石女夫人と蔑まれて心を凍らせた私が、年下殿下の情熱に溶かされ「子沢山の寵妃様」として幸せになるまでの話
「リア……どうしてもやめてしまうのか」
「ええ、殿下。申し訳のうございます」
ぐすぐすと泣きながら詰る声の震えを、スカートの裾を頼りなく握りしめる拳の小ささを、私は後悔とともに、今でも覚えている。
親の決めたことに逆らえぬは、貴族に生まれた女のさだめ。
父親の命ずるまま、十九歳からの十年間で、私は四人の男のもとに嫁いだ。
一人目の夫は、二人目の妻を病で前年に亡くした侯爵だった。
妻の葬儀に訪れた私の美しさに目を奪われたのだと堂々とのたまう、恥知らずな老人だった。
老いらくの恋を楽しむための若い妻として迎え入れられた私は、当然のように前妻の子たちや使用人に疎まれた。
最初の妻が生んだ嫡男はとうに成人しており、彼は私より十五も年上だった。
老いてなお盛んな父侯爵を見てきたからだろう。
私が新たに男子を産むことを厭い、彼は私にニフェンの実から作られる避妊薬を飲むよう要求した。
侯爵家が用意するだけあって強力な薬で、その分体へかかる負荷も大きい。ほとんど毒と等しい効果の薬は巷で流布される悲劇小説などでも有名だ。子を産むことができなくなると言われ、娼婦か王家の断種のためにしか使わないような薬である。
もう我が子は抱けぬ覚悟で、私は毎月、月の物の始まりとともに薬を煽った。
醜悪な老人の子を産みたくないという乙女らしい潔癖な心もあったし、子を孕んだがために跡目争いに巻き込まれて命を落としては元も子もなかろうという諦念に満ちた打算もあった。
まぁ言い訳はいい。
とにかく私は侯爵の息子が差し出した避妊薬を飲んだのだ。
毒薬を飲まされるよりはマシだと己に言い聞かせて。
嫁いで三年。
老いた侯爵の良き話し相手として、老いらくの恋のお相手として、破廉恥な着せ替え人形として、献身的な介護者として侯爵家に仕えた私は、侯爵の死とともに実家に戻された。
あわよくば男児を産んで侯爵家の中枢に喰いこめと私を激励していた父は、至極失望した様子であった。
実家で半年喪に服したのち、父は私を新たな男のもとへ送り出した。子を産まず実家へ出戻った不肖の娘に相応しい、格下の男のもとへ。
二人目の夫は、遊び人で名高い伯爵家の次男坊だった。
あちらこちらに愛人に産ませた子がいると初対面で言い放った男は、自分は性豪だからお前も孕ませてやる、大船に乗った気持ちでいろと下品に笑い、私の胸を揉んだ。
私は苦笑して感謝を述べたが、後ろに控えていた侍女が憤死しそうなほど怒り狂ったことをよく覚えている。
私の二番目の夫となったのは、まともな貴族家なら娘を嫁がせるはずもないような、最低の駄目男であった。
そんな男のもとに私を送り出した父は、自分の行いの非道さをわかって笑っていた。
「前の侯爵は爺すぎて孕めなかったが、今度は若い男だからなんとかなるだろう。ははは、良い話じゃないか。女の幸福は子を産んで愛されることだ」
我が家も伯爵家。一見して夫と家格は同じで、歴史の古さも似たようなものだったが、領地と資産の規模は圧倒的にあちらが上だった。
かの家との縁組は、経済的に利が多かったのだろう。
出戻り娘にはちょうどいいと、縁談の話がきたときに父はたいして悩みもせず承諾したらしい。
だが残念ながら、一年経っても私は孕まなかった。
二夜と開けず私に跨っていた夫は、男としてのプライドを傷つけられたらしい。
一年後には月に数度訪れるのみになり、最終的には気分を害した夫の意思により離縁された。
この国では二年経っても子を孕めない場合、妻有責での離縁が認められているのだ。
泣いて縋り付くことを期待されていたようだが、私は頭を下げて感謝とともに実家に帰った。
もうどこにも嫁ぐことなく、修道院にでも入れるかと期待したが、一月も経たぬうちに縁談が舞い込み、私の期待は儚く散った。
辺境伯の子息からの縁談で、父は当然のようにこれを受けた。
三人目の夫は、子ができないことを隠したい神経質な男だった。
最初の夫であった侯爵の嫡男の友人であるという彼は、私が子を産めなくなっていると知って、あえて私を二番目の妻として望み、娶った。
不仲と評判だった前妻とは子が出来ず離婚していたのだが、その前妻が再婚してすぐ子を孕んだらしい。
密かに囲っていた数人の愛人たちとの間にも子がいなかった彼は、もしや子が出来ぬのは己に原因があるのではと恐れた。
そのため、石女の実績のある私とあえて結婚することで、親族からの攻撃の盾にしようとしたのだ。
子が出来なかったとしても、私に責があると言えるように。
外向きには、私の美しさに一目で夢中になったのだと言って。
以前は既婚者の身であり、求婚できなかったのだと吹聴して。
仲の良い夫婦を装うことを要求された。
この夫は、おかしな性癖もなく、私にとってそんなに嫌な人間ではなかった。
つまり、強壮剤を飲んで朝まで好き勝手突きまわしたり、おかしな装束で私を拘束して卑猥な恰好をさせたり、口にするのもおぞましい奉仕をさせたり、人間の尊厳を奪うような行為を強いる男ではなかったということだ。
ついでに、夫の機嫌を損ねて気を失うまで殴られたり、隙あらば毒を盛られるような命の危険を感じる環境でもなかったので、私は比較的ストレスが少ない日々を送っていたと言える。
夫とは、子供が出来れば儲けものだと言って、子のできやすいはずの時期を狙って月に数回、夫婦らしく夜を共にした。
一人目の夫の死以来、つまり、とうの昔から避妊薬はやめていたけれど、やはり私が孕むことはなかった。
それが私のせいか夫のせいかは不明だが、彼は周到に私に非があると周囲に思わせた。私は責め立ててくる辺境伯家の者たちにひたすら申し訳なさそうな顔で押し黙った。そうするように夫から求められていたからだ。私の一番の役目はそれである、と。
二年の間、私たちには子が出来ず、辺境伯家の親族会議により私は再び離縁され、実家に戻されることとなった。
暗い顔をした夫が複雑な感情を宿した瞳で「すまない」と言ったことだけ、やけに印象的だった。
そして、今更勝手だとも思った。もともと私を盾にするために娶ったのに。
辺境を守るあの武骨で巨大な城に、また一人で取り残される夫が多少哀れに思えたが、愛していたわけではないので、同情もすぐに薄らいだ。
なにせ私は、離婚して早々に、またしても嫁がねばならなくなったからだ。
「帰ったな、恥晒しな娘よ」
追い出され、おめおめと帰ってきた私を、父は大きなため息とともに迎えた。床に伏して謝罪した私を鼻で笑い、父は言った。
「安心しろ。もうすでに次の縁談の用意がある」
驚きに固まる私に、父は呆れ顔で薄く笑った。
「お前は子が産めないわりに、使い勝手のよい駒だな」
四人目の夫は、金はあるが爵位の低い成金男爵だった。
少し前に爵位を買ったばかりの男爵には、糟糠の妻とも呼べる愛人がいた。
結婚初夜に私との子を作るつもりはないと言い放った男爵は、その後も申し訳程度に数回私の閨を訪れただけであった。
我が国では、貴族の正妻は貴族でなければならない。そして、貴族の跡継ぎになれるのも、正妻の子だけである。
しかし、抜け道があった。妻が子と認めたのであれば、養子でも良いのだ。
だから男爵は、子を産めぬ私との縁談を望んだらしい。愛人との間の子を養子として迎え入れ、己の跡継ぎにするために。
一般的には酷い境遇だろうけれど、彼は、私にとって決して悪人ではなかった。二年子がなければ妻の有責で離婚できる法を逆手にとり、彼は希望があれば将来的に私を解放すると約束してくれたのだ。
旧家ゆえに無駄に顔の広い伯爵家の人脈と後見を望む彼は、大層黒い笑顔で私に握手を求めた。
我が家も男爵から経済的援助を受けることを望み、お互いに利がある縁組であったから、おそらく父も愛人や庶子のことは黙認していたのだろう。
この夫のことは、私は嫌いではなかった。
昔から己の苦労を支えた女を尊重する姿は、私にとってはむしろ好ましく映ったのだ。
女を使い捨ての道具のように扱う貴族男性に飽き飽きしていたからかもしれない。
私はむしろ、女としてではなく共犯者としての彼の扱いを喜んだ。
そして、私は自ら進んで、離婚後に向けて彼の愛人に貴族社会のルールやマナーを教えた。
謙虚な愛人は、畏れ多いと言いながらも大層ありがたがって喜んだ。
嫁いで二年、子を産めなかった私は堂々と彼と愛人の子を養子に迎えた。
そして状況が落ち着くのに一年を待ち、私は離縁届を手に入れた。
晴れて解放されたのだ。
しかも、夫が父と話をつけてくれたおかげで、今回は実家に帰らなくてもよいのだ。
夫は私に、彼が率いる商会で最も重要な工房を敢えていくつか任せてくれた。そして企業秘密を知る私を他家には渡せないとうそぶいた。
父との金銭の絡む多少の交渉の末、離婚後も共同経営者として残ることになったのだ。
まあ実態は名前だけの責任者である。
私は夫からの援助で海辺に家を買ってもらい、悠々自適にのんびり過ごせることになっていた、のだが。
「リリアナ、すまない。約束を果たすことは難しそうだ」
うきうきと引っ越し準備をしていた私のもとへ、困り顔の夫、いや前夫が二通の書簡を手に現れた。我が家からのものが一通、そして、王家からのものが一通。
「なぜ……」
動揺する私を同情に満ちた眼差しで見つめた夫は、力なく首を振った。
「分からない。しかし、私にはどうにもできんよ。なにせ私は多少金があるだけの成金男爵だからね」
苦笑いして私に渡されたのは、艶のあるインクで仰々しい文章が記された羊皮紙。静かに肩を落とす彼は、憐れみとしか言えない感情をそのありきたりな茶色い瞳に浮かべていた。
「君は王太子殿下のもとにお仕えするしかないと思うよ。その……名誉なことじゃないか。夜伽指南係なんて」
「そんな……」
静かで気楽な独り暮らしの夢が目前でガラガラと崩れた私は、力なくソファに座り込んだ。
あまりにもあまりな運命である。
十年にわたる四度の結婚生活で子を産めなかったことを評価され、私は来年の春に成人と成婚を控える王太子殿下アルベルトの、夜伽指南係に任命されてしまったのだ。
***
「お前は本当に使える女だな。まさか石女であることがここまで有利になるとは思わなかったぞ」
機嫌よく笑う父の後ろを楚々と歩きながら、私は憂鬱な気分でうつむいていた。
