プロローグ1 彼女の場合の流転の運命
朝陽差し込む繁華街の一通り。
店の開店準備をし始めている人以外には、ほとんど人気のないそこで、
カパッカパッと景気のいい、馬の蹄が舗装された道を行く音が響く。
「あら、カリナお嬢さんじゃないかい、朝からどうしたんだい?」
軒先で開店準備を始めている八百屋の女将が馬の上に乗っている者を見上げながら問う。
ヒヒィと馬をいならせて、馬上の少女ははっきりと大きな声で答えた。
「メディフィス夫人のところに行くつもりよ!」
メディフィス夫人邸。
そこは、『洋国』ハイライド領の中心都市・ノースブルの繁華街にある。
市が広がり、商いをやっている者の多くが住んでいる区画にあるため、
一見メディフィス夫人の家がそこにあると思う者はまずいない。
なぜなら、メディフィス夫人は夜の商売人として有名だからである。
今はもう現役を引退してはいるものの、
夜の女王としての伝説の数々は今も尚語り継がれているほどの妓女だった。
そんな夫人が首都から越してきたのが『洋国』でも西の方にあるハイライド領。
海に面しているわけでもない田舎な内陸の土地であるにもかかわらず、
煌びやかな首都から隠遁の地として選んだのがここだった。
カリナは再び走り出した。
一応舗装されて入るものの、水はけの悪い地面の上を走り抜ける。
馬は快調に道を進んでゆく。
そして3階建ての個人宅にしては少し大きめのレンガ造りの邸宅が眼前に現れる。
カリナは馬の手綱を引っ張って止まった。鋼鉄の門扉が僅かに開いている。
カリナは馬から用心深く下りて、たずなを門扉に引っ掛けた。
そして、メディフィス夫人の家の中にズカズカと入っていった・・・
『夫人はまだ起きてないのかしら?』
色んな男を手玉に取ってきた高級娼婦のメディフィス夫人は、
今、通いの家政婦と料理女を雇う以外に同居人はいない。一応『夫人』と呼ばれているが、彼女は『独身』である。
この家で一人暮らしをしている。
カリナは勝手知ったる人の家なのでズンズンと静かで誰もいないリビングを通り過ぎる。
昨晩は少し寒かった為か、暖炉がかき回した後が見られる。火かき棒がそのままだ。
「夫人ー?どこにいるの?」
カリナは声を出す。すると、どこからかくもぐった声で返事が来た。
「その声は、カリナ嬢かしら?私は今お風呂にいるのよ。いらっしゃい。」
どうやらその声は、2階の夫人のプライベートルームの横にある風呂場からのようだった。
カリナはリビングから螺旋階段を伝って2階に上がる。
そこには、何室か部屋があったが、ひとつが半開きになっていて、カリナは構わずそこに入った。
「メディフィス夫人、勝手に家の中に入ってしまったけれど、いいかしら?」
「いつもいつも言ってるけどカリナ嬢なら構わないわよ。」
カリナは夫人の寝室と思われる部屋を通り抜けて、湯気の立ち上るバスルームへと足を踏み入れる。
綺麗に敷き詰められたタイルの上をゆっくりと歩く。
シャワーカーテンに近付き、パシャパシャと湯の跳ねる音を聞きながらカリナは立ち止まった。
そして少し声のトーンを落としながら重々しく口を開いた。
「ねえ夫人、うちの母様がね・・・」
「知ってるわよ、あなたのお兄様、突然出奔なさったそうねえ。」
妖艶な声がバスルームいっぱいに響く。全く、暗い話ですら官能的に聞こえてしまう。
しかし、カリナはこの隠遁生活を送る夫人の情報網に溜息をついた。
「夫人、やっぱり知ってたのね・・・」
「知ってるも何も、わたくしは、何も世間を疎んでいるわけではないのですもの。」
ふふん、と夫人は笑う。きっと、男性方ならその笑みでコロッと騙されるのだろうが、
幾人もの大貴族を相手にその寵愛を一気にその手の内で転がしてきた夫人の笑みは
カリナにとってはある意味脅威そのものだった。
「じゃあ・・・私、どうしたらいいと思う?」
「そうねえ・・・」
バサッと夫人がお湯から上がる音がする。
シャワーカーテンが一気に引かれて、すらりと美しい裸身に一瞬でバスローブを纏った夫人は、
濡れて更に艶を増した悪魔のように真っ黒な髪をサッと結い上げて男達をコロリと騙してきた極上の笑みを
――他人には滅多に見せない笑みを――真っ赤な唇を、沈み込んでいるカリナに向かって浮かべた。
「カリナ嬢の好きにすればいいの。わたくしは、いつでもどこでも、あなたを見てる。」
「夫人・・・」
バスローブを着込んだ夫人はさっさとカリナを放ってダイニングルームに向かう。
