一話 初産(4)
「ありがとう……ありがとう、茜」
悟がボロボロと涙を流しながら、赤ちゃんを抱く。赤ちゃんは人生初の大仕事に疲れてしまったのか、眠っているようだ。大人しく抱っこされている赤ちゃんと、私と悟で写真を撮ってもらった。何度拭いても止まらない涙と鼻水でぐしゃぐしゃの悟は、私の記憶にも一生残るだろう。
産後の処置も粗方終わり、悟とのんびりしていると、急に眠くなってきた。赤ちゃんは助産師さんが連れて行って、もういないのが少し寂しいが仕方ない。
「昨日全然寝られなかったし、めっちゃ眠くなってきたわー」
「大仕事の後だもん、仕方ないよ。僕のことは気にせず、寝ていいからね」
「ありがとうー」
体勢を変えようとすると、おしり周りの服がねちゃりとした。生理が酷い時のやつに似てるなぁ、悪露ってやつかなぁと思いつつ、眠たいのでそのまま横を向き、悟を見る。悟を見ながら寝るのも悪くない。
「あ――待って、茜。ちょっと、ナースコールどこ?」
「枕の上になぁい?」
瞼が重い。腕を上げるのも億劫で、目を瞑ったまま伝える。
「待って茜、寝ないで。――すみません、出血が服まで広がってるんですけど――」
悟が私の肩を揺する。瞼が開かないほど眠いのに、何故寝かせてくれないのだろう?
「もう、さっき寝ていいって言ったじゃん」
「事情が変わった。たぶん、寝ちゃダメだ。寝ないで、起きて!」
助産師さんが駆け込んできた音が聞こえた。
「どんどん出血が増えてるみたいで」
焦った悟の声が、遠くに聞こえる。何をそんなに焦っているのだろう?
「守山さーん、寝ないでください! ちょっと体勢変えて、お腹診ますよー!」
「はーい」と口が動いたのかすら定かではない。ただ、助産師さんに身体を倒されて、仰向けにさせられたことだけは理解した。
「旦那さん。寝ないように声をかけ続けてください! ――守山さん、多量出血です! 子宮収縮不全の疑いあり。至急、先生を呼んでください!」
「茜、お願い、寝ないで! 起きて! 起きて!」
悟に顔を触られている気がするが、何をされているのか分からない。
急に分娩室に騒がしさが戻ってくるが、気にならないくらい、眠い。
何か大変なことが起きたことは、うっすら理解したが、それ以上のことは考えられなかった。
「茜! 茜!」
――お願い、悟。眠いの。少し寝かせて……。
そうして、私の意識はストンと落ちた。
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ふと気がつくと、空に浮かんでいた。足元には街が広がり、空は雲のようなモヤが広がっている。
そこに向かって、キラキラした物が列になって登っていく。なんとなく、あそこに向かわなければと思って、列に加わった。
――何の行列なんだろう?
列は巨大だけど、間隔は疎らだ。列と表現したが、皆が一斉にそこに向かうので、列のように見えるだけで、実際は誰も並んでいない。神社の拝殿に、大勢の人が向かっている感じ、と表現すればいいだろうか。
地面なんてないのに、空に登っていく感覚が面白い。周りをよく見ると、一緒に登っている人は、全体的に白っぽくて、半透明だ。そのことに、不思議と疑問は湧かない。
途中で、真っ黒な塊が、私の少し前を横切っていった。それは、登っている人の一人を捕まえると、その人を包み込んで下っていく。
――あれは、関わってはいけないものかもしれない。
私は小さく震えた。
再び登り始める。なんだか左手が重くて、歩きにくいが、頑張って登る。すると、見覚えのある顔に出会った。
『――おばーちゃん』
その人は確かに、私が6歳の頃に死んだ祖母だった。確か、同居した翌年に亡くなっている。ムスッと立つ祖母は、老爺の腕を組んでいた。写真で見た記憶しか残っていなかったけど、老爺は祖父だった。
『おじーちゃん?』
私の疑問形に、祖父はニコリと微笑んだ。その微笑みを見て、私が昔怯えた、顔のない黒いおばけは、祖父だったのだと悟る。
『茜ちゃん。戻りなさい』
『え?』
『まだ、ここを登るには早いよ。戻った方がいい』
『でも、上が気になる……』
『上に行くと、下に戻れなくなるよ』
優しい祖父の語りかけに、私はたじろぐ。
左手が一段と重くなった気がした。
『早く戻りな。あんたがまだ来るとこじゃないよ!』
祖母も、面倒臭そうに私に言う。
『でも……』と食い下がる私に、祖父は私の肩を掴んで、向きを変えさせる。
『さぁさぁ、お戻り』
背中を優しく叩かれると、急に足場が無くなったように、街に向かって落下を始めた。
祖父母が、私を見下ろしながら、手を振っているのが見えた。左手がどんどん軽くなっていくのを、私はなんとなく不思議に思った。




