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『洋国』王宮・ジェーダ。
そこにある『奥の宮』と呼ばれる、王族の居住スペースにてその声は響き渡っていた。
「・・・殿下っ、そんなの私、聞いてませんわ!!」
「聞いてないというか、今日初めて言ったからなあ・・・」
のんびりとした男の声とは対照的に、女の怒りの声が更に高くなった。
「そういう問題じゃなくて、どうしてこんな重大な事を勝手にお進めになったんです!?
相手方に失礼極まりないと存じますわ。」
「まあ、でも、人事ってそういうもんだろう。」
そういってのんびり屋の男―――『洋国』第二王子・ジェイドは
ズズズとはしたない音を立てて紅茶を啜った。
そしてその無作法に女―――第二王子付女官・アンリエッタは自分の主人であるはずの
ジェイドが座る執務机にバターンと大きな音を立てて両手をついた。
「殿下!!相手方にとって迷惑極まりないでしょう、この
ギルバート・フェルディゴール氏を本日付でよりにもよって、
殿下担当の私設秘書官になさるだなんて!!!」
「・・・しゅにーん?主任?・・・えっと、寝てらっしゃるんっすか?」
「・・・」
「おーい?」
「・・・・・・あああ、ああ。起きてる起きてる。」
「・・・さっきまで完全に寝てたでしょう?」
「・・・」
咄嗟に見返すも、うっ、とギルバートは返答に詰まる。
その反応を見て部下である男はブーブーと文句を垂れた。
「しっかし主任はいいですよねー、
若干21歳で中尉だし、見た目もハンサムで、家柄も伯爵家出身で女の子の憧れの的。
そんな人がちぃっとうたた寝してようがよだれ垂れてようが
ぜーんぜん評価に響かないっすもんねー。」
よだれが垂れていると指摘されてギルバートは将校に支給される濃緑の軍服の袖で
口の端のよだれを急いで拭う。
部下はあえてそんなギルバートを無視しながら尚も続ける。
「はあーあ。それなのに俺らときたら、
こんな軍人だっていうのもあって女の子とはなーんも縁がないし、
世の中つまんないったらありゃしねーですよ。」
「・・・それは俺も同じだ。何もお前だけがそうだというわけじゃないさ。」
・・・ただし、心の中で、
それだけ筋肉マッチョじゃ普通女の子は怖がって寄り付くはずが無いだろう、と付け加えながら。
―――ジェーダに付属する形で常設されている『洋国』陸軍本部警備部警備部隊の本部がある
【鉄の砦】の第2部隊ある師団に振り分けられた1室。
そこで、師団の中でも指導官に当る地位である士官のギルバートは朝のミーティングが始まる前に
せっせとその日の作業内容を日誌に書き付けていた。
ギルバートが政略結婚を挙げてから5年。
しかし、そのことは本当に必要最低限の人間以外には誰にも告げておらず
未だに将校専用の独身寮で暮らし続けている。
当然周りはギルバートを、見た目良し、将来的にも地位良し、実力良しと来ているのに
女の匂いがしないことは不思議に思っていた。
「そういえば、今日はお役人の人事が発表だかなんだかで
午後までは本宮がゴタつくとかって通達来てますよね。
今日の警備のローテーションはどうなるんっすか?」
「ん・・・それはまた中隊長と話さないとわからないが、おそらく
変則的にはなるだろう。他に来た者にもそう言っておいてくれ。」
「了解っす。」
警備部とはその通り警備を主とする部隊である。
『洋国』陸軍本部とは、王宮直近の軍隊であり、
その活動は国全体にいきわたる陸軍の総司令部であると同時に
王宮のある首都を主な管轄としてしている。
警備部の花形である要人警護を行う部隊は近衛部隊と呼ばれ王族それぞれについて警護を行う。
だいたいそこに配属されるのは王家に近い血筋の貴族やら、見目のいい者が多く
悪く言えば飾り的な要素も見受けられる。
が、対するギルバートの所属する警備部隊は実力者オンリー集団で、