窓から燦燦と朝日が照り注いでいる。
部屋にいくつか置かれた観葉植物や、趣味のいい家具や調度品が映えている。
金持ちを見せびらかす貴族の家にあるような『華美』とはまた違う豪華さに暫しカリナは目を奪われる。
すると、既に料理所によって準備が整えられた朝食を前にして夫人は椅子に座った。
ジャムが塗られたワッフルにカリカリに焼かれたベーコンに、
野菜がゴロゴロと入ったスープ、そして山盛りに詰まれた果物。
カリナは食欲は湧かなかったが共にダイニングルームに入って、
一目見て高価だとわかる細かな細工の施されている椅子に恐る恐る座った。
「カリナ嬢、牛乳は飲む?お肌にいいわよ。」
「夫人・・・」
「あ、このフルーツなんかどうかしら?これ農園から直接卸してもらっていてね、
とても新鮮なのよ。通いで来てもらってる子が農園の知り合いでね・・・」
「夫人!!」
カリナは声を大きくした。夫人は喋るのをやめて、カリナをきょとんとした目で見つめる。
「どうしたのカリナ嬢、何を悩んでいるの?あなたのお母様なら、きっと仰ったんでしょう?
『あなたが我が家の主となって、首都へお行きなさい』
とでも。そしてあなたはそれが嫌でわたくしのところへ逃げてきた。そうでしょう?」
「逃げてないっ!」
賢明に声を荒らげた。つもりだった。けれど、尻すぼみのように言葉尻は小さくなっていった。
夫人はすっと立ち上がってカリナに近付いた。
そして俯いたまま歯を食いしばっているカリナの頬にそっと手を伸ばした。
「カリナ嬢は強くて美しい。
それはわたくしだけじゃなくて、この街の皆が知っていることよ。
だから、わたくしはあなたの下した決断が何であろうと、それでいい。
でも、どうしてそれを躊躇うの?」
カリナは夫人を見上げた。
『洋国』で忌み嫌われる黒髪を、染めもせず堂々と晒して生きている彼女は
高級娼婦として高見の高見にまで上り詰めた、妓女の中でも伝説級の人間である。
本来ならばカリナのような小娘が決して、出会うことのなかった人だった。
しかし、カリナはそんな夫人とこの街で知り合った。
たまたま、遊びに来ていて迷った場所が、売春婦が多く住む一角だったのだ。
ある一件に巻き込まれたときこの夫人が助けて、家まで連れ帰ってくれたのだ。
それ以来、夫人は何かとカリナに目をかけてくれ、
カリナも何かあるたびに、気兼ねなく話せる相手だからと家にはよく遊びに行っていた。
けれど、首都へといってしまえばそれすらも出来なくなってしまう。
「・・・私は、なりたくないわ、侯爵になんて。今の生活が一番幸せよ。
でも、私がならなければ、民に苦しみを負わせてしまう。
それの方が、もっと嫌。だから私は、侯爵になる。私の幸せを犠牲にする。」
カリナの真剣な決意を聞いてニッコリと夫人は笑った。
「さすがね、カリナ嬢は。」
カリナ=ウェルシュ・ハイライド。大臣職を代々歴任しているハイライド侯爵家直系の長女である。
カリナの母親は先王の実姉であり、血筋としては王位継承権の規定範囲内に入る名家である。
しかし、ハイライド家にはつい最近発生した大変由々しき問題があった。
つい2ヶ月ほど前にカリナの父であるハイライド侯爵が44歳の若さで亡くなったのである。
そこで次期侯爵としてカリナのたった一人の兄弟である兄が侯爵位を継ぐ事になっていたのだが・・・
「カリナ嬢のお兄様、何があって出奔なんてしたのかしら?」
「知らないわよっ、そんなこと。きっとあのボンクラでオタクなお兄様のことだから、
『あの高山に行ったら・・・新種の野草が見つかるかもしれない。ちょっと行ってくるよ』
とか言って、ほっつき歩いてたら帰れなくなったに違いないわ!」
先ほどとは打って変わってカリナはバクバクとフルーツをたいらげていた。
既にマスカットは二房目である。夫人はカリナを自分の子どもを見るかのように見つめていた。
「それにしてもカリナ嬢のお母様もお母様ね。
まだカリナ嬢は15でしょう?それに女だてらに侯爵位なんて継いだりしたら
周りからの反応は見えてるのに、酷な事をなさるね。」
「・・・それは仕方ないわ。お母様は、きっと分家に爵位を譲りたくないのね、
お母様ってああ見えて権力には弱い方だもの。」
夫人は、カリナの子どもらしい浅慮な意見に苦笑した。
「カリナ嬢は、お母様の事、よく見てるのね。」
「だって、うちのお母様、本当に箱入り娘なのよ!?