私はかつて、王妃殿下の侍女であった。そして、アルベルト殿下がお生まれになってからは殿下のお世話係として、彼の方にお仕えしていた。お生まれになった時から、殿下が五歳におなりになるまでの五年間だ。
男子は十六、女子は十四で成人とされて婚姻が認められているこの国で、私はそろそろ孫を抱いていてもおかしくないような二十九の女である。かつてお仕えしていた頃は十九だったが、領地の経営不振で結納金が用意できずに婚期を逃した私は、当時ですら既に行き遅れと囁かれていたのだ。
まだ十五歳のアルベルト殿下にとって、今の私はどんな老婆に見えることだろうか。
あの頃、まだ舌足らずな声で「リア」と何度も呼んでくださった殿下にもう一度お会いできるのは喜ばしいことだ。けれども、叶うならば殿下の記憶の中では、一番美しい娘盛りの頃の己でありたかった。
「はぁ……」
「辛気臭いため息などつくな!」
「申し訳ございません」
思わず漏れたため息を罵倒され、益々気が滅入る。
気の進まない輿入れを何度も淡々とこなしてきたはずなのに、これまでになく足が重い。いっそ逃げ出してしまいたい心持ちだ。しかしこれまでの結婚ならいざ知らず、王家相手にはそうもいかない。
もう半刻も後にはご挨拶せねばならないのだ。
あぁ、なぜこんなことに。
胸の内でひっそりと嘆きを呟いて、私は陰鬱な気分で豪奢な王宮廊下を歩いた。
十代の私が誰よりも何よりも慈しんだ、美しく愛らしい殿下。私へ純粋な愛に満ちた小さな掌を差し伸べてくださった殿下。この世の何よりも清らかだったあの御方に、私がこの十年で四人の男と結婚し、体を重ねてきたことすらも知られているのだ。果たしてどんな顔をしてお会いすればいいものやら、検討もつかない。
けれど、早く心を決めなければ。
春の空のような瞳を氷のように冷たく凍らせ、軽蔑の眼差しで見られたとしても。この十年に積み上げた恥知らずにも積み重ねた多種多様な経験と悲しくも豊富になってしまった知識を生かす機会がくるなんてありがたいことではないか。
今も昔も、私の心は変わらない。殿下のために、精一杯にお役目を果たすのみだ。
私はそんな悲壮な決意をしていたのだが、対面の場に現れたのは宰相ひとりだった。
「王太子殿下は急用のため先ほどアウテレア領に向かわれました。お目通り叶わず申し訳ありません。また後日お越しください」
「まぁ」
宰相も旅装に身を包み、どうやら今から出立するらしい。わざわざ私たちとの顔合わせのためだけに足を運んでくれたのかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになった。それだけではなく、不安と焦燥にも心が乱れる。
「その、殿下に危険なことはありませんの?」
「ほほ、何も大したことではありません。殿下が出向いた方が早く片が付くから、陛下がお命じになっただけのことですよ」
小娘が口を出すなと叱責されてもおかしくないところで、宰相は私を安心させるように微笑んでくださった。安堵にほっと漏れた吐息とともに口元が緩む。感謝を述べようとした私の言葉を遮るように、父が嫌味たらしい声で笑い声をあげた。
「ははは!おやおや、殿下は我が娘がお気に召さなかったようで。まぁ四度も嫁ぎ先から送り返された不肖の娘ですしね、仕方ありません。しかしね、そちらからのお声がけでしたのに!返品されても困りますぞ」
「父上、おやめくださいませ」
「お前は黙りなさい、石女の役立たずめ」
憎々しげに私に吐き捨て、父は宰相に向かって当てこするように言った。
「これはどういたしましょうねぇ。まさか今更、お払い箱だから前金を返せなんて仰いませんよねぇ?」
「……貴殿は、王家がそんな恥知らずな申し出をするとでも?」
「いやまさかまさか!単なる確認ですよ、確認!」
前金。何のことかと眉をひそめたが、すぐに思い至る。たしか特殊勤務に従事するにあたり王宮から手付金が出ているはずだ。この父はもはや使い込んだのか。
「お払い箱など、殿下にそんなおつもりはないでしょう。ちょっとした騒ぎが起きて、駆り出されただけです」
「ちょっとした騒ぎで馬を駆けられるとは、殿下は身軽な方だ。国民として心強いですなぁ!」
厭味ったらしく続ける父の不敬な発言に、淡々と対応してくれていた宰相も眉間にしわを刻む。
「おや、どういう意味ですかな」
「なに、大した意図はありませんよ。貴族的な人間なら察してくださると思うが」
「……ほぉ。では私は貴族的でなくてよかったと思いましょう」
「はははっ、それは愉快な冗談ですな」
冷たい怒りを瞳に宿した宰相がにこりと笑う。私は背筋が寒くなったが、父はその笑みを見て自分が勝ったとでも思ったのか、機嫌よく笑っている。
宰相は有能さで成り上がった御方で、元は子爵家の出だ。だから無駄に歴史がある無能な高位貴族たちからは軽んじられることも多いと聞いていたが、目の前で我が親がそのような真似をするとは思わなかった。情けなさで顔から火が出そうだ。項垂れた私へちらりと向けられた視線が同情を孕んだものであったのも、なおさら申し訳なく恥ずかしい。
「さてさて、それでは、娘はどうすればよろしいでしょうかな?どれほど待てば?殿下のお気に召さず返品ということでしたら、早々に次の縁談を探さねばなりませんし、今後の方針にかかわるので、実際のところをお教えいただきたいのですが?」
「……まだ娘御をどこぞへ嫁がせるおつもりが?」
さっさと話を終わらせるつもりだった様子の宰相が、父の言葉にぴくりと瞼を震わせた。眉をひそめて父を睨む宰相の顔に怒りを認めて、私はますます顔を上げられない。
「ええ、もちろん。貴族の娘というのは家と家を繋いでこそ価値がある。子が孕めなかったこの娘はまだ役目をはたしておりませんのでね」
「なるほど。……では、娘御はこちらに置いていかれてくだされ。後宮で面倒をみましょう」
「はぁ?娘は特殊女官として採用されると聞いておりましたが、なぜ後宮に?」
かつて勤めていた時と同じ女官専用の宿舎に入るつもりだった私も、父と同様に首を傾げる。基本的に後宮には王族の妻妾とその子しか住まない。住み込みで暮らすのは、後宮の総元締めである女官長くらいだ。しかし、私たちの疑問に、宰相は軽く手を振って薄く笑った。
「ええ、そうですな。しかし、リリアナ嬢の業務は特殊です。殿下の寝所という最も油断するところへ、誰よりも近づくわけですからな。一般女官と同じ扱いにはできません」
宰相は薄く笑って淡々と語った。
「そんな危険な立場の人間を、誰と接触するとも知れぬ外へ気軽に出すわけにはいきませんからね。今後は外出にも制限がかかりますし、面会や出入りにも厳しい検閲を行います」
凶器や毒物を持ち込まれては敵わないと笑う宰相に、私は身を縮めて息を吐く。王家に勤めるというのに、すっかり気が抜けていた己を恥じる。私が気をつけねば王家の皆様にご迷惑をおかけするかもしれないのに。そんな反省と後悔を胸に、気を引き締め直していた私の横で、父はいまだに理解が追い付かないような顔で困惑していた。
「親子であっても、それは変わりません。ご了承めされよ」
「はぁ……?」
呆れた顔の宰相が締めくくるが、父はひたすら不満げ眉を顰めている。私は羞恥に目を伏せるしかなかった。
「はぁ。まぁ、なんでもよろしい。ひとまず王家で身を預かりましょう」
話の通じない父にため息を吐いて見切りをつけた宰相が、私を差し出すように示すと、父は不快そうに眉を寄せた。
「ですが、なぜ殿下がいらっしゃらないのに、本日なのです?」
「……それが、不要だからですよ。伯爵」
殿下に拝謁できないのがよほど不本意らしい。自分は下級貴族上がりの宰相としか直接顔を合わせられないのかと怒りを示したが、宰相は気にもせず無視した。
「もう採用の認可はおりています。早い分には問題ないでしょう。病がないか、王宮医の診察も受けてもらわねばなりませんからね」
「診察?それはもう検査済みのはずですが」
「ええ。しかし日が経っておりますから」
ふっと喉で笑った宰相は、軽蔑を浮かべた目で父を見据えて吐き捨てた。
「殿下が帰って見える前に、戸籍の有無によらず新しい夫を作られてもかないませんからな」
「なっ」
暗に、娘に娼婦の真似事をさせるかもしれないという疑いをかけられて、父は真っ赤な顔で絶句していた。憤死しそうな親を見て、私は薄っすらと自嘲の笑みが零れる。たしかにこの十年、私がしていたことは専属の娼婦のようなものだったな、と思って。
「それに、既にほかの男の種が埋められていないことも確認が必要ですしね。まぁ、事前に一月、二月ほど預からせていただくのは当然の処置です」
「ほ、ほほお、なるほど。だが、ご心配は無用かと思いますぞ。うちの娘は石女です。この十年が証明しておりますでな」
「なに、念のためですよ、念のため」
そのまま連れていかれた後宮では、全裸で女騎士による検閲を受けてからすぐ後宮医の診察を受けた。
医師からは入念な問診がされ、これまで内服した薬やかつての夫たちとの性生活を赤裸々に報告させられたが、何が問題になるか分からなかったので、すべて正直に、詳細に話した。その結果医師からは酷く気の毒そうな目で見られることになった。
「随分とご苦労が多いことでしたねぇ。どうかこの宮では穏やかにお暮しくださいませな」
後宮医からは肩を叩かれ、眠りを助けるという薬草茶を渡された。私はありがたく受け取り、毎晩飲むことを約束した。
そこからいったいどんな生活が待っているのかと身を固くして後宮に入って二か月。私は非常に平穏に暮らした。まだ住む者のいない王太子殿下の後宮で、殿下の私室に一番近い側室の部屋を与えられ、まるで『お妃さま』のような暮らしだった。困惑ばかりであったけれど、かつての上司でもある女官長の一言で納得した。
「これは予行演習ですので」
一言で私の疑問に答えた女官長は淡々と私に依頼した。
「どうかリリアナ様には、十分に妃らしく振舞っていただければと存じます」
「……承知いたしました」
これは次の春に殿下の正妃様がいらっしゃる前の、総出の訓練なのだ、と。
***
後宮で過ごし始めてから二か月と数日が経ったある日。珍しく朝から女官長が部屋へ現れた。
「リリアナ様」
「はい。いかがなさいましたか」
