拒否が、罪になる瞬間
エデンは、あまりにも静かに、
ひっそりと時を刻んでいた。
風はある。光もある。草木は瑞々しく、
空は壊れていない。
それなのに、音だけが存在しなかった。
鳥も、虫も、人の呼吸さえ、
ここでは遠慮しているかのようであった。
祈りの輪が、弛み始める。
声の高さが揃わない。
救済を求める言葉が、
いつの間にか不安と恐怖を混ぜ始めていた。
拒否の代償として、
まず数値が、崩れた。
【観測ログ/オルド】
――エデン内部信仰指数、急減
――箱庭アプリとの同期率、異常上昇
――現世影響レベル:未確認領域へ移行
「……初めてだ、こんなの」
ジュリアンが呼吸を忘れて見入る。
「箱庭の選択が、現実側に……?」
魔剣士レイエスに扮したライナスは、
神性を帯び始めたセーラの前に立った。
「確認しよう」
セーラは、彼を見上げたまま、
何かを言わなければならない気がして、でも──
そして、
ライナスの剣が、幼きセーラに振るわれた。
速さも、重さも、技もない。
ただ、届くと分かっている距離。
セーラは、逃げなかった。
祈りの輪の外に立ったまま、刃を見ていた。
斬撃が、小さな身体を斜めに切り裂く。
音は、驚くほど静かであった。
斬られたことを、世界がまだ理解していないかのように。
「セーラ──ッ!!」
カイの声だけが、遅れて届く。
身体は、一歩も動いていなかった。
「ライナスさん… どうして……」
イリスは剣に手をかけ、止めた。
間に合わないと分かっていた。
遠くで、白い服の天使プリリエルは見ていた。
「まさか、ここで……あの男」
プリリエルは、介入しない。
それが彼女に与えられた役割だからだ。
止めもしない。悼みもしない。
少女の血がついた剣を払って、
ライナスは呟く。
「安心しろ、何も奪ってない」
「拒否が通るかどうかは、
世界を傷つければ分かる」
【入力検知:拒否】
【処理対象:世界全域】
「壊れるのは、世界の方だ」
エデンは、少女を守らなかった。
それが、この世界で初めて起きた
完全な自由であった。
静寂が、崩れ始める。
カイは、槌を構えなかった。
即座にできなかった。
怒りより先に、
「もし自分があの場にいたら」
という想像が、身体を縛った。
「……今、斬られたのは、
拒否そのものということ?」
イリスが言う。
「あんな幼い子に……」
「拒否が原因で生じた結果を、
外から上書きすれば──」
プリリエルが囁く。
「この子は、二度と拒否できなくなる」
祈りの輪が、セーラを中心に保てなくなる。
視線が、定まらない。
誰も、彼女を正しく位置づけできない。
「拒否を入力」
「処理、確認」
ライナスは、倒れた少女を一度も見なかった。
「……想定は超えていない」
それだけを残して、
ライナスは闇に消えた。
◆
エデンの空は、雷雲に包まれていた。
ライナスが去った直後、
しばらくエデンは、何も起こらなかった。
悲鳴もない。
混乱もない。
それが、異常であった。
人々は倒れたセーラを見て、
次に何をすべきか分からず立ち尽くしていた。
「……誰か、祈りを」
「いや、待って」
「今は、動かさない方がいい」
声が交差する。
だが、どれも決定にならない。
エデンでは、
正解は常に用意されてきた。
誰かが示し、
誰かが従えばよかった。
今は、違う。
拒否が生じた結果、
正解が消えた。
祈りの輪は、もう形を保っていなかった。
円だったはずの配置が、
微妙に歪み、中心を失っていく。
人々の視線が、定まらない。
セーラを見ている者もいれば、
地面を、空を、互いの顔を見ている者もいる。
どこを見ればいいのかが、
分からなくなっていた。
オルドの端末が、低く警告音を鳴らす。
【中心座標:不安定】
【代替中心:未検出】
「……代わりが、ない」
オルドは、乾いた声で言った。
ジュリアンが、顔を上げる。
「中心が動いたのに、補正が走らないのか」
「いや」
オルドは首を振る。
「補正できないんだ」
「拒否は、修正対象じゃない」
エデンは、
初めて選ばれなかった世界を
処理しようとしていた。
その外縁で、
地面の隆起が、ゆっくりと鱗のように、
明確な形を持ち始める。
鱗。
爪痕。
重く持ち上がる、
巨大な何かの背。
誰かが、ようやく気づいて呟いた。
「……ここに来るぞ」
それが救済か、
破壊か、
あるいは単なる結果か。
まだ、誰にも分からなかった。
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