ずっと首都にいっぱなしで、こういうことがあってようやく領内に帰ってくるような人だし、
馬にも乗れないし、草も刈ったことないって言うし、
嫁入りしてから、うちの城下に来たのも、数えるほどしかないらしいのよ!!」
カリナは母親譲りの紺碧の瞳を目一杯に押し広げて主張した。
可愛らしい御嬢様なのに、こういう我の強さは、母親にそっくりである。
「本当、ダメな母だわ!」
「親の事をそんな風にはいってはダメよ。
お兄様が出奔なさって、お父様亡き後、カリナ嬢が頼れる家族はお母様だけなのよ?」
「夫人ったら、私じゃなくて、見ず知らずの私のお母様の肩を持つのね!」
「そんな訳じゃないわ。」
おませなカリナは、賢い分、大人の事情を鵜呑みにしやすい。
夫人はちょろまかそれを修正する役割として今まで話し相手になっていたが、
この少女ももう、手元からいなくなってしまう。夫人はその思いもこめて諭していた。
「ただね、カリナ嬢のお母様の気持ちが、凄くよくわかるのよ。」
「・・・ふぅん・・・」
カリナは結局マスカットとりんごとオレンジをそれぞれふたつずつ平らげて椅子から立ち上がった。
が、少々長く座っていたせいか足がぐらりとぐらついた。
「あっ・・・!」
咄嗟に手を出っ張って床に正面衝突しないようにするも、間に合わない。
すると後ろから強い力で引っ張られる。咄嗟にカリナは後ろを見返した。
「ふ、夫人・・・」
「本当にもう、カリナ嬢ったら気をつけなさい。
あなた、ただでさえ足が悪いのに、女の子一人で首都にいくんだから・・・!」
「大袈裟よ、夫人。だって付のものがいっぱいついてくるもの。」
そういってカリナは脇に立っている夫人にしがみつきながら感覚が微妙な足を地に付けた。
カリナは左足が悪かった。
カリナはこの界隈で夫人と初めてであったその日、
たまたま横を通りかかった馬車の脱輪による横転に巻き込まれて、左の足が下敷きになった。
大量出血で動けないでいるカリナを自宅へ運んですぐさま医師を呼び寄せたのは夫人だった。
一命は取り留めたものの、切り落とさずに済んだ左足は
いくつもの縫合の痕と共に体の奥深くの神経に傷を刻み付けていた。
それ以来、徐々に徐々に、カリナの左足は動きが鈍くなってきている。
医者からもこの足は二度と治らない、どころか、現状維持が精一杯、と宣告されていた。
養生のために侯爵家一家は皆首都に住んでいるのだが、
カリナだけが事故以来空気が良くて煩わしい貴族社会からも疎遠なハイライド領に住み続けているのだ。
カリナは自嘲気味に笑った。
「わたしの足、そろそろ動かなくなってきたみたいね。でも、仕方ないわ。そういう運命なのよ、私。」
「カリナ嬢、そんなこと言わないでよ・・・」
夫人は涙声になっている。
カリナは『夫人ったらちょっと大袈裟に言ってみただけよ』、と言うも夫人の弁は止まらなかった。
「あなたみたいな、可愛い若いお嬢さんの足が動かないなら、
わたくしみたいなおばさんの足、何本でも差し上げるわ。
わたくし、あなたが真っ赤な血を流して道路に倒れている時、本当に思ったのよ・・・
この子はわたくしが助けてあげなければいけない子なのって、だから少しでもあなたの役に立ちたいの!」
「は、はあ・・・」
勢いに気圧されてカリナは適当に相槌を打つ。
が、夫人はそれを了解と取ったのか、思っても見なかった事を言い出した。
「わたくしはただの妓女あがりの非力なおばさんよ・・・
だから、わたくしが孤軍奮闘で首都に向かうカリナ嬢を直接は守ってあげられない。
でも、カリナ嬢が首都に行くのなら、わたくし何の犠牲を払っても厭わない気でいるのよ。
だから、うちの息子を、婿として連れて行かせるから、それで許して頂戴!!!」
「・・・・・・は?」
カリナは一瞬フリーズした。夫人に息子?それより婿・・・?