私の言葉遣いに、女官長がわずかに眉を顰める。しかし、敬語で話すのをやめるようにと何度言われても、女官長は王家の血を引く公爵家のご息女でもある。将来を誓った御方が戦死されたために生涯独身を誓い、長年王妃殿下の腹心としてお仕えしているが、私よりはるかに高貴な御方なのだ。落ちぶれた伯爵家の娘であり、単なる夜伽の教育係であり、予行練習用の代理妃である私などよりも、はるかに。
敬語は崩せぬと譲らないまま二か月が経ち、普段ならまずはお小言がくるところなのだが、どうやらそれどころではないらしい。女官長は切り替えるように一つ息を吐くと真面目な顔でまっすぐと私を見て言った。
「心してお聞きくださいませ。今夜、殿下がいらっしゃいます」
「…………え?」
思いがけない言葉に、思わず動きが止まる。軽く目を見開いて驚きをあらわにする私に、女官長は普段通りの冷静さで淡々と告げた。
「たった今、遠征からお帰りになりました。伝達があり、今夜、さっそくお見えになるとのことです」
「えっ、こ、今夜でしょうか?お疲れでしょうに、さっそく夜伽の指南をとのことでしょうか?」
殿下は真面目な方と評判だが、遠征から戻ったばかりで始めるような勉強でもあるまい。まだ来春の婚儀まで、時間は十分にあるのに。いや、お忙しい御方だからこそ、時間に余裕があるうちに、というご判断だろうか。
困惑している私に、女官長は軽く首を傾げてから微笑んだ。
「いえ、そこはお二人の裁量で、ご自由になさいませ」
「え……?」
自由に?夜伽の指南をしないのであれば、なぜ殿下が私の部屋へやってくる必要があるのだろうか。
「もしや、指南役としてふさわしいかどうかの面談ということでしょうか?一応荷物をまとめておいた方がよろしいでしょうか」
「まぁ、まさか!」
私が戸惑って尋ねれば、女官長は驚いたように目を見開いた。
「いいえ、違いますわ。もうあなたは特殊女官として正式に採用されており、議会の認可のもとでこの部屋の使用権が与えられているのです。少なくとも来春まで、この部屋を追い出されることはございませんわ」
困ったように苦笑して否定した後、女官長は姉のような優しい目で私を見つめて茶菓子の包みを差し出した。
「いずれは夜伽の指南をするにしても、リリアナ様もご緊張されておりますでしょうし……まずはこちらとともにお茶でも飲みながらお話などされて、仲を深めてからの方がよろしいのでは?殿下とお会いになるのは随分と久しぶりでしょう?積もるお話もあるのでは」
「いえ、そんな……殿下に無駄なお時間を取らせるわけにはいきませんもの」
まだ先のことと漠然と思っていたので、突然の事態に多少動揺はした。しかし、そもそも私はその勤めのために呼ばれた身であったことを思い出す。私は政治の駒のひとつである。せめて、殿下のための良き道具であらねばならないのだ。
「もう幼い処女ではございませんもの。もったいぶるような身でもございませんし、ご心配には及びませんわ」
「……そうでございますか?まぁ、なんにせよ殿下は今宵いらっしゃいますので。どのような展開でもご対応できますように、お心とお体のご準備をお願いいたします。つきましては、まず朝食後に湯殿で全身のマッサージを致します。それから」
さらさらと今夜に向けての予定を告げ終わると、女官長はふっと口元を緩めた。
「夜まであと数刻……殿下もきっと楽しみにしてらっしゃるかと」
どこか笑みを含んだ女官長の声音に、この女人も殿下を生まれたときから見守ってきた方であると思いいたる。我が子のように慈しんだ少年が男として成長することを喜んでいらっしゃるのだろう。私も気を引き締めなければと、姿勢を正した。
「……はい、承知いたしました。短い時間でも少しでも殿下の学びとなれますよう、精一杯お役目を果たさせて頂きます」
「そんなに気負わなくともよろしいかと思いますけれど……まぁ、根っから真面目な貴女には言っても仕方ないことかもしれませんが」
一瞬だけかつての上司の顔を覗かせて、女官長が苦笑する。
「でも、貴女が生真面目で良識的な方で、本当にようございましたわ。もしも貴女が殿下に取り入ろうとするような人だったら、我が国はどうなっていたことか」
わざとらしくおどけてみせる女官長の言葉を牽制と解し、私は慌てて首を振る。そんな不名誉な評判が殿下に立ってはたまらない。
「たしかに若い男性は色に溺れてしまうことも、ままあると聞きますし、歴史の中には欲に溺れて国を乱した王も多く聞きますもの。今後殿下にそのようなことがないようにせねばならないのですね」
私がすべきは、単なる夜伽の指南だけではない。これは殿下の未来、ひいては国の安寧のための大変な仕事なのだ。責任の重大さに身が引き締まる。
「あぁ……やっと理解いたしました。閨における女性の扱いだけではなく、感情や欲望の取り扱いをお教えして、気の迷いの恋や一時の欲に溺れず振る舞えるように、お教えするべきなのですね。本質に気づいておらず、甘い覚悟でございましたことを謝罪いたします」
私は女官長に真摯に謝罪し、そして新たに決意を固めた。
「わかりました。私には荷が重いかもしれませんが……殿下が将来女性関係でご失敗なさらぬよう、しっかりと指南させて頂きますわ」
真面目に言い切った私の言葉を聞き終えた女官長はひょいと両眉を上げると、おかしそうにくすっと笑って肩をすくめた。
「……それはありがたいこと」
女官長に訪問を予告されてから夜までの時間は、長いようで一瞬だった。
侍女たちに体を磨き上げられ、薄い夜着に体を包まれる。
案内された寝室で、緊張に体を強張らせながら待つこと半刻。
「リア!久しいな」
「殿下」
テンポの速い足音が聞こえてきた後、勢いよく開いた扉から殿下が現れた。
「十年ぶりだ。元気にしていたか?」
「はい。殿下もお元気そうでなによりですわ」
昔と変わらず曇りない笑顔に、硬く強張った体が芯から緩む。幼いころの面影の残る顔に、私の中の緊張も解けた。
「リアは変わらないな」
「ありがとうございます。殿下は大きくなられましたわね」
「そりゃもう十五歳だからな」
寝所の窓際に設置されたソファに座っていた私の元へ、アルベルトは嬉しそうな急ぎ足でやってくる。立ち上がって迎えた私は、アルベルトを見上げ、揶揄うように首を傾げた。
「でも駄々っ子なのは変わりませんのね」
「え?」
不思議そうな顔で瞬くアルベルトに、私は笑い混じりに口を開いた。
「私のことがお嫌で王宮から逃げられたとかお聞きしましたわ」
「なんだって!?」
「話題になっておりましてよ」
最近後宮で聞くことの多い噂話だ。
誰が言い出したのか知らないが、アウテレアの騒動が落ち着いてもなかなか帰還しない王太子に、新しく入ってきた愛妾候補が原因ではないかという説が流れた。もともと、陛下たちが、若い王太子のために毒にならない地味な後家女を愛妾候補として王太子の後宮入れたと話題になっていたのだ。殿下が夢中になってしまわないようにとわざわざ選ばれた年増女だから、若い王太子はその女が嫌で王都に戻らないのではないか、という……真実が元にはなっているけれど、ぐるりと捻られて、ついでに尾ひれがついた噂話だ。
王家の夜伽指南など表に出る話ではないし、そもそもこれまでは、めったに子を孕まず、殿下と恋仲になるはずもない年齢の年配者がやることになっていたのだ。このお役目に、私のような微妙な年ごろの女が就くことはほぼない。だから誤解されたのだろう。私が、陛下たちの選んだ殿下の愛妾候補者だと。
おかしな話だ。
実際の私は、愛妾候補などではなく、単なる夜伽指南係である。殿下が十分に学ばれたら、お役目を解かれ後宮から出る人間だ。噂の的外れな推測に笑うことこそあれ、悲しむことはなかった。だから愉快に思って口にしたのだが、瞠目したアルベルトはさも心外だというように大仰に首を振って嘆いた。
「それはひどい勘違いだな!こんなに逢いたかったのに」
「あらまあ」
熱い目で語り掛けられ、単純な私は情けなく口ごもってうつむいた。さっと頬に血が上るのが分かる。若く美しい少年に、焦がれる目で見られれば、中年女でも少女のように恥じらいを感じるものなのか。
「ですが、それにしても遅いお帰りでしたのね。お怪我でもされたのではと、肝を冷やしておりましたのに」
「心配してくれたのは嬉しいけれど、そんな意地悪は言わないでおくれ。優しいリア」
照れ隠しに、少しだけ皮肉を言って揶揄うと、アルベルトは悲し気に眉を落として私の手を取った。そして手の甲を優しく撫でながら、私をじっと見つめて囁く。
「君とゆっくり過ごすために、厄介ごとを片付けてきただけさ」
「へ?」
自然な仕草で体を寄せられ、ぐっと近づいた距離に動揺していたら、アルベルトの言葉を聞き損ねた。聞き返そうとするも、熱を帯びた声が続ける言葉に私はさらに固まった。
「子を孕んだ時に僕の子だと証明するためにも、事前に後宮でひと月は厳重に様子を見る必要があると言われたしね」
「は?殿下?な、なにを仰ってますの?」
「王家は愛を貫くのにもいろいろと制限があって厳しいってことさ」
ふふ、と小さく笑い声を漏らしたアルベルトに眉を寄せる。心底愉快そうだけれど、言っている意味が分からない。私は石女だからこそ夜伽指南に選ばれたのだから、子ができるはずもない。しかも、愛?何の話だ。
「殿下……どういうことで、っえ?」
「待ちきれないよ。早く寝台へ行こう」
説明を求めようとアルベルトを見上げると、そこにあったのは欲望に浮かされた熱い瞳。思いもかけない言葉ばかりで驚いている間に、気づけば私は抱き上げられ、寝台に向かって運ばれていた。
「で、殿下!」
私は慌てて声をかける。蔑まれたり疎まれたり、追い出されるような可能性は幾らでも思いついた。けれど、こんな展開は予想していない。
「お待ちください、殿下!」
「なぜ焦らすんだ?リア。僕はもう十年待ったのに!」
急いた目で見つめられ混乱する。幾通りも思い描いた予想が全て外れて、どうして良いか分からない。生真面目が過ぎて予想外の事態に弱いという己の短所を改めて痛感しつつ、私はどうにかテーブルへ戻るよう求めた。
「そ、そんなに慌てなくとも、夜はまだ長ごうございます。まずはお茶でも飲みませんこと?」
「いや、いらないよ。……リア、君はそんなことのために寝室で待っていたのかい?」
「っ、い、いえ」
責めるような声に、私は思わず息を呑んだ。
「……そ、うで、ございますわね」
恥ずかしい。私としたことが、久しぶりに会うアルベルトに、少々浮かれていたのかもしれない。