・・・つまりは筋肉マッチョの集団である。
こちらは警備部という名の通り色んなものを警備する。
王宮の警備に始まり、街の巡回など警察のような役割も同時にこなすかなり武骨な集団といえる。
他にも本部には参謀本部や元帥直属の情報部、後方支援部、技術開発部などの多くの部隊が存在するが、
人員の規模からいえばこの警備部が軍の中で主だった部隊であるといえる。
因みにギルバートは貴族家出身の武官であるが近衛部隊に所属した経験は無く、
先頃の武官の人事によって数年来所属していた情報部から異動してきたところだった。
その際の昇進もあって、今や一個師団の主任クラスとなっていた。
ギルバートは予定を全て書き終えて広げていた日誌を閉じて椅子から立ち上がった。
・・・すると、その時身体と擦れたのか、机の上から一枚のザラ紙がひらりと床に落ちた。
「何だこれは?」
すかさず、身をかがめて手に取る。
そして何気なく、それに目を通してみると――――
『ハイライド侯爵、今週のスケジュールは超過密すぎてお肌が若干荒れ模様!!』
という新聞の見出しが踊っていた。
そして新聞の名前は
『ハイライド侯爵を草葉の陰からですら見守り隊』
である。死地に赴いてさえもただ見守るとは、何たるストーカー精神だろう。
「・・・これは、何だ?」
今度ははっきりと声に出して問う。
すると、話しかけられた事に気付いた筋肉マッチョ部下が幾分高い位置から
ギルバートの手元を覗き込んだ。
「え、何っすか?
・・・ああ、これですか。ハイライド侯爵のファンクラブ週報ですよ。
俺はよく知らないっすけど、コゼットのヤツが
どうやら侯爵のファンクラブに入会してるらしくて毎週これが届いてるらしいっすよ。
もしかしたらヤツが置き忘れたんじゃ・・・」
コゼットとは第2部隊の隊員である。つまり、ギルバートの直属の部下だ。
ギルバートは突然もたらされた、
巨大私設ファンクラブの存在と身近な人物がそのファンクラブ活動に勤しんでいる事実に
なんと返していいのか返答に詰まる。
それを知る由も無く、部下は呆れ顔で言葉を続けた。
「まあこのハイライド侯爵は女なのに手に職持ってるし、貴族で、
しかもめちゃくちゃ綺麗ですからねえ。
ムサい男にとったら垂涎・・・いや、高嶺の花なんっすよ。
それに未だに婚約者もいねえし、独身だからってだけで男って生き物は
手の届かない相手にだって無駄な夢持っちゃうんっすよ。
ほんっと、始末に悪いっすよねえ。」
「・・・その、これはハイライド侯爵公認って訳じゃなさそうだな・・・?」
「そりゃあ勿論。
ただ、このファンクラブは週報を書くヤツがいるってぐらいっすから
どっかのマメマメしい文官が主催してるらしいんっすけど
それでも大臣に近づける人間なんてそうそういやしません。
第一ある意味これはストーカーといっても言いすぎじゃねえですし。」
「・・・じゃあ、他にファンクラブの活動は何があるんだ?」
「そうですねえ・・・俺はさすがにファンクラブ会員じゃねえもんですから
詳しい事は知らないっすけど・・・
他にも月1回でミーティングがあるとかなんとか・・・
・・・って、主任、もしかして、ハイライド侯爵に興味があるんっすか?」
興味津々、といった風にマッチョ部下が聞き返してくる。
そのマッチョな身体とは対照的なつぶらな目が気持ち悪いのもあったが
―――実際、このファンクラブには大いに興味があったので―――
ついバツが悪いと思いながらもこう返していた。
「いや、特に興味はないが・・・
こうやって隊員の士気を下げかねない非公式な同好会活動があるなら
少し様子見をする必要があるかもしれないと思っただけだ。」
「そうっすか。確かに、中には
本気で侯爵にイカれちまってるヤツもいるって聞きますからねえ。
コゼットもいっちょここらで鍛え直しといた方がいけねえかもしれませんな。」
「いや、あくまでまだ様子見だ。酷くなってきたら俺に直接言ってくれないか?