「あなたのお母様にも話は付けたのよ、実は。それで、お返事も色好かったからあとはあなた次第なの。
不肖の息子だけれど、カリナ嬢を守るだけの力がある子だし、
何よりわたくしと親戚関係になれるのよ!わたくしすっごく嬉しいのよ!」
なにやら論点がおかしい。
カリナは混乱した頭を持て余しながら一応確認のために聞いた。
「でも、夫人は『独身』だって聞いてけど・・・どうして息子さんがいるの?」
「ああ、それはね、確かに私は『独身』よ。結婚歴も離婚歴もないわ。
でも子どもはいるのよねえ、実は。」
カリナは夫人が高級妓女だったということから子どもの一人二人やいても不思議ではないと思っていた。
しかし次の発言は貴族社会をも揺るがすほどの爆弾だった。
「リチャードって言ってね、わたくしのことを10にもならない頃から追い掛け回す気持ちの悪い男がいるんだけれど、
色々あって彼と間に4人も子どもがいるのよ。本当きもちわるい話よね?
あ、でも心配しなくていいわよ、リチャードは表面は真面目な男だし、子どもたちもすっごく外面いいから。
あ、爵位のことかしら?
リチャードはフェルディゴール家の当主だから身分にも全然問題ないわよ。
うちの子たちも、ちゃんとフェルディゴールの直系として育てられてるし。」
カリナは最後ら辺の言葉を聞いて暫く固まった。
フェルディゴール家。
それは、『洋国』貴族の中でも指折りの富豪の伯爵家ではないか・・・?
そんな彼と結婚もせず『いろいろあって』どうして4人も子どもが出来るのだ・・・?
「ふ、夫人って、あの天下の富豪といわれるフェルディゴールの愛人、ってこと・・・?」
背中に冷や汗をかきながら恐る恐るたずねる。
もしや、この、伝説的妓女である夫人がこんな隠遁生活を送る理由は・・・
「いえ、リチャードも私と同じで結婚歴なんてないはずよ。わたくしが何度も
『わたくしを金魚のフンみたいに追いかけるのは早くやめて
男が枯れないうちに可愛らしい奥さんでも娶ったらいかがなの?』
って言ったんだけれど、未だに結婚式の招待状が来ないってことは結婚してないみたいねえ・・・」
「そ、そういうって大丈夫なの?」
「そうねえ、リチャードって、昔から面食いだもの・・・」
はーっと深刻そうに夫人は溜息をついた。最早そういう問題ではないだろうとカリナは突っ込みたくなった。
「でも、大丈夫よ、うちの息子はリチャードみたいにしつこくないから。
ただねえ、長男はもう結婚しちゃってるから次男しか余ってないのよねえ。次男でもいいかしら?」
目当ての特売品を買いに行ったのに、売り切れたせいで別の商品を勧められるかのような口調である。
フェルディゴールの財力に目が眩み、姻戚関係になりたい貴族連中はごまんといるため、
この話はハイライド次期侯爵のカリナにとってもきっと魅力的な話ではあるのだが、
場合が場合なのでカリナはぶんぶんと首を横に振った。
「そ、そんな勝手に決めてしまったらだめよ!それに私はまだ当分一人でやっていけるもの。」
「あら、そう?わたくしはただ、カリナ嬢の力になりたいだけなのよ・・・?」
寂しそうに夫人はカリナを見やる。カリナはその視線がいたたまれなくなって
「ご、ごめんなさい!」
と言って逃げるようにして屋敷を飛び出していた・・・