私は夜伽を教えるためにここにいるのだ。お茶や会話なんて恋人同士がするような真似は不要なのだ。
「承知いたしました。今後、女性との円満な交際に必要なことは色々とございますが……まずは夜伽について、一通りお教えしてからにいたしましょう」
「すまないが今日はそうしてくれ。とてもじゃないが、待ちきれないから」
真面目に言った私に、アルベルトはおどけたように笑う。お世辞だと分かった上で、私は余裕を装って笑った。
「あら、可愛らしいことをおっしゃいますのね」
「当然さ。楽しみにしていたんだから」
「ほほ、殿下も男の子ですのね」
柔らかな寝台に降ろされながら、私は年上女らしく笑ってみせる。アルベルトは落ち着かない様子で、呼吸もせわしなく、掌もじっとりと汗ばんでいる。話によれば、アルベルトはアウテレアで起きた暴動をおさめてきたという。体は疲労しているはずだが、戦いの場に身を置いたことによる精神の緊張と高揚で眠気はないようだ。おそらく、高まったままの興奮の捌け口を求めているのだろう。そう判断して、私は少し余裕を取り戻した。
「男女の交合については、どこまで学ばれましたの?最初は参考書を見つつ流れの説明などいたしましょうか?」
枕元に置いておいた資料を指しながら尋ねれば、アルベルトは笑って首を振った。
「そんなものは不要だよ」
「あら、自信満々ですのね」
「座学はしたさ。十分にね」
「さすが、私たちの王子様は真面目でいらっしゃるわ」
精一杯の虚栄で余裕を装い、幼子を褒めるようにぱちぱちと手を叩く。よちよち歩きの頃に後宮の侍女たちは皆アルベルトを愛でる時に「私たちの王子様」と呼んでいた。それをなぞった呼び名に、アルベルトはゆるりと唇を歪めて目を細めた。
「はは、君からしたらそりゃ僕はお子様だろうけれど……僕にもプライドがあってね。まぁ、経験豊富な君の前で、恥ずかしいところはなるべく見せたくないからさ」
「……まぁ、可愛らしいこと」
じわりと瞳に揺れた焦燥と苛立ちに、私の背筋はざわりと騒めく。場を和ませようと思ったのだが、子ども扱いをしたのは失敗だっただろうか。アルベルトの逆鱗に触れてしまったのかもしれない。けれど、幼さや若さは罪ではないのだ。それに単なる夜伽係である私に見栄を張る必要などない。
「でも殿下、初めてのことをうまくできなくとも仕方ないのですよ。緊張なさるかもしれませんが、私でたくさん失敗しておけばよいのです。私はそのために参った指南役なのですから」
「ははっ、教えを乞う立場なのは重々承知しているよ」
妙に快闊な笑い声とともにゆるりと細められた目から滲む熱。じっとりと燃える眼差しが私を射抜く。
「なにせ僕が、初めては君に、と望んだんだからね」
「え?どういう……?」
問いを重ねようとして、喉の奥で声が詰まる。見つめてくる瞳の激しさが、何か良くないことを告げている。私の口から情けなく心細げな声が漏れれば、何かに耐えるようにアルベルトはすぅと目を細めた。
「……殿下?」
無言で髪を撫でられ、焦燥感がますます高まった。
先ほどから違和感は幾つもあった。私の予想した展開との乖離、言葉選びの温度感、距離の近さ。少しずつ形作られていく恐ろしい仮説を必死で無視して、私はなんとか主導権を取り戻そうと足掻く。私は王家から命じられてここにいる特殊業務を担う女官。それだけだ。そのはずだ。そのはずなのに。
「ひっ」
「おや、くちづけは慣れていないのかい?」
私を寝台に沈めたアルベルトが、両手を絡めて覆いかぶさってくる。寄せられた顔の近さに思わず息を飲めば、愉快そうに笑われた。
「いえ、そんなことは」
「……そうか。では、遠慮しなくてもいいな」
「え?んっ」
薄青の瞳に苛立ちを一閃させ、アルベルトは私の唇に嚙みついた。甘く、情熱的でどこまでも熱心な接吻。これまで感じたことのない衝動に、咄嗟に私は抵抗してしまった。
「こら、センセイ。じっとして?」
笑みのにじむ眦に、怒りすら感じながら、私は必死に鼻で呼吸する。官能を目的としない、ただ互いを貪る意思だけが滲むくちづけに翻弄された。
「リア……リア、……僕のリリアナ」
愛おしげに何度も呼ばれる名前。性感を高めるためではない、けれど、呼吸が苦しくなるような激しいくちづけ。怯える私を宥めるように絡む舌。唾液を吸い取られるたびに、魂まで抜き取られそうだった。
「はぁ……っ」
「ふふ、可愛い……あぁ、やっと手に入れた」
息を切らして肩を上下させている私をうっとりと見ながら、アルベルトは心底楽し気に笑った。
「服を脱がせてもいい?」
「……私が、いたしますわ」
容易に脱げる夜着の肩ひもに手を伸ばされ、私は落ち着くための時間を稼ごうと自ら申し出た。しかし、嬉しそうなアルベルトの上衣を脱がせ、下衣に手を伸ばしたところでわずかに後悔した。
「ま、ぁ……随分と、その、お元気でいらっしゃいますのね」
「当たり前だろう」
「お若いこと」
「あはは、違うさ!」
私に興奮していることをあからさまに示す場所から目を背け、私は負け惜しみじみた減らず口をこぼした。
けれどアルベルトは笑って首を振り、私の後頭部に手を回した。そして耳元で熱く囁く。
「これは……初恋の女性に指南して頂けるからだよ」
ひゅ、と息をのむ音が自分の喉から聞こえた。ドクンドクンと拍動する心臓が、耳の奥で脳を揺らす。
「ねぇ、リリアナ。教えてくれるんだろう?……男女の閨事を」
熱く濡れた声で囁かれ、全身がカッと赤く染まった。言葉が喉の奥で震えて、うまく話せない。教える立場の私が、もっと余裕をもって応対せねばならないのに。
「……殿下、本当に初めてでいらっしゃいますの?」
「もちろんさ。実技はこれからだ。よろしく頼むよ、僕のセンセイ」
頬に当てられた掌は熱く、興奮に潤んだ瞳の魔力に頭がぼんやりと霞む。
「殿下……」
「名前で呼んでくれ、リア」
甘い囁きに負けて、美しい王子様の名を口にする。
「……アルベルト様」
「違うよ。昔のように」
「…………アルさま」
「ん。ふふ、いいね」
幼い王太子に仕えていた時に呼んでいた名。十年前、親よりも、いや、この世界の誰よりも、純粋に愛を与えてくれた少年の名だ。心の中で愛おしんできた名前は、口の中を転がって蕩け、胸を熱く焦がした。
「僕の初めては君に捧げるよ、リア。……願わくば最後もね」
何一つ言葉を返せず目を伏せれば、急くように唇が重ねられる。耳元で囁かれた柔らかい誓いを最後に、熱心な唇と情熱的な指にすっかり翻弄され、情けなくも私は十四も下の熱心な生徒に蕩かされてしまったのだ。
久しぶりの気怠さと腰の痛みとともに目覚めた翌朝。私を抱き寄せるように眠りながら、隣で健やかな寝息を立てているアルベルトを見て涙が溢れた。味わってはならないはずの幸福感に侵され、心臓がキリキリと痛む。アルベルトはなぜこのように私を扱うのだろうか。なぜ、こんな……むごいことを。
「……りりあな?」
息を殺して啜り泣いていた私に気づいたのだろう。アルベルトが眠そうな目を開いて、慌てて私を抱きしめた。
「どうした?なぜ泣く?」
「いえ、……なにも」
疲れていたアルベルトを起こしてしまった申し訳なさも合わさり、ますます苦しくなる。なぜこうまで私は情けないのだろう。三十路に差し掛かろうととする女がしくしくと泣いていてもみっともないだけなのに。なんとか泣き止まねばと必死に深呼吸を繰り返すが、なかなか涙は止まらない。
「何もなくて泣くわけがあるまい。私と体を重ねるのは嫌だったか?」
「まさか!そもそもソレが、私のお役目でございますのに、そんなことは申しませんわ」
まだ成人前のアルベルトの方がよほど落ち着いている。惨めな気分で私は首を振った。朝日の中では赤らんだ目元は隠せないだろうが、泣く姿を見せてしまったのだから今更だ。私は開き直ってアルベルトに向き直った。
「ではなぜ?もしや私ががっつきすぎたせいで体が辛いのか?後宮医を呼ぼうか?」
「お、おやめください!恥ずかしすぎて耐えられませんわ」
「可愛いリリアナ、では私はどうすれば良いのだ?」
本心からの労りと、目に浮かぶ愛情。そんな柔らかなものが、ますます私を傷つける。
「……どうか、そういうことを仰るのはやめてくださいませ。そして、身を整えるために、一度部屋に戻らせてくださいませ」
ダラダラと血の流れる心を押さえ込み冷静を取り繕おうとも、声を震わせてしまえば意味もない。注意深くこちらを見てくる殿下の若く真摯な瞳に、私の背を摩る掌の柔らかな温かさに、どんどんと胸が切り裂かれていく。胸の奥底に隠した本音が見られてしまう。あぁ、早く逃げ出したい。
「いけないよ、リリアナ。このまま離すわけにはいかない」
「殿下……っ、お願いでございます、どうか」
逃げ出そうと藻掻けば猶更強く抱きしめられ、私は絶望とともに観念した。若く頑なで、根が真面目な王太子が、こんな理解不能な事態を許すわけがないのだ。
「名前で呼んでくれと言ったじゃないか。覚えていないの?忘れっぽいリリアナ」
「……夜の間だけかと、思いましたので」
「なぜ!」
驚いたように目を見開くアルベルトに、私は目を逸らして呟いた。
「夜のことを昼に持ち込むなど、勘違いした女のなす愚行の極みでございます。私は単なる夜伽の指南役。己の身を弁えていただけですわ」
「不思議な理屈をこねるなぁ、僕のリリアナは。……ふむ。つまり、昨夜の僕の言葉は何一つ信じてもらえていないというわけかい」
首を傾げながら尋ねてきたアルベルトに、私は無言を返す。無言は肯定だと受け取ったアルベルトは、ため息をもらして天井を仰いだ。
「うーん。初夜とは幸せなものだと思っていたが、なかなか難しいものだな」
「初夜、ですか?……ふふ」
苦笑いしながら漏らされたのは、到底許容できない甘くまろやかな言葉で、私は思わず笑いが零れた。
「殿下は私との夜も、初夜と呼んでくださいますの?」
「もちろんだ。なぜ?」
当たり前だと頷いて眉を寄せるアルベルトに、私は躊躇いを秘めた声で、低く呻いた。
「殿下は……私の過去はすでにお聞き及びでしょう?」
「……リリアナ」
返答に迷っているらしいアルベルトに、私は心臓を押しつぶされそうになる。深いため息のあとで、私は言葉を絞り出した。
「これまで何度も死にたくなるような夜はございましたが、今夜は……一番辛く苦しいものでした」
「なぜ!?私が嫌いか?」
動揺したアルベルトに、私の心は悲鳴をあげる。噛み締めた唇からは血の味がした。けれど、言わねばならない。これ以上狂う前に。