さすがに、上官の言う事なら聞かざるを得ないだろう。」
「わかりやした。・・・じゃあこの紙も仕事場には持ち込まないように
ヤツに渡しておきましょうか?」
「・・・あ、ああ。よろしく頼む。」
そういってから、ギルバートはやや間をおいてからファンクラブ週報を手渡す。
部下はそれをまるで握りつぶすかのような圧力で握り締め、
「早速返してきやーす。」
といって部屋を出て行った。
それを見送ったギルバートは、一人残された大部屋で盛大に溜息を吐いた。
「こんなことって、あるもんか・・・」
・・・ギルバートは、今や武官からですら高嶺の花と言わしめる
カリナ=ウェルシュ・ハイライド侯爵と極秘結婚をして早5年目に突入していた。
彼女は結婚後予定通りハイライド侯爵位を賜り、そして大臣職に就いた。
そして、約束どおり二人は結婚していることを周囲に漏らさず、
ギルバートに至っては婚姻実態を隠して独身寮に未だ住んでいる。
二人の関係はあの5年前の結婚から何一つ、進みもしていない。
更に言えば、どんどん、二人の社会的地位は切り離されていって
既にギルバートにとってもカリナは高嶺の花で手の届かない人物だった。
第一、別居のお陰で一月に1度会えればそれで上々。
情報部に所属していた頃は半年振りに会うということもザラだった。
それでも二人は離婚が切り出せない。
理由はいくつかある。ギルバート側の主な理由は
一つは、双方の実家が強く望む、二人の間に子どもが5年経っても生まれていないこと。
二つ目に、ギルバートが離婚を持ち出せば多額の慰謝料を払うのはギルバートになること。
三つ目はまだ誰にも知られていない事だが・・・
ギルバートには、自分がカリナと別れてそれからカリナに新しい相手ができることが
何故だか、全く想像だに出来なかった。
ギルバートは元来色んな人をとっかえ引返していた為か、
あまり愛着、執着だのを持たない人間だと思っていた。
けれどいざ一人の人と結婚をしてみて、
そしていつか手に入れたものが、どこか他のものになってしまうかもしれないことに
急に怒りと恐れを覚えた。
現実、まだそうはなってはいないのだが、
この結婚を契機に生まれた独占欲がカリナに向かっていることをようやく最近意識し始めた。
だから、たかだかファンクラブ、しかも草葉の陰なんぞからですら見守るヤツらにすら
かっ攫われるかもしれないということに無用に恐れをなすのだ。
「姫はまだ、ファンクラブに気付いてないのか・・・?」
ギルバートがそう、頭の後ろで手を組んで誰とも無く一人ごちたとき
いきなりドアをノックする音が響いた。
「は、はいっ。」
ギルバートがガラにもなく慌てた声で返答すると、
そのノックの主は、情報部にいた頃、幾度か見たことのある武官で、
その者はゆっくりとドアから顔を出して厳かに告げた。
「ギルバート・フェルディゴール少尉ですね?
