」
それを聞いてカリナは小さく溜息を吐いた。
「わたしはあの時、ギルバート以外でって、念を押したつもりだったのよ。
なのにあの殿下ったら余計なことしてくれるわ。
それでね、ギルバート、私についてきたら1ヶ月ほど帰ってこれないわ。
軍部のほうの仕事だって今手一杯でしょう?それを滞らせてまでついてき貰いたいとは思わないわ。
・・・それでもあなたは来たいっていうのね?」
「ええ。情報部の関係で都を離れる仕事は腐るほどしてきましたし
何より今回は姫を守るためについていく。
俺は、さっきも言いましたけど、姫を守るためなら、何でもしますよ。」
「バカ・・・何でもするとか言わないでよ・・・」
殆ど吐息のような声音の批難がギルバートのほうにも聞こえてきた。
けれどギルバートはあえて返事をすることは避けた。譲れない線だったからだ。
一瞬の沈黙が二人の間に落ちる。
それに耐えかねたのか、気を取り直したようにカリナが話題を変えた。
「そういえば。今こんな噂流れてるって知らない?」
「噂って、何ですか?」
「わたしが殿下からプロポーズされたって噂。軍部まで流れてきてたりするかしら?」
己に関わるゴシップなのに、他人事のようにサラッとカリナは言ってのけた。
ギルバートは本人の口からサラリと出てきた事と、
先ほど軍部で受けたカリナ信奉者による熱い噂への怒りを思い出して
少しオドオドとした受け答えをしてしまった。
「え、あ、えっと・・・一応、知ってます。」
「そう。じゃあ、私の夫であり殿下とも顔見知りあるあなたは、
この噂に対して何か思ったかしら?」
「大変な事態だ、と思いましたね。何しろ姫は王家の方々と縁が深い。
もっといえば、王家の方に頼まれた事を断れるようなことなんて誰だろうとできやしませんから。
だから、このままじゃ姫は重婚ということになって犯罪者になってしまうでしょう?」
カリナはギルバートの言葉を聞いて、にやりと笑った。
「あら、わたしと同じ事考えてたのね。でも
本当にわたしが殿下にプロポーズされたっていう可能性は考えてくれなかったのかしら?」
いきなりギュっと心を鷲掴みされるような核心の突き方だった。
それに図らずとも動揺してしまったギルバートは、少し声が小さくなってしまいながらも答えた。
「・・・それは絶対ないと、思いました。
姫が殿下に対する態度とか、殿下を訪う理由を知ってましたから、さすがに。」
そう正直に言うと、カリナはニコリと陰のない笑顔で笑った。
「理解のある夫でよかったわ。一応の離婚の危機が避けられたみたいね。」
と冗談とも本気ともとれることを言ってのけた。
―――部屋は既に陽が落ちて暗くなっていた。そろそろ明かりの欲しい時間帯になっていた。
それでも、カリナはギルバートの目には光源のように、闇の中でも光り輝く存在だった。
そんなカリナはほんの少し寂しそうな声音で告げた。
「あなた、いつまでここに独りで住む気?
確かに私が便宜を図ってここにいれるようにしたけれど、そろそろどうかと思うのよね。」
「俺は、姫と住む気にはなりません。俺達は政略結婚をしたんです。
慈しみと主従のような関係があっても、俺達に夫婦とか家族にあるような愛は・・・ない。
それなのに姫と一つ屋根の下で一緒に暮らしてあなたを無用に傷つける気は起きない。
だから、ずっとここにいますよ。」
カリナはギルバートの言質を聞いてほんの少し悲しそうな表情を浮かべた。
ギルバートはその反応につい、何かに期待をしてしまう。
カリナはそんなことも露知らず、ギルバートに歩み寄って間近で真摯に訴えた。
「・・・それでもあなたったら、あんまりうちに来てくれないじゃない。
別に別居でもいいけど、もう少し来てくれるもんだと思ってたのよ!
たまには顔を見せて。だから・・・」
「姫のところにもう少し行くことは考えて見ます。でも一緒に住むのだけは・・・」
ギルバートは自分でも絞り出すような声だなと思いつつそう言っていた。
まるで、本当の、仕方無しに別居している夫婦のような会話である。
本当のところは、ただのおままごとのような関係にすぎないのに。
そして、その関係にどこか期待すら抱いているギルバートがいるのも事実であるけれど。
黙っているギルバートをみて、また少し溜息を吐いたカリナは窓枠に手を掛けて
ギルバートの方を向いた。
「・・・帰るわ・・・ね。長居したわ。」
「って、姫、どっから帰るんですか?」
「え?どこからって、この窓からよ。さっきもここから入ってきたんだもの」
「え?」
「だって、寮事務所にあなたの面会申し込んだらそれこそあなたが嫌がってる
皆に私たちの事がバレるって展開になるのよ。軍部に直接行くのも同じだもの。」
「なら、せめて俺が本宮にいるときに来てくれれば・・・」
カリナはぷりぷりと怒った。
「だめだめ。これ以上殿下との噂が拡大したらにっちもさっちもいかないもの。
あなたはどうか知らないけれど、私は本当に勘弁して欲しいのよね。
あんな変人殿下と噂を立てられて嬉しいわけないもの。」
それでもギルバートは譲れなかったので今にも下りようとしているカリナの手を掴んで
引きとめようとした。
しかしその手はパシンと叩かれて拒絶される。
「姫!!!!こんな危ない事は・・・!!!」
「じゃあね、ギルバート。付の者を待たせてるから。・・・・おやすみ。」
そういってカリナは窓から下へ降りた。
ギルバートの部屋は一階の突き当たりの部屋で、窓際も低いながらも木に囲まれているので
侵入者は他の部屋に比べれば見咎められにくいとはいえる。
ただ、何かあったときが怖い。
カリナは深窓の姫君・・・というにはちょっと語弊のある女性だが
それでも貴族の令嬢という事に変わりはない。それも爵位継承者だ。
なにかあっては、ギルバートどころか、国益にまで影響は出かねない。
なのに・・・
「姫は、自覚しているのかいないのか・・・」
ギルバートは向こう見ずで大胆なカリナの行動に溜息を吐くしかなかった。