「……反対ですわ」
「え?」
「若く美しく穢れない殿下に、このような汚い体をあのように抱かせてしまったことが申し訳なく、消えたい心地なのでございます」
私の言葉に困惑したアルベルトは、私の両肩を掴み、まっすぐ私の目を覗き込む。
「どういうことだ」
「私があなたと同じほどに若く、いえ、せめてまだ二十歳ほどの若い娘で、綺麗な体でしたらただ頬を染め喜んだことでしょう。けれど」
その視線を必死に避けながら、私は本心を言葉に紡ぎ出した。言いたくはなかったけれど、もはやどうしようもないとも思えた。
「私はもう三十を迎えようとしているのです。早くに子をなした女であれば、そろそろ孫を抱く歳ですわ」
無言で続きを促す視線に背を押され、私は胸の中に巣食うおぞましい恐怖を少しずつ吐き出していく。
「若いとはとても言えない、もはや老いに向かう女で、しかも……すでに四人の夫に開かれた、穢れた躰なのです。使い古された醜いこの身の、なんと恥ずかしくいたたまれないことか」
「何を言っているんだ。リリアナは今も十分若く、誰よりも美しい。穢されてなどいない」
「お戯れを」
慰めの言葉が本心だと分かるからこそ、より辛かった。人並み程度には苦痛に満ちた人生を、精一杯生きてきたつもりなのに。なぜ今になって、これほど悲しみを味わわねばならないのだろうか。
「これは捨てたはずの純情。私のなけなしの乙女心なのですよ、殿下」
私は涙の浮かぶ瞳で、起きてから初めて春空の瞳を見つめる。
「ただの政治の駒であれば、殿下の学びの道具であれば、問題ございませんでした。私はそのためのモノとして振る舞えたでしょう。けれど私に心を認めてしまわれるのであれば、あなたが私を人として扱ってしまうのであれば、私はモノとして在ることは出来ません」
「リリアナ……」
泣きそうな顔のアルベルトが私の指へ力なく手を伸ばす。縋るように握られた指をそっと振りほどき、私は精一杯の笑みを浮かべた。
「あなたに抱かれるのならば、綺麗な体で抱かれとうございました。……どうか今夜限りで、このお役目を解いてくださいませ。私には耐えられそうもございません」
呆然としているアルベルトの腕の中から逃げ出した私は、身支度を整えると、慌てた顔で現れた女官長に嘆願した。どうかこのお役目を解いてほしいと。
「リリアナ様、それは無理ですわ」
女官長は悲し気に眉を落とし、憐れむように私の背を撫でた。
「あなたの任命は殿下たっての希望でした。辞任は、陛下もお認めにならないでしょう」
「そんな……」
非常な通告に、私は一日中泣き明かしたが、夜になるとまたアルベルトの来訪が告げられた。心のどこかで予感していた私は、泣き腫らした目でそのままアルベルトを迎えた。
「リリアナ……目が赤いよ」
「お見苦しいものをお見せして申し訳ございません」
謝罪の後、私は冷たく心を凍らせて、一つの誓いを口にした。
「王太子妃殿下がいらっしゃるまで、指南役として精一杯お勤めさせて頂きます。殿下のお幸せな夫婦生活のために」
「……リリアナ」
アルベルトが悲しげに顔を歪める。
「僕は君以外の女性を抱いたりしないよ」
「何をおかしなことを」
私は小さく笑って言った。
「なんのために私がここへ来たとお思いで?殿下が、次の春にいらっしゃる妃殿下とつつがなく夫婦生活が送れるように、その練習のために来たのです。私はあくまでも練習台です。お間違えのないよう」
「リリアナ、なぜ君はそこまでかたくななのだ」
「当たり前でしょう。ここで生徒の言葉を信じて翻弄されては、私の立場がございません」
毅然と言い切り、私は冷ややかに笑った。
「ただでさえ、男が寝台の上で言う言葉を本気にするな、と言うのはよく聞く台詞でしょう?」
「一般論を僕にも当てはまると言う気かい?本気で?」
目を背けて私は返答をしなかった。そうではないことなんて、とうにわかっている。認めるわけにはいかないだけだ。
「女を抱いたことのない若い男性は、筆おろしをしてくれた女性を特別視して恋だと思い込むことがあるようです」
「違うよ」
「いえ、殿下のは間違いなくそうですよ」
堂々巡りになる会話に、先に折れたのはアルベルトだった。
「十年の片思いも知らず、酷いことを言う女だ」
「教え子の勘違いをたしなめるのも、教師の仕事でございます」
澄ました顔で言い張る私を、アルベルトは苦笑して肩をすくめる。
「……まぁいいか、時間はまだあるし」
「え?」
「なんでも。では、今夜もご指導をお願いするよ、先生」
にっこり笑って告げるアルベルトに、私はぎょっとして身をすくめた。まだ昨日の疲れもとれていない。腰は痛いままだ。それなのに、活動量が多かったはずのアルベルトは、もう平気だと言うのか。
「……毎晩でなくとも構いませんのよ?殿下は、その、物覚えがようございますから」
「ははは、それこそ余計な気遣いだね」
「え?んっ」
意地悪な笑みに唇を歪めたアルベルトは、仕返しのように私の唇を奪って目を細めた。
「覚えたての少年の欲を、甘く見ちゃいけないよ、可愛い先生」
それからほとんど毎夜、アルベルトに抱かれた。
毎夜毎夜、私は苦しみに泣きながら、必死にアルベルトに願い、そして許しを請うた。
「どうか優しくしないでください」
私は嗚咽しながら嘆願した。
「そんな目で求めないでください」
「そんな声で名を呼ばないでください」
私は軋む心を振り絞って何度も懇願した。
「どうか私を道具としてお使いください」
「そうでなければ、任を解いてください」
可愛いリリアナ、綺麗なリリアナ、と囁かれ、熱心に体中を愛されるたび、私は死にそうになりながら叫んだ。
「あぁ、おやめください!汚いこの身が殿下に『愛される』など……私には、堪えられないのです」
***
そんな日々が二か月続いたころ。
「殿下、ひとつ改善すべき点をお伝えせねばなりません」
私はぐったりとシーツに身を預けながら、掠れ声で切り出した。
「ふむ、聞こう」
真面目な顔のアルベルトが居住まいを正したところで、私は重い口を開いた。
「部屋に入るやいなや深く口付けて、そのまま寝台に押し倒すというのは、大変情熱的ではありますが、時と場合によります」
「なるほど……嫌だったか?」
「……私のことは良いのです。置いておいてください」
眉をひそめて、私は目を細める。半眼で睨むように圧をかけるが、アルベルトは全く応えていない顔であっけらかんと首を傾げた。
「嫌だったか聞いているのだが」
「嫌も何もありません。私は指導係ですから」
「頑なだな……まぁいい。続けてくれ」
軽く首を振ったアルベルトが、どうぞと掌を差し出して続きを促す。私はため息まじりに改善すべき点を列挙した。
「最近の殿下のなさいようは、即物的すぎますわ。すぐに寝台に押し倒されることを好む女性はあまりおりません。ある程度の関係性ができた後でならともかく……来春いらっしゃる王女殿下を相手に、そのような振る舞いはお避けくださいませね」
「……ふむ」
不満そうな表情を浮かべつつも、アルベルトが真面目に話を聞く。指摘に機嫌を損ねたアルベルトによって、再びシーツに沈められてしまうかもしれないと危惧していた私は、生徒として相応しい態度にほっと息を吐き、指導を続けた。
「愛する女性と充実した夜を過ごすためには、寝台に飛び込む前に適度な会話と、手を撫でたり指を繋いだり、柔らかな抱擁と額への口付け、そんな余計なものがとても大切なのですよ。寝台に飛び込む前の触れ合いを、もう少し大事になさいませ」
「ほぉ、妬けるな」
「何がですの?」
私の言葉の途中で不機嫌そうに眉間にしわを寄せたアルベルトは、寝台に腕枕をつきながら、じとりと私をねめつけた。
「リリアナもそんな対応をされてきたのかい?これまでのご夫君たちに?」
「おほほ、面白い冗談ですこと。私の噂はお聞きではなかったのでしょうか?」
しかし、あまりにも見当はずれの言葉に、私は思わず吹き出してしまった。ころころと笑いながら、私はなんともいえない情けなさに眉を落とす。
「あるわけありませんわ。小説やら何やらを読みながら、私にもあれば良いのにと、夢見ていたことです。……実体験ではなくて申し訳ありません。これでは説得力に欠けますわね」
「リリアナ、その……すまない」
複雑そうな顔で謝罪してくる素直で真面目なアルベルトに笑いかけ、私は肩をすくめた。
「けれど資料も読み込んで、精一杯調べて学んでおきましたのよ。どうかお役立てくださいませ」
さらさらと、これまで調査した男女の日常の愛情表現についての一覧をアルベルトに提示する。どれもこれも、私がかつて少女の日に、そして冷ややかな結婚生活の間に、胸をときめかせて思い描いた、些細で優しく、温かで柔らかな接触でもある。
私の過去の悲しみの産物とでも言うべき女性との交流の手引きを真剣に読み込んだアルベルトは、読み終わるとにこりと笑って言った。
「ふむ、ではやってみようか」
「え?」
熟読していたアルベルトが、得意げに手を差し出してきたので、私は戸惑った。
「まずは……手を繋ぐ」
「え?っあ」
私で試すのか、と理解した途端に、恥ずかしさがこみあげる。これではまるで、強請ったようではないか。
「そして、優しく握ったり、柔らかく撫でさすったりする、んだったね」
「は、い……」
柔らかく指先を取られ、ゆっくりと指先が絡む。右は指と指を絡めながら、左はそっと手の甲を撫でられた。真面目な顔で復習するように言葉にしながら、アルベルトが私の手を……愛撫する。自分で言い出したことだけれど、何とも言えず恥ずかしく、私は頬を染めて俯いた。可愛らしい十代の少女でもあるまいに。三十路にさしかかろうとしている女のする仕草ではない。ただ、私は柔らかな恋の経験がないから、どうにも耐性がないのだ。
「次は?」
「つ、ぎは」
囁かれる甘い声に、ごくりと唾を飲み、思わず本音がこぼれてしまった。
「やさ、しく抱きしめると、良いかと存じます」
「ふふ、なるほど。では」
そう言うとアルベルトは綿を触るような優しさで、私をそっと抱きしめた。穏やかな手が私の後頭部を撫で、そしてそっと首筋を滑り降りる。慈しみと情欲を交互に醸す指先に、くらくらと眩暈がした。
「大変結構です、アルベルト様。もう十分かと存じますわ」
「そうかい?残念」