・・・この方がお呼びです。至急、執務室に来られたし、と。」
「え?」
そういいながら手渡された手紙に手を掛ける。
その内容の思いがけないことにギルバートは驚き戸惑った。
『元帥閣下から呼び出し・・・?何か俺はしたっけ?』
あれやこれやと思案しながら【鉄の砦】の廊下を歩く。
国軍元帥の執務室は、この頑強な軍本部の最上階の突き当たりにある。
そこは、あまり余人を寄せ付けない場所である。
ギルバートは情報部にいた頃、何度か直属の上司である元帥に面通りかなった事はあったが
下っ端だったこともあり取るに足らないことであった。
そして直に呼び出されて会いに行く、ということは未だかつて無かった事態である。
さすれば、何かとんでもない問題がおきたか。
『もしかして、姫とのことで問題が起きたとか・・・?』
よからぬ考えが首をもたげるようにしてくる。
いくつか警備の兵士に敬礼されながら廊下を歩くうちに、元帥の執務室の前についていた。
大きなギルバートの身の丈の2倍はありそうな重厚なドアがあり、
鉄の輪に手を差し入れてノックした。
「失礼仕ります、ギルバート・フェルディゴールであります。
元帥閣下はおられますでしょうか。」
すると中から
「入れ」
と短くも男の太い声が聞こえたのでギルバートは部屋の中に入る。
そこは、部屋の主を表したかのように質素で剥き出しのいい意味で殺風景な部屋だった。
大きな黒光りする執務机以外に目だった家具はなく、
中央に置かれているソファもあってもなくてもいいほど存在感が薄い。
ただ、置かれているだけ、といえる。
そのソファにスワって熱心に書類を見ている男が中へ入ってきたギルバートのほうをちらりと見た。
「・・・忙しい所呼び出してすまなかった。すぐ済むからちょっと待ってくれ。」
そういって書類をひとまとめにして片付け出した。
―――体格は、長身の割りにスラッとした細身で、書類整理などの事務職の似合う
おおよそ元帥のような軍部の頂点にいるような者とは思えないこの男性は
ロレンティオ=ツェルア・クレドール。
『洋国』女王ヘレナの長男であり、王位継承権第一位。
ただし、父親が敵対国の皇帝であり、異父弟であるジェイド第二王子と
どちらが王権を継ぐに相応しいかという論争が20年にも渡って絶えぬ悲劇の王子である。
確かにいえることは、どちらの王子が王位に就いたとしても、
・・・いや誰がセレナ女王の次代となったとしても
その時この国は存亡に危機に陥る。
だから、一応二人に継承権に順位はついているものの今もまだ二人は決定的に王位を継ぐ
きっかけすら避ける為婚約者すらおらず独身を貫いている。
ただどちらかに将来の伴侶の影がちらつくだけで、この二人の去就は左右されてしまうのだ。
ギルバートはこの王子の不遇には同情を禁じえなかった。
その不遇の張本人・ロレンティオは調えた書類を持って執務机に戻った。
そして椅子に腰掛けて、真っ直ぐギルバートの目を見据えた。
この国で忌み嫌われる、黒檀のように研ぎ澄まされた黒い瞳だった。
「忙しい朝に呼び出してすまないが・・・一つ、君に知らせねばならない事案が出来た。
私は、君にこれを承服してもらわねばならない事に非常に申し訳なさを覚える。
それでも、許してやってくれないだろうか?」
ありがたき元帥の言葉はまるで雲を掴むような言葉である。
「・・・どういう意味でしょうか、それは。」
そう、聞きなおした時、さっと机からロレンティオは一枚の紙を取り出した。
そしてピラリとギルバートの目の前に翳される。
その、何の変哲も無い紙には、ギルバートがこの春にも一度見た、
人事部の承認印がでかでかと押してあった。
そして達筆な文字でこう書かれていた。
『 辞令
本日付で下記の者を第二王子付私設秘書官とし、これを承認す。
ギルバート・フェルディゴール中尉 警備部警備部第2隊所属
人事部』
「・・・なんですか、これは。」
素直にギルバートは疑問をぶつけた。
脳味噌はまだこの異常事態を飲み込みきれていていない。
ロレンティオも、普段の理知的な表情を崩して、苦笑いしていた。
「すまない・・・私にも、自分の弟の考える事はわからん。
ただ、君は弟に何故か目をつけられていた。
私にわかることはそれだけだ。」
ギルバートも未だ何がなんだか意味がわからない。
そもそも、何ゆえ、武官であるギルバートが警護とかそんなのではなく
秘書官として採用されるのか。
王族付の秘書官など、文官だけでなく誰しもうらやむ憧れの地位である。
それを何故やすやすと国家試験を通ったわけでもない学の無いギルバートに振り分けられたのか。
浮かんでくる疑問はあぶくのように消えてはまた浮かぶ。
ギルバートは第一王子の執務室で途方も無く立ち尽くしていた。