早口で告げた私が、そっと硬い胸板を押して体を離すと、アルベルトはおかしそうにくすくすと笑っていた。揶揄われていると察しても、苦言を呈することはおろか、顔を上げることも出来ない。確実に顔中が真っ赤に染まっているからだ。なんて情けない。十四も年下の少年に翻弄されて、何が指南係だろうか。
「とても勉強になったよ。君はそうして欲しいのだね」
「……そ、うですね。けれど、その、人によるかと存じますので、王女様のご様子をよく見ながら、相手の望む行動をとるよう心がけるのが、良いかと存じます」
苦し紛れの年上ぶった指導の言葉に、アルベルトは笑いながら頷いた。
「なるほど?肝に銘じよう」
***
「リリアナ、とても愉快なニュースだ」
「なんでございます?」
いつもより早く私のもとを訪れたアルベルトが、満面の笑みで口を開いた。まったく見当がつかず首を傾げる私に、アルベルトはとんでもないことを言った。
「婚約が実質破談になったよ」
「ええぇっ!?」
淑女にあるまじき絶叫をあげた私に、アルベルトはけらけらと大笑いした。
「くくく、驚きすぎだろう」
「な、なぜでございますの?」
目に涙まで浮かべて笑い転げる人の悪い王太子殿下に、私は小言を口にする余裕もなく尋ねた。一国民としても衝撃である。隣国との和平条約の条件のひとつであったはずなのに、どうなるのか。
「あちらの都合さ。体調を崩して輿入れが難しいらしく、事実上の破談となったんだ」
「なんと……よほど難しい病を得られたのでしょうね。まだお若いのに、お可哀想に」
「くくっ」
心底同情している私に、アルベルトはおかしそうに喉の奥で笑った。あまりの人の悪さに、私は眉をひそめて苦言を呈した。
「なにを笑っていらっしゃいますの?一度は婚約という縁を結んだお相手の不幸をわらうようなことは、人の道に外れておりますわよ」
「いや、そのまま信じるだなんて、リリアナは優しくて素直だなぁと思ってね」
「……どういうことですの?」
不穏な空気を醸し出す言葉に、私はぎょっと体を強張らせた。アルベルトがこの顔をするときはろくなことがないと、最近学んでしまったのだ。そして私の予想は、悲しいほどに当たった。
「なんでもあちらの王女様は……ご懐妊だそうだよ?」
「えええっ!?なっ、ええええええ!?」
先ほどよりも大きな声で叫んでしまった私に、アルベルトは再びケラケラと笑い転げる。何一つ面白くないのに、なぜこの王子様は笑えるのか。いっそ怒りすら抱きながら、私はアルベルトに詰め寄った。
「どういうことですの!?」
「幼馴染の護衛騎士と駆け落ちをしようとして捕まり、王宮に軟禁されていたらしいんだが、このたび懐妊が判明して、事実上破談になったんだよ」
「まぁ……なんて……まぁ……」
返す言葉もなく、茫然と感嘆詞を呟くばかりの私に、アルベルトは呑気に呟いた。
「いやぁ、愚かというか、若いよねぇ」
「殿下とおひとつしか変わらないでしょう」
「そうだけどね。でも、こちらとしても情報は手に入れていたからね、体調不良とかバレバレの言い訳をしてくるのがおかしくて」
人の悪い顔で唇をゆがめて笑うアルベルトは、とても十五歳とは思えないような酷薄で冷たい目をしていた。
「ちなみに、一応まだほとんどバレていないしね、破談も正式な発表はされていないよ。僕は子を産んだら、そのまま輿入れさせるよう要求しているからね」
「え!それほど……その、王女殿下に、ご執心なのですか?」
淡々とありえない言葉を続けるアルベルトに、私は半信半疑で、いや、信じられない思いで問いかける。なぜそんな馬鹿な真似を、と。
「まさか!僕は、『お飾りの妃としてなら受け入れる』と伝えたんだよ。優しいだろう?ふふ、隣国はこれからしばらく検討するらしい。多分、受け入れるんじゃないかな」
「お飾り?」
「そう」
褒めてくれと言わんばかりの得意げな顔のアルベルトは、私を抱き寄せて楽し気に続けた。
「ふふ、『そのような浅慮で貞節に欠ける王女に我が国の王位継承者を産ませることはできない。僕が自分の選んだ女性との子を養子として迎え、王太子妃、そして王妃としての務めだけを果たすのならば、そのまま嫁いで来てください』とね」
「酷い……」
絶句する私に、アルベルトは不思議そうな顔で首を傾げた。
「どこが?子を産むなとも言っていない。産んだら何もなかったことにして嫁いできてよいと言ったんだ。向こうの王家は泣いて喜ぶと思うよ?不義密通を行った汚い娘にとっても、過ぎた処遇だろう。ふふ、君の四番目の夫との約束を参考にさせてもらったんだよ。いい考えだろう?」
「何を愚かなことを!」
にこにことおかしなことを語る王太子の手を振り払い、私は声を張り上げた。
「私は単なる一般国民、あなたは王太子殿下ですわ!同じになさらないでくださいませ!」
「なぜ?それにこれで、僕は法と国の認める血筋の正しい妃を手に入れながら、生涯君だけを抱くことが可能になる。なぜ喜んでくれない?」
「喜ぶわけございませんわ!私の願いは、アルベルト様がお幸せに暮らし、正しい政を行う名君として歴史に名を遺すこと。私への刷り込みの恋心、勘違いの熱情などのために、冷酷で非常識な選択などして欲しくございません」
私の言葉にアルベルトがぴくりと眉を動かし不快を示す。
「リリアナ、それ以上は僕への侮辱だよ。やめたまえ」
「いいえ、やめませんわ」
けれど私は、目の前の貴人の目をきっと睨んで続けた。
「私がいつあなたの唯一として抱かれ続けたいと望みましたか?私は来春までの夜伽の指南役。その約束でここにいるのです。……それに」
感情のままに迸っていた言葉が一度止まる。先ほどの会話で、そうと知らず何よりも傷ついいてたことを自覚し、ようやっと口にした。
「それに、……ほかの男に抱かれたことを汚いと言うのならば、私など四人もの夫に好き勝手された身ですわ。よほど汚のうございましょう?」
「違うよ、リリアナ。まったく違う。僕が言うのは心持ちのことだ」
アルベルトは嫌そうに顔をしかめて、項垂れた私の顔を覗き込んだ。
「君は父の命に従って結婚しただけだし、体を許したのは正当な夫のみだろう?王女は婚約者がいるのに他の男に体を開き、子を孕んだのだ。明らかに不貞だろう。そんなことをする心根が汚いと言うのだ」
「でも……!」
続く言葉が出てこなくて、私はそのまま項垂れる。
その通りだ。正当な婚約者がありながら、しかも、国を背負う王族という立場でありながら、王女のしたことは間違いなく愚行であり、民に対する裏切りだ。何一つ褒められるべきではない。そう分かっているのに、私の中の、夢見がちで愚かな少女が泣いている。愚かだからこそ純粋で、だからこそ美しく悲劇的な恋。嗚呼なんと、なんと羨ましいことか!私にその百分の一でも、潔癖な純情と愚かな思い切りがあれば。そうすれば今の私は、四人もの夫を持った惨めな女ではなかったろうに!
「でも……彼女の行動は純愛ですわ」
「うーん。まぁ駆け落ちまで覚悟したことは評価できるかもね」
泣きそうになりながら絞り出した言葉に、アルベルトは困ったように肩をすくめて、不承不承同意した。私が意地になっているのだとでも思っているのだろう。私は幼い少女の愚かな決断を羨み、自分を憐れんでいるだけなのに。
「でも、結局駆け落ちは王女の不手際というか、甘えた愚かさのために失敗したんだ。なんでも、気に入りの宝石を持ち出そうとして、部屋に戻ったらしいよ。どこまでも愚かだろう?」
生まれながらのお姫様の愚かな行動を、哀れな無知を、笑い話でもするようにアルベルトは語る。なんともいえない悔しさに、私は唇を噛んだ。望まぬ男に身をゆだねなければならない女の悲しみを、いっそ全てを捨ててしまおうと願うほどの諦めと絶望を、彼はまったく理解できないのだろう。
「ねぇ、リリアナ。どうしたんだい」
項垂れた私が唇を嚙み締めて涙を堪えていることに、アルベルトは動揺して私の背をさすった。私にはこれほど優しい王子様が、どうしてここまで思いやりのないことを口にできるのだろうか。
「君が憐れむ必要はないんだ。王女はそのせいであっけなく捕らえられ、しかも相手のことも一瞬で白状したんだよ?件の幼馴染は死罪になったのに、お姫様は泣いて嘆くばかりで、交渉することもなかったらしい。そして純潔を失っていることも黙っていたんだ。妊娠が判明しなければ、そのまま僕に嫁ぐ気だったらしい。馬鹿にしているよね。ねぇ、君もそう思うだろう?」
饒舌に王女の罪状を語るアルベルトは、私を慰めようとしているのだろう。その努力の方向性が見当外れなだけで。
「でも……わ、たしの方が、やはりよほど汚い体ですわ」
「こだわるねぇ。確かに君の価値観ではそうなのかもしれない。だが、忘れないで」
頑なに言い分を変えない私に、アルベルトはため息をついて首を振った。
「僕にとっては、そうではないのさ。僕が軽蔑したのは、王女の道理と分別を欠いた決断と行動だ。欲しいものがあるのならば、正々堂々と戦うか、それで手に入らないものならば、中途半端な真似はせずすべてをなげうって戦い、賭けに出るべきだった。……僕がそうしたように」
「殿下?」
ぼそりと暗く堕とされた呟きに、私は違和感をいただいて顔を上げた。しかしアルベルトはいつも通りの顔で、私に甘く笑いかける。
「だからね、リリアナ。たとえ君が四度の不幸な結婚をしてきて、君の大切な体を踏みにじられてきたのだとしても、僕が憎いのは君ではなく、君を弄んだ君の周りの男たちなんだよ。可愛くて綺麗な僕のリリアナ」
強い言葉で憎悪を向けるアルベルトに、私は驚いて息をのんだ。殿下が私の過去に触れ、そして感情を語ることなどこれまでなかったのだ。怒りの白い炎を宿した瞳に見据えられ、私は呼吸も忘れる。そっと頬を触れる指先にすら緊張して、ごくりと唾を飲んだ。
「隣国の王女が僕との白い結婚を条件に嫁いできてくれたら、とっても僕らにとって都合が良いだろう?僕の可愛い女」
「殿下……」
アルベルトがふっと笑って、私の額に口づけた。張りつめていた空気は一瞬で緩み、私はやっと呼吸ができる。ひっそりと深呼吸をしていれば、アルベルトは私を甘やかすように、優しく抱き寄せた。
「何度言っても信じてくれないけれど、僕は君を愛しているんだ。生涯ただ一人の女性と心に決めるくらいにね」
「けれど私は……あなたには嫁げませんわ」
朝となく夜となく告げられる言葉に脳が揺さぶられる。崩れ落ちそうな理性をつなぎ止め、私は喘ぐように拒絶を告げた。
「王族の妻は初婚でなければならないと、法に決まりがございますもの。もう遅うございますのよ、なにもかも」
「そうだ。だから、本当は結婚しないで欲しかった。あの時、何度も言ったようにね」
「殿下……」
必死に絞り出した理屈も簡単に一蹴される。かつて私の裾に縋りつき、行かないでくれ、結婚なんてするなと泣き続けていた幼いアルベルトの姿が脳裏に浮かび、私の心は千々に乱れた。
「まぁでも仕方のないことだから、君の決断を恨んでも、責めてもいないよ。君とは歳が離れすぎていたし、当時の僕は幼過ぎた。どれほど僕が必死で結婚しないで欲しいと言っても、誰も本気にはしてくれなかった。君はもちろん、父母すらもね」
アルベルトは冷ややかに笑うと、はぁ、と大きなため息とともに肩を落とした。
「私の話を真面目に聞いてくれたのは女官長だけだ。彼女も親の言葉に背いて、死んだ婚約者に操だてして純潔を貫いて死ぬと決めた変わり者だからね」
「……なんてこと」
私への不可解な態度から少しずつ察してはいたけれど、やはり女官長は協力者だったのか。後宮に入ってからのあれやこれやの違和感がすべて一本の線でつながって、私は呆然と頭を抱えた。私は一体どうすればいいのだろうか。しかし苦悩し立ちすくむ私を笑うように、アルベルトは自信ありげに片眼を瞑って見せた。
「まぁ見ていてくれ、リリアナ。僕は君を必ず手に入れてみせるから。たとえ君が何と言ってもね」
私よりはるかに逞しい腕に抱き寄せられ、耳元で誓われる言葉に泣きそうになる。そんなことがあってはならないのに。けれど止めようとしても、拒もうとしてもアルベルトは笑って言うのだ。
「僕が求めるのは、五歳のころから君だけなんだから」
***
「ねぇ、リリアナ」
婚約破談騒動から、二か月ほど経った頃。
アルベルトが躊躇いがちに口を開いた。
「ちょっと気づいたのだけれど……落ち着いて聞いてくれるかい?」
「はい、どうなさいました?殿下」
アルベルトは普段、こちらのことなどお構いなしにペラペラと喋る。しかし最近は言葉数が少なくソワソワと落ち着きがなかった。どうもおかしいと思っていたところだったので、私は真面目に聞こうと向き直った。しかし、続いたのは突拍子のない話だった。
「君と体を重ねて四ヶ月ほど経つわけだが」
「え?えぇ、そうですね」
思いがけない話の展開に虚を突かれてぱちぱちと瞬いていると、アルベルトは少し顔を染めて、もじもじと指を遊ばせながら私に尋ねた。
「その、何か気づくことはないか?」
「え?えっと、殿下は日々成長されていて、素晴らしいと存じますわよ。未来の妃殿下もきっとお喜びになりますわ」
「違う、そうじゃない」
わざとらしく付け足した最後の文句に、アルベルトは嫌そうに顔をしかめた。そして何度か言葉を飲み込んだ後、アルベルトは仕切り直すようにもう一度私に向き直った。
「その……ほとんど毎晩、しているわけだろう?」
「はい、殿下が勉強熱心でいらっしゃいますので」
それは本当にその通りだったので、私は不満が伝わるように、嫌味たらしく言い返す。
「おかげで私はいくら日中に寝ているとは言え、そろそろ体がキツくなって参りました。ずっと眠くてたまりませんもの」
「ふむ……あー、その……この二月は本当に毎日だよね?」
「へ?」
何が言いたいのか分からず、間抜けな顔で首を傾げた私に、アルベルトはさらに頬を染める。なぜか興奮に高揚したアルベルトが、暫く口籠った後、私を見つめて言った。
「……前の月のものから、もう三月ほど経っているかと思うんだが」
「…………あ」
ガシャンッ
アルベルトの言葉に思い至って、私は手に持っていたティーカップをそのまま落とした。
「リリアナ!怪我はないか!?」
慌てたアルベルトが椅子から立って駆け寄ってくるが、私は動揺して返事をするどころではない。今、アルベルトは、何を言った?
「ぁ……あ、そんな……馬鹿な……」
「リリアナ!」
血の気の引いた青い顔で、私は椅子の上で崩れ落ちた。
「あり、ありえませんわ、そんなこと」
「リリアナ、大丈夫だから落ち着け。ちゃんと息を吐け」
「私は、孕まぬ石女だからこそこうしてお役目を託されましたのに!そんな……陛下たちになんと申し開きをすれば!」
ガラガラと崩れていく仮初の平和。この数か月ですっかり日常となってしまった愛おしい時間が手のひらからこぼれていく。
「そんな……どうしたら……」
「まずは医師の診断をうけよう。話はそれからだ。落ち着きたまえ……絶対に大丈夫だから」
力強く抱きしめてくれる腕に縋りつき、私はただ必死に呼吸を繰り返した。
「ふむ。まだ胎児の心音などは聞こえませんので確定はできませんが……おそらく、ご懐妊されているのではと」
「そんな!」
「やった!」
私の絶望の声に重なるように、喜びに弾んだアルベルトの歓声が飛び出した。驚いて隣に立つアルベルトを振り仰げば、心底嬉しそうに満面の笑みを浮かべていた。
「アル様!?」
私は動揺のあまり、思わず詰るようにアルベルトの名を呼んだ。
「何を喜んでいらっしゃるのですか!?」
「喜ばずにおれまい。むしろなぜ君はそんなに怯えているんだい」
あまりにも当然のことなのに、さも理解できないとでも言いたげな顔でくびをかしげるアルベルトに怒りがわく。
私が夜伽指南係として認められた正当な理由がなくなってしまった。前提が崩れたのだ。動揺しない方がおかしいだろう。
「だって、私は子を孕まぬ石女だからこそ夜伽指南係としてこの王宮に呼ばれたのですよ!?それが……まさか、妊娠するだなんて。王家を謀ったと投獄されても文句は言えませんわ」
「あははっ、そんなまさか!めでたい話じゃないか、父上たちも喜ぶに決まっているよ」
「ありえませんわ!」
私は髪を振り乱して叫んだ。両陛下の信頼を裏切ったのだと思うと、自分のしたことの恐ろしさに胸がつぶれそうになる。
「落ち着きなされ、胎の子に悪いですぞ」
後宮に入った時にも世話になった医師がそっと声をかけた。老人はチラチラとアルベルトの様子を伺いながらも、痛ましそうに私を見つめている。そうだ。それが正常な反応だ。おかしいのは殿下だ。そう思って、私はキッと殿下を見上げて睨んだ。
「私はかつて、毎月ニフェンの実を煎じた薬草を飲んでいたのです。それなのに!」
「あぁ、それについては説明しなくてはね」
「え?」
ありえないと力説しようとしたところで、話の腰を折られ失速した。そして私は、続く言葉に目を大きく開いて固まった。
「あれは一応解毒薬があるんた。王家の直系、それも王位継承者しか知らないことだけれどね」
「……え?」
「昔、疑心暗鬼の戦国の時代にやたらめったら親族を断種させる王が現れてね。血統が途絶えては困るから、慌てて研究されたんだよ。だから、一応昔から解毒薬はあって、近年では改良されているから効果も高い。すごく難しくて難易度は高いんだけど、ニフェンの解毒は可能だ」
唖然とする私に、アルベルトはネタ晴らしをするように意気揚々と語る。褒めてもらえると確信した幼児のような、無邪気な笑顔で。
「は……それが、私となんの関係が?」
ドクンドクンと心臓が激しく打つ。妙な緊張とともに問いただせば、アルベルトは満面の笑みであっさりと告げた。
「君が後宮に来てから毎日飲んでいた薬湯茶。あれに入っていたんだ」
「え?」
「ニフェンの解毒薬。君はそれを、毎日飲んでいたんだ」
「……え?」
思わず医師を勢いよく振り返れば、すっと目が逸らされた。まさか、毎晩寝る前に飲んでいたあの薬が?よく眠れたから、すっかり眠気を誘う薬だと信じていたのに。
「もちろん母上と父上も承知の上だよ。幼い頃から僕がリリアナに恋していたのに本気にせず、僕の反対を無視して、簡単に君を放り出し、そして不幸にした。その償いをすると仰っている」
「そんな!無茶苦茶ですわ!」
幼児の求愛や求婚を本気にする人間がいるわけがない。その償いをさせるだなんて、正気の沙汰ではないだろうに。
「ふふ、父上たちが自分で蒔いた種さ」
「え?」
楽し気なアルベルトは、私の頬を両手で包むと、十年前を思い起こさせる悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「彼らは五歳の僕に愚かな口約束をしたんだ。……お前が成人になってもリリアナしか好きじゃなかったら、諦めて結婚させてやる、ってね」
「なっ……信じられません!だとしても、そんな幼いころの口約束を守らせるだなんて、ありえませんわ!」
「ありえたんだよなぁ、これが。なにせ、幸いにも僕の世代に王位を継げる男児は僕しかいないしね」
「……殿下?」
くすくすと笑いながら語られる言葉に、ひやりと冷たいものが背筋を滑り落ちる。かつて、婚約者の王女が駆け落ちをしくじった時に、アルベルトはなんと言っていただろうか。
「僕は何もしていないよ?なんだかここ最近急に、事故にあったり世を捨てて神のしもべとなる道を選ぶ人が多くて。結果的に僕しか残らなかっただけ。だから安心して?本当に僕は酷いことなんてしていないから」
蕩けるように甘い笑みを浮かべるアルベルトが空恐ろしく、私はひとまず思考を放棄した。
そして、一月後。
「大ニュースだ、リリアナ!とっても良いお知らせだよ」
「まぁなんでしょう?殿下の良い話は、良くない時もございますもの」
「はは!リリアナも言うようになったね」
晴れやかに笑うアルベルトは、ひらりと一枚の書状を出して私に見せた。
「リリアナが懐妊したことで解毒が成功し、ニフェンによる不妊は完治したと認められた。君を正式に側室として娶れるよ」
王立議会の名のもとに発行され、両陛下の印璽が押された、側室申請の許可証だ。
「そしてさらに素晴らしいことに、例の隣の王女様も、こちらの契約を飲んで嫁いできてくれることが決まったんだ!これで君との永遠の蜜月が保証されたよ!喜んでくれ、リリアナ。これからは僕が君を幸せにするからね」
冗談のような話をするアルベルトに、私は項垂れて、膨らみが目立ち始めた腹を撫でる。一体どうすればいいのか、途方に暮れた。何もかもが想定外すぎて、戸惑っているうちにアルベルトの勢いにひたすら流されている。仮にも指南役としてやってきたのに、こんなに振り回されてよいのだろうか。いや、良いわけはないのだけれど。
「本当に、なんてこと……信じられませんわ」
「全部本当のことだよ」
「でも……やはり、むつかしいと思いますの」
無理ではなく、ありえないでもなく、「むつかしい」。か細い声でこぼした本音を拾い上げ、アルベルトが優しく私を問いただす。
「何がだい?」
「全部むつかしいとは思いますけれど、なによりも私の産む子を王女様との養子に迎える話ですわ」
胎動を感じ始め、愛しさが日々こみ上げる。けれど、我が子は果たしてこの国で、この世界で歓迎されるのだろうか。
「四人も夫を持った私のようなふしだらな女との子など、民は喜ぶでしょうか?世論には到底受け入れられないことでしょう。……あぁ、けれどどうか子を産むことだけはをお許しくださいませ。そして早く私の任を解いてください。やはりどこかでひっそりとこの子は育てます」
「まだそんな馬鹿な事を言うのかい!王族の子を産む女を野に放てるわけがないだろう。君は時々馬鹿だなぁ、可愛いリリアナ」
妊娠してから、とみに突っ走った言動をしがちな私に慣れてしまったアルベルトは軽やかに首を振り、そして頼もしい笑顔でウインクをした。
「それに国民は素直だ。多少の反発はあるかもしれないが、そのうち諸手を挙げて喜ぶだろうさ」
「そんな馬鹿な……」
まったく信じていない私の頭を優しく撫で、そのまま髪を梳きながら、アルベルトはまるで歌うように楽し気な声で誓った。
「しばらく待っていてね、リリアナ。世論など、簡単に染められるのだから」
さて、私が毎年のように立て続けに三人の子を産んだ頃。たしかに世論はすっかり変わっていた。
変態爺はお人形遊び 口だけ達者な役立たず
好色男は種無しで 間抜けに他人の子可愛がる
種無し無口な伯爵は とうとうバレて宿無しに
ついでにあそこの男爵は 昔っからの愛妻家
一途な殿下の憐れな寵妃は国一番の子沢山
「なんですの、その珍妙な歌は」
「最近巷で流行っているらしいよ」
明らかに私を指す流行歌が王都中で歌われていると聞き、私は心底微妙な気持ちになった。内容も相当品がなく、口に出すのも嫌だし、とてもじゃないが子供に聞かせたくはない。
「どうだい」
「そうですわね。なんだか……随分気の毒な気も致しますわ」
わくわくと感想を聞きたがっているアルベルトに、私は言葉を選んで伝えた。
特に、私を孕ませてやると豪語していた二番目の夫は、自分がこれまで妻や愛人に産ませたと思っている子供が、本当に我が子か疑心暗鬼になってしまい、大変らしい。愛憎うずまき血で血を洗うお家騒動が繰り広げられていると聞いた。
私が直接何かしたわけではないにせよ、罪のない子供たちまで巻き込んだ騒動になってしまい、申し訳なさで肩が落ちる。けれどアルベルトは、私が悲しむことすら許せないらしい。
「二番目かい?君に暴力をふるったり、嫌がらせをした連中だろう?同情する必要はないよ。あの家でうっかり死にかけていたくせに」
「でも今は生きておりますし」
「結果論だ。僕はあの家は許さないと決めているんだよ」
憤然と言い切ると、アルベルトは悪そうな顔でにやりと笑う。
「白い結婚だったと思わせるのは無理でも、これくらいの印象操作ならね」
「……黒いですわねぇ、殿下」
「僕は欲しいものを手に入れるためには手段は選ばないし、敵とみなした相手は徹底的につぶすんだよ。それだけの話だ」
この数年で見慣れてしまった冷たい眼差しで、アルベルトは淡々と吐き捨てた。
「幼さのために失ったものが多いからね。僕はもう容赦しないと決めたんだ」
良くも悪くも制御の外れた王子様に、私はあきらめ混じりのため息をつく。所詮側室に過ぎない私にできることなど、少しでも被害者が少なくなるように導くことだけだ。
「とりあえず情勢も落ち着いたし、そろそろ君の父親と君に暴力を振るった屑男は破滅させる。三番目の辺境伯の息子は勝手に廃嫡されてヒィヒィ泣いてるらしいからまぁ良いや。四番目の男爵にはわりと感謝してるから、今度便宜を図ってやるつもり……でも、君にニフェンなんて毒物を飲ませたアイツはなぁ、実はまだ悩んでいるんだ」
前者二人は私も全く愛がないので割とどうでもよい。だが、それ以外の人たちがどうなるのかは少し気になっていた。
アルベルトも似た感覚だったようで、最初の夫の嫡男について話すと、困ったように眉を寄せて苦悩のため息を吐く。
「後妻に避妊薬を飲ませるのは胸糞悪いとはいえ一般的と言えばそうだし、君が万一孕んでいたら確かに産む前に殺されていたかもしれないし。なにより君が後宮に召し上げられたと聞いた瞬間に飛んできて、全て告白した上で謝罪もしてきたしね」
「えっ!そうなのですか?」
意外な行動に驚くが、侯爵家の後継ともなれば目端が効くのだろう。私や私の父よりよほど早くから、今の展開を予想していたのかもしれない。
「うん。僕も元から知ってる男なんだけれど、貴族には珍しくまともな人間だからね」
「確かに……そうですわね。あそこの領地はよく富み、領民からも慕われる善き領主でもありました」
いつも気難しそうな顔をしていた嫡男を思い出す。両手の指の数でも足らない兄弟たちとの政争に神経を張り詰めていたのかもしれない。そう考えると、ずいぶんかわいそうな気がしてきた。
「君が実家に帰されたのもその方が安全だという判断だったようだし。君に嫌がらせをした無能な使用人たちは厳しく罰して解雇したと言っていたし、いまだにあの色ボケ爺の後始末で相当苦しんでいるようだったから、ちょっと搾り取って許してやっちゃった、ごめんね?……あれ、嫌だった!?」
「いえ、そういうわけでは」
一度は親族として暮らした人々が不幸だと聞いてニコニコ出来るわけもないのだが、そんな私の微妙な表情に気づいたアルベルトは慌てたような顔で口を開く。
「あ!でもリリアナが仕返ししたいなら何でもするけど。やっぱり毒でも煽らせとく?」
必死な顔で、なぜか気軽に死罪を提案してくる王子様に、私はギョッと目を見開く。私が気を抜いているとこの人は簡単に残虐なことをしてしまうと最近やっと気がついたのだ。私は言動に十分気をつけなければ。
「不要ですわ!お気持ちも分かりますもの。あの方の立場では、そうするのが最善でしたでしょう。お気の毒なことですわ」
うんうんと頷きなら共感を示し、私は顔が引き攣らないように気をつけながら、柔らかく微笑んで、剣だこが出来た硬い手をそっと包み込んだ。
「やめてくださいませ、アル様。私は誰への復讐も望んでおりませんもの」
「そう?優しいなぁリリアナは。やはり君は僕の聖女だ」
幸せそうに表情を蕩けさせるアルベルトを見て、やっと安堵する。侯爵家の嫡男は死罪を免れたらしい。私のせいで何人も不幸になるだなんて耐えられない。どうかアルベルトがうまく忘れてくれますようにと祈るばかりだ。
本当は、王女殿下の不義密通もどこまで真実なのか、今となっては疑っているのだ。
だって輿入れしていらした王女殿下は、本当にお姫様で、何かを自分で考えて実行できるようには思えなかったのだ。もしやどこかに、誰か、彼女たちを唆した黒幕がいたのではないか、と。
ぶるっと震えた体を誤魔化すように、私は腕を撫でさする。これはおそらく考えない方が良い。やめよう。
「殿下!その!この会話はた、胎教に悪うございますわ!もうやめましょう?」
「それもそうだね」
ニコッと笑ったアルベルトが、私の横に座って膨らんだ腹に手を伸ばす。優しく撫でながらアルベルトはふと私の方を見て首を傾げた。
「そういえば、無理に見栄を張るよりも、素直さが大切な時もある。特に、夫婦関係においては。君は昔そう言っていたね?」
「ああ……そうですわね」
懐かしい台詞を聞いたなと思いながら、私は頷く。私とアルベルトが一般的な夫婦と呼べるのかは首を傾げるところだが。
「だから言うよ。僕は君と毎晩でも寝たい。たとえ体を重ねられなくとも、腕枕くらいしてもいいだろう?僕、寝相は割といいんだ。君は良く知っているはずだけれど」
「……えっと」
言葉を迷って視線をさまよわせる私に、アルベルトはきゅっと眉を寄せる。四人目を身籠ってから寝室を分けていたことにご不満らしい年下の主人は、きゅっと私を抱きしめると言った。
「僕、体目当てじゃなくて、君目当てなんだよね。だからほかの女をあてがおうとするのは不可。リア不足だから」
自然な動きでがっしりと抱きしめられる。逞しい腕は私の関節を優しく押さえ、残念ながらまったく逃げ出すことはできそうにない。
「……アル様」
「もう僕の匂いで吐いたりしないだろう?」
「それは申し訳なかったとは思っております」
苦笑して体に回された腕を優しく叩く。
今回は随分とつわりが重く、他人の汗の匂いすら無理になってしまい、しばらく離れていたのだ。吐き続ける私を心配して、アルベルトは私の寝台から離れなかったのだが、その善意も私の状態を悪化させた。最終的に静かに激怒した後宮医から、現在の私が完全な無臭を求めており、アルベルトすら有害である、回復を祈るなら部屋を去れと告げられて、すごすごと部屋から去った。
そうこうしているうちに私のつわりは落ち着いたが、共寝に戻すタイミングを逃したままだった。それだけなのだが、アルベルトはどうやら私に避けられていると思っていたらしい。妊娠中に夫を嫌悪するようになる人もいるなどと、どこかで聞き齧った知識で不安を煽られていたようだ。
「それとも、もう僕のことは嫌いかい?」
「そんなことはございませんわ」
「外で酷いことをする夫など嫌い?」
「だからそんなことありませんってば」
「本当かなぁ」
私の体に腕を巻き付けながらぐだぐだと言い続けるアルベルトに、こっそりため息を吐く。
どう弁明しようかと迷う間に、先日二十歳を迎え大人の色香を放ち始めたアルベルトは、全力で私を誘惑してきた。
「ねぇ、今度は体を重ねなくても満たされる夜伽を指南してよ。センセイ」
「っ、……もうっ」
濡れた声が耳元で落とす甘い囁きに、私は頬を染めて目の前の首に抱き着いた。すっかり篭絡された私が、さっそく昼寝の添い寝を許可するのは、思考が蕩けるほど長いくちづけの後のことだった。
なんだかダイジェスト感がぬぐえないのですが、書きたいもの多すぎるので駆け足で書ききりました。
もう少しシリアス(ダーク?)ではないオチ、というか解決策も考えていたのですが、なんとなくヤンデレ感に筆を引っ張られ、こうなりました。最近分岐ルートが複数浮かんで悩みがちです。違うパターンも書きたかったなぁ……となったので、ラブコメルートも書いております。
よろしければシリーズからどうぞ。




